東京応化工業:東証二部上場と米国オレゴン工場の稼働
1986年〜寡占ゆえの社会的責任として選んだ株式公開
上場時点の従業員は800人、売上高は370億円を見込み、製品別の構成比はフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%、プロセス機器14%、特殊化学材料等8%で、シェアはフォトレジスト関連が70%強、精製水酸化カリウムが90数%に及んだ。東京応化工業の株式が東京証券取引所市場第二部に上場したのは1986年7月30日である。伊藤毅雄社長が挙げた最大の理由は、フォトレジストを筆頭に製品の大半がファイン・ケミカルで、しかも各分野で高いシェアを持ち寡占に近い状態にある以上、ここまで育った会社として世間に存在を認められ、その責任を果たしたいという点にあった。伊藤社長は上場に際し『創立以来の展開を考えると、誠に感慨深いものがある』と創業からの歩みを振り返った。
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [1]上場時点で従業員800人・売上高370億円(今期見込)、製品別売上構成比はフォトレジスト36%・化成品27%・印刷材料15%・プロセス機器14%・特殊化学材料等8%だった
- [2]フォトレジスト関連のシェアは70%強、精製水酸化カリウムは90数%を占めていた
- [4]伊藤毅雄社長は1986年7月30日の東証第二部上場について、製品がほとんどファイン・ケミカルであると同時に業界シェアが高く寡占体制にあるため、社会的に会社の存在を認めてもらい責任を果たしたいことを最大の理由に挙げた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [3]1986年7月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
品質で選ばず別の理由で材料メーカーを決めれば、その差は半導体メーカーの製品にはっきり出るため、材料メーカー同士の競争は技術力がそのまま評価される場でもあった。寡占の立場には供給する側の責務がついて回った。取引先が非常に多くなるぶん、各社の機密を決して漏らさないことが最大の課題になり、伊藤社長はそれを守り通して顧客の信頼を厚くしている点を同社の特色に挙げた。品質保証の重さも大きく、ひとたび製品を誤れば翌日には顧客に数億円の損失を与え、全額を償っていては三日も持たないため、品質管理は厳しく、細心の注意が要った。互いに競う半導体メーカーを同時に顧客として抱える材料メーカーは、技術の優劣だけでなく、秘密を漏らさない機構そのものを売っていたことになる。
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [5]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れるため、材料メーカー間の競争は技術力が正当に評価される場だった
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [6]寡占体制では顧客が多数になるためそれぞれの企業秘密を絶対に守る必要があり、東京応化はこれを完全に守って顧客から高い信頼を得ていた
- [7]製品がひとつ間違うと翌日には数億円の損害を顧客に与えてしまい全部弁償しては三日ともたないため、厳しい品質管理と細心の注意を払っていた
半導体用フォトレジストの値段は、ネガタイプが数千円、ポジタイプが1万数千円の水準にあった。上場した年の半導体は、日米の貿易摩擦と円高に同時に見舞われていた。摩擦の解決には道筋がついたが、円高を含め不安定さは消えず、数量は大きく落ちずに前より増えた製品さえあった反面、価格は円高に強く押された。研究開発では1メガや4メガといった集積度の半導体への対応が既にかなり進んでおり、1990年9月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった。為替と通商交渉が単価を削る局面でも、次の世代の材料を先に用意しておけば需要の側から取り残されることはない。
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [8]半導体用フォトレジストの価格はネガタイプで数千円、ポジタイプで1万数千円だった
- [9]伊藤社長は半導体の貿易摩擦解決の方向が示されたものの円高を含め不安定な要素が残るとし、量的にはそれほど落ち込んでいないが円高による価格への影響は大きいと述べた
- [10]伊藤社長は1メガ・4メガといった半導体への研究開発の対応がすでに相当進展していると述べた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [11]1990年9月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
参考文献[1]-[11]
- [1]上場時点で従業員800人・売上高370億円(今期見込)、製品別売上構成比はフォトレジスト36%・化成品27%・印刷材料15%・プロセス機器14%・特殊化学材料等8%だった
- [2]フォトレジスト関連のシェアは70%強、精製水酸化カリウムは90数%を占めていた
- [4]伊藤毅雄社長は1986年7月30日の東証第二部上場について、製品がほとんどファイン・ケミカルであると同時に業界シェアが高く寡占体制にあるため、社会的に会社の存在を認めてもらい責任を果たしたいことを最大の理由に挙げた
- [6]寡占体制では顧客が多数になるためそれぞれの企業秘密を絶対に守る必要があり、東京応化はこれを完全に守って顧客から高い信頼を得ていた
- [7]製品がひとつ間違うと翌日には数億円の損害を顧客に与えてしまい全部弁償しては三日ともたないため、厳しい品質管理と細心の注意を払っていた
- [8]半導体用フォトレジストの価格はネガタイプで数千円、ポジタイプで1万数千円だった
- [9]伊藤社長は半導体の貿易摩擦解決の方向が示されたものの円高を含め不安定な要素が残るとし、量的にはそれほど落ち込んでいないが円高による価格への影響は大きいと述べた
- [10]伊藤社長は1メガ・4メガといった半導体への研究開発の対応がすでに相当進展していると述べた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [3]1986年7月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
- [11]1990年9月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [5]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れるため、材料メーカー間の競争は技術力が正当に評価される場だった
1987年〜販売から始めた北米と、三年で組み直した現地法人
1985年度の輸出は総売上高の3%ほどで、中身は版材や印刷関係の製品が中心だった。もっとも、日本の取引先を経由して海外の拠点へ送られる分は輸出に数えないため、実際に海外で使われた量はこれを上回る。上場の時点で伊藤社長が海外進出に慎重だったのは、フォトレジストの出来が周りの技術や環境で変わりやすく、米国の工場へ持っていってもすぐにうまくいくものではないとみていたからである。それでも上場の翌年にあたる1987年3月、東京応化は米国カリフォルニア州にオーカ・アメリカ社を設立し、同年9月には英国にオーカ(ユー・ケー)社を設けた。先に置いたのは工場ではなく、販売と技術支援の拠点であった。
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [12]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
- [13]日本の得意先を通じて海外進出先へ出荷されるものは輸出比率に含まれていなかった
- [14]伊藤社長は海外進出に慎重な構えで、フォトレジスト等は周辺の技術や環境に左右されやすくアメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [15]1987年3月にOHKA AMERICA, INC.を設立し、1987年9月に英国オーカ(ユー・ケー)社を設立した
フォトレジストは作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であり、供給の拠点を顧客の近くに置くという考え方を、東京応化は国内の分散配置で先に確かめていた。国内では1987年6月に御殿場工場を新設し、米国では1989年4月、オレゴン州にもう一社、TOKインターナショナル社を設立した。北米の拠点が二社に分かれたこの体制は長く続かず、1992年12月にTOKインターナショナル社をオーカ・アメリカ社へ合併し、米国の機能を一社へ集約した。同じ1992年10月には装置側を担うティーオーケーエンジニアリング社を設立している。進出の設計図は初手から固まっていたわけではなく、走らせながら組み直したのだろう。
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [16]フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数は短いほど良いため、全国を数ブロックに分けて生産拠点を設ける計画を進めていた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [17]1987年6月に御殿場工場を新設した
- [18]1989年4月にTOK INTERNATIONAL INC.を設立した
- [19]1992年12月にTOK INTERNATIONAL INC.はOHKA AMERICA, INC.と合併し、社名をOHKA AMERICA, INC.に変更した
- [20]1992年10月にティーオーケーエンジニアリング株式会社を設立した
上場の時点で伊藤社長が気にかけていたのは、フォトレジストが周囲の技術や環境の影響を受けやすく、米国の工場に移してもすぐには軌道に乗らないという点だった。全体の釣り合いを少しずつ整えてから出ていくという進め方にも、材料メーカーならではの制約がにじむ。東京応化にとって初めての海外製造拠点となるオレゴン工場は1993年5月に動き出し、1997年5月には同じ工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が完成した。最初の現地法人を置いた1987年から数えると、日本と同等の品質の半導体材料を他の土地で作れるまでに10年がかかっており、海外進出とは販路を広げることではなく、品質を再現できる製造条件をもう一組そろえることだった。
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [21]伊藤社長はフォトレジストが周辺の技術や環境に左右されやすく、アメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べていた
- [22]伊藤社長は海外進出について、徐々に全体のバランスを取った上で進出するという進め方を示していた
- 東京応化工業 公式サイト「沿革」
- [23]1993年5月にオーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働した
- [24]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
参考文献[12]-[24]
- [12]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
- [13]日本の得意先を通じて海外進出先へ出荷されるものは輸出比率に含まれていなかった
- [14]伊藤社長は海外進出に慎重な構えで、フォトレジスト等は周辺の技術や環境に左右されやすくアメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べた
- [21]伊藤社長はフォトレジストが周辺の技術や環境に左右されやすく、アメリカの工場に持ち込んで直ちにうまくいくわけではないと述べていた
- [22]伊藤社長は海外進出について、徐々に全体のバランスを取った上で進出するという進め方を示していた
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [15]1987年3月にOHKA AMERICA, INC.を設立し、1987年9月に英国オーカ(ユー・ケー)社を設立した
- [17]1987年6月に御殿場工場を新設した
- [18]1989年4月にTOK INTERNATIONAL INC.を設立した
- [19]1992年12月にTOK INTERNATIONAL INC.はOHKA AMERICA, INC.と合併し、社名をOHKA AMERICA, INC.に変更した
- [20]1992年10月にティーオーケーエンジニアリング株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [16]フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数は短いほど良いため、全国を数ブロックに分けて生産拠点を設ける計画を進めていた
- [23]1993年5月にオーカ・アメリカ社オレゴン工場が稼働した
- [24]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
1994年〜顧客の地理に供給網を合わせる
1994年2月、東京応化は郡山工場を新設した。相模・宇都宮・熊谷・阿蘇・御殿場に続く国内拠点であり、全国を数ブロックに分けて生産拠点を置くという構想が、東北を加えて形を整えたことになる。この配置は輸送費を削るためのものではない。フォトレジストは劣化しやすく、作られてからユーザーの手元に届くまでの日数が短いほど良い材料であるため、需要地の近くで作ること自体が品質の条件であった。半導体メーカーが品質以外の要素で材料を選べば結果が製品に歴然と現れる市場では、供給の地理もまた技術の一部として評価されたのだろう。
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [25]1994年2月に郡山工場を新設した
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [26]全国を数ブロックに分け、ブロックごとに生産拠点を設けて地域ごとの需要を出来たてのレジストでおさえる計画を進めていた
- [27]フォトレジストは劣化しやすいため、作られてからユーザーの手もとに届くまでの日数は短いほど良い
- [28]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れた
1995年5月、東京応化はイタリアにTOKイタリア社を設立した。印刷用の感光性樹脂版は1970年代後半に開発されて柱の一つに育ち、新聞製版では1分間に4枚を処理する高速の凸版用自動製版機も手がけていた。半導体関連以外の製品は比較的安定しており、感光性樹脂版の生産も軌道に乗っていた。上場時点の輸出でも版材と印刷関係の製品が主流であり、半導体の量産集積が無い欧州へ置いた拠点が担ったのは、この別の系統であった。
- 東京応化工業 公式サイト「沿革」
- [29]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [30]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
- [31]新聞製版で1分間4枚という高速の凸版用自動製版機を開発した
- [32]伊藤社長は半導体関連以外の製品は比較的安定しているとし、感光性樹脂版の生産も軌道に乗ったと述べた
- [33]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
1998年1月、東京応化は台湾東應化股份有限公司を設立した。北米ではオレゴン工場が1997年5月に半導体用フォトレジストの生産へ入り、欧州には1995年5月にTOKイタリア社を置いていた。顧客の隣で作るという型は、1980年代半ばに国内の全国分散として構想され、米国で十年をかけて実証され、台湾でアジアの量産集積へ届いたことになる。上場の年に総売上高の3%程度だった輸出比率の会社が、十年余りで三つの地域に製造と供給の足場を持つ材料メーカーへ変わった。
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [34]1998年1月に台湾東應化股份有限公司を設立した
- 東京応化工業 公式サイト「沿革」
- [35]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
- [36]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [37]1984年時点でレジスト工場を全国に分散し、ブロックごとに生産拠点を設ける計画を進めていた
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- [38]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度だった
参考文献[25]-[38]
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- [25]1994年2月に郡山工場を新設した
- [34]1998年1月に台湾東應化股份有限公司を設立した
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- [26]全国を数ブロックに分け、ブロックごとに生産拠点を設けて地域ごとの需要を出来たてのレジストでおさえる計画を進めていた
- [27]フォトレジストは劣化しやすいため、作られてからユーザーの手もとに届くまでの日数は短いほど良い
- [28]半導体メーカーが品質以外の要素で材料メーカーを選ぶと結果が製品に歴然と現れた
- [37]1984年時点でレジスト工場を全国に分散し、ブロックごとに生産拠点を設ける計画を進めていた
- [29]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
- [35]1997年5月にオレゴン工場に海外初の半導体用フォトレジスト生産工場が竣工した
- [36]1995年5月にTOKイタリア社を設立した
- [30]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
- [31]新聞製版で1分間4枚という高速の凸版用自動製版機を開発した
- [32]伊藤社長は半導体関連以外の製品は比較的安定しているとし、感光性樹脂版の生産も軌道に乗ったと述べた
- [33]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度で、版材・印刷関係製品が主流だった
- [38]1985年度の輸出比率は総売上高の3%程度だった
筆者考察
1986年の株式公開は、資金を集めるためというより、寡占の位置を公にするための手続きだった。伊藤毅雄社長が上場の最大の理由に挙げたのは、フォトレジスト関連で70%強、精製水酸化カリウムで90数%というシェアを持つ会社が、社会に対して存在を明らかにし責任を果たすことである。寡占の側にいる材料メーカーが抱えていたのは競争の不足ではなく、互いに競う半導体各社の設備仕様と秘密を同時に預かるという負荷だった。製品がひとつ狂えば翌日には数億円の損害が顧客へ出る。品質管理と守秘は管理部門の仕事ではなく、この会社では営業活動そのものであった。
上場後の十年余りで東京応化が解いたのは、この品質を日本の外でも出せるかという問いである。輸出比率は総売上高の3%程度にすぎず、円高や貿易摩擦に押し出される必然はなかった。それでも1987年にカリフォルニアと英国へ拠点を置いたのは、作りたてを顧客の隣で渡すという国内の分散配置を、そのまま北米へ延ばすためだった。ただし東京応化は、その延長を設計どおりには運べなかった。オレゴンに設けた二社目は三年で吸収され、半導体用フォトレジストを現地で作れるようになるまでに十年を要した。1998年の台湾進出が意味を持つのは、その十年で品質を別の土地へ移す手順を確かめた後だったからである。
出典・参考
4件
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1984年10月15日号
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- 東京応化工業 公式サイト「沿革」