日本製紙:渋沢栄一らの抄紙会社設立と三井財閥の経営参画
1873年〜渋沢栄一氏が三井組らに勧めた資本金15万円の抄紙会社と、王子村の78インチ抄紙機
明治初年の日本は、紙幣や証券に使う洋紙を輸入に依存していた。1872年に井上馨氏・渋沢栄一氏・上野景範氏が製紙業の建設を建議し、国産化の動きは政府の内側から始まった。大蔵省の官吏だった渋沢栄一氏は同年11月、三井組・小野組・島田組の3家に出資を勧め、資本金15万円の抄紙会社を組織した。勧誘の言葉は『目前の利益は少なく、大資本を要するが、国家社会のために製紙業をおこすべし』というもの。抄紙会社は大蔵省紙幣寮の許可を受けて1873年2月12日に発足し、渋沢栄一氏は退官後の1874年1月に初代頭取に就任した。官が建議した事業を富豪の出資に委ねたのは、利益が出るまでの長い期間を持ちこたえる資力を民間に求めたためとみられる。
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [1]明治初年は紙幣・証券用の洋紙を輸入に依存し、1872年に井上馨・渋沢栄一・上野景範が製紙業建設を建議
- [2]明治初年は紙幣・証券用の洋紙を輸入に依存し、1872年に井上馨・渋沢栄一・上野景範が製紙業建設を建議
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [3]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
- [4]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
- [5]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
抄紙会社は最初の工場の地に東京府下王子村を選び、1875年6月に王子工場を完成させた。当時最大の網幅を持つ英国製78インチ抄紙機1台を据え、英国人技師のフランク・チースメン氏とトーマス・ボットムリー氏が運転を指導した。同年12月には新聞用紙を抄けるようになり、開業式を開催。国内に技術者がいなかったため、明治初期の製紙会社はどこも1〜3年契約で外国人技師を雇い、月給は200円から250円ほどに上った。渋沢栄一氏の甥で職工から入社した大川平三郎氏の初任給は5円である。設備も技術も輸入に依存した開業は、技術を国内の人材に移す課題を抄紙会社に残したのだろう。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [6]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- [7]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- [8]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [9]明治初期の製紙会社は1〜3年契約で外人技師を雇い月給200〜250円、職工として入社した渋沢の甥大川平三郎の初任給は5円
- [10]明治初期の製紙会社は1〜3年契約で外人技師を雇い月給200〜250円、職工として入社した渋沢の甥大川平三郎の初任給は5円
開業後も販売は振るわず、抄紙会社は発足から1875年までに4万円を超える赤字を出した。1877年までに民間の1社と官営の抄紙局が相次いで操業を始め、洋紙の作り手が増えたことも経営を圧迫する要因となった。抄紙会社が社名を製紙会社に改めたのは1876年である。苦境を和らげたのは紙幣寮から受注した地券と印紙類の用紙で、この受注を境に創立以来の損失は少しずつ埋まった。西南戦争で印刷用紙の需要は急増したものの、1880年に地券紙を抄く特典がなくなると、製紙業の経営は再び苦しくなった。官の大口注文で稼働を支えた経験は、民間の需要だけでは工場を回せない当時の市場の薄さを映していたと思われる。
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [11]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [12]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [14]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [15]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [13]抄紙会社は明治9年に製紙会社と改称
参考文献[1]-[15]
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [1]明治初年は紙幣・証券用の洋紙を輸入に依存し、1872年に井上馨・渋沢栄一・上野景範が製紙業建設を建議
- [2]明治初年は紙幣・証券用の洋紙を輸入に依存し、1872年に井上馨・渋沢栄一・上野景範が製紙業建設を建議
- [9]明治初期の製紙会社は1〜3年契約で外人技師を雇い月給200〜250円、職工として入社した渋沢の甥大川平三郎の初任給は5円
- [10]明治初期の製紙会社は1〜3年契約で外人技師を雇い月給200〜250円、職工として入社した渋沢の甥大川平三郎の初任給は5円
- [11]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [12]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [14]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- [15]抄紙会社は発足から明治8年まで4万円超の赤字、紙幣寮の地券・印紙用紙の注文で損失を償い始め、西南戦争で需要増、明治13年に地券紙の特典消滅
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [3]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
- [4]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
- [5]渋沢栄一が1872年11月に三井組・小野組・島田組を勧誘し資本金15万円の抄紙会社を設立、1873年2月12日紙幣寮認可で発足、1874年1月初代頭取
- [6]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- [7]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- [8]1875年6月に東京府下王子村の王子工場完成、英国製78インチ抄紙機1台、英人技師チースメン・ボットムリーの指導で12月に新聞用紙を抄造し開業式
- [13]抄紙会社は明治9年に製紙会社と改称
1878年〜大川平三郎氏が米国から持ち帰った藁パルプと、気田工場の木材パルプ
輸入紙に値段で対抗するため、製紙会社は1879年に大川平三郎氏を米国へ派遣し、欧米の新しい製紙の知識を探らせた。大川平三郎氏は抄紙機の故障が続くことを渋沢栄一氏が嘆くのをたびたび聞き、技術の習得に打ち込んでいた。当時の原料はボロで、工場はボロを集めやすい都市の周辺に置かれていた。欧米ではボロの調達が限界に達して値が急騰し、打開策として生まれたのが麦わらを混ぜる製法である。大川平三郎氏が持ち帰ったのはこの製法で、渋沢栄一氏は後年、当時の驚きを『わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った』と振り返った。原料をボロから藁へ広げることは、紙価を輸入品の水準へ近づける前提だったと推察される。
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [16]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [17]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [19]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [20]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [18]初期の製紙原料はボロで、工場は都会地周辺に設けられていた
大川平三郎氏は帰国後の1880年に稲藁を原料とする藁パルプを実用化し、製紙会社の原料をボロ以外へ広げた。同じ1880年、製紙業界は日本製紙聯合会を設け、輸入紙の時価を目安にした紙価の協定を締結。協定は3年後の1883年に廃止され、以後の製紙会社は原料費の切り下げで輸入紙に対抗した。明治10年代の洋紙需要は横ばいで、新たな製紙会社もほとんど生まれない時期にあたる。その中で製紙会社は整った会社組織と大きな資本、当時で最も幅の広い抄紙機を持ち、大川平三郎氏の技術を加えて業界で最も大きく発展した。藁パルプで原料費を下げた経験が、需要の戻る明治20年代に木材パルプへ進む土台になったと考えられる。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [21]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- [24]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- [25]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [22]明治13年に日本製紙聯合会を設け輸入紙時価を目安の紙価協定(16年廃止)、業界は生産費切り下げに苦心
- [23]明治13年に日本製紙聯合会を設け輸入紙時価を目安の紙価協定(16年廃止)、業界は生産費切り下げに苦心
製紙会社は1889年、静岡県の天竜川流域に新設した気田工場で、木材による亜硫酸パルプ(SP)生産を始めた。欧米でも木材パルプの企業化は緒に就いたばかりで、気田のSPにより輸入紙と比べて遜色のない品質と原価が国内で確かなものになった。これに先立ち製紙会社は明治20年代、天竜川流域で山林を買収し、原料の木材を自ら押さえた。ボロの時代は都市の周辺に工場を置いたが、木材パルプでは近くに適材があり、動力源となる水量の多い川があることが立地の条件になった。明治20年代の業界では水力による自家発電と木材パルプの使用が広がった。川に寄せた立地は、のちに水害という別の危険を製紙会社に負わせた。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [26]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- [27]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- [29]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- 日本産業史 第1巻「製紙-原料求め北へ北へ」
- [28]王子は明治20年代、天竜川流域で山林を買収し、気田・中部の両工場を建設
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [30]明治20年代の製紙業では水力自家発電設備の設置と木材パルプの使用が進んだ
参考文献[16]-[30]
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [16]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [17]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [19]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [20]製紙会社は明治12年に大川平三郎を米国に派遣、欧米ではボロが限界に達し値が急騰して麦わらを混ぜる方法を開発しており大川はこれを持ち帰った
- [22]明治13年に日本製紙聯合会を設け輸入紙時価を目安の紙価協定(16年廃止)、業界は生産費切り下げに苦心
- [23]明治13年に日本製紙聯合会を設け輸入紙時価を目安の紙価協定(16年廃止)、業界は生産費切り下げに苦心
- [30]明治20年代の製紙業では水力自家発電設備の設置と木材パルプの使用が進んだ
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [18]初期の製紙原料はボロで、工場は都会地周辺に設けられていた
- [21]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- [24]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- [25]大川平三郎は明治13年にワラパルプを実用化、明治10年代は洋紙需要が伸びず、抄紙会社は組織・資本・最大網幅の抄紙機と大川の努力で最も発展
- [26]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- [27]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- [29]明治22年に静岡県天竜川流域に新設した気田工場で木材原料の亜硫酸パルプを製造し外国紙に劣らない品質とコストを確立、木材パルプ時代の立地は適材と水量ある川
- 日本産業史 第1巻「製紙-原料求め北へ北へ」
- [28]王子は明治20年代、天竜川流域で山林を買収し、気田・中部の両工場を建設
1893年〜三井の経営参画で退任した渋沢栄一氏・大川平三郎氏と、苫小牧の新聞用紙工場
製紙会社は1893年、商号を王子製紙株式会社に改めた。経営の実権は発起人の渋沢栄一氏が握り、渋沢栄一氏の系列に属する大川平三郎氏が専務取締役へ昇進していた。大川平三郎氏は藁パルプの実用化と気田工場のSPを手がけた技術者で、十条製紙の社史は近代的な製紙技術の確立者と位置づけている。同じ頃、王子製紙は設備の大幅な拡張を計画し、主要な出資者の三井に増資を相談した。三井銀行では井上馨氏の推薦を受けて1891年に理事となった中上川彦次郎氏が不良貸金を整理し、前橋紡績所や芝浦製作所を傘下に収めていた。技術を担う大川平三郎氏と、資本を持ち経営の実権を求める三井との関係は、増資の相談を機に緊張をはらんでいった。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [31]明治26年に王子製紙株式会社と改称、大川平三郎を近代的製紙技術の確立者とする
- [33]明治26年に王子製紙株式会社と改称、大川平三郎を近代的製紙技術の確立者とする
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [32]明治26年ころ王子は設備大拡張で主要出資者の三井に増資を相談、渋沢の系列下の大川平三郎は専務取締役へ昇進していた
- [34]明治26年ころ王子は設備大拡張で主要出資者の三井に増資を相談、渋沢の系列下の大川平三郎は専務取締役へ昇進していた
- 日本産業史 第1巻「財閥の形成」
- [35]中上川彦次郎は井上馨の推薦で明治24年に三井銀行理事、不良貸金整理で前橋紡績所・芝浦製作所を手中に
1896年、王子製紙は気田工場と同じ天竜川流域に中部工場を建てることを決め、資本金を50万円から110万円に増やす必要に迫られた。創業時からの株主で株式の60%を持つ三井が、増資を引き受ける条件として求めたのは経営への参加である。三井銀行の中上川彦次郎氏は三井の資金で工業化を進める考えを持ち、鐘紡や北炭を既に傘下に置いていた。三井が専務に送った藤山雷太氏と大川平三郎氏は激しく対立した。1898年8月に大川平三郎氏が取締役兼技師長へ降格されると、150余人の工員がストライキで抗議の声を上げた。争議は大川平三郎氏の退任で収まり、9月に会長の渋沢栄一氏も退任して、王子製紙の経営は三井の手に移った。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [36]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [37]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [38]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [41]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [39]三井から送られた藤山雷太と大川平三郎が激しく対立、明治31年に大川が取締役に格下げされ150余人の工員がストライキ
- [40]三井から送られた藤山雷太と大川平三郎が激しく対立、明治31年に大川が取締役に格下げされ150余人の工員がストライキ
中部工場の開業は1899年1月で、設備は98インチの新聞用抄紙機2台である。良質な新聞用紙を抄くのに手間取り、天竜川の出水で操業停止や原木の流失が重なって、開業以来赤字が続いた。王子製紙は1904年上期まで無配の赤字決算を重ね、1903年には資本金200万円を50万円に減資したうえで200万円に増資した。1902年7月に専務へ就任した鈴木梅四郎氏は、同年に中部工場、翌年に気田工場が大きな水害を受けたため、両工場に見切りをつけた。鈴木梅四郎氏はエゾマツ・トドマツの原始林がある北海道に着目し、1904年に支笏湖の水利を確かめ、苫小牧を工場の建設地に選んだ。王子製紙は1906年に苫小牧での建設を正式に決め、資本金を600万円に引き上げて新聞用紙の大工場に備えた。
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [42]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [43]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [44]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [45]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [46]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- 日本産業史 第1巻「製紙-原料求め北へ北へ」
- [47]苫小牧を建設地に決定したのは明治39年、資本金を一挙に600万円に引き上げ
参考文献[31]-[47]
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- [31]明治26年に王子製紙株式会社と改称、大川平三郎を近代的製紙技術の確立者とする
- [33]明治26年に王子製紙株式会社と改称、大川平三郎を近代的製紙技術の確立者とする
- [36]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [37]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [38]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [41]明治29年に中部工場建設で50万円を110万円に増資、60%の大株主三井が経営参加を条件に、中上川は東芝・鐘紡・北炭などを傘下に、明治31年8月大川を取締役兼技師長に格下げ、大川退任で収拾、9月会長渋沢も退任
- [42]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [43]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [44]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [45]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- [46]中部工場は明治32年1月開業、98インチ新聞抄紙機2台、天竜川の出水で赤字続き、37年上期まで赤字決算、36年に200万円を50万円に減資し200万円に増資、35年7月専務鈴木梅四郎が水害を受けた両工場に見切りをつけ37年に支笏湖の水利に着目し苫小牧に決定
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [32]明治26年ころ王子は設備大拡張で主要出資者の三井に増資を相談、渋沢の系列下の大川平三郎は専務取締役へ昇進していた
- [34]明治26年ころ王子は設備大拡張で主要出資者の三井に増資を相談、渋沢の系列下の大川平三郎は専務取締役へ昇進していた
- [39]三井から送られた藤山雷太と大川平三郎が激しく対立、明治31年に大川が取締役に格下げされ150余人の工員がストライキ
- [40]三井から送られた藤山雷太と大川平三郎が激しく対立、明治31年に大川が取締役に格下げされ150余人の工員がストライキ
- 日本産業史 第1巻「財閥の形成」
- [35]中上川彦次郎は井上馨の推薦で明治24年に三井銀行理事、不良貸金整理で前橋紡績所・芝浦製作所を手中に
- 日本産業史 第1巻「製紙-原料求め北へ北へ」
- [47]苫小牧を建設地に決定したのは明治39年、資本金を一挙に600万円に引き上げ
出典・参考
4件
- 十条製紙社史(1974)「「付」旧王子製紙のあらまし」
- 日本産業史 第1巻「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- 日本産業史 第1巻「製紙-原料求め北へ北へ」
- 日本産業史 第1巻「財閥の形成」