第1章 年〜年

サッポロビール:3社合同による大日本麦酒の設立と戦時統制

1906年〜清浦奎吾氏が仲立ちした日本・札幌・大阪の合同と、生産高15万9千石の過半

大日本麦酒は1906年3月、日本麦酒醸造(恵美須麦酒)・大阪麦酒・札幌麦酒の3社が合流し、資本金560万円で新たに設けられた。合同の前、ヱビスとサッポロはともに大阪の市場へ進出し、大阪側もアサヒで東京へ攻勢をかけ、各地で販路が重なった。この対立が続けば共倒れになるとみて、農商務大臣の清浦奎吾氏が3社の間を取り持った。合同の当事者には日本麦酒の馬越恭平氏、札幌麦酒の渋沢栄一氏と大倉喜八郎氏が名を連ねた。1社が他社を吸収する方式は採らず、3社が合流して新会社を立てる合併新設とした点で、国内企業史でも早い例にあたる。地盤を奪い合う値下げ競争を、資本の統合で止める判断だった。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [1]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
    • [4]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
    • [5]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [2]ヱビス・サッポロの大阪進出とアサヒの東京進出で全国が混乱し共倒れの恐れ。農商務大臣清浦奎吾が合同を斡旋
    • [3]ヱビス・サッポロの大阪進出とアサヒの東京進出で全国が混乱し共倒れの恐れ。農商務大臣清浦奎吾が合同を斡旋

日露戦争の後に清浦奎吾氏が示した当初の構想は、日本・札幌・朝日の3社に麒麟と加富登を加えた5社の大合同である。麒麟は三菱と関係が深いことを理由に不参加を表明し、加富登は根津嘉一郎氏と福沢桃介氏が話し合った末に離脱した。このため合同は3社にとどまり、大日本麦酒の外側に有力な競争相手が2社残った。麒麟は1887年2月創立の日本醸造の流れをくみ、加富登は同年創業の丸三麦酒を前身とする。小規模な同業者が相次いで消えた結果、1913年の業界に残ったのは大日本・加富登・麒麟の3社だった。財閥の資本を背にした麒麟が、以後の大日本麦酒にとって最大の競争相手になったのだろう。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [6]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
    • [7]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
    • [8]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [9]1913年には大日本・麒麟(1887年2月創立の日本醸造の後身)・加富登(1887年創業の丸三麦酒の後身)の3社のみとなった
    • [10]1913年には大日本・麒麟(1887年2月創立の日本醸造の後身)・加富登(1887年創業の丸三麦酒の後身)の3社のみとなった

合同した1906年の国内麦酒生産高は計15万9000石で、その半分超を大日本麦酒が占める。日露戦争から第1次世界大戦までの業界では、整理と統合が同時に進んだ。20社余りあった小規模な麦酒会社は、日露戦争後の不況と大手との競争の中で身売りや廃業に追い込まれた。1912年3月からは年1000石以上という最低醸造石数の制限が実施され、小規模業者の退出を早めた。この間の大日本麦酒の動きは、1907年2月の東京麦酒の買収と、1911年5月の尼崎の大物機械製壜の取得。醸造の拠点を増やすと同時に、ビールを詰める瓶の製造まで傘下に収めた。瓶を外部から調達し続ければ原価と供給量を他社に左右されるため、上流の工程を押さえたと推察される。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [11]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
    • [15]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
    • [16]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [12]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行
    • [13]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行
    • [14]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行
参考文献[1]-[16]
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [1]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
    • [4]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
    • [5]1906年3月、日本麦酒醸造・札幌麦酒・大阪麦酒の3社合同で資本金560万円の大日本麦酒を新設。当事者は馬越恭平・渋沢栄一・大倉喜八郎、清浦奎吾が斡旋。合併新設の先駆例
    • [11]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
    • [15]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
    • [16]1906年の国内麦酒生産高15万9千石の過半を大日本麦酒が占めた。1907年2月東京麦酒、1911年5月尼崎の大物機械製壜を買収
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [2]ヱビス・サッポロの大阪進出とアサヒの東京進出で全国が混乱し共倒れの恐れ。農商務大臣清浦奎吾が合同を斡旋
    • [3]ヱビス・サッポロの大阪進出とアサヒの東京進出で全国が混乱し共倒れの恐れ。農商務大臣清浦奎吾が合同を斡旋
    • [6]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
    • [7]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
    • [8]清浦奎吾は日本・札幌・朝日・麒麟・加富登の5社合同を勧めたが、麒麟は三菱関係で不参加、加富登は根津嘉一郎と福沢桃介の相談で脱退し、3社で合同。合同は日露戦争後の出来事
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [9]1913年には大日本・麒麟(1887年2月創立の日本醸造の後身)・加富登(1887年創業の丸三麦酒の後身)の3社のみとなった
    • [10]1913年には大日本・麒麟(1887年2月創立の日本醸造の後身)・加富登(1887年創業の丸三麦酒の後身)の3社のみとなった
    • [12]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行
    • [13]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行
    • [14]20余の小規模麦酒会社は日露戦争後の不況・大会社との競争、1912年3月実施の年1000石以上の醸造石数制限で身売り・廃業し消滅。日露戦争後から欧州大戦までは整理と統合が並行

1914年〜日本麦酒鉱泉の合併で確保した65万石と、麒麟との麦酒共同販売

第1次世界大戦中から戦後にかけて、国内の麦酒業は工場の増設で生産を大きく増やし、輸出も拡大した。欧米品の輸出が途絶え、日本製のビールが東洋の市場をほぼ独占したためである。輸出は1915年まで多い年でも3万石台だったが、1918年には12万石に増え、同年の生産高49万石の約25%に達した。この時期、日本製ビールの主な販路は国内に加えてアジアへ広がった。大日本麦酒は1916年9月、英独醸造会社の青島工場を買収し、大陸に生産拠点を得た。1920年7月には日本硝子工業を合併し、製瓶の設備をさらに増強。朝日麦酒社長を務めた山本為三郎氏も、このころ日本のビールが海外に市場を持ち、各社がそろって好成績を上げたと振り返った。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [17]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [18]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [19]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [20]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [21]1916年9月英独醸造会社の青島工場を買収、1920年7月日本硝子工業を合併
    • [22]1916年9月英独醸造会社の青島工場を買収、1920年7月日本硝子工業を合併
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [23]第1次欧州大戦のころ日本のビールは海外に市場を持ち、各社とも好成績を収めた

昭和に入ると、金融恐慌に始まる不況の影響で麦酒の販売競争が激しくなり、各社の採算が悪化した。緊縮政策も重なり、企業整理を迫られた会社もあった。大日本麦酒は1933年7月、加富登麦酒の後身である日本麦酒鉱泉を合併し、全国生産の7割以上を占めるに至った。この合併で、大日本麦酒と麒麟麦酒の2社が業界を寡占する体制が固まった。ほかに桜麦酒と寿屋ビール部が残ったものの、造石能力は2社と比べてきわめて小さかった。同年8月には業界の健全化を狙い、麒麟麦酒と共同で麦酒共同販売株式会社を設立。合併で生産を寄せ、共同販売で価格競争を止める2段の手当てにより、恐慌下の値崩れから抜け出そうとした。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [24]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [25]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [26]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [29]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [27]1933年の日本麦酒鉱泉(加富登麦酒の後身)合併で大日本・麒麟の独占体制が確立。桜麦酒・寿屋ビール部の造石能力はきわめて小さい
    • [28]1933年の日本麦酒鉱泉(加富登麦酒の後身)合併で大日本・麒麟の独占体制が確立。桜麦酒・寿屋ビール部の造石能力はきわめて小さい

1935年の国内ビール査定石数約104万8000石のうち、大日本麦酒は65万4000石を占め、麒麟麦酒の30万1000石の2倍を超えた。桜麦酒は8万4000石、東京麦酒は8000石余りにとどまる。昭和初年の恐慌期に停滞したビール生産は、満州事変の後に国内消費と輸出が増えて上向いた。大日本麦酒は1933年8月に朝鮮麦酒を、1934年4月に満州麦酒を設立し、大陸での現地生産に着手した。麒麟麦酒も満州事変を境に大陸方面の需要が急増したとして、朝鮮と満州に拠点を設けた。1931年末の金輸出再禁止も、輸出の拡大を後押しした。国内の取り分がすでに6割を超えた大日本麦酒にとって、大陸は残された増産の余地だった。

  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [30]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇
    • [31]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇
    • [32]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [33]1933年8月朝鮮麦酒、1934年4月満州麦酒を設立して大陸に進出
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [34]満州事変を契機に大陸方面の需要が激増し、麒麟も朝鮮・満州に会社を設けて現地生産に進出。1931年末の金輸出再禁止と満州・日華両事変で生産・輸出・大陸進出が拡大
    • [35]満州事変を契機に大陸方面の需要が激増し、麒麟も朝鮮・満州に会社を設けて現地生産に進出。1931年末の金輸出再禁止と満州・日華両事変で生産・輸出・大陸進出が拡大
参考文献[17]-[35]
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [17]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [18]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [19]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [20]大戦中・戦後は増設で生産が増え、欧米品の輸出途絶で東洋市場を独占。輸出は1915年まで3万石台、1918年に12万石で生産高49万石の約25%
    • [24]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [25]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [26]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [29]金融恐慌以降の不況で販売競争が激化し採算悪化。1933年大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し全国生産の7割以上に。同年8月麒麟と共同で麦酒共同販売を設立し業界の健全化を図る。昭和初めは金融恐慌・緊縮政策の影響で企業整理も
    • [34]満州事変を契機に大陸方面の需要が激増し、麒麟も朝鮮・満州に会社を設けて現地生産に進出。1931年末の金輸出再禁止と満州・日華両事変で生産・輸出・大陸進出が拡大
    • [35]満州事変を契機に大陸方面の需要が激増し、麒麟も朝鮮・満州に会社を設けて現地生産に進出。1931年末の金輸出再禁止と満州・日華両事変で生産・輸出・大陸進出が拡大
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [21]1916年9月英独醸造会社の青島工場を買収、1920年7月日本硝子工業を合併
    • [22]1916年9月英独醸造会社の青島工場を買収、1920年7月日本硝子工業を合併
    • [33]1933年8月朝鮮麦酒、1934年4月満州麦酒を設立して大陸に進出
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [23]第1次欧州大戦のころ日本のビールは海外に市場を持ち、各社とも好成績を収めた
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [27]1933年の日本麦酒鉱泉(加富登麦酒の後身)合併で大日本・麒麟の独占体制が確立。桜麦酒・寿屋ビール部の造石能力はきわめて小さい
    • [28]1933年の日本麦酒鉱泉(加富登麦酒の後身)合併で大日本・麒麟の独占体制が確立。桜麦酒・寿屋ビール部の造石能力はきわめて小さい
    • [30]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇
    • [31]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇
    • [32]1935年の国内ビール査定石数約104万8千石のうち大日本65万4千石、麒麟30万1千石、桜8万4千石、東京8千石余。満州事変以後、国内消費・輸出の増加で生産は上昇

1937年〜大麦の割当で起きたビール飢饉と、桜麦酒を併せた配給統制

日中戦争が始まった後も、1938年から1939年ごろまでは生産と輸出が伸び続けた。麦酒の生産は1939年に頂点を迎え、内地の4社15工場で計173万石、外地の7工場で約20万石を造った。内地の4社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒である。日中戦争が長引くと、主食に当たる大麦を主な原料とする麦酒は生産の制限を受けた。1940年度からは前年度を上回る増産が認められなくなり、太平洋戦争の開戦後は許される生産量が年ごとに減少した。しかも生産量の大部分は軍需・特需に充当され、一般の消費者に回る量はさらに少なくなった。需要が増えた時期に供給を国が絞ったため、店頭のビールが足りない状態は戦時を通じて続いたと思われる。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [36]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [38]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [39]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [40]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [41]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [37]1939年に内地4社・15工場で173万石、外地7工場で約20万石を生産。翌年から戦時統制による生産制限

1942年9月からは一般向けのビール販売が数量と価格の両面で統制され、配給制度に切り替わった。太平洋戦争の開戦から1年足らずで、メーカーは販売の自由も失った。同年には麦酒配給機構が整えられ、中央に中央麦酒販売、各地区にそれぞれの麦酒販売会社が置かれた。大日本麦酒と麒麟麦酒は、造ったビールをこの販売会社に引き渡して出荷する仕組みへ移った。生産でも1940年から戦時統制による制限が始まり、生産量は年を追って減少した。生産量も販売先も価格も、メーカーが自ら決める範囲から外れた。数量と価格の統制は、終戦を迎えてもすぐには解けなかった。1933年に2社で設けた麦酒共同販売の役割は、国の配給機構に置き換わったのだろう。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [42]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [43]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [44]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [45]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [48]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [46]1940年から戦時統制による生産制限が始まり、以後生産は年を追って減少
    • [47]1940年から戦時統制による生産制限が始まり、以後生産は年を追って減少

1943年、企業整備の強化に伴って東京麦酒は閉鎖され、桜麦酒は大日本麦酒と合併した。合併の時期は同年11月である。戦時中は企業整備による工場閉鎖が2か所あり、原料・資材・労務・輸送の不足と戦災が重なった。1945年の国内ビール生産は、大日本と麒麟の2社を合わせても46万石に減少した。1939年の173万石と比べ、3割に満たない水準である。戦後まで残った麦酒会社は大日本麦酒と麒麟麦酒の2社だけだった。朝日麦酒社長を務めた山本為三郎氏は、終戦後の時点で国内ビールの7割5分を大日本麦酒が売り、残りは麒麟だったと回想した。統制下で寡占がさらに進み、戦後の独占禁止の議論で大日本麦酒が問われる素地ができたと推察される。

  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [49]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
    • [52]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
    • [53]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [50]1943年11月に桜麦酒を合併
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [51]戦時中は企業整備で工場2か所閉鎖、原料・資材・労務・輸送難と戦災で沈滞。戦後まで残ったのは大日本と麒麟の2社
    • [54]戦時中は企業整備で工場2か所閉鎖、原料・資材・労務・輸送難と戦災で沈滞。戦後まで残ったのは大日本と麒麟の2社
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [55]終戦後、日本のビールの7割5分は大日本麦酒が売り、残りは麒麟だった
参考文献[36]-[55]
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
    • [36]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [38]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [39]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [40]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [41]内地4社は大日本・麒麟・東京・桜。日華事変の深化で主食の大麦を原料とする麦酒は生産制限、1940年度から前年度超の増産不可、太平洋戦争で許容量は逐年減少し大部分を軍需・特需に。1938〜39年ごろまで生産・輸出・大陸進出が躍進
    • [42]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [43]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [44]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [45]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [48]1942年9月から一般への販売は数量・価格とも統制され配給制度に。1942年に麦酒配給機構を整備し、中央麦酒販売と各地区の麦酒販売を新設。販売の自由化は戦後の1949年7月
    • [51]戦時中は企業整備で工場2か所閉鎖、原料・資材・労務・輸送難と戦災で沈滞。戦後まで残ったのは大日本と麒麟の2社
    • [54]戦時中は企業整備で工場2か所閉鎖、原料・資材・労務・輸送難と戦災で沈滞。戦後まで残ったのは大日本と麒麟の2社
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
    • [37]1939年に内地4社・15工場で173万石、外地7工場で約20万石を生産。翌年から戦時統制による生産制限
    • [46]1940年から戦時統制による生産制限が始まり、以後生産は年を追って減少
    • [47]1940年から戦時統制による生産制限が始まり、以後生産は年を追って減少
    • [49]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
    • [52]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
    • [53]1943年企業整備の強化で東京麦酒は閉鎖、桜麦酒は大日本麦酒と合併。1945年の生産は大日本・麒麟合わせて46万石
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [50]1943年11月に桜麦酒を合併
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [55]終戦後、日本のビールの7割5分は大日本麦酒が売り、残りは麒麟だった

出典・参考

4件
出典・参考
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「醸造」
  • 日本経済新聞社『日本産業史 1』(1994)食品「戦火の陰に泣く」
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)

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