第2章 年〜年

サッポロビール:大日本麦酒の分割による日本麦酒発足とサッポロ商標の復活

1946年〜均等に割った二分割と新商標ニッポンビールの不振

大日本麦酒は1948年1月に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年9月1日に朝日麦酒と日本麦酒の2社へ分かれた。分割の直前、同社は国内のビール生産量の75%を占めていた。分割案は社員を同じ学歴と能力の組にして両社へ振り分け、工場も生産能力と販売地盤が釣り合うように割る方式で組まれた。日本麦酒は札幌・川口・目黒・名古屋・門司の5工場と、サッポロ・ヱビスの2銘柄、清涼飲料のリボンシトロンを引き継いだ。資本金は1億円で、社長には旧大日本麦酒常務の柴田清氏が就任した。分離の実行は1949年7月の酒類公団解散より後にずれ込み、得意先の分け方など自由競争への備えが整わないまま両社は販売に入った。均等に割る設計は、両社とも全国に工場を持ちながら、どの地域でも首位を握れない構造を生んだとみられる。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [1]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
    • [3]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
    • [6]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [2]分割直前の大日本麦酒は国内ビール生産量の75%を占有。日本麦酒は札幌・川口・目黒・名古屋・門司の5工場、サッポロ・ヱビスのビール商標とリボンシトロンを継承
    • [4]分割直前の大日本麦酒は国内ビール生産量の75%を占有。日本麦酒は札幌・川口・目黒・名古屋・門司の5工場、サッポロ・ヱビスのビール商標とリボンシトロンを継承
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [5]日本麦酒は1949年9月1日設立、設立資本金1億円、社長は旧大日本麦酒常務の柴田清

日本麦酒は、地域ごとに別の銘柄で売ってきた不便を避けるため、新商標ニッポンビールを採った。サッポロの星印だけは引き継ぎ、ラベルに残した。戦前のサッポロは北海道と東北、ヱビスは関東の銘柄で、全国に通る銘柄は麒麟麦酒のキリンだけだった。1949年12月に3社の銘柄競争が始まると、東京で旧ヱビスを飲んでいた客の多くは、なじみの無いニッポンビールではなくキリンを指名した。原料の統制は1952年春まで続き、日本麦酒は過去のシェアで割り当てられた原料で造った製品を売り切れず、生産量の少ない麒麟麦酒は品薄が続いた。元社長の内多蔵人氏は、後年この局面を『戦前にエビスビールを飲んでくれていた人は、なじみのないニッポンビールなど、見向きもしてくれない』と振り返っている。継承した銘柄の知名度を捨てた代償は、統制が解けて需要が銘柄を選び始めた時点で表れたのだろう。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [7]日本麦酒はエビス・サッポロの商標を継承したが、多くの銘柄を地域別に持って販売していた不自由さを考え、新たに日本ビール商標で発売
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [8]新発足を機にサッポロの星印を踏襲し、ニッポンビールの新商標を用いた
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [9]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [10]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [11]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [12]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味

日本・朝日・麒麟の3社の合計に占める日本麦酒の販売比率は、1952年の32.9%から1954年には31.0%へ下がった。1954年下半期にはビールの需要が伸び悩み、日本麦酒の販売高は分割後で初めて前年を下回った。会社は関西での販売実績の劣勢を認め、1954年に大阪府茨木市で3万坪の用地を取得し、年産20万石の新工場を計画した。新工場が完成すれば関西の劣勢を回復できると、会社は見込んでいた。それでも1957年の時点で、会社は3社のなかで立ち遅れていることを否定できないと自ら認めていた。工場の立地は直せても、ニッポンビールという銘柄の弱さは設備投資では埋まらなかったと考えられる。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [13]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
    • [14]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
    • [15]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
  • ダイヤモンド臨時増刊 1955年11月20日号
    • [16]過去の販売実績から関西地区が劣勢であったため、大阪の茨木市に新工場を建設し、完成すれば劣勢を回復し得るとの会社の見通し
    • [17]過去の販売実績から関西地区が劣勢であったため、大阪の茨木市に新工場を建設し、完成すれば劣勢を回復し得るとの会社の見通し
  • 読売新聞(1957年)
    • [18]会社はビール3社のなかでいくぶん立ち遅れていることは否定できないと認めた
参考文献[1]-[18]
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)
    • [1]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
    • [3]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
    • [6]1948年1月に集中排除法の指定、1949年9月1日に朝日麦酒・日本麦酒へ分離。社員を同学歴・同能力の組で振り分け、工場・生産能力・販売地盤の均衡をとる二分割案。分離が1949年7月1日の酒類公団解散後となり、得意先の分割など自由競争への準備が間に合わなかった
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [2]分割直前の大日本麦酒は国内ビール生産量の75%を占有。日本麦酒は札幌・川口・目黒・名古屋・門司の5工場、サッポロ・ヱビスのビール商標とリボンシトロンを継承
    • [4]分割直前の大日本麦酒は国内ビール生産量の75%を占有。日本麦酒は札幌・川口・目黒・名古屋・門司の5工場、サッポロ・ヱビスのビール商標とリボンシトロンを継承
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
    • [5]日本麦酒は1949年9月1日設立、設立資本金1億円、社長は旧大日本麦酒常務の柴田清
    • [8]新発足を機にサッポロの星印を踏襲し、ニッポンビールの新商標を用いた
    • [13]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
    • [14]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
    • [15]3社合計に対する日本麦酒の麦酒販売比率は1952年32.9%・1953年31.2%・1954年31.0%。1954年下半期から需要が伸び悩み、分離後初めて前年を下回った。1954年に茨木で3万坪を買収、年産20万石(第1期10万石)の工場を計画
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [7]日本麦酒はエビス・サッポロの商標を継承したが、多くの銘柄を地域別に持って販売していた不自由さを考え、新たに日本ビール商標で発売
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [9]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [10]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [11]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
    • [12]戦前の銘柄はサッポロが北海道・東北、エビスが関東とローカルで、全国銘柄はキリンのみ。1949年12月1日から3社競争。東京の旧エビス客はニッポンビールを避けキリンを指名。1952年春まで原料統制が続き、日本麦酒は売れ足が鈍く、キリンは品薄気味
  • ダイヤモンド臨時増刊 1955年11月20日号
    • [16]過去の販売実績から関西地区が劣勢であったため、大阪の茨木市に新工場を建設し、完成すれば劣勢を回復し得るとの会社の見通し
    • [17]過去の販売実績から関西地区が劣勢であったため、大阪の茨木市に新工場を建設し、完成すれば劣勢を回復し得るとの会社の見通し
  • 読売新聞(1957年)
    • [18]会社はビール3社のなかでいくぶん立ち遅れていることは否定できないと認めた

1956年〜サッポロ商標の復活と社名変更による銘柄の一本化

北海道の料理屋では、店員がニッポンビールを昔のサッポロだと客に説いて売る状況が続いていた。営業部門は旧銘柄の復活を求めたが、柴田清社長は新銘柄の育成を優先し、当初は応じなかった。国分など有力な問屋の説得を受け、会社は1956年10月に北海道でサッポロ銘柄の試験販売に踏み切った。1か月足らずで全道の注文がサッポロへ切り替わり、これを受けて翌1957年に全国の商標をサッポロビールへ戻した。商標の復活で北海道から関東にかけての地盤が勢いを取り戻し、日本麦酒の不振に歯止めがかかった。8年かけた新商標を、北海道1地域の試験販売の結果で見切った判断にあたる。

  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [19]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [20]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [21]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [22]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [23]大衆が昔の銘柄を選ぶリバイバルブームのなか、1957年にサッポロビール商標を復活したところ大いに受け、北海道から関東の地盤で勢いを盛り返し、日本麦酒の不振をくいとめた
    • [24]大衆が昔の銘柄を選ぶリバイバルブームのなか、1957年にサッポロビール商標を復活したところ大いに受け、北海道から関東の地盤で勢いを盛り返し、日本麦酒の不振をくいとめた

1961年9月に柴田清社長が死去し、副社長の松山茂助氏が社長へ昇った。農学博士の松山茂助氏を社長に置いた会社は、良い品質の商品をつくることを経営方針の第一に掲げた。1964年1月には社名をサッポロビールへ改め、商品と社名を同じ名で揃えた。この間、1959年に缶入りのサッポロビール、1963年に瓶詰め生ビールのサッポロジャイアンツを出し、1965年には手で開けられる小瓶のサッポロストライクを加えた。1964年の売上高は870億円となり、ビールの製造能力は1949年の発足時の7倍を超えた。銘柄を一本に絞ったうえで容器と製法の新しさを重ね、商品の側から地盤を広げた時期である。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)
    • [25]1961年9月、柴田清社長の死去により副社長の松山茂助が社長に昇任
  • 証券アナリストジャーナル 1966年 第4巻第6号
    • [26]農学博士の松山茂助が社長であることに象徴される「良い品質の商品をつくる」を経営方針の第1とした。瓶詰生ビールブームの先駆となったサッポロジャイアンツ、手で開けられる小瓶サッポロストライクを開発
    • [29]農学博士の松山茂助が社長であることに象徴される「良い品質の商品をつくる」を経営方針の第1とした。瓶詰生ビールブームの先駆となったサッポロジャイアンツ、手で開けられる小瓶サッポロストライクを開発
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [27]1964年1月、社名をサッポロビール株式会社に変更
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [28]1959年に缶入りサッポロビール、1963年にサッポロジャイアンツを発売。1964年の売上高870億円、ビール製造能力は1949年当時の7倍以上
    • [30]1959年に缶入りサッポロビール、1963年にサッポロジャイアンツを発売。1964年の売上高870億円、ビール製造能力は1949年当時の7倍以上

麒麟麦酒のシェアは1966年上期に49%へ達し、分割から生まれた2社が合併して対抗する構想が浮上した。サッポロと朝日麦酒の合併交渉は1963年春と1965年暮に続く3度目で、経団連副会長でサッポロ監査役の植村甲午郎氏らの斡旋により同年春から進んだ。しかし販売店が販売分野の調整に反対し、公正取引委員会筋からも寡占下の合併は後発のサントリーや宝酒造を圧迫するとの懸念が伝わった。交渉は1966年8月に白紙へ戻った。合併論の背景には、2社が互いの地盤を食い合い、分割を免れた麒麟麦酒がその間にシェアを広げたという構図があった。規模で対抗する選択肢が消え、サッポロは銘柄と商品で差をつける路線に絞られたのだろう。

  • 読売新聞(1966年8月13日)
    • [31]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [32]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [33]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [34]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [35]分割後、サッポロと朝日が互いの地盤を食い合い、分割を免れた麒麟がその間隙をぬってシェアを拡大。両社の合併構想はいずれも失敗
参考文献[19]-[35]
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [19]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [20]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [21]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
    • [22]北海道では料理屋の女中が昔のサッポロだと客を説得して売っていた。柴田清社長は新銘柄にこだわったが、国分など有力問屋の説得で北海道での並行発売を了解。1956年10月に試験発売し、1か月足らずで全道がサッポロに切り替わり、翌1957年に全面切り替え
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [23]大衆が昔の銘柄を選ぶリバイバルブームのなか、1957年にサッポロビール商標を復活したところ大いに受け、北海道から関東の地盤で勢いを盛り返し、日本麦酒の不振をくいとめた
    • [24]大衆が昔の銘柄を選ぶリバイバルブームのなか、1957年にサッポロビール商標を復活したところ大いに受け、北海道から関東の地盤で勢いを盛り返し、日本麦酒の不振をくいとめた
    • [27]1964年1月、社名をサッポロビール株式会社に変更
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)
    • [25]1961年9月、柴田清社長の死去により副社長の松山茂助が社長に昇任
  • 証券アナリストジャーナル 1966年 第4巻第6号
    • [26]農学博士の松山茂助が社長であることに象徴される「良い品質の商品をつくる」を経営方針の第1とした。瓶詰生ビールブームの先駆となったサッポロジャイアンツ、手で開けられる小瓶サッポロストライクを開発
    • [29]農学博士の松山茂助が社長であることに象徴される「良い品質の商品をつくる」を経営方針の第1とした。瓶詰生ビールブームの先駆となったサッポロジャイアンツ、手で開けられる小瓶サッポロストライクを開発
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [28]1959年に缶入りサッポロビール、1963年にサッポロジャイアンツを発売。1964年の売上高870億円、ビール製造能力は1949年当時の7倍以上
    • [30]1959年に缶入りサッポロビール、1963年にサッポロジャイアンツを発売。1964年の売上高870億円、ビール製造能力は1949年当時の7倍以上
  • 読売新聞(1966年8月13日)
    • [31]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [32]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [33]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
    • [34]麒麟麦酒の1966年上期シェア49%。サッポロ・朝日の合併交渉は1963年春・1965年暮に続く3度目で、植村経団連副会長(サッポロ監査役)らが斡旋。販売店筋の反対と、公取委筋の後発会社(宝酒造・サントリー)圧迫の懸念で白紙に
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [35]分割後、サッポロと朝日が互いの地盤を食い合い、分割を免れた麒麟がその間隙をぬってシェアを拡大。両社の合併構想はいずれも失敗

1970年〜関西の空白を埋めるヱビスの復活と石油危機後の合理化

1971年度のサッポロのビールシェアは22%で、東京から東北・北海道では麒麟麦酒と拮抗する一方、近畿では約0.8%にとどまった。内多蔵人氏は関東の旧地盤を取り戻す手としてヱビス銘柄の復活を主張し続けたが、柴田清社長の時代には認められなかった。復活は内多蔵人氏が1971年2月に社長に就任した後のこと。ヱビスは副原料をほとんど使わず、ドイツのハラタウ産ホップを用い、価格を通常品より10円高く設定した。まず東京で売り出して高級品の印象をつくり、1972年3月16日に関西での販売を始めた。麒麟麦酒と同じ商品では対抗できないとみて、品質と価格で別の売り場を獲得しようとした差別化である。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [36]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
    • [39]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
    • [40]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [37]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断
    • [38]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断
    • [41]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断

ヱビスの発売は、ビール業界の値上げ期に重なった。値上げを前に仮需が起きると、メーカーの営業は出荷を割り当てるだけで済み、問屋は売りやすい既存銘柄から引き取るため、新銘柄のヱビスは後回しにされた。内多蔵人氏は1期で社長を退き、麒麟麦酒の独走は止まらなかった。1972年の時点で、ビールは銘柄を隠すと飲み当てる人が少ない無差別商品とされながら、麒麟麦酒の製品がよく飲まれる状況が続いていた。内多蔵人氏は1977年の回想で、家庭の大衆市場に目を向けるのが遅れた点を最大の反省に挙げ、ヱビス復活についても『スタートからのつまずきを取り戻すには、遅きに失したのかもしれません』と語った。商品の差は、値上げ局面の流通の都合に吸収されたと考えられる。

  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [42]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [43]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [44]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [46]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [45]ビールは典型的な無差別商品で、ブランドを隠すと銘柄を飲み当てる人は少ないが、キリンがよく飲まれている

1973年度の総売上高は1,628億円で、10年前の約2倍だった。石油危機後の1974年度はビールの蔵出し量が減少し、業績も伸び悩んだ。会社は2〜3年前から生産・物流・事務の省力化を進め、1973年に物流管理部を独立させて工場と支店倉庫の間をパレットで結んだ。1975年度はシェアを19.5%から20.2%へ戻し、売上高1,918億円・経常利益51億円を計上した。並行して、1971年に本社へ事業開発部を置き、東京と札幌で使っていない約10万坪の土地の活用を探った。1972年秋には香港で日本料理店2店を現地業者との合弁で開き、外食を通じてサッポロの銘柄を海外へ広げる構想を描いた。シェア2割の本業を合理化で支えつつ、土地と外食に次の収益源を探り始めた時期にあたる。

  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [47]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [48]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [49]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [50]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [51]1971年に本社に事業開発部を設立。東京・札幌で遊んでいる土地が約10万坪あり、活用を検討
  • 日経ビジネス 1973年1月22日号
    • [52]1972年秋に香港で日本料理店2店を開店、ニューヨークを除き現地業者との合弁。海外レストラン網を基礎にサッポロ・ブランドを海外に浸透させるねらい
参考文献[36]-[52]
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
    • [36]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
    • [39]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
    • [40]1971年度のビールシェア22%、東京から東北・北海道ではキリンと拮抗、近畿は約0.8%。エビスは副原料をほとんど使わずハラタウ産ホップを使用、価格10円高で高級イメージづくりに成功。まず東京で発売し、関西では1972年3月16日販売開始
    • [51]1971年に本社に事業開発部を設立。東京・札幌で遊んでいる土地が約10万坪あり、活用を検討
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
    • [37]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断
    • [38]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断
    • [41]内多蔵人は関東のエビス地盤を理由に一貫してエビス復活を主張したが、前任の社長は同意しなかった。復活は1971年2月の社長就任後。キリンと同じことをしていては対抗できないとの判断
    • [42]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [43]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [44]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
    • [46]エビス発売がビール値上げにぶつかりタイミングを失した。値上げ前の仮需で営業は割り当てで足り、問屋は売りやすい銘柄から取るため新銘柄は不利。1期で社長を退き、キリン独走の阻止は果たせず。家庭消費・マスマーケットへの着目が遅れたことが大きい
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
    • [45]ビールは典型的な無差別商品で、ブランドを隠すと銘柄を飲み当てる人は少ないが、キリンがよく飲まれている
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [47]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [48]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [49]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
    • [50]1973年度総売上高1,628億円(10年前の約2倍)。1974年度は蔵出し量が落ち込み業績伸び悩み。2〜3年前から省力化・合理化を進め、1973年に物流管理部を独立、パレット化。1975年度はシェア19.5%→20.2%、売上高1,918億円、経常利益51億200万円
  • 日経ビジネス 1973年1月22日号
    • [52]1972年秋に香港で日本料理店2店を開店、ニューヨークを除き現地業者との合弁。海外レストラン網を基礎にサッポロ・ブランドを海外に浸透させるねらい

1946年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年12月期 単体 244 n/a n/a 9 4.0% n/a
1956年12月期 単体 239 ▲2.0% n/a 10 4.4% n/a
1957年12月期 単体 280 +17.2% n/a 10 3.8% n/a
1958年12月期 単体 327 +16.8% n/a 10 3.2% n/a
1959年12月期 単体 379 +15.9% n/a 11 3.1% n/a
1960年12月期 単体 460 +21.4% n/a 16 3.5% n/a
1961年12月期 単体 652 +41.7% n/a 20 3.2% n/a
1962年12月期 単体 691 +6.0% n/a 21 3.1% n/a
1963年12月期 単体 768 +11.1% n/a 17 2.2% n/a
1964年12月期 単体 870 +13.3% n/a 16 1.9% n/a
1965年12月期 単体 885 +1.7% n/a 16 1.8% n/a
1966年12月期 単体 908 +2.6% n/a 18 2.0% n/a
1967年12月期 単体 1,082 +19.2% n/a 21 1.9% n/a
1968年12月期 単体 1,162 +7.4% n/a 21 1.8% n/a
1969年12月期 単体 1,245 +7.1% n/a 22 1.8% n/a
1970年12月期 単体 1,333 +7.1% n/a 21 1.6% n/a
1971年12月期 単体 1,366 +2.5% n/a 18 1.4% n/a
1972年12月期 単体 1,483 +8.6% n/a 16 1.1% n/a
1973年12月期 単体 1,622 +9.4% n/a 13 0.9% n/a
1974年12月期 単体 1,598 ▲1.5% n/a 15 1.0% n/a
1975年12月期 単体 1,913 +19.7% 51 19 1.0% n/a
1976年12月期 単体 1,752 ▲8.4% 51 20 1.1% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

12件
出典・参考
  • 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本麦酒」
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)
  • ダイヤモンド臨時増刊 1955年11月20日号
  • 証券アナリストジャーナル 1966年 第4巻第6号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第5号
  • 週刊東洋経済 1972年3月25日号
  • 日経ビジネス 1973年1月22日号
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
  • 読売新聞(1957年)
  • 読売新聞(1966年8月13日)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人2』山本為三郎(1980)

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