第3章 年〜年

サッポロビール:サッポロびん生の全国発売と恵比寿ガーデンプレイス開業

1977年〜熱処理をやめた生ビールへの全面転換

1975年度のサッポロのビールシェアは20.2%で、市場の2割前後にとどまっていた。それまでの差別化商品は高濃度のファイブスターも低アルコールのライトも中身の味を変える方式で、麒麟麦酒のラガーに慣れた消費者の嗜好から外れて定着しなかった。サッポロびん生は熱処理をせず、ろ過器で酵母を除いた製品で、原料・醸造法・アルコール度はラガーと同じだった。北海道・名古屋・大阪で長く試験販売して手応えを確かめ、1977年4月に全国へ出すと、初年度は予定の2倍にあたる800万ケースを売った。味を大きく変えず、製法の違いだけを前面に出す設計で、麒麟麦酒の土俵の外に争点を移したとみられる。

  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [1]1975年度のビールシェアは前年の19.5%から20.2%へ回復
  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
    • [2]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍
    • [3]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍
    • [4]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍

翌1978年、会社は広告を生ビールへ集中し、生の比率がまだ23%の段階で8割近くを占めていたラガーに見切りをつけた。びん生のラベルには伝統の赤星ではなく黒を採り、陰気だとする社内の反発を押し切った。常務営業部長として生路線を主導した河合滉二氏は、1978年2月に社長へ就任した。生への切り替えにはろ過装置と無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資を要し、出荷量が増えないまま負担が続いた。河合滉二氏は1981年の取材で、自社の進路を『当社には、生ビール以外に生きる道はないと考えている』と言い切った。主力の製法を入れ替える投資を先に払い、後戻りできない形で2番手の位置から争点を固定した判断にあたる。

  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
    • [5]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [6]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [7]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [9]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [10]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [8]河合滉二が1978年2月にサッポロビール社長に就任

1980年の生ビール市場では、サッポロが39%を握って首位に立ち、サントリー32%、朝日麦酒23%、麒麟麦酒6%が続いた。同年は冷夏で業界全体の出荷が0.8%増にとどまるなか、サッポロは出荷量を3.1%伸ばし、シェアを0.4ポイント高めた。東京でのシェアは4、5年で数ポイント上がって26%強となり、弱かった大阪でも7%強へ上がった。売上高は1977年12月期の2,084億円から1981年12月期には3,304億円へ増え、経常利益は90億円台に乗った。それでもビール全体では麒麟麦酒62.2%に対しサッポロ19.7%で、生の首位は市場全体の構図を動かすところまで届かなかった。1985年からは4年間で8銘柄を出す中身多様化路線に移り、麦芽100%の個性派商品で若者やこだわり層を狙った。

  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
    • [11]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [12]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [13]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [15]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
  • サッポロビール 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [14]1977年12月期売上高2,084億円、1981年12月期売上高3,304億円・経常利益90.1億円
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [16]1985年から中身多様化路線として4年間に8つの新製品を投入。麦芽100%の本格派で感性豊かな若者やこだわり派を狙う戦略
参考文献[1]-[16]
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
    • [1]1975年度のビールシェアは前年の19.5%から20.2%へ回復
  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
    • [2]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍
    • [3]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍
    • [4]以前の差別化商品は中身をいじる正攻法で、キリンのラガーが作った嗜好から外れ定着しなかった。生は熱処理をせずろ過で酵母を除去、原料・醸造法・アルコール度4.5%はラガーと同じ。北海道・名古屋・大阪でのテスト販売を経て1977年に全国発売、初年度800万ケースで予定の2倍
    • [5]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [6]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [7]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [9]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [10]1978年に広告を生ビールに集中、1977年の生比率23%の時点で80%近いラガーに見切り。びん生のラベルは社内の反発を押し切り赤星から黒へ。河合滉二は常務営業部長時代から生路線を主導。ろ過装置・無菌設備の増強だけで毎年40億〜50億円の投資
    • [11]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [12]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [13]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
    • [15]1980年の生ビール市場占有率はサッポロ39%・サントリー32%・朝日23%・キリン6%。1980年サッポロは庫出量3.1%増・シェア0.4%増(全体0.8%増)。東京のシェアは4〜5年で26%強、大阪7%強。1980年のビール全体シェアはキリン62.2%・サッポロ19.7%
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [8]河合滉二が1978年2月にサッポロビール社長に就任
  • サッポロビール 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [14]1977年12月期売上高2,084億円、1981年12月期売上高3,304億円・経常利益90.1億円
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [16]1985年から中身多様化路線として4年間に8つの新製品を投入。麦芽100%の本格派で感性豊かな若者やこだわり派を狙う戦略

1987年〜スーパードライの登場と黒ラベル終売の失敗

アサヒビールのシェアは、スーパードライを出した1987年の10.4%から1989年には25%へ広がった。サッポロは1988年春にサッポロドライで追随したが、シェア20%を守るのがやっとで、2位の座をアサヒビールと争う状況に追い込まれた。中身多様化路線の前提は、成熟した市場で消費者は大量生産の商品に飽き、多品種少量の時代に入るという見立てにあった。年間1億4,000万ケースを売る1銘柄の出現は、この見立てを覆した。1988年10月に出した冬物語は副原料入りのなじみやすい味で年内350万ケースを見込み、会社は100万ケース以下の隙間商品をもう出さないと方針を改めた。会社はここで個性化から大衆路線への転換を選んだ。

  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [17]アサヒのシェアはスーパードライ投入の1987年度10.4%から1989年度25%へ
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [18]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [19]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [20]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [21]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [22]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明

1987年から1988年にかけて、サッポロはエーデルピルス・サッポロドライ・モルト100・オン・ザ・ロック・冬物語と新銘柄を重ねていた。大衆路線に移った後の商品も続かなかった。1988年12月に若者向けに出したハーディは初年度1,200万ケースを目標にしたが150万ケースしか売れず、1989年秋に撤退した。1989年2月には販売数量の6割を占める黒ラベルの味をドライに近づけ、サッポロドラフトへ切り替えた。固定客が離れて1〜8月のビール販売数量は前年同期比5%減となり、同年9月に黒ラベルを再投入してドラフトの生産を打ち切った。銘柄は60を超え、商品ごとの販促費が積み上がった。主力の味を他社の成功に寄せた変更が、自社の固定客を失わせた点に、ドライ対応の誤りの核心があったのだろう。

  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [23]1987年から1988年にかけてエーデルピルス・サッポロドライ・モルト100・オン・ザ・ロック・冬物語を相次いで発売
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [24]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [25]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [26]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [27]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [28]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超

1989年12月期は営業損益が37億円の赤字となる見通しで、上場以来初の営業赤字だった。販売促進費は24%増の402億円に達し、1988年6月に完成した千葉工場の稼働で減価償却費も185億円へ2割膨らんだ。1986年12月期を100とした1989年12月期の売上高はアサヒビールの283に対しサッポロは115にとどまった。会社は1990年に多ブランド戦略を廃し、黒ラベルとエビスビールに力を集中する方針へ戻した。この3年で2位の座を失い、販促費と設備の固定費が収益を圧迫する構造が残った。本業の利益が縮小するなかで、恵比寿工場の跡地をどう使うかが経営の比重を増していったと考えられる。

  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [29]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [30]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [32]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [33]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [34]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [31]1988年6月に千葉工場(船橋市)を完成させ首都圏向けの供給拠点とした
参考文献[17]-[34]
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [17]アサヒのシェアはスーパードライ投入の1987年度10.4%から1989年度25%へ
    • [24]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [25]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [26]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [27]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [28]1988年12月発売のハーディは初年度目標1200万ケースに対し150万ケースで1989年秋に撤退。1989年2月に黒ラベル(販売数量の6割)の味を一新しサッポロドラフトとして発売、固定ファンが離れ1〜8月の販売数量5%減。1989年9月に黒ラベルを再投入しドラフト生産打ち切り。ブランド数は60超
    • [29]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [30]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [32]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [33]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
    • [34]1989年12月期は営業利益37億円の赤字見込みで上場以来初の営業赤字。販売促進費24%増の402億円、千葉工場稼働で減価償却費2割増の185億円。1986年12月期=100の売上高指数はアサヒ283、サッポロ115。1990年は多ブランド戦略を廃し黒ラベル・エビスに集中
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [18]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [19]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [20]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [21]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [22]1988年春にサッポロドライを発売したがシェア20%維持がやっと、2位をアサヒと争う。中身多様化路線は市場成熟・多品種少量の個性化時代という認識が前提。ドライは1億4000万ケースの商品で前提が覆った。1988年10月発売の冬物語は副原料入りで親しみやすさ重視、年内350万ケース見込み。100万ケース以下の隙間狙い商品はもう出さないと表明
    • [23]1987年から1988年にかけてエーデルピルス・サッポロドライ・モルト100・オン・ザ・ロック・冬物語を相次いで発売
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [31]1988年6月に千葉工場(船橋市)を完成させ首都圏向けの供給拠点とした

1987年〜恵比寿工場跡地の自社開発と本業の縮小

恵比寿工場は1887年から首都圏向けの主力工場だったが、都市化と老朽化で建て替えの敷地も足りず、1988年6月に千葉工場へ機能を移した。会社が8万3,000平方メートルの跡地の開発計画を発表したのは1987年7月で、東京都が1983年に恵比寿地区の再開発を検討し始めたことが起点だった。跡地の簿価は190億円で、売却すれば6,000億円、不動産大手に任せれば毎年一定の地代を得る選択肢もあった。会社はこれらを採らず、総額3,100億円を投じる自社開発を選んだ。荒川和夫社長は、ビールの単品経営で固まった社員の発想を変え、新しい職場を生む効果を挙げた。移転先の千葉工場は2期工事を控え、減価償却費がさらに30億円増える見通しだった。売上高営業利益率は1986年12月期の3.45%から1991年12月期の1.20%へ下がっていた。

  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [35]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [36]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [37]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [38]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [39]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [41]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [40]千葉工場二期工事完成などで減価償却費はさらに30億円増える見通し

総事業費3,100億円のうち950億円は、住宅金融公庫から固定金利6.22%・25年で借りることが1992年2月に決まった。会社は借入を1,900億円に抑え、開業初年度の黒字化を優先した。1990年12月期の時点で、営業利益54億円の6割はすでに不動産事業が稼いでいた。1994年6月に売り出した分譲住宅は平均倍率29.1倍で即日完売した。オフィスも開業前の9月までに9割超の入居が決まり、同時期に開業した首都圏の大型ビルの7割程度を上回った。薄利のビール本業を賃貸収入が支える構図は、開業前の時点ですでに見えていたといえる。

  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [42]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
    • [43]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
    • [44]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
  • 日経産業新聞(1994年6月7日)
    • [45]恵比寿の分譲住宅は平均倍率29.1倍で即日完売
  • 日本経済新聞(1994年9月9日)
    • [46]恵比寿ガーデンプレイスのオフィス入居が9割を超え、開業時7割程度だった首都圏の大型ビル事業を上回る

本業の縮小は1990年代後半に深まった。シェアは1980年代半ばの20%台から、1999年1〜6月期には発泡酒を含めて14.8%まで低下。売上高は1994年12月期の6,300億円を頂点に減り続け、1997年と1998年には2期連続で最終赤字を出した。会社は1998年9月に経営指針を定め、名古屋工場の閉鎖と群馬工場のビール製造停止、社員を約3,800人から2,800人へ減らす策で、2002年に1997年比180億円のコスト削減を見込んだ。1999年11月には常務の岩間辰志氏が社長に就任し、黒ラベル・エビス・ブロイの3銘柄へ経費を集めた。2002年12月期の営業利益109億円のうち、不動産事業が82億円を稼ぎ、酒類飲料事業の75億円を上回った。

  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [47]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [48]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [49]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [50]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [51]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
  • サッポロビール「平成14年12月期決算短信補足説明資料」(2003年2月)
    • [52]平成14年度(2002年12月期)連結売上高5,117億円・営業利益109億円。営業利益内訳は酒類飲料事業75億円、不動産事業82億円
参考文献[35]-[52]
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [35]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [36]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [37]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [38]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [39]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [41]恵比寿工場は1887年以来の首都圏向け主力工場。都市化・老朽化で1988年6月に千葉工場へ。開発計画発表は1987年7月、東京都の1983年の再開発検討が契機。跡地8万3000平方メートル、簿価190億円、売却なら6000億円、不動産大手に任せ地代を得る手もあったが自社開発を選択、総事業費3100億円。荒川和夫社長は単品経営からくる社員の発想転換と新たな職場を効果に挙げた。売上高営業利益率は1986年12月期3.45%から1991年12月期1.20%
    • [42]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
    • [43]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
    • [44]総事業費3100億円のうち950億円を住宅金融公庫から6.22%の固定金利・25年で借り入れることが1992年2月に決定。借入額を1900億円にとどめ初年度黒字を優先。1990年12月期の営業利益54億円の6割を不動産事業が稼ぐ
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
    • [40]千葉工場二期工事完成などで減価償却費はさらに30億円増える見通し
  • 日経産業新聞(1994年6月7日)
    • [45]恵比寿の分譲住宅は平均倍率29.1倍で即日完売
  • 日本経済新聞(1994年9月9日)
    • [46]恵比寿ガーデンプレイスのオフィス入居が9割を超え、開業時7割程度だった首都圏の大型ビル事業を上回る
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [47]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [48]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [49]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [50]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
    • [51]1980年代半ば20%超のシェアが1999年1〜6月期14.8%(発泡酒含む)。売上高は1994年12月期の6300億円以来減少、1997・1998年は2期連続最終赤字。1998年9月の経営指針で名古屋工場閉鎖・群馬工場ビール部門停止・社員約3800人→2800人、2002年に1997年比約180億円のコスト削減。1999年11月15日に常務の岩間辰志が社長就任、黒ラベル・エビス・ブロイの主力3ブランドに集中
  • サッポロビール「平成14年12月期決算短信補足説明資料」(2003年2月)
    • [52]平成14年度(2002年12月期)連結売上高5,117億円・営業利益109億円。営業利益内訳は酒類飲料事業75億円、不動産事業82億円

1977年〜2002年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1977年12月期 単体 2,084 n/a n/a 60 30 1.4% n/a
1978年12月期 単体 2,439 +17.0% 78 70 35 1.4% n/a
1979年12月期 単体 2,512 +3.0% n/a 44 31 1.2% n/a
1980年12月期 単体 2,765 +10.1% n/a 66 34 1.2% n/a
1981年12月期 単体 3,304 +19.5% n/a 90 38 1.2% n/a
1982年12月期 単体 3,478 +5.3% n/a 91 39 1.1% n/a
1983年12月期 単体 3,621 +4.1% n/a 85 37 1.0% n/a
1984年12月期 単体 3,799 +4.9% n/a 97 44 1.2% n/a
1985年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 千葉工場(船橋市)が完成(1988/06)
1989年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年12月期 連結 5,566 n/a n/a n/a 33 0.6% n/a
1992年12月期 連結 5,771 +3.7% n/a n/a 31 0.6% n/a
1993年12月期 連結 6,017 +4.3% n/a n/a 34 0.6% n/a
1994年12月期 連結 6,639 +10.3% n/a n/a 32 0.5% n/a
1995年12月期 連結 6,626 ▲0.2% n/a n/a 24 0.4% n/a
1996年12月期 連結 6,655 +0.4% n/a n/a 38 0.6% n/a
1997年12月期 連結 6,589 ▲1.0% n/a n/a ▲245 ▲3.7% n/a
1998年12月期 連結 6,057 ▲8.1% n/a n/a ▲111 ▲1.8% n/a
1999年12月期 連結 5,729 ▲5.4% n/a n/a 44 0.8% n/a
2000年12月期 連結 5,640 ▲1.6% n/a n/a 13 0.2% n/a
2001年12月期 連結 5,572 ▲1.2% n/a 95 43 0.8% n/a
2002年12月期 連結 5,117 ▲8.2% n/a 24 11 0.2% n/a

出所:会社年鑑、有価証券報告書

出典・参考

11件
出典・参考
  • サッポロビール「平成14年12月期決算短信補足説明資料」(2003年2月)
  • サッポロビール 会社年鑑(1986年版・単体業績)
  • 東邦経済 1976年5月号「対談 ビール創製一〇〇年 経営基盤が固まり明日の発展をめざすサッポロビール」
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
  • 日経ビジネス 1990年2月12日号
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
  • 日経産業新聞(1994年6月7日)
  • 日本経済新聞(1994年9月9日)

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