第1章 年〜年

寿スピリッツ:米子での寿製菓の設立と旗ヶ崎への工場移転

1952年〜米子市角盤町のキャラメル工場と、全焼のあと移った旗ヶ崎

河越庄市氏は1952年4月、鳥取県米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立し、飴菓子の製造を始めた。製品はキャラメルやドロップ、出荷先は山陰の各地。河越庄市氏は1946年3月に台湾から兵庫県温泉町へ復員し、勤め先の消費組合は肥料の不正な取引で8万3000円の負債を負った。その返済交渉で大阪へ通う途中、河越庄市氏はアメ売りの女性に製法を請い、1週間で習い覚えた。1946年10月に鳥取県東伯町でイモアメの工場をつくり、翌1947年には温泉町で粟おこしを製造して大阪へ出荷した。やがて体調の悪化と使い込みで大阪の店を閉じ、療養のため移った鳥取県北條町でアメ類の製造に取りかかった。米子での法人設立は、北條町で続けたアメづくりを会社の組織に移したものとみられる。

  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [1]1952年4月 鳥取県米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立し飴菓子等の製造を開始
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [2]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [3]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [4]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [5]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [6]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷

河越庄市氏は1954年、歩道を歩いていて建物の4階から落下した材木を頭に受け、5日間にわたって意識を失った。米子市角盤町で寿製菓を設立してから、2年後の事故にあたる。河越庄市氏は後年、意識のない間に雲の上で生と死の分かれ道に立つ夢を見たと回想した。その夢の中でそれまでの人生を省み、まだ何も成し遂げていないと思い至ったという。そのうえで『もう一回生き返って、世の中の役に立ちたい』と願い、うわ言で生きたいと繰り返したと振り返った。この出来事は、河越庄市氏にとって貴重な臨死の体験となった。この臨死の体験で抱いた人の役に立つという願いは、12年後の危機を経て経営理念の下地になったと推察される。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [7]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [9]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [10]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [11]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [12]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [8]1952年4月 米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立

寿製菓は1957年1月、米子市旗ヶ崎に工場を新築し、角盤町から移転した。角盤町で設立してから5年に満たない時期の移転である。有価証券報告書の沿革は、業容の拡大で工場が狭くなったことを移転の理由として記載した。一方で河越庄市氏の回想では、1956年に工場から火が出て全焼したことが移転のきっかけだった。材木の事故から2年で重なったこの火災は、河越庄市氏にとって続けざまの災難となった。旗ヶ崎は1992年の時点でも寿製菓の本社の所在地であり、住所は米子市旗ヶ崎2028だった。手狭になった工場を火災で失ったことが、新しい工場を建てる判断を早めたと考えられる。

  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [13]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
    • [14]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
    • [15]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [16]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028
    • [17]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028
    • [18]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028
参考文献[1]-[18]
  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [1]1952年4月 鳥取県米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立し飴菓子等の製造を開始
    • [8]1952年4月 米子市角盤町に寿製菓株式会社を設立
    • [13]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
    • [14]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
    • [15]1957年1月 業容の拡大により工場が狭小となり米子市旗ヶ崎に新築移転
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [2]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [3]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [4]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [5]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [6]1946年3月台湾から温泉町へ復員、消費組合の負債8万3000円、アメの製法を1週間で習得、1946年10月東伯町でイモアメ工場、1947年粟おこし、大阪の店を閉じ北條町でアメ類製造、1952年4月角盤町に寿製菓設立しキャラメル・ドロップを山陰へ出荷
    • [7]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [9]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [10]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [11]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [12]1954年、4階から落ちた材木が頭に当たり5日間人事不省。夢の中で人生を振り返り、生き返って世の中の役に立ちたいと願ったと回想
    • [16]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028
    • [17]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028
    • [18]1956年(昭和31年)に工場から出火し全焼、旗ヶ崎へ工場を移転。1992年時点の本社は米子市旗ヶ崎2028

1957年〜北陸の旅で思い立った大社の白アメと、土産品一本への切り替え

寿製菓は1959年、最初の観光土産品として「大社の白アメ」を発売した。1956年の火災のころから人々の暮らしにゆとりが生まれ、観光旅行が少しずつ増えていた。河越庄市氏は自ら北陸の観光地を訪ね、『私も北陸の観光地に行ったりしたんですが、お土産といっても大したものがないんですね』と感じたと振り返った。河越庄市氏はかねて土産品としての菓子に関心を持っており、この見聞を機に土産菓子への参入を決めた。後に社長となった河越晴浩氏も1994年の講演で、かつての土産は品質そのものが低く、名物に旨い物無しと言われたと述べた。旅行者が増えるのに土産菓子の品質が伴わない点に、河越庄市氏は参入の余地を見たと思われる。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [19]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [20]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [21]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [22]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [23]河越晴浩社長が1994年11月の講演で、昔は土産の質自体がよくなかったと説明

寿製菓は1963年、製品のすべてを観光土産品に切り替えた。その前段として、1960年に白アメに続く「木の実ようかん」を発売し、土産菓子へ本格的に参入した。最初の土産菓子の発売から4年での全面的な切り替え。この事業の形は30年後にも続き、寿製菓は1994年時点で観光土産用の菓子の製造販売を事業の目的とした。菓子の販売地域は、1994年時点で北海道から沖縄県までの全国にわたる。販路は観光地やテーマパークの売店、ホテルや旅館、駅や高速道路のサービスエリアなど交通施設の3経路を基本とした。一本化の理由を記した資料は見当たらず、2品の売れ行きに手応えを得て土産菓子に経営資源を集中したのだろう。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [24]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
    • [25]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
    • [26]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [27]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本
    • [28]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本
    • [29]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本
参考文献[19]-[29]
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [19]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [20]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [21]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [22]1959年 観光土産品第1号「大社の白アメ」を発売。観光旅行が増え始め、北陸の観光地の土産に大したものが無いと感じたと河越庄市が回想
    • [24]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
    • [25]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
    • [26]1960年「木の実ようかん」発売で本格進出、1963年に完全に土産品一本に切り替え
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [23]河越晴浩社長が1994年11月の講演で、昔は土産の質自体がよくなかったと説明
    • [27]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本
    • [28]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本
    • [29]1994年時点で観光土産用菓子の製造販売を事業目的とし、小売は観光地・テーマパーク、ホテル・旅館、交通機関施設の3経路が基本

1964年〜公正取引協議会につながった自主規制の訴えと、つるし柿の返品3600万円

河越庄市氏は土産品一本に切り替えた後、同業者に表示の自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につなげた。観光の広がりとともに、外観を大きく見せて中身を少なくした「あげ底」などの土産品が出回り、公正取引委員会の排除命令も出た。河越庄市氏は10社ほどの同志と全国の業者に呼びかけ、東京の会場で自主規制の必要を説いた。集まった300人の業者からは、同業者が口を出すなという反発が相次いだ。河越庄市氏が拠り所とした消費者の利益という視点は、当時の業界では少数派だった。寿製菓は1964年から土産店で試食販売を始め、客に味を確かめてから購入してもらう方式を採った。表示の是正と試食販売は、中身で選ばれる土産菓子をめざす同じ考えから生まれたと解される。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [30]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [31]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [32]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [33]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [34]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [35]1964年(昭和39年)から土産店での試食販売を開始し、試食して納得してから購入してもらう方式

寿製菓は1966年、生産を大きく増やした主力商品「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり、大量の返品を抱えた。返品の引き取りには3600万円が必要で、引き取れば会社の存続が危うい額だった。河越庄市氏は、それまでの災難と違い、この事態は欲に駆られた増産の結果だと受け止めた。そのうえで『引き取らなかったらお客さんに迷惑がかかる』と考え、会社がつぶれても引き取ると決めた。銀行は寿製菓に3000万円を融資し、寿製菓は事業を立て直した。寿製菓はのちに冷凍による保存技術を開発し、繁忙期と閑散期の生産を冷凍保管で平準化。季節で売れ行きが振れる土産菓子の生産を需要に合わせる仕組みは、この返品の経験を踏まえて整えられた面があるとみてよい。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [36]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [37]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [38]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [39]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [40]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [41]冷凍による保存技術を開発し、オフシーズンとオンシーズンの生産の平均化に冷凍保管を活用(1994年時点の説明)

河越庄市氏はつるし柿の危機を経て『やっぱり人の役に立つものをつくらなければ、会社は成り立たない』と悟った。この考えを込めたのが、寿製菓の経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」である。寿製菓の土産菓子は、土地ごとの特色を菓子に映し、その土地の外では販売しない方針を取った。河越庄市氏は、菓子の「菓」の字の原点である果物に立ち返る方針を掲げた。原料には各地の果物を用いる考えで、例に鳥取のナシや岡山のモモを挙げた。1994年時点では、各地の特産品を米子の工場で原料に加工し、その産地の地域だけで販売していた。各地には全額出資の現地法人を置き、鳥取と島根以外では別の銘柄を掲げた。寿製菓は1972年4月、石川県加賀市に株式会社北陸寿を設立した。

  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [42]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [43]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [44]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [45]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [46]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [47]1994年時点、特産品を米子の工場で加工し産地の地域だけで販売。各地に100%子会社の現地法人を設立し、鳥取・島根以外は他社ブランドで販売
    • [48]1994年時点、特産品を米子の工場で加工し産地の地域だけで販売。各地に100%子会社の現地法人を設立し、鳥取・島根以外は他社ブランドで販売
  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [49]1972年4月 石川県加賀市に株式会社コトブキ(旧 株式会社北陸寿)を設立
参考文献[30]-[49]
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」
    • [30]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [31]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [32]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [33]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [34]粗悪な土産品に公取委の排除命令。河越庄市が十社ほどの同志と全国に呼びかけ、東京の会場で300人の業者から非難を受けつつ自主規制を訴え、公正取引協議会の結成につながった
    • [36]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [37]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [38]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [39]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [40]1966年、大増産した「つるし柿」が5月の連休を境に売れなくなり返品。引き取りに3600万円が必要で、河越庄市は引き取りを決断し、銀行が3000万円を融資
    • [42]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [43]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [44]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [45]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
    • [46]つるし柿の危機で「人の役に立つものをつくらなければ会社は成り立たない」と悟り、経営理念「喜びを創り、喜びを提供する」に表現。地域の特色を菓子で表し地域外では販売しない方針。果物を原料とする「果子」づくり
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
    • [35]1964年(昭和39年)から土産店での試食販売を開始し、試食して納得してから購入してもらう方式
    • [41]冷凍による保存技術を開発し、オフシーズンとオンシーズンの生産の平均化に冷凍保管を活用(1994年時点の説明)
    • [47]1994年時点、特産品を米子の工場で加工し産地の地域だけで販売。各地に100%子会社の現地法人を設立し、鳥取・島根以外は他社ブランドで販売
    • [48]1994年時点、特産品を米子の工場で加工し産地の地域だけで販売。各地に100%子会社の現地法人を設立し、鳥取・島根以外は他社ブランドで販売
  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
    • [49]1972年4月 石川県加賀市に株式会社コトブキ(旧 株式会社北陸寿)を設立

出典・参考

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出典・参考
  • 寿スピリッツ 有価証券報告書 沿革
  • 証券アナリストジャーナル 32(12) 1994年 河越晴浩
  • 石垣 11(11) 1992年「創業者ストーリー――寿製菓(株)社長河越庄市」

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