第1章 年〜年

戸田建設:初代戸田利兵衛の赤坂での創業と日英博覧会工事の受注

1881年〜赤坂溜池で兄と始めた戸田方と、京橋大鋸町での再起

初代戸田利兵衛氏は1881年1月、東京・赤坂で「戸田方」の名を掲げ、土木建築の請負を個人で始めた。生まれは1852年12月、京都で御所の普請にも出入りした工匠の家の四男。幕末の騒ぎで御所も町家も普請を控え、戸田家の家業は衰えきり、初代戸田利兵衛氏は宮大工の家に住み込んで腕を磨いた。明治9年に上京すると、兄の戸田確二氏の口利きで鹿島組に入り、請負工事の現場を踏んだと伝わる。兄の家に寄宿を続けることを心苦しく思い、赤坂溜池の近くに住まいを定めて、三兄の戸田常吉氏と請負を始めた。遷都のあと新しい都市づくりで景気が上向くという東京の評判が、京都を離れて独立する決め手になったとみられる。

  • 証券 1969年5月号
    • [1]1881年(明治14年)1月、戸田利兵衛が個人で土木建築請負「戸田方」を創業
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [2]嘉永5年12月28日、京都で御所にも出入りした工匠の家に戸田宇兵衛の四男として生まれた
    • [3]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた
    • [4]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた
    • [5]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた

赤坂溜池で始めた請負は、三兄の不始末と近所からのもらい火が重なり、倒産で終わった。明治14年1月の創業から数えれば、東京での最初の足場は10年ほどで崩れたことになる。明治25年、41歳の初代戸田利兵衛氏は北海道へ渡ったものの、ここでも事業は立ち直らなかった。転機は明治27年の日清戦争で、軍の御用を務める大倉組の軍夫募集に応じ、50人組の組長に抜擢された。翌明治28年、大倉組が受注した陸軍の新発田兵舎の急造工事で肝いりに選ばれ、続く村上町の陸軍工事でも短い工期で完成させた。2件とも黒字で仕上げて思いがけない額の恩賞を受け、新発田の豪商の娘を妻に迎えて一家を構えた。職人を率いて工期を守る腕が、大倉組という大手の目に留まったことが再起の元手になったのだろう。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [6]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [8]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [9]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [10]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [11]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
  • 証券 1969年5月号
    • [7]戸田方の創業は明治14年1月

初代戸田利兵衛氏は明治30年の暮れ、46歳で東京へ戻り、京橋区大鋸町14番地に事務所と住まいを兼ねた店を構えた。手元に仕事は無く、およそ2年半は新発田で得た恩賞金を取り崩して暮らした。流れを変えたのは、法曹界の第一人者とされた梅謙次郎氏から請け負った邸宅の新築で、上京から2年半ほどが過ぎた時期にあたる。京都で身につけた技を注いだ仕上がりは、施主と落成の園遊会の来客を驚かせたと伝わる。梅謙次郎氏の推薦で会計検査院長の花房道三氏の邸宅を建て、陸軍の施設や東京帝国大学医学部産婦人科の講義室も続けて受注した。名士の邸宅1件の出来が次の施主を呼び、戸田方の得意先は口伝てで広がった。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [12]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [13]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [14]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [15]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [16]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
参考文献[1]-[16]
  • 証券 1969年5月号
    • [1]1881年(明治14年)1月、戸田利兵衛が個人で土木建築請負「戸田方」を創業
    • [7]戸田方の創業は明治14年1月
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [2]嘉永5年12月28日、京都で御所にも出入りした工匠の家に戸田宇兵衛の四男として生まれた
    • [3]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた
    • [4]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた
    • [5]家業衰微で宮大工秋井家で修業、明治9年に上京し兄確二の紹介で鹿島組に入り、のち赤坂溜池付近で三兄常吉と請負業を始めた
    • [6]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [8]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [9]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [10]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [11]赤坂溜池の請負は三兄の不始末と近所の出火による類焼で倒産。明治25年41歳で北海道へ渡るも不振。明治27年日清戦争で大倉組の軍夫募集に応じ50人組の組長。明治28年新発田兵舎急造工事、村上町陸軍工事の肝いりを務め、黒字で完成し恩賞を得て、新発田の大矢家の娘まつ子を娶った
    • [12]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [13]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [14]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [15]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注
    • [16]明治30年暮れ46歳で上京し京橋区大鋸町14番地に事務所兼住居。約2年半恩賞金で居食い。梅謙次郎博士邸を完成させ評判を得、梅博士の推薦で花房道三邸、陸軍施設、東京帝大医学部産婦人科講義室を受注

1908年〜戸田方から改めた戸田組と、ロンドン日英博覧会の日本出品館

戸田方の地盤は梅謙次郎氏の邸宅を足がかりにゆっくりと固まり、明治40年代に入ると屋号を「戸田組」へ変更。はったりで仕事を取る請負人が少なくなかった時代に、初代戸田利兵衛氏は慎重で誠実な仕事ぶりで知られ、その人柄を慕って腕の立つ幹部が集まっていた。個人の屋号から組の名への切り替えは、初代戸田利兵衛氏の声望が一段と高まった時期に重なる。横河工務所や曾禰中條建築事務所といった第一線の設計事務所も、戸田組の堅実な経営と施工の精度、責任感の強さを評価していた。こうした設計者の信頼が、後世に残る大建築の受注を戸田組にもたらした。工事の規模が一人の棟梁の目の届く範囲を超えたことが、幹部に現場を分けて任せる仕組みを要したと考えられる。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [17]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [18]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [19]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [20]横河工務所・曽祢中条建築事務所など設計界の第一人者から、堅実な経営態度・精度の高い施工技術・責任感の強い誠実さを認められ、後世に残る名建築を受注できた
    • [21]横河工務所・曽祢中条建築事務所など設計界の第一人者から、堅実な経営態度・精度の高い施工技術・責任感の強い誠実さを認められ、後世に残る名建築を受注できた

戸田組は、1910年にロンドンで開かれた日英博覧会の工事を受注し、日本出品館をはじめ複数の建物を現地で手がけた。初代戸田利兵衛氏は日本から下請けの職人を連れて渡り、下谷生まれの経師職が名人芸といわれた腕を振るった。博覧会のあとも現地に残る仕事を受け、横浜正金銀行ロンドン支店の改築や、英国王室のコンノート殿下の求めによる数寄屋造りの茶室を建てた。工事は好評を得て、一行は日本へ引き揚げた。海外の工事を組員ぐるみで請け、会期に間に合わせた経験は、のちに戸田組が博覧会の仕事を重ねて受ける土台になった。受注の経緯は手元の資料に無く、どこから声がかかったのかは確かめられない。

  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
    • [22]戸田組は明治42〜43年の日英大博覧会に際し、ロンドンで日本出品館その他の工事を実施した
    • [26]日英大博覧会でロンドンにて日本出品館その他の実施経験を積み、比較的好評を得ていた
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [23]先代がロンドン博覧会に下請けの経師職木下(下谷生まれ・名人芸)を日本から連れていき、博覧会後に横浜正金銀行ロンドン支店改築、コンノート殿下の数寄屋造り茶室を建造
    • [24]先代がロンドン博覧会に下請けの経師職木下(下谷生まれ・名人芸)を日本から連れていき、博覧会後に横浜正金銀行ロンドン支店改築、コンノート殿下の数寄屋造り茶室を建造
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
    • [25]日英博覧会の工事でロンドンまで進出して好評を博して帰った(1913年時点の中條精一郎の説明)

大正の初めごろ、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の工事には、経験の無い業者までが名誉や一獲千金を狙って群がっていた。その中で戸田組は、曾禰中條建築事務所が設計した慶應義塾大学創立50周年記念図書館の工事を任された。戸田組は1913年までにこの図書館を竣工させ、同じ年には日本橋のたもとで村井銀行本店の工事を施工している最中だった。第一線の建築家が設計監督する建物を続けて任されたことは、大工から身を起こした請負業者にとって技術を学ぶ場にもなった。木造の宮大工の系譜にありながら、構造の転換期に一流事務所の仕事を重ねたことが、戸田組の信用を一段引き上げたと推察される。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [27]大正初年、鉄骨・鉄筋コンクリート工事を全然やったことのない業者が、名誉心や一獲千金をねらってそうした仕事に飛びついた
    • [28]曽祢中条建築事務所設計の慶応義塾大学創立50周年記念図書館を受注。高名な設計者の設計監督による工事で、一工事一工事が学習の対象だった
    • [30]曽祢中条建築事務所設計の慶応義塾大学創立50周年記念図書館を受注。高名な設計者の設計監督による工事で、一工事一工事が学習の対象だった
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
    • [29]曾禰中條事務所設計の慶應義塾記念図書館を戸田組が最近竣工し、日本橋畔で村井銀行本店を請負施工中(1913年当時)
参考文献[17]-[30]
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [17]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [18]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [19]慎重誠実な人柄を慕って腕のいい幹部が集まり、明治40年代に声望が高まって戸田方の名称を戸田組に改めた
    • [20]横河工務所・曽祢中条建築事務所など設計界の第一人者から、堅実な経営態度・精度の高い施工技術・責任感の強い誠実さを認められ、後世に残る名建築を受注できた
    • [21]横河工務所・曽祢中条建築事務所など設計界の第一人者から、堅実な経営態度・精度の高い施工技術・責任感の強い誠実さを認められ、後世に残る名建築を受注できた
    • [23]先代がロンドン博覧会に下請けの経師職木下(下谷生まれ・名人芸)を日本から連れていき、博覧会後に横浜正金銀行ロンドン支店改築、コンノート殿下の数寄屋造り茶室を建造
    • [24]先代がロンドン博覧会に下請けの経師職木下(下谷生まれ・名人芸)を日本から連れていき、博覧会後に横浜正金銀行ロンドン支店改築、コンノート殿下の数寄屋造り茶室を建造
    • [27]大正初年、鉄骨・鉄筋コンクリート工事を全然やったことのない業者が、名誉心や一獲千金をねらってそうした仕事に飛びついた
    • [28]曽祢中条建築事務所設計の慶応義塾大学創立50周年記念図書館を受注。高名な設計者の設計監督による工事で、一工事一工事が学習の対象だった
    • [30]曽祢中条建築事務所設計の慶応義塾大学創立50周年記念図書館を受注。高名な設計者の設計監督による工事で、一工事一工事が学習の対象だった
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
    • [22]戸田組は明治42〜43年の日英大博覧会に際し、ロンドンで日本出品館その他の工事を実施した
    • [26]日英大博覧会でロンドンにて日本出品館その他の実施経験を積み、比較的好評を得ていた
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
    • [25]日英博覧会の工事でロンドンまで進出して好評を博して帰った(1913年時点の中條精一郎の説明)
    • [29]曾禰中條事務所設計の慶應義塾記念図書館を戸田組が最近竣工し、日本橋畔で村井銀行本店を請負施工中(1913年当時)

1913年〜中條精一郎氏が引き合わせた養子の富田繁秋氏と、大正博覧会の施設8割

初代戸田利兵衛氏には跡を継ぐ子が無く、後継ぎの不在が長く悩みの種になっていた。中條精一郎氏が白羽の矢を立てたのは東京帝大建築学科を出た富田繁秋氏で、在学中に戸田家への養子を打診した。富田繁秋氏は請負業を志して大倉土木への入社を決め、1913年9月ごろ月給50円で採用が決まった。そこへ早大建築学科を出て戸田組に勤める友人の渡辺清氏が、中條精一郎氏と初代戸田利兵衛氏の頼みで下宿へ通い、説得を重ねた。迷った富田繁秋氏は郷里の先輩である飯村丈三郎氏に諾否を委ね、賛成を得て腹を決めた。1913年12月28日、富田繁秋氏は駒込神明町の戸田家に入り、中條精一郎氏夫妻の媒酌で親子の杯を交わした。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [31]養父は若い時から苦労続きで後継ぎがなく、繁秋を養子とすることでその悩みが解消した
    • [32]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
    • [34]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
    • [36]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
    • [33]請負業を志し大倉土木に就職運動、約2カ月半を経て9月中旬ごろ月給50円で採用。飯村丈三郎に判断を仰ぎ賛成された
    • [35]請負業を志し大倉土木に就職運動、約2カ月半を経て9月中旬ごろ月給50円で採用。飯村丈三郎に判断を仰ぎ賛成された

富田繁秋氏を迎えた戸田組は1914年、東京・上野の大正博覧会で施設全体の8割方を受注した。請け負ったのは事務局、農業館、染織館、朝鮮総督府出品陳列館を含む大小13件で、工期はわずか3カ月である。初代戸田利兵衛氏は工事ごとに代人を割り振って互いに競わせ、最後の3日間は全員が徹夜して開会に間に合わせた。続いてサンフランシスコのパナマ太平洋万国博覧会で、農商務省から日本出品陳列館の工事が特命で持ち込まれた。戸田組が選に入ったのは、日英博覧会での日本出品館の経験と大正博覧会の実績が評価されたためだった。渡米したのは富田繁秋氏と渡辺清氏に代人や大工、植木職を加えた12人。日本出品館は1915年4月の開幕に余裕を残して仕上がり、富田繁秋氏は戸田組の代表として英文の褒状を受けた。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [37]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
    • [38]工事ごとに代人を分担させ競争意識を持たせた
    • [39]工事ごとに代人を分担させ競争意識を持たせた
    • [42]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
    • [43]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
    • [40]パナマ万国博覧会の日本出品陳列館工事の話が農商務省から持ち込まれ、日英大博覧会・大正博覧会の実施経験と好評から選に入った
    • [41]パナマ万国博覧会の日本出品陳列館工事の話が農商務省から持ち込まれ、日英大博覧会・大正博覧会の実施経験と好評から選に入った

富田繁秋氏は米国から戻った翌年の1916年11月に結婚し、1917年1月には養父の初代戸田利兵衛氏から店の切り盛りをすべて託された。これを機に本郷神明町の養父の家を出て、京橋・大鋸町通りの店に住まいを移した。受け継いだ時期の戸田組が施工していたのは、丸の内の三菱が原に建つ東京海上ビルの躯体工事や内務大臣官邸、日本基督教青年会館である。もっとも、パナマから戻ったころの国内は不況で、新しく着工できた現場は東京海上ビルと村井吉兵衛氏の本邸くらいだった。仮設の博覧会建築で「博覧会屋」と呼ばれた組は、恒久の大建築へ仕事の主力を移した。初代戸田利兵衛氏は60代半ばで、大学出の技術者に経営を託して次の代へ備えたのだろう。

  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [44]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [45]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [46]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [48]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
    • [47]米国から帰った後の国内は極めて不況で、戸田組の新規着工の現場は東京海上ビル工事や村井吉兵衛氏本邸工事くらいだった
参考文献[31]-[48]
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)
    • [31]養父は若い時から苦労続きで後継ぎがなく、繁秋を養子とすることでその悩みが解消した
    • [32]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
    • [34]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
    • [36]中条精一郎から在学中に養子を勧められ、渡辺清が中条と先代の依頼で説得。大正2年12月28日駒込神明町の戸田家に入り中条夫妻の媒酌で固めの杯
    • [37]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
    • [38]工事ごとに代人を分担させ競争意識を持たせた
    • [39]工事ごとに代人を分担させ競争意識を持たせた
    • [42]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
    • [43]大正博覧会(上野不忍池畔)の施設を全体の8割方受注。事務局・農業館・染織館・朝鮮総督府出品陳列館ほか大小13件、工期3カ月、最後の3日は全員徹夜。パナマ太平洋万国博覧会の日本出品陳列館を特命受注、渡米は12人。1915年4月の開幕に余裕を残して竣工し、戸田組代表として英文の褒状を授与された
    • [44]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [45]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [46]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
    • [48]大正5年11月熊谷千勢子と結婚、6年1月先代から店の経営いっさいを任され京橋・大鋸町通りの店に住む。承業当時、東京海上ビルの躯体工事、内務大臣官邸、日本基督教青年会館などを施工。戸田組は博覧会屋と呼ばれた
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
    • [33]請負業を志し大倉土木に就職運動、約2カ月半を経て9月中旬ごろ月給50円で採用。飯村丈三郎に判断を仰ぎ賛成された
    • [35]請負業を志し大倉土木に就職運動、約2カ月半を経て9月中旬ごろ月給50円で採用。飯村丈三郎に判断を仰ぎ賛成された
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
    • [40]パナマ万国博覧会の日本出品陳列館工事の話が農商務省から持ち込まれ、日英大博覧会・大正博覧会の実施経験と好評から選に入った
    • [41]パナマ万国博覧会の日本出品陳列館工事の話が農商務省から持ち込まれ、日英大博覧会・大正博覧会の実施経験と好評から選に入った
    • [47]米国から帰った後の国内は極めて不況で、戸田組の新規着工の現場は東京海上ビル工事や村井吉兵衛氏本邸工事くらいだった

出典・参考

4件
出典・参考
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(3)」戸田利兵衛
  • 全建ジャーナル 1962年「<回顧録>思い出づるまま(2)」戸田利兵衛
  • 証券 1969年5月号
  • 私の履歴書 経済人20「戸田利兵衛」(1986年刊・日本経済新聞 1981年2月連載)

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