YKK:米国製自動機の導入と黒部工場による一貫生産
1949年〜資本金の60倍を投じた自動植え付け機
吉田氏が売値として示したのは、5ミリ10インチのファスナー1本につき9セントだった。相手は戦後、GHQの仲介を受けて魚津へ来た米国人バイヤーである。バイヤーは米国製の1本を取り出し、この品なら7セント40で売ってもよいと返した。見せられた品は、機能でもデザインでも数段上だった。当時の日本は金属材料からムシを抜き、手でテープに植え付ける方式のままで、米国はムシの製造も植え付けも機械が担っていた。性能が高く不良の少ない製品が、安い原価で流れ出ていた。吉田氏は後年、このときの衝撃を『体中から冷や汗がどっと噴き出した』(日本経済新聞 1977/8)とふり返った。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [1]吉田工業は5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売ろうとした
- [2]GHQのあっせんで米国人バイヤーが訪れた
- [3]米国製は1本7セント40で提示された
- [4]提示された米国製は機能もデザインも数段上の品物だった
- [5]当時の日本はムシを手でテープに植え付けていた
- [6]米国では性能が高く不良の少ない製品が安いコストで生産されていた
吉田氏がファスナー業者の組合で初代理事長を務めたのは、1948年1月の発足のときからである。機械は米国から買うしかないと見た同氏は、まず同業者と組んで輸入しようと呼びかけ、会合があるたびに手植え方式では先がないと訴えて、共同出資で会社をつくり機械を導入する案を出した。しかし需要に供給が追いつかない当時の業界では、日本人は手先が器用だから今のやり方で足りるという考えが大勢を占め、賛成する者は一人もいないまま構想は立ち消えになった。単独で進めると腹を決めた吉田氏は通商産業省と経済安定本部へ日参を続け、1949年12月にようやく米国製の高速自動植え付け機4台について輸入の許可を取りつけた。通い始めてから2年半がたっていた。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [7]吉田忠雄が組合の初代理事長に就任した
- [8]1948年1月にファスナー業者の組合が発足した
- [9]吉田忠雄は同業者に機械の共同輸入を持ちかけた
- [10]当時のファスナー業界は供給が需要に追いつかない状態だった
- [11]共同輸入の提案に賛成者は一人も出なかった
- [12]1949年12月に米国製高速自動植え付け機4台の輸入許可を得た
- [13]許可取得までに役所へ通い始めてから2年半を要した
機械の代金は3万5,000ドル、日本円で1,260万円だった。資金調整法で抑えられていた当時の資本金は19万8,000円で、買い物はその60倍を超えた。うち1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れ、これが同行外国部の輸入融資第一号になった。1950年7月に届いた米イージー社製のチェーンマシーンは、国産機の300回転に対して1,200回転で動き、打ち抜きの材料くずもほとんど出さなかった。吉田氏は同じ機械を100台そろえようと考え、池貝鉄工や大隈鉄工所に当たったうえで日立精機に発注する。1台12万円の総額1,200万円を三回に分けて払い、最後の納入は1953年7月だった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [14]機械代金は3万5,000ドル・1,260万円だった
- [15]当時の資本金は19万8,000円で機械代金はその60倍を超えた
- [16]1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れた
- [17]この融資は興銀外国部の輸入融資第一号だった
- [18]1950年7月に米イージー社製チェーンマシーンが到着した
- [19]国産機300回転に対しイージー社製は1,200回転で動いた
- [20]チェーンマシーン100台の製作を日立精機に発注した
- [21]国産機は1台12万円・総額1,200万円だった
- [22]最後の納入は1953年7月だった
参考文献[1]-[22]
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [1]吉田工業は5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで売ろうとした
- [2]GHQのあっせんで米国人バイヤーが訪れた
- [3]米国製は1本7セント40で提示された
- [4]提示された米国製は機能もデザインも数段上の品物だった
- [5]当時の日本はムシを手でテープに植え付けていた
- [6]米国では性能が高く不良の少ない製品が安いコストで生産されていた
- [7]吉田忠雄が組合の初代理事長に就任した
- [8]1948年1月にファスナー業者の組合が発足した
- [9]吉田忠雄は同業者に機械の共同輸入を持ちかけた
- [10]当時のファスナー業界は供給が需要に追いつかない状態だった
- [11]共同輸入の提案に賛成者は一人も出なかった
- [12]1949年12月に米国製高速自動植え付け機4台の輸入許可を得た
- [13]許可取得までに役所へ通い始めてから2年半を要した
- [14]機械代金は3万5,000ドル・1,260万円だった
- [15]当時の資本金は19万8,000円で機械代金はその60倍を超えた
- [16]1,200万円を日本興業銀行富山支店から借り入れた
- [17]この融資は興銀外国部の輸入融資第一号だった
- [18]1950年7月に米イージー社製チェーンマシーンが到着した
- [19]国産機300回転に対しイージー社製は1,200回転で動いた
- [20]チェーンマシーン100台の製作を日立精機に発注した
- [21]国産機は1台12万円・総額1,200万円だった
- [22]最後の納入は1953年7月だった
1954年〜原料から製品までを自社の中に収めた
1954年、創業20周年を機に吉田氏は米英加とヨーロッパ各国を回った。関心の一つは直接部門と間接部門の人員比率にあった。訪ねた米国のファスナー会社では、社員50人なら事務員は5人、100人から200人の会社でも10人から20人で、間接人員はおおむね1割に収まっていた。当時の日本の一流機械メーカーに尋ねると4割、工場の非直接要員まで数えれば5割との答えが返ってきた。吉田工業は当時11%ほどで、現場の社員を10人採らない限り事務所の社員は1人も採らないという建前を通していた。視察で得たものはほかに二つあり、デトロイトの自動車工場で見た流れ作業と、西ドイツやスイスの精密機械工場で見た工場内の空気調節だった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [23]1954年に創業20周年を機に海外視察へ出た
- [24]視察の関心の一つは直接人員と間接人員の比率にあった
- [25]米国のファスナー会社は社員50人なら事務員5人だった
- [26]米国の間接人員比率はおおむね1割だった
- [27]日本の一流機械メーカーの間接人員比率は4割との回答だった
- [28]吉田工業の間接人員比率は当時11%程度だった
- [29]現場社員を10人採らない限り事務所の社員を採らない方針を通した
- [30]デトロイトの自動車工場で流れ作業を見た
- [31]西ドイツやスイスの精密機械工場で工場内の空気調節を見た
消費者がファスナーを手にするのはその一回きりの出合いだ、というのが吉田氏の考えだった。一本でも不良が混じれば、製品すべてが駄目だと受け取られるからである。視察を踏まえて第二次五カ年計画がまとめられ、自動化で能率を高めることと、"原料から製品まで"を一貫して手がけることが柱とされた。その中で、ファスナーテープ用の紡績工場を建てるかどうかについては社内で賛否が分かれた。だから原材料は自社で作るのが当然であった。社内はまとまったが、外からは反対が出た。銀行は『モチはモチ屋に任せるのがよい』と唱え、紡績工場を持ちたがったタイヤメーカーが皆失敗した例を挙げた。吉田氏は審査部長と二時間論争しても譲らなかった。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [32]吉田忠雄は消費者とファスナーの出合いは一回きりだと説いた
- [33]第二次五カ年計画は自動化と一貫生産を狙いとした
- [34]一貫生産の狙いは原料から製品までを自社で作ることにあった
- [35]紡績工場の建設をめぐって社内で議論が沸き返った
- [36]社内の意向は一本にまとまったが外部からは反対が出た
- [37]吉田忠雄は銀行の審査部長と二時間論争しても譲らなかった
朝鮮戦争のあと銅が急騰したため、吉田氏は再びアルミに目を向けた。重さは銅の三分の一で済み、原価も下がる。ただアルミメーカーから買うと6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円かかり、品質にもむらがあった。そこで日立製作所に建設を頼み、溶解や鋳造、加熱圧延を一年かけて共同研究し、さらに一年半を自社で重ねた。溶解炉と圧延・伸線の工場には2億円から3億円を投じ、トンあたり27万円を目標に置く。実際には25万円、次いで23万円まで下がった。1958年から量産に入り、アルミ合金の大量生産は国内で初めてだった。銀行はここでも乗り気ではなかったが、投じた費用は一年で回収された。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [38]朝鮮戦争後の銅の急騰がアルミ転換の理由になった
- [39]アルミの重さは銅の三分の一で済む
- [40]購入価格は6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円だった
- [41]アルミ合金工場の建設を日立製作所に依頼した
- [42]溶解炉と圧延・伸線工場に2億円から3億円を投じた
- [43]原価はトンあたり25万円さらに23万円まで下がった
- [44]1958年からアルミ合金の量産に入り国内初だった
- [45]アルミ合金への投資は一年で回収された
参考文献[23]-[45]
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [23]1954年に創業20周年を機に海外視察へ出た
- [24]視察の関心の一つは直接人員と間接人員の比率にあった
- [25]米国のファスナー会社は社員50人なら事務員5人だった
- [26]米国の間接人員比率はおおむね1割だった
- [27]日本の一流機械メーカーの間接人員比率は4割との回答だった
- [28]吉田工業の間接人員比率は当時11%程度だった
- [29]現場社員を10人採らない限り事務所の社員を採らない方針を通した
- [30]デトロイトの自動車工場で流れ作業を見た
- [31]西ドイツやスイスの精密機械工場で工場内の空気調節を見た
- [32]吉田忠雄は消費者とファスナーの出合いは一回きりだと説いた
- [33]第二次五カ年計画は自動化と一貫生産を狙いとした
- [34]一貫生産の狙いは原料から製品までを自社で作ることにあった
- [35]紡績工場の建設をめぐって社内で議論が沸き返った
- [36]社内の意向は一本にまとまったが外部からは反対が出た
- [37]吉田忠雄は銀行の審査部長と二時間論争しても譲らなかった
- [38]朝鮮戦争後の銅の急騰がアルミ転換の理由になった
- [39]アルミの重さは銅の三分の一で済む
- [40]購入価格は6ミリ丸でトンあたり44万円から46万円だった
- [41]アルミ合金工場の建設を日立製作所に依頼した
- [42]溶解炉と圧延・伸線工場に2億円から3億円を投じた
- [43]原価はトンあたり25万円さらに23万円まで下がった
- [44]1958年からアルミ合金の量産に入り国内初だった
- [45]アルミ合金への投資は一年で回収された
1957年〜国内の直接販売から降りて代理店網に委ねた
自動機がそろうと、手作業の同業者では太刀打ちできない差が開いた。吉田氏は同業者に対し、生産をやめて販売に専念してはどうかと持ちかけ、供給の責任は吉田工業が果たすと約束した。初めは信用されなかったが、黒部工場へ連れて行って設備を見せると納得が広がり、同業者はファスナーの生産から手を引いた。吉田氏は約束どおり東京と大阪の得意先500社から600社をすべて割り振り、吉田工業は国内の直接販売から降りて、自社が直接売るのは海外だけとした。1957年7月には販売会社の吉田商事を設けた。同社は建材の販売を担い、のちのYKK APにあたる。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [46]自動化設備を持つYKKに手作業の同業者は太刀打ちできなかった
- [47]同業者に生産中止と販売専念を提案した
- [48]黒部工場の設備を見せて同業者を納得させた
- [49]東京と大阪の得意先500社から600社を同業者に割り振った
- [50]吉田工業は国内の直接販売から撤退し直販は海外のみとした
- YKK 有価証券報告書【沿革】
- [51]1957年7月に販売会社の吉田商事を設立した
- [52]吉田商事は現在のYKK APにあたる
代理店に変わった同業者との取引条件も組み替えた。それまでの月末締め翌月5日の全額現金払いを、三分の一を現金、残る三分の二を60日の約束手形に改め、年間契約額の一割を保証金として預かった。保証金は代理店が銀行に半額を定期預金して全額を借り、吉田工業がそのうち半額を同じ銀行に預け直す形にした。代理店は半分の資金で保証金を積め、銀行は預金と貸出の両方を増やせる。吉田氏はこれを"三方一両得"(日本経済新聞 1977/8)と呼んだ。代理店は在庫を二倍に持てるようになり、YKKファスナーの国内シェアは95%に達した。
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [53]代理店になった同業者との取引条件を組み替えた
- [54]従来の決済は月末締め翌月5日の全額現金払いだった
- [55]決済条件を三分の二の60日手形に改めた
- [56]年間契約額の一割を保証金として預かった
- [57]代理店は銀行に半額を定期預金して全額を借り保証金に充てた
- [58]銀行は預金と貸付の双方を増やせる仕組みだった
- [59]吉田忠雄は保証金の仕組みを三方一両得と呼んだ
- [60]YKKファスナーの国内シェアは95%に達した
参考文献[46]-[60]
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)
- [46]自動化設備を持つYKKに手作業の同業者は太刀打ちできなかった
- [47]同業者に生産中止と販売専念を提案した
- [48]黒部工場の設備を見せて同業者を納得させた
- [49]東京と大阪の得意先500社から600社を同業者に割り振った
- [50]吉田工業は国内の直接販売から撤退し直販は海外のみとした
- [53]代理店になった同業者との取引条件を組み替えた
- [54]従来の決済は月末締め翌月5日の全額現金払いだった
- [55]決済条件を三分の二の60日手形に改めた
- [56]年間契約額の一割を保証金として預かった
- [57]代理店は銀行に半額を定期預金して全額を借り保証金に充てた
- [58]銀行は預金と貸付の双方を増やせる仕組みだった
- [59]吉田忠雄は保証金の仕組みを三方一両得と呼んだ
- [60]YKKファスナーの国内シェアは95%に達した
- YKK 有価証券報告書【沿革】
- [51]1957年7月に販売会社の吉田商事を設立した
- [52]吉田商事は現在のYKK APにあたる
出典・参考
2件
- YKK 有価証券報告書【沿革】
- 日本経済新聞「私の履歴書」1977年8月(吉田忠雄)