第2章 年〜年

ニトリ:ニトリへの改称と製造物流小売への垂直統合

ニトリ改称からインドネシア自社工場へ

1986年〜国内調達の原価の下限と海外への仕入れ替え

ニトリへ改称し、仕入れ先を国外へ切り替える

1986年7月、似鳥家具卸センターは商号をニトリへ改めた。1986年2月期の売上高は77.9億円で、道内に店を重ねて仕入量を積む手はひととおり使い切っていた。国内メーカーから直接仕入れる方式で下げられる原価には、国内の人件費と原材料費という下限がある。似鳥昭雄社長は1985年以降の円高を一時的な変動ではなく構造的なものと捉え、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べて決定的に高いと判断していた。改称の翌1987年2月期の売上高は90.7億円、1988年2月期は103億円と伸びたが、伸ばした先で原価を削る余地は国内にはもう残っていなかった。安く売り続けるための次の一手は、店の増やし方ではなく仕入れ先の置き場所にあった。

  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [1]1986年7月、似鳥家具卸センターは商号をニトリに変更した
  • 会社年鑑
    • [2]似鳥家具卸センターの1986年2月期の売上高は77.9億円であった
    • [4]ニトリの売上高は1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円であった
  • 日経流通新聞(1994年6月18日)
    • [3]似鳥昭雄氏は円高を構造的なものと捉え、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高いと述べた
マルミツ木工へ出資して部品から製造に関わる

1987年、ニトリは家具製造のマルミツ木工へ出資し、業務提携を結んで家具部品の輸入を始めた。直前の1987年2月期の売上高は90.7億円で、家具の工場を抱えるには小さすぎる規模であった。小売が製造へ関われば、売れ筋の仕様を工場へ直接渡せるかわりに、稼働率を埋める責任も負う。ニトリは完成品ではなく部品から入り、東南アジアで作らせた部品を国内で組み立てる形をとった。出資の形も当初は一部にとどめ、マルミツを完全子会社として製造部門に取り込んだのは2000年8月であった。製造の全部ではなく一部を抱えることで、投資の重さと学習の量を釣り合わせた入り方であった。

  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [5]1987年、ニトリは家具製造のマルミツ木工と業務提携し、家具部品の輸入を開始した
    • [8]2000年8月、ニトリは株式の追加取得によりマルミツを完全子会社化した
  • 会社年鑑
    • [6]ニトリの1987年2月期の売上高は90.7億円であった
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [7]ニトリは東南アジアで家具部品を作らせ、国内で組み立てる海外調達を進めた
賃金の上がった調達先から順に南へ切り替える

調達先は、賃金の上がった地域から順に移った。ニトリは1987年にシンガポールへ検品の拠点を設け、1989年には出張所を置いて現地の情報収集に当たらせた。拠点を置いた理由は、海外での業務の比重が韓国や台湾などの近隣諸国からマレーシア、タイ、インドネシアなどの東南アジア諸国へ移りつつあったことにある。韓国や台湾は経済発展とともに人件費が高騰し、1990年代には採算が合わなくなると見込まれていた。1989年2月には全額出資の現地法人NT SINGAPORE PTE LTDを設け、拠点は現地で作らせた商品の品質を確かめる役を負った。安い調達先は一つの国に留まらず、賃金の上昇に追われて南へ動く。移動のたびに検品と管理の人手が要るため、調達先を移す速さは現地に置く拠点の数で決まった。1994年のインドネシア進出は、この移動を追いかけた先で選ばれた行き先であった。

  • 日本経済新聞 北海道版(1989年1月11日)
    • [9]ニトリは1987年にシンガポールへ検品拠点を設け、1989年に出張所を置いた
    • [10]シンガポールに拠点を置いたのは、海外業務の比重が韓国・台湾から東南アジア諸国へ移ってきたためであった
    • [11]韓国や台湾は経済発展に伴って人件費が高騰し、1990年代は採算が合わなくなると予想されていた
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】
    • [12]平成元年2月 シンガポール共和国に現地法人NT SINGAPORE PTE LTD(出資比率100%)を設立
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [13]1994年10月、ニトリはインドネシアに生産子会社を設立した
参考文献[1]-[13]
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [1]1986年7月、似鳥家具卸センターは商号をニトリに変更した
    • [5]1987年、ニトリは家具製造のマルミツ木工と業務提携し、家具部品の輸入を開始した
    • [8]2000年8月、ニトリは株式の追加取得によりマルミツを完全子会社化した
    • [13]1994年10月、ニトリはインドネシアに生産子会社を設立した
  • 会社年鑑
    • [2]似鳥家具卸センターの1986年2月期の売上高は77.9億円であった
    • [4]ニトリの売上高は1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円であった
    • [6]ニトリの1987年2月期の売上高は90.7億円であった
  • 日経流通新聞(1994年6月18日)
    • [3]似鳥昭雄氏は円高を構造的なものと捉え、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高いと述べた
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [7]ニトリは東南アジアで家具部品を作らせ、国内で組み立てる海外調達を進めた
  • 日本経済新聞 北海道版(1989年1月11日)
    • [9]ニトリは1987年にシンガポールへ検品拠点を設け、1989年に出張所を置いた
    • [10]シンガポールに拠点を置いたのは、海外業務の比重が韓国・台湾から東南アジア諸国へ移ってきたためであった
    • [11]韓国や台湾は経済発展に伴って人件費が高騰し、1990年代は採算が合わなくなると予想されていた
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】
    • [12]平成元年2月 シンガポール共和国に現地法人NT SINGAPORE PTE LTD(出資比率100%)を設立

1989年〜札証上場を踏み台にした本州への進出

札幌証券取引所へ上場して調達先を拡大する

1989年9月、ニトリは札幌証券取引所へ株式を上場した。1989年2月期の売上高は117億円、当期純利益は3.7億円、従業員は248人で、1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円と二桁の伸びが続いたうえでの上場であった。担保の不足から銀行の融資が止まった1971年より18年を経て、資金の調達先は借入だけではなくなった。店舗も物流センターも、先に投じてから売上で回収する性質の投資である。上場後の1990年2月期は売上高132億円、当期純利益4.0億円、従業員267人で、店と人を同時に増やす局面が続いた。出店の速さを借入の枠から切り離せたことが、道外へ出るための前提になった。

  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [14]1989年9月、ニトリは札幌証券取引所に株式を上場した
  • 会社年鑑
    • [15]ニトリの売上高は1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円、1989年2月期117億円、1989年2月期の当期純利益は3.7億円、従業員数は248人であった
    • [17]ニトリの1990年2月期は売上高132億円、当期純利益4.0億円、従業員数267人であった
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [16]1971年に競合の進出で銀行融資が凍結し、ニトリは資金繰りの危機に陥っていた
道内首位のまま本州へ出る

1993年、ニトリは本州での店舗展開を東日本から始めた。北海道では売上首位に立ち、全国でも8位の規模に達していたが、道内の人口が増えない以上、同じ形の店を置ける商圏には限りがあった。本州には既存の家具専門店と百貨店の家具売場があり、ニトリの価格は百貨店の半値、専門チェーンに対しても3〜5割安い水準にあった。1993年2月期の売上高は177億円で、前期の175億円からの伸びはわずかにとどまったが、景気低迷で家具専門店の業績不振が目立つなかでも、ニトリは1995年2月期に8期連続の増収増益を見込んでいた。価格に対する買い手の目が厳しくなるほど、安さを構造で作る側へ需要が寄った。

  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [18]1993年、ニトリは本州(東日本)での店舗展開を開始した
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [19]ニトリは北海道で家具小売の売上首位、全国では8位の規模に達していた
    • [20]ニトリの価格は百貨店の半値、専門チェーンより3〜5割安い水準にあった
  • 会社年鑑
    • [21]ニトリの売上高は1992年2月期175億円、1993年2月期177億円であった
  • 日経流通新聞(1994年6月14日)
    • [22]景気低迷で家具専門店の業績低迷が目立つなか、ニトリは1995年2月期に8期連続の増収増益を見込んだ
本州の配送を賃借倉庫から自社センターへ切り替える

本州での出店は、物流の作り直しを求めた。ニトリが本州での店舗展開を東日本から始めたのは1993年である。その7年後の2000年7月、埼玉県白岡町に関東物流センターを新築した。直前の2000年6月には上海に貿易の現地法人を設けており、海外で調達する家具の量が増える時期に、東日本の店へ配る拠点を本州に置いたことになる。札幌の物流センターから本州の店へ運ぶのでは距離が長すぎる。店を増やす前に配る仕組みを置き直す順序は、1980年に札幌で自動立体倉庫を建てたときから変わらなかった。

  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [23]1993年、ニトリは本州(東日本)での店舗展開を開始した
    • [24]2000年7月、埼玉県白岡町に関東物流センターを新築した
    • [25]2000年6月、NT SINGAPORE PTE LTDの100%出資で尼達利(上海)国際貿易有限公司を設立した
    • [26]1980年8月、札幌市手稲区に自動立体倉庫を備えた物流センターを開設した
参考文献[14]-[26]
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [14]1989年9月、ニトリは札幌証券取引所に株式を上場した
    • [18]1993年、ニトリは本州(東日本)での店舗展開を開始した
    • [23]1993年、ニトリは本州(東日本)での店舗展開を開始した
    • [24]2000年7月、埼玉県白岡町に関東物流センターを新築した
    • [25]2000年6月、NT SINGAPORE PTE LTDの100%出資で尼達利(上海)国際貿易有限公司を設立した
    • [26]1980年8月、札幌市手稲区に自動立体倉庫を備えた物流センターを開設した
  • 会社年鑑
    • [15]ニトリの売上高は1987年2月期90.7億円、1988年2月期103億円、1989年2月期117億円、1989年2月期の当期純利益は3.7億円、従業員数は248人であった
    • [17]ニトリの1990年2月期は売上高132億円、当期純利益4.0億円、従業員数267人であった
    • [21]ニトリの売上高は1992年2月期175億円、1993年2月期177億円であった
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [16]1971年に競合の進出で銀行融資が凍結し、ニトリは資金繰りの危機に陥っていた
    • [19]ニトリは北海道で家具小売の売上首位、全国では8位の規模に達していた
    • [20]ニトリの価格は百貨店の半値、専門チェーンより3〜5割安い水準にあった
  • 日経流通新聞(1994年6月14日)
    • [22]景気低迷で家具専門店の業績低迷が目立つなか、ニトリは1995年2月期に8期連続の増収増益を見込んだ

1994年〜工場を持たないメーカーからインドネシアの自社工場へ

設計と価格を掌握し、設備は持たずに販売する

1994年2月期のニトリは売上高193億円、当期純利益7.4億円を上げ、297人の従業員で北海道と本州の店舗を運営していた。同じ1994年の時点で、同社は工場を持たないメーカーを自任していた。仕入れは買い取りを原則とし、自社で仕様を決めた商品を国内外のメーカーへじかに発注して、委託も返品もない取引で安値をつくった。工場も倉庫の一部も社外に委ねたままで、自社が決めるのは商品の仕様と売価に限られた。設備を抱える負担がないため、価格を動かすことができた。似鳥社長は自ら製品を見て回る理由を、『トップが自分の目で製品を見て即断即決で商談を進めなければ販売競争で優位に立つことはできない』と語っている。設計と価格を握りながら製造設備を持たないこの形は、投資を抑えたまま仕様で差をつける方法であった。

  • 会社年鑑
    • [27]ニトリの1994年2月期は売上高193億円、当期純利益7.4億円、1993年2月期の従業員数は297人であった
  • 日経流通新聞(1994年6月14日)
    • [28]ニトリは工場を持たないメーカーという立場を掲げていた
    • [29]ニトリは買い取り仕入れを基本に、独自仕様の商品を内外のメーカーへ直接発注して低価格販売を進めた
    • [30]似鳥昭雄氏は、経営者が自ら製品を見て商談を決めなければ販売競争で優位に立てないと述べた
委託生産の限界を認めて自社工場を建てる

仕様書を渡して現地のメーカーに作らせる方式には、原価を下げる限界があった。似鳥社長は1994年6月の時点で『現地メーカーに生産を委託する方式だけではコスト削減に限界が来る』と述べ、委託から自社生産へ進む必要を示していた。同年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設立した。1995年2月期の売上高は235億円で、この規模の家具小売が海外へ自社工場を持つのは当時としては異例の投資であった。設立時のニトリの出資比率は9.0%で、工場は関連会社の位置づけだったが、ニトリはのちに出資比率を間接所有を含めて100%まで引き上げた。この経験は、2003年10月にベトナムへ現地法人MARUMITSU-VIETNAM EPEを設ける際に、当初から出資比率100%とする形へ引き継がれた。委託先を替えれば済む問題を、自ら抱えて解く側に回った。

  • 日経流通新聞(1994年6月14日)
    • [31]似鳥昭雄氏は、現地メーカーへの生産委託だけではコスト削減に限界が来ると述べた
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [32]1994年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設立した
  • 会社年鑑
    • [33]ニトリの1995年2月期の売上高は235億円、当期純利益は8.6億円であった
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】/ニトリホールディングス 有価証券報告書 FY12【沿革】
    • [34]P.T. MARUMITSU INDONESIA の出資比率は設立時9.0%で、2012年2月期の有報では100%(間接含む)と記載されている
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】
    • [35]平成15年10月 ベトナム社会主義共和国に現地法人MARUMITSU-VIETNAM EPE(出資比率100%)を設立
一貫生産を原資に値下げを重ねる

1995年夏、インドネシアの工場が稼働し、ニトリは部品の輸入から箱物家具の一貫生産へ切り替えて、同年9月中旬から低価格品の販売を始めた。作る工程まで自社で握れば、値下げの原資を外の取引条件に頼らず自ら作れる。似鳥社長は『2割下げても、客数4割増になれば利益がでる』という考え方で値下げを重ね、客単価が7%下がる一方、客数は14%伸びた。売上高は1995年2月期の235億円から1997年2月期308億円、1998年2月期348億円、1999年2月期404億円へ伸び、当期純利益も8.6億円から9.7億円へ増えた。値下げを重ねながら4年で売上高を1.7倍にした計算になる。仕入れの工夫で安く売る会社から、安く作って安く売る会社へ、原価の源が移った。

  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [36]1995年夏にインドネシアの工場が稼働し、部品輸入から箱物家具の一貫生産へ切り替えて9月中旬から低価格品を販売した
    • [37]似鳥昭雄氏は2割下げても客数が4割増えれば利益が出るとの考えで値下げを続け、客単価7%減に対し客数は14%伸びた
  • 会社年鑑
    • [38]ニトリの売上高は1995年2月期235億円、1997年2月期308億円、1998年2月期348億円、1999年2月期404億円、当期純利益は1995年2月期8.6億円、1999年2月期9.7億円であった
参考文献[27]-[38]
  • 会社年鑑
    • [27]ニトリの1994年2月期は売上高193億円、当期純利益7.4億円、1993年2月期の従業員数は297人であった
    • [33]ニトリの1995年2月期の売上高は235億円、当期純利益は8.6億円であった
    • [38]ニトリの売上高は1995年2月期235億円、1997年2月期308億円、1998年2月期348億円、1999年2月期404億円、当期純利益は1995年2月期8.6億円、1999年2月期9.7億円であった
  • 日経流通新聞(1994年6月14日)
    • [28]ニトリは工場を持たないメーカーという立場を掲げていた
    • [29]ニトリは買い取り仕入れを基本に、独自仕様の商品を内外のメーカーへ直接発注して低価格販売を進めた
    • [30]似鳥昭雄氏は、経営者が自ら製品を見て商談を決めなければ販売競争で優位に立てないと述べた
    • [31]似鳥昭雄氏は、現地メーカーへの生産委託だけではコスト削減に限界が来ると述べた
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
    • [32]1994年10月、ニトリはインドネシアに現地生産法人を設立した
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】/ニトリホールディングス 有価証券報告書 FY12【沿革】
    • [34]P.T. MARUMITSU INDONESIA の出資比率は設立時9.0%で、2012年2月期の有報では100%(間接含む)と記載されている
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】
    • [35]平成15年10月 ベトナム社会主義共和国に現地法人MARUMITSU-VIETNAM EPE(出資比率100%)を設立
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
    • [36]1995年夏にインドネシアの工場が稼働し、部品輸入から箱物家具の一貫生産へ切り替えて9月中旬から低価格品を販売した
    • [37]似鳥昭雄氏は2割下げても客数が4割増えれば利益が出るとの考えで値下げを続け、客単価7%減に対し客数は14%伸びた

筆者考察

ニトリが1986年からの十数年でやり遂げたのは、安さの出どころを国内の交渉から海外の工場へ移すことである。問屋を外してメーカーへ直接発注する方式で下げられる原価は、日本の人件費と原材料費で止まる。似鳥昭雄氏が1985年以降の円高を一時的な変動ではなく構造として読んだ時点で、次の一手は交渉の巧拙ではなく地理の問題になった。1987年のマルミツ木工への出資は売上高100億円の小売には重い投資だったが、入り方は完成品ではなく部品であり、組み立ては国内に残した。抱える範囲を小さく切って始めたぶん、つまずいても本体は傾かない。ニトリの海外調達は一度の賭けではなく、刻んだ段階の積み重ねとして進んだ。

1994年のインドネシア進出が分かれ目になったのは、そこで初めて逃げ場を捨てたからである。委託であれば、品質が落ちても値上げを求められても、発注先を替えれば済む。自社工場は替えが利かず、無断欠勤もストライキも自分で解くしかない。似鳥昭雄氏は設立時9.0%だった出資比率をのちに100%まで引き上げて自ら抱える形に改め、その経験を2004年のベトナムでは最初から完全子会社という形に変えた。代わりに得たのは、値下げの原資を外の取引条件に頼らず自分で作れる立場である。売上高は1995年2月期の235億円から1999年2月期の404億円へ伸び、客単価が7%下がっても客数は14%伸びた。安く売れるから安く作るのではなく、安く作れるから安く売る会社に変わった。

ニトリの単体売上高 1986年2月期から1999年2月期(億円)

77.9 86年2月期 117 89年2月期 175 92年2月期 235 95年2月期 404 99年2月期
  • 単体。出所は会社年鑑。

1986年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1986年02月期 単体 77 n/a 1 2.1% n/a
1987年02月期 単体 90 +16.4% 1 1.7% n/a
1988年02月期 単体 103 +13.6% 2 2.2% n/a
1989年02月期 単体 117 +13.6% 3 3.2% n/a
1990年02月期 単体 132 +12.8% 4 3.0% n/a
1991年02月期 単体 159 +20.5% 4 2.9% n/a
1992年02月期 単体 175 +10.1% 5 3.2% n/a
1993年02月期 単体 177 +1.1% 6 3.4% n/a
1994年02月期 単体 193 +9.0% 7 3.8% n/a
1995年02月期 単体 235 +21.8% 8 3.7% n/a
1996年02月期 単体 256 +8.9% 9 3.7% n/a
1997年02月期 単体 308 +20.3% 9 3.2% n/a
1998年02月期 単体 348 +13.0% 10 2.9% n/a
1999年02月期 単体 404 +16.1% 9 2.4% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • ニトリ 有価証券報告書(株式会社ニトリホールディングス)【沿革】
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】
  • ニトリ 有価証券報告書 FY05【沿革】/ニトリホールディングス 有価証券報告書 FY12【沿革】
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号(日経BP社)
  • 日本経済新聞 北海道版(1989年1月11日)
  • 日経流通新聞(1994年6月18日)
  • 日経流通新聞(1994年6月14日)

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