似鳥昭雄の創業動機は、出店予定地に競合が少ないという消去法的な理由であった。99㎡の小規模店舗から始まり、1971年の北栄店(990㎡)で大型化に踏み出すが、競合出店で融資が止まり夜逃げを検討するほどの危機に陥った。創業期から一貫して「大量仕入れ・大量販売」を志向した点は、後のS…
1972年の渡米視察で似鳥昭雄が受けた衝撃は、アメリカの家具が日本の3分の1の価格で、かつコーディネートされていた点にあった。この体験が「60年かけてアメリカに追いつく」という長期目標を生み、ニトリの事業構造を規定した。同時期に倒産メーカーからの原価割れ仕入れや、メーカー3社への…
ニトリは1978年から1981年にかけて札幌市内に9店舗を集中出店し、本州進出前にドミナント戦略の原型を完成させた。物流センター(1980年)から9店舗をカバーする配送効率の設計と、メーカーへの製品規格の要求を同時に進めた点が重要である。新卒2〜3年目を店長に抜擢する人事と厳格な…
1985年のプラザ合意による円高を予見し、マルミツ木工への出資を通じて東南アジア生産に着手した判断は、小売業の発想を超えている。いきなり完成品生産に踏み込まず、まず部品パーツの輸入から始め、品質管理(含水率問題への対応)のノウハウを蓄積した上で完成品生産に移行する段階的アプローチ…
インドネシア工場は完成品の現地生産という戦略的な一歩だったが、無断欠勤率10%やストライキの頻発で計画通りに稼働しなかった。マルミツを通じた間接運営(当初出資9%)が管理の弱さを招いた面があり、最終的に完全子会社化して再建に乗り出した。この経験は、後のベトナム工場では最初から完全…
ベトナム工場は従業員9,000名規模の主力生産拠点に成長し、2017年にはインドネシア工場の操業を停止して生産を集約した。インドネシアでの労務管理の苦戦を教訓に、ベトナムでは直接管理体制を初期から整備したことが拡大の前提条件となった。似鳥昭雄が「製造5割・物流2割・小売3割」と語…
島忠買収はDCMとの経営統合交渉を覆す形で実現したが、買収後の統合は想定通りに進まなかった。「ニトリホームズ」へのブランド転換とニトリ商品の導入で集客を狙ったものの、ホームセンターの品揃えとの両立に苦戦。FY2023でセグメント利益21億円にとどまり、のれん316億円に対して店舗…
ニトリのSPAモデルは、円高ドル安環境下で東南アジア生産のコスト優位を最大化する設計であった。会社計画の前提であった1ドル=130円が外れ、想定以上の円安が進行したことで、仕入れと商品開発の前提が根底から崩れた。国内822店舗・海外179店舗という売上構成の偏りが為替リスクを増幅…