第1章 年〜年

乃村工藝社:日本軍事工藝の設立と百貨店の店内装飾

1942年〜陸軍省の許可で改めた日本軍事工藝と、空襲で焼けた東京・大阪の社屋

乃村工藝社は1942年12月9日、陸軍省の許可を得て組織を改め、資本金7万5千円の日本軍事工藝株式会社を設立した。本店を東京市本所区に置くこの会社は、乃村工藝社にとって初めての正式な法人組織となった。定款の目的に掲げたのは、軍事思想とそれに関わる教材の立案・製作である。発足時の取締役には南光清三氏・乃村英一氏・清水正泉氏が名を連ね、代表取締役は乃村泰資氏が務めた。設立の前月、乃村工藝社は南京で開かれた大東亜戦争博覧会を単独で施工した。請負額は35万円で、靖国神社外苑展示1回の約2万円の17倍を超える受注規模。民間の博覧会が軍の宣伝催事に置き換わるなかで、軍の発注を継続して受けるための受注主体として、株式会社を設けたとみられる。

  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [1]1942年12月9日、陸軍省の許可を受け乃村工藝社を改組し資本金7万5千円の日本軍事工藝株式会社を設立
  • 70万時間の旅(乃村工藝社・1975年) 昭和17年〜昭和20年の章
    • [2]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [4]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [5]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [6]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [7]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1942年12月、資本金75千円で東京都本所区に日本軍事工藝株式会社として設立

日本軍事工藝は1943年1月、大阪市南区に大阪出張所を開設した。蟻田栄一氏の椿屋工房を取り込む案を南光清三氏が受け入れ、東西に拠点を持つ体制がそろった。新会社の初仕事は軍から受注した「撃ちてし止まむ」の大壁画で、約170平方メートルの画面を東京の日劇と大阪の高島屋の外壁に掲げた。同じ1943年には奈良のあやめ池遊園地に海軍館を建てる計画が決まり、高島屋と提携して建物から看板までを一括で受注した。資材の節約が避けられないなかでの海軍省からの注文は、半恒久的な館という難しい条件が付いた。製作物の中心は、特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマといった戦果を伝える立体展示へ移った。菊人形で培った立体造形の技法が、そのまま軍の宣伝需要に転用されたと推察される。

  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1943年1月、大阪市南区に大阪出張所開設
  • 70万時間の旅(乃村工藝社・1975年) 昭和17年〜昭和20年の章
    • [9]1943年1月に椿屋工房が日本軍事工藝の大阪出張所となる(蟻田栄一の椿屋工房を合同させる案を南光清三が受け入れた)。初仕事は軍から受注した「撃ちてし止まむ」大壁画(約170平方米)を日劇と大阪高島屋の外壁に取り付け
    • [10]1943年1月に椿屋工房が日本軍事工藝の大阪出張所となる(蟻田栄一の椿屋工房を合同させる案を南光清三が受け入れた)。初仕事は軍から受注した「撃ちてし止まむ」大壁画(約170平方米)を日劇と大阪高島屋の外壁に取り付け
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [11]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加
    • [12]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加
    • [13]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加

1944年末に取締役の清水正泉氏と監査役の大洞元吾氏が辞任して退社し、1945年1月には乃村英一氏も召集を受けた。日本軍事工藝の仕事は1944年春の多摩川園の鹵獲品展と靖国神社外苑展示を最後に途絶え、設立から2年ほどで活動の大半が止まった。社員の多くも召集や徴用で戦地や軍需工場へ移り、使える資材は月を追って乏しくなった。1945年3月のアメリカ軍の本土空襲で、東京と大阪の社屋はともに焼失した。被害を受けたのは東京・芝田村町の社屋と大阪・南綿屋町の大阪出張所で、いずれも全焼。それでも残った社員は事業の拠点を別の場所へ移し、終戦まで仕事をつないだ。人と社屋を同時に失っても会社を解散しなかったことが、終戦直後の再出発を早めたのだろう。

  • 70万時間の旅(乃村工藝社・1975年) 昭和17年〜昭和20年の章
    • [14]1944年末に取締役清水正泉・監査役大洞元吾が辞任退社、1945年1月に乃村英一が応召。1944年の実績は春の多摩川園「大東亜戦争鹵獲品展」と靖国神社外苑展示のみで、それも春で終わる。日本軍事工藝は設立後約2年で活動の大半が停止
    • [15]1944年末に取締役清水正泉・監査役大洞元吾が辞任退社、1945年1月に乃村英一が応召。1944年の実績は春の多摩川園「大東亜戦争鹵獲品展」と靖国神社外苑展示のみで、それも春で終わる。日本軍事工藝は設立後約2年で活動の大半が停止
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [16]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
    • [17]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
    • [19]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [18]1945年3月、B29の大編隊による空襲で芝田村町の日本軍事工藝社屋と南綿屋町の大阪出張所社屋が全焼
参考文献[1]-[19]
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [1]1942年12月9日、陸軍省の許可を受け乃村工藝社を改組し資本金7万5千円の日本軍事工藝株式会社を設立
    • [11]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加
    • [12]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加
    • [13]1943年、あやめ池遊園地に海軍省指導の「海軍館」建設が決まり高島屋と提携して建物からサインまで一括受注。省資材化の下で海軍省が半恒久的な館を要請。太平洋戦争後は特殊潜航艇の実寸大模型や真珠湾奇襲のパノラマ製作が増加
    • [16]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
    • [17]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
    • [19]社員は召集・徴用で戦場や軍需工場へ、資材は逼迫。1945年3月の本土空襲で東京・大阪とも社屋が灰燼に帰し、拠点を他に移して終戦まで業務を継続
  • 70万時間の旅(乃村工藝社・1975年) 昭和17年〜昭和20年の章
    • [2]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [4]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [5]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [6]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [7]日本軍事工藝は乃村工藝社初の正式な法人組織。定款目的は軍事思想と関連教材の立案製作。役員は代表取締役乃村泰資、取締役南光清三・乃村英一・清水正泉。1942年11月の南京・大東亜戦争博覧会を単独施工、請負額35万円(靖国神社外苑展示1回は約2万円)
    • [9]1943年1月に椿屋工房が日本軍事工藝の大阪出張所となる(蟻田栄一の椿屋工房を合同させる案を南光清三が受け入れた)。初仕事は軍から受注した「撃ちてし止まむ」大壁画(約170平方米)を日劇と大阪高島屋の外壁に取り付け
    • [10]1943年1月に椿屋工房が日本軍事工藝の大阪出張所となる(蟻田栄一の椿屋工房を合同させる案を南光清三が受け入れた)。初仕事は軍から受注した「撃ちてし止まむ」大壁画(約170平方米)を日劇と大阪高島屋の外壁に取り付け
    • [14]1944年末に取締役清水正泉・監査役大洞元吾が辞任退社、1945年1月に乃村英一が応召。1944年の実績は春の多摩川園「大東亜戦争鹵獲品展」と靖国神社外苑展示のみで、それも春で終わる。日本軍事工藝は設立後約2年で活動の大半が停止
    • [15]1944年末に取締役清水正泉・監査役大洞元吾が辞任退社、1945年1月に乃村英一が応召。1944年の実績は春の多摩川園「大東亜戦争鹵獲品展」と靖国神社外苑展示のみで、それも春で終わる。日本軍事工藝は設立後約2年で活動の大半が停止
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1942年12月、資本金75千円で東京都本所区に日本軍事工藝株式会社として設立
    • [8]1943年1月、大阪市南区に大阪出張所開設
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [18]1945年3月、B29の大編隊による空襲で芝田村町の日本軍事工藝社屋と南綿屋町の大阪出張所社屋が全焼

1945年〜乃村工藝社への復帰と、資本金100万円で引き受けたアメリカ博の本館

日本軍事工藝は1945年12月、商号を株式会社乃村工藝社に戻した。戦後の展示の仕事は、焼け残った百貨店と進駐軍の施設が出発点となった。最初の本格的な展覧会は、同月末から高島屋大阪店で開いた「ニッポンを観る展覧会」である。毎日新聞社と大阪鉄道局が主催し、進駐軍に日本の観光と文化を紹介する催しとして企画された。この展覧会の成功は国内外で報じられ、他の新聞社や百貨店が催事の再開へ動くきっかけとなった。1946年9月には、百貨店の店内装飾と催事、新聞社や電鉄会社が主催する展覧会へと受注の範囲を広げた。軍の発注が消えた直後に、戦前からの取引先である百貨店と新聞社へ戻れたことが再建の起点になったと思われる。

  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1945年12月、株式会社乃村工藝社に商号変更。1946年9月、百貨店の店内装飾・催事および新聞社・電鉄会社主催の展覧会業務を受注
    • [25]1945年12月、株式会社乃村工藝社に商号変更。1946年9月、百貨店の店内装飾・催事および新聞社・電鉄会社主催の展覧会業務を受注
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [21]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [22]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [23]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [24]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ

1946年6月16日、乃村工藝社は南光清三氏を社長に、乃村英一氏を専務取締役に選んだ。同じ日に大阪出張所を大阪支社と改め、大阪を東京と並ぶ拠点に位置づけた。大阪では市内の百貨店5店の切り抜き文字の看板を、ほぼ独占的に受注した。映画の分野でも日本映画社・日本映画配給社と、松竹・東宝・大映の宣伝業務を手がけ、徹夜の作業が日常となった。社名を改めた後は、社長の南光清三氏が地方の博覧会を受け持つ分担。専務取締役の乃村英一氏は高島屋と読売新聞社を中心に東京の営業に力を注ぎ、大阪は蟻田栄一氏が統括した。仕事量の多い大阪を支社に格上げし、東西で得意先を分けて受注の取りこぼしを防いだ体制と考えられる。

  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [26]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [27]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [30]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [31]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [28]大阪では市内百貨店5店のカッティングサインを寡占的に受注、日本映画社・日本映画配給社・松竹・東宝・大映の宣伝業務も手がけ徹夜・深夜業が日常化
    • [29]大阪では市内百貨店5店のカッティングサインを寡占的に受注、日本映画社・日本映画配給社・松竹・東宝・大映の宣伝業務も手がけ徹夜・深夜業が日常化

乃村工藝社は1950年、資本金を100万円に増資し、定款の目的を博覧会と展覧会の企画・設計・施工と経営に改めた。そのころ新聞社の事業活動が再開し、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展や美術展を続けて開いた。同じ1950年、朝日新聞社が主催したアメリカ博覧会が兵庫県西宮市で開かれた。第一会場本館の展示施設は、乃村工藝社の独占受注。この工事の請負額は、その年の年商に近い規模に達した。朝日新聞社が本館を任せた理由は、乃村工藝社の若さと知性への評価にあった。会場は神戸の博覧会を上回る観客を集め、各地の博覧会の受注が続く足場になった。定款の改定と大型案件の受注が同じ年に重なり、博覧会の施工が主力事業に据えられたとみてよい。

  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [32]1950年、資本金100万円に増資し定款を変更(博覧会及び展覧会の企画・設計・施工並びに経営ほか)
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [33]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [34]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [35]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [38]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
    • [36]アメリカ博覧会での工事請負額はその年の年商に近い。朝日新聞社側は本館を任せた理由を乃村工藝社の若さとインテリジェンスと説明
    • [37]アメリカ博覧会での工事請負額はその年の年商に近い。朝日新聞社側は本館を任せた理由を乃村工藝社の若さとインテリジェンスと説明
参考文献[20]-[38]
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1945年12月、株式会社乃村工藝社に商号変更。1946年9月、百貨店の店内装飾・催事および新聞社・電鉄会社主催の展覧会業務を受注
    • [25]1945年12月、株式会社乃村工藝社に商号変更。1946年9月、百貨店の店内装飾・催事および新聞社・電鉄会社主催の展覧会業務を受注
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [21]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [22]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [23]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [24]展示業界の戦後は焼け残った百貨店と進駐軍施設から始まった。1945年12月末から高島屋大阪店で「ニッポンを観る展覧会」(進駐軍向け、毎日新聞社・大阪鉄道局主催、観光と文化のPR)。成功は国内外で報道され、他の新聞社・百貨店に衝撃、百貨店催事が復興へ
    • [28]大阪では市内百貨店5店のカッティングサインを寡占的に受注、日本映画社・日本映画配給社・松竹・東宝・大映の宣伝業務も手がけ徹夜・深夜業が日常化
    • [29]大阪では市内百貨店5店のカッティングサインを寡占的に受注、日本映画社・日本映画配給社・松竹・東宝・大映の宣伝業務も手がけ徹夜・深夜業が日常化
    • [33]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [34]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [35]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
    • [38]新聞社の事業活動が始動、読売新聞社は全国の百貨店で防犯展・性の科学展・美術展を連続開催。1950年、西宮市で朝日新聞社主催のアメリカ博覧会、第一会場本館の展示施設を当社が独占受注、神戸博をしのぐ観客動員。その後も各地で博覧会
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [26]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [27]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [30]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [31]1946年6月16日、社長に南光清三・専務取締役に乃村英一が就任、大阪出張所を大阪支社と名称変更。社名改称後、南光清三は地方の博覧会、乃村英一は東京で高島屋・読売新聞社を中心に営業、大阪は蟻田栄一が統括
    • [32]1950年、資本金100万円に増資し定款を変更(博覧会及び展覧会の企画・設計・施工並びに経営ほか)
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
    • [36]アメリカ博覧会での工事請負額はその年の年商に近い。朝日新聞社側は本館を任せた理由を乃村工藝社の若さとインテリジェンスと説明
    • [37]アメリカ博覧会での工事請負額はその年の年商に近い。朝日新聞社側は本館を任せた理由を乃村工藝社の若さとインテリジェンスと説明

1951年〜乃村英一氏の社長就任と、日本国際見本市の全ブースの1割で得た業界首位

1951年1月19日、社長の南光清三氏が大阪出張中に48歳で急逝した。前夜、大阪堀江新地の料亭で主催新聞社と翌春の婦人とこども博覧会を打ち合わせ、ふぐ鍋を囲んだ後の中毒が死因となった。同席した大阪支店長の蟻田栄一氏も、命に関わる状態から回復した。1951年2月20日、乃村工藝社は乃村英一氏を社長に、蟻田栄一氏を常務取締役に選んだ。同じ日に乃村長三郎氏が取締役、谷本高啓氏が常任監査役に就任した。1952年4月10日には蟻田栄一氏が代表取締役常務となり、東京の乃村英一氏と大阪の蟻田栄一氏が並ぶ体制が固まった。社長の急逝で生じた空白を、戦前から東西の現場を担ってきた2人で埋めたと解される。

  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [39]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [43]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [44]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [45]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
    • [40]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生
    • [41]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生
    • [42]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生

乃村工藝社は1950年、パキスタンの国際産業見本市へ社員の樋口清一氏を展示技術の助言役として派遣した。1951年4月には、カラチ国際見本市とハノーバー国際建築博覧会の海外展示の受注が決まった。当時の海外展示は商品と見本を並べるだけにとどまり、施工は現地の人々に任せていた。国内では1954年に大阪で第1回日本国際見本市が開かれ、乃村工藝社の受注ブースは全出展ブースの10%に達した。同年1月の第1回全日本自動車ショーでも、乃村工藝社は展示を任された。紡績と化繊の各10社が出展ブースを乃村工藝社1社に任せたのは、同じ1954年に高島屋全館で手がけた全日本発明展の実績による。常連の取引先が急増した結果、乃村工藝社は業界首位の座を得た。輸出振興を急ぐ国策のもと、見本市が百貨店や博覧会と並ぶ受注の場に育ったことが首位を支えたのだろう。

  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 海外見本市・展示会の章
    • [46]1950年シカゴの第1回米国国際見本市に初の公式参加、同年パキスタン国際産業見本市に展示技術アドバイザーとして樋口清一が渡航。当時は商品とサンプル中心の展示で施工は現地に委託
    • [48]1950年シカゴの第1回米国国際見本市に初の公式参加、同年パキスタン国際産業見本市に展示技術アドバイザーとして樋口清一が渡航。当時は商品とサンプル中心の展示で施工は現地に委託
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1951年4月、カラチ国際見本市・ハノーバー国際建築博覧会の海外展示プロジェクトを受注。1954年1月、第1回日本国際見本市・第1回全日本自動車ショーを受注
    • [50]1951年4月、カラチ国際見本市・ハノーバー国際建築博覧会の海外展示プロジェクトを受注。1954年1月、第1回日本国際見本市・第1回全日本自動車ショーを受注
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [49]1954年大阪の第1回日本国際見本市で当社のブース数は全出展ブース数の10%に及び、経常クライアントとの取引が急増し業界首位の座を獲得
    • [52]1954年大阪の第1回日本国際見本市で当社のブース数は全出展ブース数の10%に及び、経常クライアントとの取引が急増し業界首位の座を獲得
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
    • [51]1954年に高島屋全館で開いた「全日本発明展」の実績が、第1回日本国際見本市の紡績10社・化繊10社の単独受注につながった

1961年10月、乃村工藝社は後楽園ゲームセンターや向ヶ丘遊園フラワーショーといった大型余暇施設の展示を受注した。同じ年の奈良ドリームランドでは、園内の水路を下る船の動きと、岸に現れる動物の模型を連動させる仕掛けを設けた。この現場が、乃村工藝社として本格的に制御装置を使った最初の事例となった。人々が経済の成長を実感するにつれ、業界でもディスプレイを生産・販売・消費をつなぐ媒体とみる認識が広がった。乃村工藝社は1962年3月、社業名を「ディスプレイ」と定めた。同じ月の決算で、年商は10億円に達した。売場の装飾から見本市・博覧会・遊園地へ広がった仕事を一語で示す名として「ディスプレイ」を選び、万国博覧会と博物館の受注へ向かう看板に据えたと考えられる。

  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1961年10月、奈良ドリームセンター・後楽園ゲームセンター・向ヶ丘遊園フラワーショー等の大型余暇施設を受注
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [54]1961年の奈良ドリームランドで、ジャングルの川を進む船に合わせゾウやワニを出没させる機械装置の同期システムを導入、当社が本格的に制御装置を導入した始まり
    • [55]1961年の奈良ドリームランドで、ジャングルの川を進む船に合わせゾウやワニを出没させる機械装置の同期システムを導入、当社が本格的に制御装置を導入した始まり
    • [56]人々が経済成長を肌で感じるようになり、業界でもディスプレイを生産・販売・消費をつなぐメディアとする認識が高まった
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [57]1962年3月、社業名を「ディスプレイ」とする。同月、年商10億円となる
    • [58]1962年3月、社業名を「ディスプレイ」とする。同月、年商10億円となる
参考文献[39]-[58]
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
    • [39]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [43]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [44]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [45]1951年1月19日南光清三社長が大阪出張中に急逝。2月20日社長に乃村英一、常務取締役に蟻田栄一、取締役に乃村長三郎、常任監査役に谷本高啓。1952年4月10日代表取締役常務に蟻田栄一
    • [57]1962年3月、社業名を「ディスプレイ」とする。同月、年商10億円となる
    • [58]1962年3月、社業名を「ディスプレイ」とする。同月、年商10億円となる
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
    • [40]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生
    • [41]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生
    • [42]大阪堀江新地の料亭で南光清三社長・蟻田栄一大阪支店長らが主催新聞社と翌春の「婦人とこども博覧会」を打ち合わせ、ふぐ鍋。南光社長は1951年1月19日未明に死去(享年48歳)、蟻田支店長は九死に一生
    • [51]1954年に高島屋全館で開いた「全日本発明展」の実績が、第1回日本国際見本市の紡績10社・化繊10社の単独受注につながった
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 海外見本市・展示会の章
    • [46]1950年シカゴの第1回米国国際見本市に初の公式参加、同年パキスタン国際産業見本市に展示技術アドバイザーとして樋口清一が渡航。当時は商品とサンプル中心の展示で施工は現地に委託
    • [48]1950年シカゴの第1回米国国際見本市に初の公式参加、同年パキスタン国際産業見本市に展示技術アドバイザーとして樋口清一が渡航。当時は商品とサンプル中心の展示で施工は現地に委託
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1951年4月、カラチ国際見本市・ハノーバー国際建築博覧会の海外展示プロジェクトを受注。1954年1月、第1回日本国際見本市・第1回全日本自動車ショーを受注
    • [50]1951年4月、カラチ国際見本市・ハノーバー国際建築博覧会の海外展示プロジェクトを受注。1954年1月、第1回日本国際見本市・第1回全日本自動車ショーを受注
    • [53]1961年10月、奈良ドリームセンター・後楽園ゲームセンター・向ヶ丘遊園フラワーショー等の大型余暇施設を受注
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
    • [49]1954年大阪の第1回日本国際見本市で当社のブース数は全出展ブース数の10%に及び、経常クライアントとの取引が急増し業界首位の座を獲得
    • [52]1954年大阪の第1回日本国際見本市で当社のブース数は全出展ブース数の10%に及び、経常クライアントとの取引が急増し業界首位の座を獲得
    • [54]1961年の奈良ドリームランドで、ジャングルの川を進む船に合わせゾウやワニを出没させる機械装置の同期システムを導入、当社が本格的に制御装置を導入した始まり
    • [55]1961年の奈良ドリームランドで、ジャングルの川を進む船に合わせゾウやワニを出没させる機械装置の同期システムを導入、当社が本格的に制御装置を導入した始まり
    • [56]人々が経済成長を肌で感じるようになり、業界でもディスプレイを生産・販売・消費をつなぐメディアとする認識が高まった

出典・参考

6件
出典・参考
  • 乃村工藝社 有価証券報告書【沿革】
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 第1部 本文
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 会社の歩み(年表)
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 社員・関係者の回想
  • ディスプレイ100年の旅 乃村工芸社100年史1892-1991(1993年) 海外見本市・展示会の章
  • 70万時間の旅(乃村工藝社・1975年) 昭和17年〜昭和20年の章

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