第2章 年〜年

KDD:海底ケーブル・衛星による国際通信網の拡大と日中臨時回線の開設

1968年〜日本初の超高層ビルへ本社を移転するまでに伸びた通信量

1968年4月に完工した霞が関ビルは日本で最初の超高層ビルで、その1年前から貸し付けが始まっていたが、オフィス部分はビル不況のさなかで契約に結びつかなかった。テナント獲得に自ら乗り出した三井不動産の江戸英雄社長は、大手町の本社が手狭で困っていた国際電信電話に目をつけ、元逓信次官の大和田悌二氏の紹介で八藤副社長に面会する。社長までセールスをやるのかと問われた江戸英雄氏は、これがビル会社の社長の一番大事な仕事だと答え、この面会で本社の移転が決まった。同じようにして全日空やシェル石油とも契約がまとまり、開館時の成約は7割に達した。国際電信電話はその後、新宿にビルを新築して移転している。

  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
    • [1]霞が関ビルの完工 1968年4月・その1年前から貸し付けを開始
    • [2]オフィス部分はビル不況でなかなか契約に結びつかなかった
    • [3]三井不動産社長 江戸英雄によるテナント獲得への直接関与
    • [4]大手町の本社が手狭で困っていた
    • [5]大和田悌二(元逓信次官)の紹介で八藤副社長に面会
    • [6]八藤副社長の「社長までセールスをやるのですか」との問いと本社移転の決定
    • [7]全日空・シェル石油なども契約し開館時の成約は70%
    • [8]その後は新宿にビルを新築して移転

1926年に大阪の呉服屋に生まれた市原博氏は、1953年の設立と同時に電電公社から移った技術者のひとりで、のちに社長となった。大学で電気工学を専攻し、1948年に京都大学工学部を卒業している。通信省と電電公社を経て1953年に国際電信電話へ入社し、日米間の海底ケーブル敷設と衛星通信の導入という最先端の技術に携わった。海底ケーブルの敷設では、第一線で米国側と技術的な詰めを担当している。その後は国際部次長、回線統制部長を歴任した。設備を作る仕事が、そのまま相手国の事業者との交渉になる職場だった。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [9]市原博 1926年大阪府生まれ・生家は大阪の呉服屋
    • [10]大学で電気工学を専攻し技術畑一筋で進むと決めた
    • [11]市原博 1948年京都大学工学部卒業・通信省・電電公社を経て1953年国際電信電話入社
    • [12]日米間の海底ケーブル敷設や衛星通信の導入など最先端の技術に従事
    • [13]海底ケーブルの敷設では第一線にあって米国側と技術的な詰めを担当
    • [14]市原博の歴任 国際部次長・回線統制部長
    • [15]海底ケーブル敷設で米国側と技術的な詰めを行う仕事の性格

霞が関ビルへ入った本社は、その後に新宿へビルを新築して移った。国際電信電話は1969年3月に新宿副都心の街区へ用地を確保する計画を立てたが、敷地は東京都の所有で大半の区画は売却先が決まっており、交渉は曲折を経て、1万675平方メートルを総額約52億円、1972年度までの5回の分割払いで取得した。地上32階・高さ約165メートルのKDDビルは、通信施設を収めるため一般のオフィスビルとは大きく異なる構造をとり、総工費は約310億円、1974年6月に完成して創業以来最大の投資となった。完成した時点では通信施設の工事が途中で、収入につながらないままビル管理の費用だけが増えた。国際テレックス電子交換設備が1976年8月、国際電話電子交換システムが1977年2月に動き出して、建物はようやく働き始めた。

  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
    • [16]国際電信電話は霞が関ビルへの移転後に新宿へビルを新築して移転
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「国際通信の多様化時代」
    • [17]1969年3月 新宿副都心計画街区内に用地確保を計画・東京都所有の敷地1万675.51平方メートルを総額約52億円で1972年度までに5回の分割払いにより取得
    • [18]KDDビルは地上32階・高さ約165メートル・通信施設の収容により一般のオフィスビルと大幅に異なる構造・総工費約310億円・1974年6月完成・創業以来最大の投資
    • [19]ビル完成当初は通信施設が建設途中で当面直接収入につながらず、ビル管理のための費用は増大して大きな負担となった
    • [20]国際テレックス電子交換設備 1976年8月稼働・国際電話電子交換システム 1977年2月稼働
参考文献[1]-[20]
  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)
    • [1]霞が関ビルの完工 1968年4月・その1年前から貸し付けを開始
    • [2]オフィス部分はビル不況でなかなか契約に結びつかなかった
    • [3]三井不動産社長 江戸英雄によるテナント獲得への直接関与
    • [4]大手町の本社が手狭で困っていた
    • [5]大和田悌二(元逓信次官)の紹介で八藤副社長に面会
    • [6]八藤副社長の「社長までセールスをやるのですか」との問いと本社移転の決定
    • [7]全日空・シェル石油なども契約し開館時の成約は70%
    • [8]その後は新宿にビルを新築して移転
    • [16]国際電信電話は霞が関ビルへの移転後に新宿へビルを新築して移転
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [9]市原博 1926年大阪府生まれ・生家は大阪の呉服屋
    • [10]大学で電気工学を専攻し技術畑一筋で進むと決めた
    • [11]市原博 1948年京都大学工学部卒業・通信省・電電公社を経て1953年国際電信電話入社
    • [12]日米間の海底ケーブル敷設や衛星通信の導入など最先端の技術に従事
    • [13]海底ケーブルの敷設では第一線にあって米国側と技術的な詰めを担当
    • [14]市原博の歴任 国際部次長・回線統制部長
    • [15]海底ケーブル敷設で米国側と技術的な詰めを行う仕事の性格
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「国際通信の多様化時代」
    • [17]1969年3月 新宿副都心計画街区内に用地確保を計画・東京都所有の敷地1万675.51平方メートルを総額約52億円で1972年度までに5回の分割払いにより取得
    • [18]KDDビルは地上32階・高さ約165メートル・通信施設の収容により一般のオフィスビルと大幅に異なる構造・総工費約310億円・1974年6月完成・創業以来最大の投資
    • [19]ビル完成当初は通信施設が建設途中で当面直接収入につながらず、ビル管理のための費用は増大して大きな負担となった
    • [20]国際テレックス電子交換設備 1976年8月稼働・国際電話電子交換システム 1977年2月稼働

1972年〜国交のない国へ持ち込んだ衛星通信装置と、注文を取りに行かない事業

国交のない相手と24時間態勢で交渉するには通信の確保が欠かせず、1972年に田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊が訪中した際は、技術者として同行した市原氏らが小型の衛星通信装置を運び込み、どうにか臨時回線をつないだ。後年の本人はこれを『この時は大変だった』と述べている。1976年のデータ通信部長就任が転機になり、コンピューターとの接続まで絡む難しい技術の世界では技術を知らなければ顧客に満足な営業はかけられないとして、話術で売り込んだ経験のなかった市原氏自身が利用者訪問の先頭に立った。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [21]1972年 田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊に技術者として同行
    • [22]24時間通信できる態勢のため小型の衛星通信装置を持ち込み臨時の回線を開設
    • [23]市原博の回想「この時は大変だった」
    • [24]1976年 データ通信部長就任が転機・データ通信はコンピューターとの接続など難しい技術を伴う
    • [25]それまでセールストークと縁がなかったがユーザー回りの先頭に立った

この時期の国際電信電話に営業活動と呼べるものはほとんどなく、1970年代末の営業利益率は20%に達し、料金は認可制で、顧客はほかに選ぶ相手を持たなかった。市原氏は1979年に営業部長、1980年に東京支社副支社長へ進み、1982年に取締役、1987年に常務、1989年に副社長となった。役員のなかで誰よりも営業に通じているという評価は、この経歴から来ている。のちに国内向けの販売促進で休日出勤を重ねた営業本部の岡田哲也担当課長が『入社以来こうした営業は初めて』と述べたのは1997年のことで、それまでの40年余りは注文を取りに行く必要のない事業だった。

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
    • [26]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1970年代末の水準は20%
    • [29]営業本部の岡田哲也担当課長の「入社以来こうした営業は初めて」との発言
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [27]市原博の経歴 1979年営業部長・1980年東京支社副支社長・1982年取締役・1987年常務・1989年副社長
    • [28]役員の中で誰よりも営業に通じているとの評価

注文を取りに行かない代わりに、この会社で営業にあたる仕事は相手国の事業者との協定づくりだった。1966年10月5日からの2日間、国際電信電話は米国のAT&T・ハワイ電話会社・RCA・ITTと通信衛星会社(COMSAT)の首脳を東京へ迎えて日米衛星通信会議を開き、衛星回線の計画は弾力的なものとし、実際の需要が生じたときに関係者で協議して所要回線を決めることなどを取り決めた。会議の決定にもとづいて国際電信電話が運用協定の草案を作り、RCAとITTとは1967年1月27日、AT&Tとハワイ電話会社とは同年3月10日に協定を結んだ。日本側の端末から衛星までは国際電信電話が、米国側は相手の事業者が責任をもって設定し運用するという分担である。太平洋衛星は1967年1月27日、日米間のテレビ番組の交換をもって正式に開通した。

  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信の商用開始」
    • [30]1966年10月5〜6日 AT&T・HTC・RCA・ITT・COMSATの首脳を東京に迎えた日米衛星通信会議で、衛星回線の計画は弾力的なものとし実際の需要が生じた際に関係者間で協議して所要回線を決定すると決めた
    • [31]KDDが運用協定草案を作成しRCA・ITTとは1967年1月27日、AT&T・HTCとは同年3月10日に衛星通信運用協定を締結
    • [32]日本側端末から衛星までの区間はKDDが、米国側端末から衛星までの区間は米国側事業者がそれぞれ責任をもって設定し運用する
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信誕生の意義」
    • [33]太平洋衛星の正式開通は1967年1月27日・日米間のテレビ番組交換により記念された
参考文献[21]-[33]
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [21]1972年 田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊に技術者として同行
    • [22]24時間通信できる態勢のため小型の衛星通信装置を持ち込み臨時の回線を開設
    • [23]市原博の回想「この時は大変だった」
    • [24]1976年 データ通信部長就任が転機・データ通信はコンピューターとの接続など難しい技術を伴う
    • [25]それまでセールストークと縁がなかったがユーザー回りの先頭に立った
    • [27]市原博の経歴 1979年営業部長・1980年東京支社副支社長・1982年取締役・1987年常務・1989年副社長
    • [28]役員の中で誰よりも営業に通じているとの評価
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
    • [26]KDDの営業利益率は20年で20%から5%へ低下し1970年代末の水準は20%
    • [29]営業本部の岡田哲也担当課長の「入社以来こうした営業は初めて」との発言
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信の商用開始」
    • [30]1966年10月5〜6日 AT&T・HTC・RCA・ITT・COMSATの首脳を東京に迎えた日米衛星通信会議で、衛星回線の計画は弾力的なものとし実際の需要が生じた際に関係者間で協議して所要回線を決定すると決めた
    • [31]KDDが運用協定草案を作成しRCA・ITTとは1967年1月27日、AT&T・HTCとは同年3月10日に衛星通信運用協定を締結
    • [32]日本側端末から衛星までの区間はKDDが、米国側端末から衛星までの区間は米国側事業者がそれぞれ責任をもって設定し運用する
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信誕生の意義」
    • [33]太平洋衛星の正式開通は1967年1月27日・日米間のテレビ番組交換により記念された

1962年〜折半投資・折半分収を通したTPC-1と、開通後に入れ替わった収入の中身

太平洋へケーブルを敷く構想は、1957年5月に社内へ置かれた海底線調査班から始まった。同年8月に欧米を歴訪した町田辰次郎社長らがAT&Tへ打診を重ね、1959年2月から東京で瀬踏みの討議に入った。争点は、日本・米本土間の通話に使う米本土・ハワイ間ケーブルへの補償の形だった。国際電信電話は料金を無線と同じく折半分収とすべきであり、そのためにはハワイのケーブルにも相応の投資が認められるべきだと主張し、AT&Tはハワイが州へ昇格した以上その区間は州際施設であり他国の投資は認められないとして対立した。決着は、ハワイ以東への投資に相当する額を日本・ハワイ間へ追加で投じ、全体として折半投資の形を作るという国際電信電話の対案で付いた。折半投資と折半分収は日本の利益のためだけでなく、将来この系へ東南アジア諸国を誘うためにも譲れないとした八藤東晴取締役の主張が、相手を動かしたという。

  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「第一太平洋横断ケーブル(TPC-1)」
    • [34]1957年5月 社内に海底線調査班を設置して海底ケーブルの調査研究
    • [35]1957年8月 欧米を歴訪した町田社長・佐々木営業部次長がTAT-1や建設中のハワイケーブルの情報を持ち帰りAT&Tへ太平洋ケーブル建設を打診
    • [36]1959年2月 AT&Tのボトキン氏らを東京に迎えTPC-1建設の可能性についての瀬踏み的討議を開始・郵政省とNTTもオブザーバーとして同席
    • [37]AT&Tとの会談で最後まで問題となったのは日本・米本土間業務に使用する米本土・ハワイ間ケーブルの使用に対してKDDがいかなる形で補償するかであった
    • [38]KDDは料金を無線同様に折半分収とすべくハワイケーブルへの投資を主張・AT&Tはハワイの州昇格により州際施設となったとして他国の投資を拒否
    • [39]ハワイ以東へのKDD投資相当額を日本・ハワイ間で追加投資して全体として折半投資とし料金は折半分収とするKDDの対案をAT&Tが了承
    • [40]折半投資・折半分収は日本の利益のみでなく将来東南アジア諸国をこのケーブル系に誘うためにも絶対に譲れないとした八藤取締役の信念が先方を動かして合意に達した

建設保守協定は1962年1月31日に郵政省と大蔵省の認可を受け、2月6日に東京で渋沢敬三社長が、10日にホノルルでハワイ電話会社の社長が、14日にニューヨークでAT&Tの副社長が署名して成立した。ルートの選定でも対立があり、国際電信電話が陸揚地を神奈川県二宮付近として富士火山列島の東側を通る案を出したのに対し、AT&Tは西側をよしとしたため、1961年4月から6月にかけて海上保安庁の測量船で2度の海洋調査をおこない、最終的に東側が採られた。二宮に約6,000平方メートルの用地を取得して陸揚局を建て、二宮・グアム・ウェーク・ミッドウェー・ハワイを結ぶ全長5,277海里のケーブルに274個の海底中継器を入れた。敷設は1964年1月にハワイ側から始まって5月15日に完了し、6月19日、池田勇人首相とジョンソン大統領のメッセージ交換による開通式をもって商用に供された。

  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「第一太平洋横断ケーブル(TPC-1)」
    • [41]建設保守協定は1962年1月31日に郵政省・大蔵省の認可を受け2月6日東京でKDD渋沢社長、10日ホノルルでHTCギルド社長、14日ニューヨークでAT&Tキリングスワース副社長が署名して成立
    • [42]KDDは陸揚地を神奈川県二宮付近とし富士火山列島の東側ルートを提案・AT&Tは西側を主張・1961年4〜6月に海上保安庁の測量船で2回の海洋調査を実施し東側ルートを採用
    • [43]1962年3月 神奈川県二宮町に陸揚局用地約6,000平方メートルを購入・同年11月に局舎の建築を開始し翌年8月に完成
    • [44]TPC-1は二宮・グアム・ウェーク・ミッドウェー・ハワイを結ぶ全長5,277海里・海底中継器274個・海底等化器26個
    • [45]敷設工事は1964年1月にハワイ側から開始・5月3日に二宮陸揚・5月15日にすべて完了
    • [46]1964年6月19日 池田首相とジョンソン大統領のメッセージ交換にはじまる開通式によりTPC-1が商用に供された

共同建設部分の総建設費は約243億円で、国際電信電話は回線の割当比率にしたがって約37%にあたる90億円を負担した。この90億円はAT&Tが立て替えた資材代などを毎月支払う性質の金であり、国内の金融市場も当時の外貨事情も厳しかった。AT&Tは連邦通信委員会の立場から外国の通信事業者への財政的な援助はできないと断ったうえで、外債の募集には協力を惜しまないと応じ、投資銀行のキダー・ピーボディが私募の形で2,500万ドル、当時の為替レートで90億円を組み、エクィタブル生命が1,500万ドルを引き受けた。1962年9月に濱口社長らが引受先9社と調印した外債は、償還期限15年・利率年6分7厘5毛という条件だった。翌1963年には資本金を倍額の66億円へ増やして建設費に充て、開通した年度の国際電話収入は9カ月ほどで約15億円と前年度比60%以上増え、開通前のほぼ2年分を1年であげた。短波の時代に慢性的な赤字事業と言われていた国際電話への見方は、ここで崩れた。

  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「第一太平洋横断ケーブル(TPC-1)」
    • [47]TPC-1の共同建設部分の総建設費は約243億円・KDDは回線割当比率により約37%にあたる約90億円を負担
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「広帯域通信への移行時代」
    • [48]KDDが分担する90億円は建設の進行につれてAT&Tが立て替えるケーブル・中継器等の代金を毎月支払うもので、国内の金融市場も当時の外貨事情も厳しかった
    • [49]AT&Tは独占禁止法とFCCの立場から外国の通信事業者への財政的援助はできないと断ったが、外債を米国内で募集するならできる限りの援助協力を惜しまないとした
    • [50]投資銀行キダー・ピーボディが私募方式で2,500万ドル(当時の為替レート360円で90億円)を組みエクィタブル生命が1,500万ドルを引受
    • [51]1962年9月 濱口社長らが引受先9社と外債の契約に調印・償還期限15年・利率年6分7厘5毛
    • [53]1964年度の国際電話収入は9カ月ほどで約15億円・前年度比60%以上の増収でケーブル開通前のほぼ2年間分の収入を1年であげた
    • [54]TPC-1の開通により国際電話は飛躍的な伸びを示し「国際電話は慢性的な赤字事業」という短波通信時代のジンクスを破った
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「株式に関する経緯」
    • [52]1963年 資本金33億円の倍額増資により資本金66億円・TPC-1の建設費の一部に充当
参考文献[34]-[54]
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「第一太平洋横断ケーブル(TPC-1)」
    • [34]1957年5月 社内に海底線調査班を設置して海底ケーブルの調査研究
    • [35]1957年8月 欧米を歴訪した町田社長・佐々木営業部次長がTAT-1や建設中のハワイケーブルの情報を持ち帰りAT&Tへ太平洋ケーブル建設を打診
    • [36]1959年2月 AT&Tのボトキン氏らを東京に迎えTPC-1建設の可能性についての瀬踏み的討議を開始・郵政省とNTTもオブザーバーとして同席
    • [37]AT&Tとの会談で最後まで問題となったのは日本・米本土間業務に使用する米本土・ハワイ間ケーブルの使用に対してKDDがいかなる形で補償するかであった
    • [38]KDDは料金を無線同様に折半分収とすべくハワイケーブルへの投資を主張・AT&Tはハワイの州昇格により州際施設となったとして他国の投資を拒否
    • [39]ハワイ以東へのKDD投資相当額を日本・ハワイ間で追加投資して全体として折半投資とし料金は折半分収とするKDDの対案をAT&Tが了承
    • [40]折半投資・折半分収は日本の利益のみでなく将来東南アジア諸国をこのケーブル系に誘うためにも絶対に譲れないとした八藤取締役の信念が先方を動かして合意に達した
    • [41]建設保守協定は1962年1月31日に郵政省・大蔵省の認可を受け2月6日東京でKDD渋沢社長、10日ホノルルでHTCギルド社長、14日ニューヨークでAT&Tキリングスワース副社長が署名して成立
    • [42]KDDは陸揚地を神奈川県二宮付近とし富士火山列島の東側ルートを提案・AT&Tは西側を主張・1961年4〜6月に海上保安庁の測量船で2回の海洋調査を実施し東側ルートを採用
    • [43]1962年3月 神奈川県二宮町に陸揚局用地約6,000平方メートルを購入・同年11月に局舎の建築を開始し翌年8月に完成
    • [44]TPC-1は二宮・グアム・ウェーク・ミッドウェー・ハワイを結ぶ全長5,277海里・海底中継器274個・海底等化器26個
    • [45]敷設工事は1964年1月にハワイ側から開始・5月3日に二宮陸揚・5月15日にすべて完了
    • [46]1964年6月19日 池田首相とジョンソン大統領のメッセージ交換にはじまる開通式によりTPC-1が商用に供された
    • [47]TPC-1の共同建設部分の総建設費は約243億円・KDDは回線割当比率により約37%にあたる約90億円を負担
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「広帯域通信への移行時代」
    • [48]KDDが分担する90億円は建設の進行につれてAT&Tが立て替えるケーブル・中継器等の代金を毎月支払うもので、国内の金融市場も当時の外貨事情も厳しかった
    • [49]AT&Tは独占禁止法とFCCの立場から外国の通信事業者への財政的援助はできないと断ったが、外債を米国内で募集するならできる限りの援助協力を惜しまないとした
    • [50]投資銀行キダー・ピーボディが私募方式で2,500万ドル(当時の為替レート360円で90億円)を組みエクィタブル生命が1,500万ドルを引受
    • [51]1962年9月 濱口社長らが引受先9社と外債の契約に調印・償還期限15年・利率年6分7厘5毛
    • [53]1964年度の国際電話収入は9カ月ほどで約15億円・前年度比60%以上の増収でケーブル開通前のほぼ2年間分の収入を1年であげた
    • [54]TPC-1の開通により国際電話は飛躍的な伸びを示し「国際電話は慢性的な赤字事業」という短波通信時代のジンクスを破った
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「株式に関する経緯」
    • [52]1963年 資本金33億円の倍額増資により資本金66億円・TPC-1の建設費の一部に充当

筆者考察

営業を持たない会社にとって、事業を広げるとは客を増やすことではなく、相手国の事業者と結ぶ協定を増やすことだった。国際通信の回線は片側だけでは1本も通らず、料金も回線数も相手との合意でしか決まらない。1966年10月に東京へAT&T・ハワイ電話会社・RCA・ITTと通信衛星会社の首脳を迎えた会議で決めたのは、需要が生じたときに関係者で協議して所要回線を決めるという運び方であり、翌1967年の運用協定が定めたのは、日本側の端末から衛星までを国際電信電話が受け持つという分担だった。交渉の巧拙がそのまま設備の持ち分になる事業である。

その原則が最もはっきり出たのが、第一太平洋横断ケーブルの投資をめぐる対立だった。国際電信電話は料金の折半分収を通すため、米本土・ハワイ間のケーブルにも相応の投資を認めよと主張し、AT&Tはハワイが州へ昇格した以上その区間は州際施設であるとして拒んだ。決着は、ハワイ以東への投資に相当する額を日本・ハワイ間へ回し、全体として折半投資の形を作るという対案で付いた。負担した90億円は当時の年間の営業収益に迫る額で、独占を法で守られた会社でも、資金の調達では米国の投資銀行と保険会社の値踏みを受けた。開通の年度、国際電話の収入はケーブル開通前の2年分を1年であげた。

国際電信電話の売上高 1964年3月期〜1978年3月期(億円)

108 1964 129 1965 148 1966 179 1967 206 1968 237 1969 287 1970 353 1971 391 1972 483 1973 619 1974 681 1975 771 1976 906 1977 1,071 1978
  • 単体。各年3月期。
  • 出所は会社年鑑(東洋経済新報社)各年版の半期合算。

1960年〜1978年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 78 n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 89 +14.1% n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 108 n/a n/a 21 19.4% n/a
1965年03月期 単体 129 +19.4% n/a 18 14.0% n/a
1966年03月期 単体 148 +14.7% n/a 22 14.9% n/a
1967年03月期 単体 179 +20.9% n/a 34 19.0% n/a
1968年03月期 単体 206 +15.1% n/a 41 19.9% n/a
1969年03月期 単体 237 +15.0% n/a 45 19.0% n/a
1970年03月期 単体 287 +21.1% n/a 48 16.7% n/a
1971年03月期 単体 353 +23.0% 89 53 15.0% n/a
1972年03月期 単体 391 +10.8% 97 56 14.3% n/a
1973年03月期 単体 483 +23.5% 140 74 15.3% n/a
1974年03月期 単体 619 +28.2% 189 101 16.3% n/a
1975年03月期 単体 681 +10.0% 143 71 10.4% n/a
1976年03月期 単体 771 +13.2% 154 74 9.6% n/a
1977年03月期 単体 906 +17.5% 196 91 10.0% n/a
1978年03月期 単体 1,071 +18.2% 222 92 8.6% n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「国際通信の多様化時代」
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信の商用開始」
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「衛星通信誕生の意義」
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「第一太平洋横断ケーブル(TPC-1)」
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「広帯域通信への移行時代」
  • 国際電信電話株式会社二十五年史(国際電信電話、1979年)「株式に関する経緯」
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
  • 私の履歴書 経済人18「江戸英雄」(日本経済新聞社、1981年)

免責事項およびポリシー