第1章 年〜年

ニッコンホールディングス:黒岩恒雄氏の日本梱包運搬社と二段積載車による完成車輸送

1953年〜本田技研を荷主に資本金100万円で興した日本梱包運搬社と、ホンダ二輪を運ぶ二段式トラック

1953年8月27日、黒岩恒雄氏は資本金100万円で株式会社日本梱包運搬社を設立し、代表取締役に就任した。黒岩恒雄氏の前歴は、1946年4月の中国からの復員と、1948年7月の日本運搬社築地荷扱所への入社である。1950年春、ホンダ東京事務所の重さ約1トンの金庫の移設を請け負い、運送業者として本田技研工業の信頼の獲得。その後はホンダ東京工場で二輪車と部品の梱包・駅出しを担い、黒岩恒雄氏が現場を指揮した。1953年6月に黒岩恒雄氏が退職を決めると、日本運搬社はホンダ関連業務の継続を断念し、業務と従業員の新会社への移管を決めた。新会社はホンダの製品と部品の荷造梱包・運送を主な業務とし、創業時の従業員は48名だった。黒岩恒雄氏は当時を、『いずれは日本一の会社にしてやろうという、大きな夢をもっていました』と回想している。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「一章 日本梱包運搬社の誕生」
    • [1]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
    • [5]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
    • [7]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「序章 設立まで」
    • [2]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
    • [3]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
    • [4]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
  • 証券 22(8) 1970年
    • [6]黒岩恒雄は1953年8月に本田技研工業製品の荷造梱包・運送を主体業務として日本梱包運搬社(資本金100万円)を設立

ホンダがドリーム号・ベンリイ号を増産すると、日本梱包運搬社は輸送力の増強と、輸送と梱包の経費の引き下げを迫られた。1955年12月、いすゞの5トンディーゼル車を購入し、外部の車両に依存していた大型車を社有車へ切り替え始めた。翌1956年には大型車に上下2段の荷台を架装し、二輪車を梱包せずに積む裸輸送に移行。第1号のいすゞ5トン車は、2段合わせてドリーム号16台を積めた。1台ずつ木枠に収める梱包は量産に追いつかず、木材価格の高騰で費用もかさんでいた。この2段積みの二輪車専用車は国内最初の考案で、輸送コストの削減につながった。梱包の手間をなくす工夫が、ホンダの流通コストを下げる差別化要因になったとみられる。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「一章 日本梱包運搬社の誕生」
    • [8]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [9]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [10]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [11]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [12]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
  • 証券 22(8) 1970年
    • [13]1956年に国内最初の二段積オートバイ専用輸送車両を考案し輸送コスト削減に貢献

1957年、日本梱包運搬社は日野のバス用シャーシーを使い、エンジンを床下に置く車両を2段積みに改造した。ボンネットの分も荷台にでき、長さ9.6メートルの日野BD10型はドリーム号28台を積めた。貨車1両の24台を上回る積載量から、業務の中心は貨車便の駅出しからトラックの長距離輸送へ移った。大和工場の二輪車は関東から東海・甲信越・東北まで陸送され、貨車は北海道・九州向けに限られるようになった。1956年4月の限定免許では積荷がホンダ製品に限られ、季節の波で秋冬に大型車が遊休化しやすかった。1957年12月、東京・埼玉・横浜を区域とする一般区域貨物自動車運送事業の免許を受け、ホンダ以外の荷も運べるようになった。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「一章 日本梱包運搬社の誕生」
    • [14]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [15]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [16]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [17]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [18]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
  • 証券 22(8) 1970年
    • [19]1957年に東京・埼玉等で一般区域貨物自動車運送事業免許を受け、大型車による本格的な運送事業を開始
参考文献[1]-[19]
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「一章 日本梱包運搬社の誕生」
    • [1]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
    • [5]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
    • [7]1953年8月27日設立総会、黒岩恒雄が代表取締役、資本金100万円、創業時従業員48名。日本運搬社がホンダ関連業務を断念し黒岩に引き継いだ
    • [8]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [9]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [10]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [11]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [12]ホンダ二輪車の増産で輸送能力増強と輸送・梱包経費低減を迫られ、1955年12月いすゞ5トン車購入、1956年二段式コンテナ車で裸輸送開始。第1号はドリーム号16台積載。梱包が量産に追いつかず木材価格も高騰
    • [14]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [15]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [16]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [17]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
    • [18]1957年日野バスシャーシーでアンダーフロア二段車を開発、日野BD10型でドリーム号28台積載、貨車1両は24台。貨車便駅出しからトラック長距離輸送へ転換。1956年4月限定免許、季節で遊休化
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「序章 設立まで」
    • [2]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
    • [3]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
    • [4]黒岩恒雄は1946年4月に復員、1948年7月に日本運搬社築地荷扱所に入社。1950年春のホンダ東京事務所の金庫移設で信頼を得、ホンダ東京工場で梱包・駅出しを担った
  • 証券 22(8) 1970年
    • [6]黒岩恒雄は1953年8月に本田技研工業製品の荷造梱包・運送を主体業務として日本梱包運搬社(資本金100万円)を設立
    • [13]1956年に国内最初の二段積オートバイ専用輸送車両を考案し輸送コスト削減に貢献
    • [19]1957年に東京・埼玉等で一般区域貨物自動車運送事業免許を受け、大型車による本格的な運送事業を開始

1958年〜スーパーカブを追って鈴鹿に開設した従業員40名の荷扱所と、店頭公開と前後した労働争議

1960年1月、日本梱包運搬社は三重県鈴鹿市に鈴鹿荷扱所を開設し、ホンダ鈴鹿製作所の製品輸送と部品の保管を請け負った。スーパーカブ号の量産開始に合わせた拠点で、従業員は約40名、車両はオート三輪5台だった。鈴鹿での運送事業の免許申請は認められず、同じ1960年1月に四日市市の豊田貨物自動車運送を買収した。買収先は四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送となり、鈴鹿荷扱所の業務と施設を引き継いだ。免許が下りない理由は地元業者の反対で、名古屋梱包運搬社と仙台梱包運搬社も地元の別会社として免許を受けた。免許の地域割りが、子会社を地域ごとに並べるホンダ輸送網の形を決めたと推察される。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「二章 輸送基地の確立と営業網の拡大」
    • [20]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [21]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [22]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [23]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
  • 証券 22(8) 1970年
    • [24]関係会社設立の理由は、地元業者の反対で免許が受けられないため地元業者として別会社を発足させたこと(日本陸送・名古屋梱包運搬社・仙台梱包運搬社)

1960年6月1日、日本梱包運搬社に全国自動車運輸労働組合系の労働組合が結成され、6月3日に抜き打ちのストライキが始まった。車両の運行は止まり、影響はホンダの生産と出荷にも波及。同じ日の夕刻には大多数の従業員が別の組合を結成し、元の組合からの離脱が相次いだ。ストは3日後に解除されたものの、業務の正常化には約1週間を要した。争議前にホンダの輸送の80%を担っていた日本梱包運搬社は、第一次輸送でホンダ子会社の参入を招き、輸出梱包を他社に譲った。黒岩恒雄氏は、『それまでは管理不在で、人間関係で組織がもっていたわけです』と争議前の管理を総括した。ホンダの物流をほぼ一手に担っていた地位は、この争議を境に崩れたと考えられる。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「二章 輸送基地の確立と営業網の拡大」
    • [25]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [26]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [28]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [29]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [30]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
  • 証券 22(8) 1970年
    • [27]労働組合結成直後にスト、反対派が第二組合を結成し3日のうちに第一組合員の約90%が移った

日本梱包運搬社は1959年10月から3回の倍額増資を重ね、資本金は1961年5月に6400万円となった。その間に車両は1959年7月の81両から1961年7月の151両へ増え、浜松・朝霞・鈴鹿に輸送基地を設けた。1961年12月、資金調達を容易にするため株式を店頭公開し、東京証券取引所への上場の足がかりとした。1963年1月に東京地区の店頭へ仮登録し、6月に店頭銘柄として本登録を済ませた。額面を500円から50円へ下げるため、1965年5月25日に形式上の存続会社である同名の休眠会社へ吸収合併される手続きをとった。増資と店頭公開は、車両と拠点を広げ続ける資金の手当てだったと思われる。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「二章 輸送基地の確立と営業網の拡大」
    • [31]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [32]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [33]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [34]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
  • 証券 22(8) 1970年
    • [35]1965年5月25日、額面500円を50円にするため形式上の存続会社である日本梱包運搬社(資本金200万円)に吸収合併
参考文献[20]-[35]
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「二章 輸送基地の確立と営業網の拡大」
    • [20]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [21]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [22]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [23]1960年1月鈴鹿荷扱所開設(従業員約40名、オート三輪5台)。免許申請が認められず同月四日市の豊田貨物自動車運送を買収、四日市日本梱包運搬社を経て日本陸送とし鈴鹿の業務を引継ぎ
    • [25]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [26]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [28]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [29]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [30]1960年6月1日全自運系労組結成、6月3日抜き打ちスト、ホンダの生産出荷に影響。3日後解除、正常化に約1週間。争議前ホンダ輸送の80%、争議後ホンダ子会社参入・輸出梱包は他社へ
    • [31]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [32]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [33]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
    • [34]1959年10月1600万円・1960年1月3200万円・1961年5月6400万円に倍額増資。車両81両→151両。1961年12月資金調達を容易にするため店頭公開、1963年1月仮登録・6月本登録
  • 証券 22(8) 1970年
    • [24]関係会社設立の理由は、地元業者の反対で免許が受けられないため地元業者として別会社を発足させたこと(日本陸送・名古屋梱包運搬社・仙台梱包運搬社)
    • [27]労働組合結成直後にスト、反対派が第二組合を結成し3日のうちに第一組合員の約90%が移った
    • [35]1965年5月25日、額面500円を50円にするため形式上の存続会社である日本梱包運搬社(資本金200万円)に吸収合併

1962年〜三芳町の営業倉庫で始めた流通倉庫と、梱包・運輸・倉庫を並べた日本梱包運輸倉庫への社名変更

1964年2月、埼玉県入間郡三芳町の三芳荷扱所1号倉庫が一類倉庫の認可を受け、日本梱包運搬社は営業倉庫を始めた。2階建ての1号倉庫は1963年11月に完成していた建物である。それ以前の1960年から1961年には、ホンダ製品の保管先が都内から神奈川・埼玉・長野・栃木・茨城へ広がった。浜松と朝霞でも1000平方メートルを超す倉庫を相次いで建て、保管量の増大への対応を進めた。メーカーは自社で在庫を持つより消費地に近い倉庫を販売の拠点とする方向へ動き、運送業者にも輸送・保管・梱包の一貫した対応が求められた。日本梱包運搬社は1964年に倉庫営業の免許を受け、各営業所に倉庫を置いた。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「三章 経営近代化の推進」
    • [36]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [37]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [38]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [39]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [40]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
  • 証券 22(8) 1970年
    • [41]1964年に倉庫営業の免許を受け、各営業所に倉庫を設置

ホンダは1967年に軽乗用車N360を発売し、二輪車の生産累計は1968年1月に1000万台を超えた。ホンダは生産に集中して物流を専門業者に任せ、日本梱包運搬社は設備の拡張でこの増加に応じた。同時に車両の積載効率を高めるため、ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを荷主に加えた。1967年10月には金沢市に営業所を新設して通運事業免許を取得し、富士重工製品を北陸3県へ配送し始めた。1969年6月には日産自動車を荷主に追浜荷扱所を開設し、同月の岡山荷扱所で農機輸送に参入した。それでも1970年1月期の営業収入に占める本田技研工業の比率は65.6%で、積水化学工業は3.5%、ヤンマー農機は1.7%である。

  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「四章 社業の急進展と内部体制の強化」
    • [42]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [43]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [44]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [45]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [46]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
  • 証券 22(8) 1970年
    • [47]1970年1月期の営業収入に占める比率は本田技研工業65.6%、積水化学工業3.5%、ヤンマー農機1.7%など

1968年10月1日、日本梱包運搬社は商号を日本梱包運輸倉庫株式会社に改めた。旧社名は小規模で保守的な印象を与え、若年労働力が逼迫するなかで人材の確保にも不利とみられた。新社名は社内の公募から選び、営業の3本の事業である梱包・運輸・倉庫をそのまま並べた。1969年1月には1株75円で84万8000株を公募し、資本金を3億円とした。半期の売上高は1967年7月期の930百万円から1969年7月期の1,480百万円へ増加。倉庫は1969年8月から1970年1月の期に40棟・4万5217平方メートルに達した。社名に倉庫を掲げたことは、1970年8月の東証二部上場を前に事業の中身を外へ示す意味を持ったのだろう。

  • 証券 22(8) 1970年
    • [48]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
    • [51]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
    • [52]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「四章 社業の急進展と内部体制の強化」
    • [49]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル
    • [50]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル
    • [53]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル
参考文献[36]-[53]
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「三章 経営近代化の推進」
    • [36]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [37]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [38]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [39]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
    • [40]1963年11月三芳1号倉庫完成、1964年2月一類倉庫の認可で営業開始。1960〜61年に近県へ保管拡大、浜松・朝霞に1000平方メートル超の倉庫。メーカーが消費地近くの倉庫を流通拠点にする流れ
  • 証券 22(8) 1970年
    • [41]1964年に倉庫営業の免許を受け、各営業所に倉庫を設置
    • [47]1970年1月期の営業収入に占める比率は本田技研工業65.6%、積水化学工業3.5%、ヤンマー農機1.7%など
    • [48]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
    • [51]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
    • [52]半期の売上高は1967年7月期930百万円、1969年7月期1,480百万円。1968年10月1日現商号に変更。1969年1月21日に84万8000株を公募(発行価格は1株75円)し資本金3億円。1970年8月1日東証二部上場
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「四章 社業の急進展と内部体制の強化」
    • [42]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [43]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [44]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [45]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [46]1967年N360発売、二輪車生産累計1968年1月1000万台。ホンダは物流を専門業者に任せる方針。ホンダ以外の自動車・農機・家電メーカーを開拓。1967年10月金沢で通運事業免許、富士重工製品を北陸3県へ。1969年6月追浜(日産)・岡山(農機)荷扱所
    • [49]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル
    • [50]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル
    • [53]1968年10月1日日本梱包運輸倉庫株式会社に商号変更。旧社名は小規模で保守的なイメージ、若年労働力逼迫で人材確保の面からも変更。社内公募、梱包・運輸・倉庫の三本柱を表現。第25期(1969年8月〜1970年1月)倉庫40棟・45,217平方メートル

1953年〜1969年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年07月期 単体 27 n/a 2 7.4% n/a

出所:会社年鑑(1971年版)半期合算

出典・参考

6件
出典・参考
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「一章 日本梱包運搬社の誕生」
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「序章 設立まで」
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「二章 輸送基地の確立と営業網の拡大」
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「三章 経営近代化の推進」
  • 日本梱包運輸倉庫『二十五年史』1978年「四章 社業の急進展と内部体制の強化」
  • 証券 22(8) 1970年

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