阪急阪神ホールディングス:箕面有馬電気軌道の沿線住宅経営と阪急百貨店の開業
1907年〜資本金550万円で興した箕面有馬電気軌道と、池田室町の月賦住宅・宝塚新温泉
1907年10月19日の箕面有馬電気軌道の創立総会で、社長を置かないまま小林一三氏が専務取締役に就任。母体は1906年の鉄道国有法で国に買収される阪鶴鉄道で、その重役らが梅田から宝塚を経て有馬へ至る電気鉄道を資本金550万円で計画した。ところが日露戦争後の不況で第1回の払込みが進まず、11万株のうち5万4,104株が失権株となった。阪鶴鉄道の監査役だった小林一三氏は、沿線の土地を安く取得して住宅地として売る副業案を示し、北浜銀行頭取の岩下清周氏の後ろ盾を得た。未引受株は根津嘉一郎氏・小野金六氏らが1万株近くを引き受け、残りを北浜銀行がひとまず抱えた。この会社が、のちの阪急グループの出発点にあたる。地価の上昇で株主を安心させる筋書きが、発起人の見放しかけた計画に引受人を呼び戻したと推察される。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [1]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [3]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [4]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [5]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [2]阪鶴鉄道の国有化を受け同社重役が発起人となり資本金550万円で梅田–宝塚–有馬の電鉄を計画。監査役の小林一三は岩下清周の力添えで設立を決心
- Decide 4(2)(28) 1986
- [6]阪急グループは小林一三が明治40年に創設した箕面有馬電気軌道を基礎とする
1910年3月10日、箕面有馬電気軌道は梅田–宝塚24.9kmと箕面–石橋4kmを開業し、18両の木造車で梅田–宝塚を50分で結んだ。開業時の沿線は農村地帯で、乗客の増加はすぐには見込めなかった。そこで開業に先立って沿線の土地を取得し、開業の時点で約82万m2(25万坪)を所有していた。1910年6月には池田室町の約9万1,000m2を区画し、電灯付きの2階建て200戸を建売住宅として売り出した。代金は頭金50円のあと毎月24円を10年かけて払う月賦とし、池田室町の住宅は早くに売り切れた。住宅地の経営はその後も沿線で続き、1955年の時点の規模は約200万坪。住民を先に沿線へ移せば、朝夕の運賃と土地の売却益を同時に得られる計算だったのだろう。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [7]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [8]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [9]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [10]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [11]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- [12]明治43年池田で約3万坪を開き建売200戸を販売、以後沿線約200万坪の住宅地を経営(1955年時点)
1911年5月、箕面有馬電気軌道は武庫川左岸の埋立地に大理石の大浴場を建て、宝塚新温泉として開いた。前年11月には箕面動物園を開設しており、終点の宝塚にも行楽客を運ぶ目当てを置いた。続いて新温泉に洋館を建てて室内プールを備え、宝塚新温泉パラダイスと名づけたものの、プールはのちに閉鎖となった。小林一三氏は三越呉服店の少年音楽隊の人気に着目し、1913年に少女の唱歌隊を募って、指導者に安藤弘氏・安藤ちゑ子氏の夫妻を迎えた。1914年、閉じたプールを改めたパラダイス劇場で第1回公演を催し、これが宝塚歌劇の始まりである。温泉の余興として始めた歌劇が、休日の下り電車を満たす集客の核へ育つ起点になったと思われる。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [13]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [14]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [15]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [16]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- [17]明治44年宝塚新温泉開設、唱歌隊を組織し大正3年パラダイス劇場で第1回公演、宝塚歌劇の誕生
参考文献[1]-[17]
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [1]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [3]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [4]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [5]1907年10月19日創立総会、社長は選出せず小林一三が専務取締役。第1回払込で11万株中5万4,104株が失権。小林は沿線住宅経営案を岩下清周に示し、未引受株のうち1万株近くを根津嘉一郎・小野金六らが、残りを北浜銀行が一時引受
- [7]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [8]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [9]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [10]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [11]1910年3月10日梅田–宝塚24.9km・箕面–石橋4km開業、車両18両、梅田–宝塚50分。開業時に沿線約82万m2を所有。1910年6月池田室町約9万1,000m2で建売200戸、頭金50円・月24円・10年の割賦で完売
- [13]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [14]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [15]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- [16]1911年5月宝塚新温泉開場。1910年11月箕面動物園開設。パラダイスに室内プール。三越の少年音楽隊に倣い1913年少女唱歌隊を編成、安藤弘・ちゑ子夫妻が指導。1914年4月閉鎖プールを500人収容の劇場に改造し第1回公演
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [2]阪鶴鉄道の国有化を受け同社重役が発起人となり資本金550万円で梅田–宝塚–有馬の電鉄を計画。監査役の小林一三は岩下清周の力添えで設立を決心
- Decide 4(2)(28) 1986
- [6]阪急グループは小林一三が明治40年に創設した箕面有馬電気軌道を基礎とする
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- [12]明治43年池田で約3万坪を開き建売200戸を販売、以後沿線約200万坪の住宅地を経営(1955年時点)
- [17]明治44年宝塚新温泉開設、唱歌隊を組織し大正3年パラダイス劇場で第1回公演、宝塚歌劇の誕生
1914年〜北浜銀行の破綻をくぐった小林一三氏と、30.3kmの神戸線を通した阪神急行電鉄
1912年2月、箕面有馬電気軌道は第2期線のうち宝塚–西宮間を先に着工し、山間の難工事となる有馬線を後回しにした。背後では神戸を終点に据える構想が進み、1913年2月に十三から伊丹を経て門戸へ至る線の特許を得た。この線は、西宮–神戸間の特許を持つ灘循環電気軌道と結んで初めて神戸へ届く計画であった。ところが大正初めの不況で、両社と関係の深かった北浜銀行が破綻し、灘循環電気軌道は独力での建設が難しくなった。北浜銀行頭取の高倉藤平氏の勧めで、灘循環電気軌道を阪神電気鉄道へ売却する交渉が始まった。箕面有馬電気軌道は、灘循環電気軌道に頼らず単独で阪神直通線を建設する方針を固めた。創業時に未引受株を抱えた銀行が倒れたことで、神戸への道は自社で切り開くほかなくなった。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [18]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [19]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [20]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [21]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [22]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- [23]欧州大戦前の不況で灘循環電気軌道の事業遂行が危ぶまれ、当社は単独で阪神直通線を建設することに決した
箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道に3つの案を示した。阪神電気鉄道が買収するなら新線の準備費用を払うこと、次に共同経営、最後に自社による買収という順である。阪神電気鉄道は、資金に乏しい相手が人家の少ない山手に線を敷いても脅威にならないと見て、第3案を受け入れた。買収額は14万9,868円で、1916年4月の臨時株主総会で合併を決議した。総会の無効確認を求める訴訟を抱えたまま、1917年2月に軌道敷設特許権の譲渡認可を得た。直通線を将来の幹線と位置づけ、1918年2月4日に社名を阪神急行電鉄へ改めた。訴訟も1918年12月に勝訴が確定し、足かけ3年の争いが終わった。後発の郊外電鉄を軽く見た阪神電気鉄道の判断が、自らの地盤に並ぶ競合線を生んだ。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [24]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [25]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [26]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [27]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [28]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [30]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [29]灘循環鉄道から西宮–神戸間の特許権を譲り受け、1918年2月4日阪神急行電鉄に社名変更
阪神直通線の工費は400万円の見込みで、第1次世界大戦中の資材高騰により予算どおりには進まなかった。阪神急行電鉄は1918年12月と1920年1月に倍額増資を重ね、岸本汽船社長の岸本兼太郎氏から借りた300万円と合わせて建設資金に充てた。神崎川–西宮間は省線沿いの最短経路へ改めようとしたところ伊丹町で反対が起こり、塚口経由に変えて約2kmの遠回りとなった。1920年7月16日、梅田–神戸(上筒井)間と塚口–伊丹間の運転が始まった。梅田–神戸間は30.3km、伊丹支線は2.9kmで、梅田–上筒井を約60分で結んだ。宝塚・箕面の行楽線として出発した会社は、この開業で大阪と神戸を結ぶ都市間の鉄道へ性格を変えたと考えられる。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [31]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [32]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [33]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [35]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [34]1920年7月16日梅田–神戸上筒井間および塚口–伊丹間が運転開始
参考文献[18]-[35]
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [18]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [19]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [20]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [21]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [22]1912年2月宝塚–西宮間着工(有馬線は後回し)。1913年2月十三–伊丹–門戸の特許取得。北浜銀行破綻で灘循環電気軌道の独立経営が困難となり、高倉藤平頭取の勧めで阪神電気鉄道への売却交渉
- [24]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [25]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [26]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [27]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [28]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [30]阪神電気鉄道に3案を提示し第3案(当社買収)で合意、買収額14万9,868円、1916年4月臨時株主総会で決議。株主総会無効確認訴訟の係争中1917年2月特許権譲渡認可、1918年12月勝訴確定
- [31]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [32]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [33]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- [35]工費400万円予定も大戦中の資材高騰。1918年12月・1920年1月に倍額増資、岸本兼太郎から300万円借入。伊丹町の反対で塚口経由に変更し約2km迂回。梅田–神戸30.3km・塚口–伊丹2.9km、梅田–上筒井約60分
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- [23]欧州大戦前の不況で灘循環電気軌道の事業遂行が危ぶまれ、当社は単独で阪神直通線を建設することに決した
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [29]灘循環鉄道から西宮–神戸間の特許権を譲り受け、1918年2月4日阪神急行電鉄に社名変更
- [34]1920年7月16日梅田–神戸上筒井間および塚口–伊丹間が運転開始
1920年〜梅田の5階建てビルに入れた白木屋と、地上8階の阪急百貨店
1920年11月、阪神急行電鉄は梅田駅構内に地下1階・地上5階の阪急ビルを完成させ、2階に直営食堂、3階から5階に本社事務所を置いた。1階の182m2は月1,200円で白木屋に貸し、11月1日に白木屋梅田出張店が開業した。専務の小林一三氏は食堂と百貨店を電鉄直営で営む計画を持ちながら、まず売店を貸してマーケットの動向を確かめる順を選んだ。1925年4月に白木屋との賃貸契約が満了すると、6月に2階・3階を直営の阪急マーケット、4階・5階を食堂として開店した。売場は2フロアで528m2、店員は133名で、開業1カ月に5万8,000円だった売上は同年12月に13万9,000円となった。次の大型店への投資を促したのは、この売場の狭さである。
- 『株式会社阪急百貨店25年史』(1976)1章 阪神急行電鉄株式会社直営
- [36]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- [37]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- [38]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [39]1925年4月白木屋との契約満了、6月2・3階を直営マーケット、4・5階を食堂として開店。店員133名、2・3階計528m2、初月売上5万8,000円、同年12月13万9,000円
- [40]1925年4月白木屋との契約満了、6月2・3階を直営マーケット、4・5階を食堂として開店。店員133名、2・3階計528m2、初月売上5万8,000円、同年12月13万9,000円
売場を広げるため、阪神急行電鉄は御堂筋の正面に地上8階・地下2階のビルを建て、1929年3月に竣工させた。阪急マーケットは阪急百貨店と名を改め、売場総面積は約1万m2となり、4月15日から3日間の開店披露を催した。4月10日の第1期館の落成式では、社長の小林一三氏が屋上で玉串を奉納。この店は世界で初めてのターミナルデパートと位置づけられ、売場に立ったのは電車の運転にあたってきた素人の社員であった。その後も1931年11月、1932年11月、1936年2月と増築を重ね、店の規模を広げた。郊外に住み都心へ通う客が毎日通る駅の上なら、呉服店の上得意を持たなくても売場が成り立つと小林一三氏は読んだ。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [41]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- [42]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- [45]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- 『株式会社阪急百貨店25年史』(1976)1章 阪神急行電鉄株式会社直営
- [43]世界で初めてのターミナルデパート、売場の担い手は電車の運転にあたってきた素人。1929年4月10日第1期館落成式で小林一三阪急電鉄社長が玉串奉納
- [44]世界で初めてのターミナルデパート、売場の担い手は電車の運転にあたってきた素人。1929年4月10日第1期館落成式で小林一三阪急電鉄社長が玉串奉納
神戸線の終点は開業後も市の外れの上筒井にとどまり、神戸の都心には届いていなかった。阪神急行電鉄は1919年12月に神戸市内を地下式とする条件で三宮への延長特許を得たあと、1927年10月に全線を高架式とする変更を申請した。神戸市会は乗り入れを阻む実行委員会を組み、神戸商工会議所の交通部会も反対に加わった。阪神急行電鉄は高架の利点を説く冊子を配って理解を求め、1933年8月2日に内務・鉄道両省の認可で決着した。1936年4月1日に三宮への高架乗り入れを果たし、大阪と神戸の都心どうしを結ぶ高速鉄道となった。一方で戦時統制は強まり、1942年10月には鉄道省から京阪電気鉄道との合併を勧められた。足かけ15年を要した都心乗り入れは、独自の経営判断で路線を延ばした最後の大事業にあたる。
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [46]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [47]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [48]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [49]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [51]1942年10月鉄道省から京阪電気鉄道との合併について正式の勧奨
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [50]1936年4月1日神戸三宮へ高架乗入れ、都市連絡の高速度交通機関となる
参考文献[36]-[51]
- 『株式会社阪急百貨店25年史』(1976)1章 阪神急行電鉄株式会社直営
- [36]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- [37]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- [38]1920年10月30日竣工の5階建て阪急本社ビル、1階182m2を白木屋に月1,200円で賃貸し11月1日開業、2階直営食堂、3〜5階本社。小林専務はマーケットの動向調査として実験的に白木屋へ賃貸
- [43]世界で初めてのターミナルデパート、売場の担い手は電車の運転にあたってきた素人。1929年4月10日第1期館落成式で小林一三阪急電鉄社長が玉串奉納
- [44]世界で初めてのターミナルデパート、売場の担い手は電車の運転にあたってきた素人。1929年4月10日第1期館落成式で小林一三阪急電鉄社長が玉串奉納
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- [39]1925年4月白木屋との契約満了、6月2・3階を直営マーケット、4・5階を食堂として開店。店員133名、2・3階計528m2、初月売上5万8,000円、同年12月13万9,000円
- [40]1925年4月白木屋との契約満了、6月2・3階を直営マーケット、4・5階を食堂として開店。店員133名、2・3階計528m2、初月売上5万8,000円、同年12月13万9,000円
- [41]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- [42]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- [45]御堂筋正面に地上8階・地下2階のビル、1929年3月竣工。阪急百貨店と改め売場約1万m2、4月15〜17日開店披露。1931年11月・1932年11月・1936年2月に拡張
- [46]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [47]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [48]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [49]1919年12月地下式を条件に神戸市内延長線特許、1927年10月全線高架に変更申請。神戸市会の阻止実行委員会・神戸商工会議所交通部会が反対。1933年8月2日決着、足かけ15年
- [51]1942年10月鉄道省から京阪電気鉄道との合併について正式の勧奨
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- [50]1936年4月1日神戸三宮へ高架乗入れ、都市連絡の高速度交通機関となる
出典・参考
5件
- 『株式会社阪急百貨店25年史』(1976)1章 阪神急行電鉄株式会社直営
- 阪急電鉄『75年のあゆみ 記述編』(1982)1章 箕面有馬電気軌道の創立
- 『会社銀行八十年史』(1955)日本会社史 電気鉄道「京阪神急行電鉄」
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)企業の歴史「京阪神急行電鉄」
- Decide 4(2)(28) 1986