第1章 年〜年

大垣共立銀行:第百二十九国立銀行の業務継承による設立

1896年〜第百二十九国立銀行を継いだ資本金75万円の大垣共立銀行と、美濃実業銀行の合併

第百二十九国立銀行は1878年12月に創立され、1898年12月に営業満期を迎えることになっていた。創立時の株主は士族121名・平民5名の計126名で、大垣藩士族が受けた公債を資本に転じた銀行である。1896年、伯爵の戸田氏共氏ら19人が発起人総会に集まり、普通銀行へ転換する際の行名と株主の構成を検討した。株主の顔ぶれは国立銀行の時代とほぼ同じで、127人のうち120人が士族。総会では、旧士族の暮らしを支える役目は残しつつ、農業・工業・商業の担い手をまとめて地元の経済を伸ばす方向へ進むべきだとの意見が大勢を占めた。この意見に沿って資本金を増やし、西濃地方の有力者も株主に迎えることにし、新しい行名を大垣共立銀行と決めた。士族の銀行から地域の銀行へ性格を改めることが、営業満期を前にした転換の主眼だったとみられる。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [1]第百二十九国立銀行は明治11年12月創立、明治31年12月に営業満期
  • 大垣共立銀行『大垣共立銀行小史』(1956)
    • [2]第百二十九国立銀行は大垣藩士族が秩禄・金禄公債を資本化して設立。創立時株主は士族121名・平民5名
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [3]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [4]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [5]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [6]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定

大垣共立銀行は第百二十九国立銀行の業務を継ぐことを条件に設立認可を願い出て、1896年1月25日に認可を得た。同年2月23日の創立総会で定款と取締役を定め、3月9日に設立免許を受けた。資本金は75万円で、国立銀行の営業満期より2年以上早い転換にあたる。株式は1万5,000株、株主は504人を数え、200株以上を持つ大株主は華士族11人・平民8人だった。頭取は戸田鋭之助氏、取締役支配人は中島十助氏。本店は大垣町俵町にあった旧第百二十九国立銀行の建物をそのまま使い、揖斐・高田・垂井に支店を置いて同年4月10日に開業した。4月10日から6月30日までの第1期で、預金は7万円余、貸出金は20万円近くにのぼる。

  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [7]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [8]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [10]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [11]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [12]1896年3月、旧第百二十九国立銀行の業務を継承し資本金75万円で株式会社大垣共立銀行を設立。本店は旧国立銀行の建物、4月10日開店、揖斐・高田・垂井の3支店
    • [13]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [9]第百二十九国立銀行の明治31年12月の営業満期を前に、明治29年3月資本金75万円で設立

大垣共立銀行は1900年に美濃実業銀行を合併し、開業後初めて他行を吸収した。美濃実業銀行は1881年に大垣で設立された興益社を前身とし、1896年に行名を改めた銀行である。1900年には熊本の第九銀行の支払停止をきっかけに、恐慌が関西と関東へ広がる。尼崎紡績と関係の深かった美濃実業銀行はこの恐慌で動揺し、大垣共立銀行に援助を求めた。大垣共立銀行はこの求めに吸収合併で応じ、神戸・高須・黒田・氷取・加納の5支店を継承した。合併で資本金は105万円となり、美濃実業銀行から渡辺治右衛門氏ら3人が取締役に加わった。開業から4年で西濃の銀行のなかで最大の資本を持つ地位を得たことが、のちの合併による拡大の出発点になったと推察される。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [14]明治33年5月美濃実業銀行を合併
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [15]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [16]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [17]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [18]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [19]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
参考文献[1]-[19]
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [1]第百二十九国立銀行は明治11年12月創立、明治31年12月に営業満期
    • [9]第百二十九国立銀行の明治31年12月の営業満期を前に、明治29年3月資本金75万円で設立
    • [14]明治33年5月美濃実業銀行を合併
  • 大垣共立銀行『大垣共立銀行小史』(1956)
    • [2]第百二十九国立銀行は大垣藩士族が秩禄・金禄公債を資本化して設立。創立時株主は士族121名・平民5名
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [3]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [4]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [5]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [6]戸田氏共伯爵ほか18人の発起人総会で、士族中心の株主構成を改め農工商一体で地域経済の発展をめざす意見が大勢となり、増資して西濃の有力者を株主に加え行名を大垣共立銀行に決定
    • [7]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [8]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [10]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [11]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [12]1896年3月、旧第百二十九国立銀行の業務を継承し資本金75万円で株式会社大垣共立銀行を設立。本店は旧国立銀行の建物、4月10日開店、揖斐・高田・垂井の3支店
    • [13]1896年1月25日設立認可、2月23日創立総会、3月9日設立免許。株主504人、頭取戸田鋭之助・取締役支配人中島十助。第1期に預金7万円余・貸出金約20万円
    • [15]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [16]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [17]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [18]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任
    • [19]興益社(明治14年設立)が美濃実業銀行と改称。明治33年恐慌で尼崎紡績と関係の深い同行が動揺し援助を求め、吸収合併。資本金105万円、5支店継承、取締役3人就任

1901年〜明治37年の恐慌で支えた真利銀行と、安田保善社の傘下で迎えた安田善三郎氏

1904年2月に日露戦争が始まると、大垣の金融は次第に引き締まった。同年5月には大垣町の美濃商業銀行が倒産し、流言が広がって町内の大小の銀行に取り付けが起きた。真利銀行の引き出しは、預金80万円のうち38万円。大垣共立銀行も取り付けを受け、日本銀行名古屋支店と愛知・名古屋・明治の各銀行から援助の約束を取りつけた。さらに伯爵の戸田氏共氏を通じて東京の安田善次郎氏に援助を頼み、安田系の第三銀行からも資金を引き出せるよう手配した。真宗大谷派の志納金を扱う機関から出発した真利銀行は、この恐慌で大垣共立銀行に支援を仰ぐ。支援を受けた真利銀行は、1910年4月に大垣共立銀行へ吸収合併された。

  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [20]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [21]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [22]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [23]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [24]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [25]真利銀行は大谷派本願寺の本山志納金を扱う真利宝会が前身。明治37年の恐慌時に大垣共立銀行の支援を仰いだ
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [26]明治43年4月真利銀行を合併

1907年1月の株式暴落の後、愛知・岐阜両県の銀行では支払停止や取り付けが相次いだ。大垣共立銀行でも支店で行金の費消事件が発生し、内外ともに多難な時期を迎えた。取締役で政友会所属の代議士だった古井由之氏の主張は、銀行の体質を強めて将来の発展に備えるべきだというものである。古井由之氏は安田保善社の経営参加を求めるのが得策と判断し、頭取の戸田鋭之助氏もこれに賛同した。交渉の糸口は、支配人中島十助氏の近親で大垣出身の杉田巻太郎氏が安田保善社に勤めていた縁である。1909年7月の株主総会では古井由之氏が安田家の内諾を得た経緯を説明し、傘下入りが議決された。安田保善社は資金面で株式3,000株を引き受けた。日露戦争後の反動に備える手段として、独立よりも財閥の信用を選んだのだろう。

  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [27]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [28]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [29]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [30]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [33]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
  • 大垣共立銀行『わが行の七十年』(1966)
    • [31]明治42年7月株主総会で古井由之が安田家の内諾を説明し賛成を得る。交渉は安田保善社勤務で大垣出身の杉田巻太郎(中島十助の近親)を通じた
    • [32]明治42年7月株主総会で古井由之が安田家の内諾を説明し賛成を得る。交渉は安田保善社勤務で大垣出身の杉田巻太郎(中島十助の近親)を通じた

安田保善社の傘下入りに伴い、1909年に頭取に安田善三郎氏、取締役に安田善八郎氏、監査役に杉田巻太郎氏が就任した。安田善三郎氏は初代安田善次郎氏の娘婿で、安田銀行頭取と貴族院議員を兼ねる人物である。安田善八郎氏は安田善次郎氏の妹婿にあたる。2人とも大垣には赴任せず、安田銀行で貸付課長を務めた本多忠之氏ら3人が実務の担い手として派遣された。前頭取の戸田鋭之助氏は副頭取として経営に残った。初代安田善次郎氏は大垣共立銀行の顧問に名を連ねる。翌1910年4月、大垣共立銀行は恐慌時に支えた真利銀行を吸収合併した。日露戦争前後まで営業区域は西濃地方の内にとどまっており、安田保善社の傘下入りで経営陣が一新された。

  • 大垣共立銀行『わが行の七十年』(1966)
    • [34]安田保善社傘下入りで頭取安田善三郎・取締役安田善八郎・監査役杉田巻太郎を迎えた。日露戦争前後まで営業区域は西濃地方の外に出なかった
    • [41]安田保善社傘下入りで頭取安田善三郎・取締役安田善八郎・監査役杉田巻太郎を迎えた。日露戦争前後まで営業区域は西濃地方の外に出なかった
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [35]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [36]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [37]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [38]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [39]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [40]明治43年4月真利銀行を合併
参考文献[20]-[41]
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [20]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [21]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [22]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [23]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [24]1904年5月、美濃商業銀行倒産後に大垣の各銀行で取り付け。真利銀行は預金80万円中38万円が流出。当行は日銀名古屋支店・愛知・名古屋・明治銀行の援助約束と、戸田伯爵経由で安田善次郎に援助を依頼し第三銀行の資金も用意
    • [25]真利銀行は大谷派本願寺の本山志納金を扱う真利宝会が前身。明治37年の恐慌時に大垣共立銀行の支援を仰いだ
    • [27]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [28]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [29]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [30]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [33]1907年1月の株式暴落後に愛知・岐阜で支払停止・取り付けが続発、当行でも支店の行金費消事件。古井由之代議士が体質強化のため安田保善社の経営参加を主張し戸田鋭之助頭取が賛同。保善社が株式3,000株を引受
    • [35]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [36]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [37]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [38]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
    • [39]安田善三郎は善次郎の娘婿で安田銀行頭取・貴族院議員、安田善八郎は善次郎の妹婿。両者は大垣へ赴任せず安田銀行貸付課長本多忠之らが派遣。戸田鋭之助は副頭取。安田善次郎は当行顧問
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [26]明治43年4月真利銀行を合併
    • [40]明治43年4月真利銀行を合併
  • 大垣共立銀行『わが行の七十年』(1966)
    • [31]明治42年7月株主総会で古井由之が安田家の内諾を説明し賛成を得る。交渉は安田保善社勤務で大垣出身の杉田巻太郎(中島十助の近親)を通じた
    • [32]明治42年7月株主総会で古井由之が安田家の内諾を説明し賛成を得る。交渉は安田保善社勤務で大垣出身の杉田巻太郎(中島十助の近親)を通じた
    • [34]安田保善社傘下入りで頭取安田善三郎・取締役安田善八郎・監査役杉田巻太郎を迎えた。日露戦争前後まで営業区域は西濃地方の外に出なかった
    • [41]安田保善社傘下入りで頭取安田善三郎・取締役安田善八郎・監査役杉田巻太郎を迎えた。日露戦争前後まで営業区域は西濃地方の外に出なかった

1911年〜政府の要請を拒んだ農産銀行の買収と、昭和金融恐慌で吸収した七十六銀行

大垣共立銀行は1923年12月に愛知県の農産銀行を買収し、岐阜県外へ初めて進出した。農産銀行は1912年11月に資本金50万円で設立された、大曽根に本店を置く銀行である。経営の乱れが表面化した農産銀行について、安田保善社専務理事の結城豊太郎氏が日銀総裁の井上準之助氏に相談した。2人は安田系の大垣共立銀行に救済させることを決めた。大垣共立銀行は内容を慎重に検討し、同年6月21日に合併仮契約を結んだ。7月12日の新聞報道で取り付けが起き、農産銀行は翌13日に休業に追い込まれる。支配人の土屋義雄氏は東京へ呼ばれても『これを引き受けたら農産と心中せねばならぬ』として要請を拒んだ。結局、愛知県知事の太田政弘氏の懇請を受け、重役の私財提供の増額を条件に12月18日の臨時株主総会で買収を表明した。

  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [42]大正12年12月農産銀行を買収
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [43]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [44]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [45]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [46]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [47]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [48]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [49]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明

1927年3月に公布された新銀行法は、1928年1月に施行され、銀行の最低資本金は100万円となる。海津郡高須町の七十六銀行は国立銀行に由来し、1925年に東濃銀行を合併して資本金を150万円にしていた。東濃銀行の合併はかえって経営を圧迫し、七十六銀行の役員は他行との合同を協議した。役員の意見は十六銀行と大垣共立銀行のどちらと合併するかで分かれ、大勢を占めたのは大垣共立銀行との合併案である。大垣共立銀行は1928年5月に七十六銀行を吸収合併し、同年12月には本田銀行も合併した。合併後の資本金は450万円となり、継承した支店で西南濃の店舗が増え、東濃にも拠点を得た。一方、傍系の大垣貯蓄銀行は役員を兼務したまま別の銀行として残った。

  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [50]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [51]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [52]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [53]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [55]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [56]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [54]昭和3年5月七十六銀行、同年12月本田銀行を合併
参考文献[42]-[56]
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
    • [42]大正12年12月農産銀行を買収
    • [54]昭和3年5月七十六銀行、同年12月本田銀行を合併
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
    • [43]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [44]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [45]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [46]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [47]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [48]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [49]農産銀行(1912年11月設立、資本金50万円、本店大曽根)の救済を結城豊太郎が井上準之助に相談し安田系の当行に決定。6月21日仮契約、7月12日の新聞報道で取り付け・13日休業。土屋義雄支配人は当初拒否。太田政弘知事の懇請と重役私財提供増額を条件に12月18日臨時株主総会で買収表明
    • [50]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [51]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [52]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [53]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [55]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続
    • [56]新銀行法(昭和2年3月公布・3年1月施行)は最低資本金100万円。七十六銀行は東濃銀行合併で資本金150万円となったが経営を圧迫、十六銀行か当行かで役員の意見が分かれ当行との合併案が大勢。合併で資本金450万円、西南濃の地盤と東濃進出。大垣貯蓄銀行は役員兼務で存続

出典・参考

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出典・参考
  • 大垣共立銀行『地域とともに歩んで 大垣共立銀行90年史』(1986)
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「大垣共立銀行」
  • 大垣共立銀行『大垣共立銀行小史』(1956)
  • 大垣共立銀行『わが行の七十年』(1966)

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