東海銀行:あさひ銀行との持株会社合意と三和銀行とのUFJ統合
1979年〜加藤隆一頭取の地域密着と世界の東海、太陽神戸・三和との規模の差
頭取の谷信一氏が病気で退任したため、1980年5月に副頭取の加藤隆一氏が60歳で頭取に就任した。加藤氏は谷氏の敷いた大衆化・国際化・効率化の3本柱を引き継ぎ、そこへ地域密着を加えると表明した。名古屋を固められなければ東京も大阪も海外もあり得ないとして、地盤の空洞化を避けることを経営の最優先の課題に置いた。背景には国債の値下がりと大企業の銀行離れがあり、生産者向けに偏った融資を個人向けの小口金融へ広げる必要が出ていた。1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を集め、その余剰を東京での大企業取引へ振り向けていた。東京で伸びる元手が名古屋の預金だった以上、地元の固め直しは拡大の路線と矛盾しなかったとみられる。
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- [1]1980年5月、谷信一前頭取の病気辞任を受け、副頭取の加藤隆一が60歳で頭取に就任(都銀最年少)
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [2]加藤隆一は前頭取の大衆化・国際化・効率化の3本柱を踏襲し、これに地域密着を加えると表明
- [3]加藤隆一は名古屋を固められなくては東京・大阪・海外もないとし、名古屋の空洞化は避けるべきとした
- [4]国債の暴落と企業の銀行離れを受け、生産者金融主体から消費者金融・小口金融へ広げる必要を加藤が指摘
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [5]1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を占め、名古屋の預金超過分を東京の大企業取引へ投入
1984年度に始めた第7次長期経営計画で、東海銀行は成長性で首位に立つことを掲げ、重点の一つに国際業務の総合的な展開を置いた。国際部門は1978年時点で利益全体の10%を超え、同年のシンジケートローン組成件数は東京銀行に次ぐ2位だった。1985年2月にデュッセルドルフ支店とメルボルン駐在員事務所、3月にバーレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は34か所となった。本部業務の点検で減らした約200人のうち120人を証券・国際などの重点部門へ配置転換し、全体の人員を増やさずに国際部門を厚くした。加藤隆一頭取は1980年、カリフォルニアに根を張ったまま世界一となったバンク・オブ・アメリカを、地方に本店を置く銀行の手本に挙げていた。
- 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
- [6]1984年度(昭和59年度)から第7次長期経営計画。キャッチフレーズは「成長性ナンバーワンをめざす」、柱に国際業務の総合的な展開
- [8]1985年2月デュッセルドルフ支店・メルボルン駐在員事務所、3月バハレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は支店9・駐在員事務所16・現地法人5・関連金融機関4の計34か所
- [9]効率化運動で本部要員約200人を削減し、うち120人を証券・国際・事務管理などの重点部門へ振り向けた
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [7]国際部門の利益は全体の10%超。1978年のシンジケートローン組成状況で東海銀行は東京銀行に次ぐ2位
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [10]加藤隆一はサンフランシスコに本店を構えカリフォルニアに密着しながら世界一となったバンク・オブ・アメリカを例に、名古屋本店を特色とした
1978年度上期、東海銀行の預金は太陽神戸銀行に月によって逆転を許し、目標としていた三和銀行との差は開く一方だった。支店網が東海地方に偏っていたため、東京と関西に店を持つ太陽神戸銀行に比べ、全国で預金を集めるうえで不利だった。加藤隆一頭取は本部業務のむだを洗い出す効率化運動を進め、上位行に迫る経営体質をつくることを狙った。1985年の時点で、東海銀行は総資金量と税引き利益で三井銀行を上回っていた。1986年に住友銀行が平和相互銀行を合併した後も再編の観測は続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として名が挙がったのは東京銀行だった。規模の差を合併で埋める見通しは立っておらず、自らの効率を上げて差を詰めるほかなかったのだろう。
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [11]1978年度(昭和53年度)上期の預金実績で太陽神戸銀行が東海銀行を逆転した月があり、目標とする三和銀行との差は開く一方
- [12]東海地方に集中した支店網は全国規模の預金集めで不利。太陽神戸銀行は東京と関西にバランスよく支店を配置
- 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
- [13]効率化運動は自らの足腰を鍛えて「上位行に迫る経営体質を」という加藤頭取のねらいに沿うもの
- [14]東海銀行は総資金量・税引き利益などで三井銀行を上回った(1985年時点)
- Decide 5(4) 1987年7月
- [15]1986年の住友銀行・平和相互銀行合併以後も再編観測が続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として東京銀行の名が取り沙汰された
参考文献[1]-[15]
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- [1]1980年5月、谷信一前頭取の病気辞任を受け、副頭取の加藤隆一が60歳で頭取に就任(都銀最年少)
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [2]加藤隆一は前頭取の大衆化・国際化・効率化の3本柱を踏襲し、これに地域密着を加えると表明
- [3]加藤隆一は名古屋を固められなくては東京・大阪・海外もないとし、名古屋の空洞化は避けるべきとした
- [4]国債の暴落と企業の銀行離れを受け、生産者金融主体から消費者金融・小口金融へ広げる必要を加藤が指摘
- [10]加藤隆一はサンフランシスコに本店を構えカリフォルニアに密着しながら世界一となったバンク・オブ・アメリカを例に、名古屋本店を特色とした
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [5]1979年時点で東海銀行は名古屋市の預金の40%を占め、名古屋の預金超過分を東京の大企業取引へ投入
- [7]国際部門の利益は全体の10%超。1978年のシンジケートローン組成状況で東海銀行は東京銀行に次ぐ2位
- [11]1978年度(昭和53年度)上期の預金実績で太陽神戸銀行が東海銀行を逆転した月があり、目標とする三和銀行との差は開く一方
- [12]東海地方に集中した支店網は全国規模の預金集めで不利。太陽神戸銀行は東京と関西にバランスよく支店を配置
- 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
- [6]1984年度(昭和59年度)から第7次長期経営計画。キャッチフレーズは「成長性ナンバーワンをめざす」、柱に国際業務の総合的な展開
- [8]1985年2月デュッセルドルフ支店・メルボルン駐在員事務所、3月バハレーン駐在員事務所を開設し、海外拠点は支店9・駐在員事務所16・現地法人5・関連金融機関4の計34か所
- [9]効率化運動で本部要員約200人を削減し、うち120人を証券・国際・事務管理などの重点部門へ振り向けた
- [13]効率化運動は自らの足腰を鍛えて「上位行に迫る経営体質を」という加藤頭取のねらいに沿うもの
- [14]東海銀行は総資金量・税引き利益などで三井銀行を上回った(1985年時点)
- Decide 5(4) 1987年7月
- [15]1986年の住友銀行・平和相互銀行合併以後も再編観測が続き、1987年に太陽神戸銀行の合併相手として東京銀行の名が取り沙汰された
1988年〜伊藤喜一郎頭取の3つの足と、加藤隆一会長の長期支配、西垣覚頭取の登板
1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎氏が59歳で頭取に就任した。頭取を8年務めた加藤隆一氏は後継候補をつくらないと公言し、次の頭取は常務以上の役員に意見を聞いて選んだという。伊藤氏は中部圏を大事な基盤としつつ、金融の中心である東京と海外を加えた三本足で立つ方針を示した。方針は金融情勢に応じて変わるものだとして、前任の路線を名古屋回帰とみる見方は退けた。東京では都心部の店舗を整え、大口の法人取引と個人向けの小口取引を並べて広げる計画だった。米国では日系企業中心の取引から非日系企業やミドルマーケットへ広げるため、審査能力の強化を課題に挙げた。自らの時間は名古屋に6、東京に4の割合で振り分けるとした。
- 日経ビジネス 1988年11月7日号
- [16]1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎が59歳で頭取に就任
- 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
- [17]頭取在任8年の加藤隆一は「プリンスはつくらない」とし、後継は常務以上の意見を聞いて選んだ
- [18]伊藤は中部圏を大事な基盤としつつ、名古屋・東京・海外の三本足で立つ方針を示した
- [19]伊藤は加藤の経営を名古屋回帰とする見方を否定し、方針は金融情勢で変わるのが当然とした
- [20]東京都心部の店舗整備を進め、ホールセールとリテールを並行して展開する計画
- [21]米国で非日系企業・ミドルマーケットとの取引を広げるため、審査能力の強化を課題とした
- [22]伊藤の活動の比重は名古屋6対東京4
1991年、元秋葉原支店の行員が絡む架空預金証書事件が起き、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった。経営責任としては1991年10月に日銀出身の副会長が退任しただけで、1992年1月に頭取の伊藤喜一郎氏が管理責任者21人の処分を発表した。処分が軽いとの批判のなか、6月に伊藤氏が会長に、会長の加藤隆一氏が相談役に就任するという観測が流れた。加藤氏は1986年から会長を兼ねて8年頭取を務め、人事権を握るワンマン経営者とされた。1992年4月には新聞各紙が加藤氏の辞任を報じたが、副頭取を頭取に上げる案は潰れ、伊藤氏が頭取を続けることになった。後継候補をつくらない方針が、責任の取り方と交代の手を狭めたと推察される。
- 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
- [23]1991年の架空預金証書事件(元秋葉原支店行員らが逮捕)で、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった
- [24]経営責任は1991年10月の日銀出身・新井永吉副会長の辞任のみ。1992年1月30日、伊藤喜一郎頭取が秋葉原支店長ら管理責任者21名の処分を発表
- [25]処分の軽さに批判があり、6月に伊藤頭取が会長、加藤会長が相談役に退くとの噂が金融関係者の間で流れた
- [26]加藤隆一は1986年からの会長兼務を含め1988年まで8年頭取を務め、人事権を源にワンマン体制を築いたとの見方で衆目が一致していたと記事は書く
- 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
- [27]1992年4月26日に朝日・日経などが加藤会長の辞任を報じた。稲垣副頭取の頭取昇格と伊藤頭取の会長就任の図式は潰れ、伊藤体制の続投が決まった
1994年6月、副頭取の西垣覚氏が59歳で頭取に就任し、伊藤喜一郎氏は会長となった。西垣氏は愛知紡績とタキヒヨーへの2度の出向を経ており、出向から戻って頭取に就任するのは東海銀行で初めてだった。直前の決算で不良債権を大きく償却し、系列ノンバンクの支援では約3000億円の不良債権を肩代わりした。西垣氏は、上位6行が合併で量の差を広げた以上、合併しない限りは量を追わずにコスト競争力で競うという方針を示した。目標は格付けを上位行並みに引き上げることに置いた。専門性の高い業務の人材を行内で公募する制度を設け、東京と名古屋に分かれていた企画部を一本にまとめた。都市銀行として東京の顔となる駐在の副頭取が要るとして、副頭取を2人置いた。
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [28]西垣覚は1935年生まれ、93年9月副頭取、94年6月から頭取(59歳)
- [29]西垣は1962年愛知紡績、78年タキヒヨーに出向。出向から戻って頭取となるのは東海銀行で初めて(中部財界 1994 も同旨)
- [30]前期決算で思い切った償却を行い、系列ノンバンク支援で約3000億円の不良債権を肩代わりした
- 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
- [31]上位6行は合併で量的格差をつけており、合併しない限りは質(コスト競争力)で勝負するとした
- [32]質の評価として格付けを上位行並みに上げることを目標とした
- [33]資金証券・海外など専門業務で行内公募制度を導入し、東京・名古屋二本立ての企画部を一本化した
- [34]都市銀行の体制として東京の顔となる駐在が要るとして二副頭取体制を採った
参考文献[16]-[34]
- 日経ビジネス 1988年11月7日号
- [16]1988年6月、副頭取の伊藤喜一郎が59歳で頭取に就任
- 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
- [17]頭取在任8年の加藤隆一は「プリンスはつくらない」とし、後継は常務以上の意見を聞いて選んだ
- [18]伊藤は中部圏を大事な基盤としつつ、名古屋・東京・海外の三本足で立つ方針を示した
- [19]伊藤は加藤の経営を名古屋回帰とする見方を否定し、方針は金融情勢で変わるのが当然とした
- [20]東京都心部の店舗整備を進め、ホールセールとリテールを並行して展開する計画
- [21]米国で非日系企業・ミドルマーケットとの取引を広げるため、審査能力の強化を課題とした
- [22]伊藤の活動の比重は名古屋6対東京4
- 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
- [23]1991年の架空預金証書事件(元秋葉原支店行員らが逮捕)で、東海銀行はノンバンク5社の債権計625億円を肩代わりすることになった
- [24]経営責任は1991年10月の日銀出身・新井永吉副会長の辞任のみ。1992年1月30日、伊藤喜一郎頭取が秋葉原支店長ら管理責任者21名の処分を発表
- [25]処分の軽さに批判があり、6月に伊藤頭取が会長、加藤会長が相談役に退くとの噂が金融関係者の間で流れた
- [26]加藤隆一は1986年からの会長兼務を含め1988年まで8年頭取を務め、人事権を源にワンマン体制を築いたとの見方で衆目が一致していたと記事は書く
- 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
- [27]1992年4月26日に朝日・日経などが加藤会長の辞任を報じた。稲垣副頭取の頭取昇格と伊藤頭取の会長就任の図式は潰れ、伊藤体制の続投が決まった
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [28]西垣覚は1935年生まれ、93年9月副頭取、94年6月から頭取(59歳)
- [29]西垣は1962年愛知紡績、78年タキヒヨーに出向。出向から戻って頭取となるのは東海銀行で初めて(中部財界 1994 も同旨)
- [30]前期決算で思い切った償却を行い、系列ノンバンク支援で約3000億円の不良債権を肩代わりした
- 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
- [31]上位6行は合併で量的格差をつけており、合併しない限りは質(コスト競争力)で勝負するとした
- [32]質の評価として格付けを上位行並みに上げることを目標とした
- [33]資金証券・海外など専門業務で行内公募制度を導入し、東京・名古屋二本立ての企画部を一本化した
- [34]都市銀行の体制として東京の顔となる駐在が要るとして二副頭取体制を採った
1995年〜大阪信組の事業譲受と、三和・東洋信託と組んだUFJホールディングス
1995年12月7日、経営不振の大阪信用組合の事業を東海銀行が1996年夏をめどに引き継ぐと発表された。東海銀行は健全な債権と預金だけを受け、不良債権は日本版RTCへ移し、譲渡で生じる損失は預金保険機構が資金援助で埋める枠組みだった。大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗を持ち、9月に資金が不足して大阪府は自主再建を難しいと判断していた。東海銀行は1968年から役職員を送り、1995年10月には300億円の支援融資を出すなど大阪信組と関わりが深かった。受け皿を担う理由には金融システムの安定への協力と関西の取引基盤の強化を挙げ、直接費用は3年間で107億円と試算された。抵当権の移転にかかる登録免許税を誰が負うかも、1996年1月の時点で決まっていなかった。
- 金融財政事情 46(47) 1995年12月
- [35]1995年12月7日、大阪信用組合の事業を来夏(1996年夏)をメドに東海銀行が承継すると発表
- [36]東海は健全債権と預金を引き継ぎ、不良債権は日本版RTCへ移管、譲渡で生ずるロスは預金保険機構が資金援助
- [37]大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗。9月12日に資金ショートし、大阪府は自主再建は困難と判断
- [38]東海銀行は1968年から役職員を派遣(延べ5人)、1995年10月に300億円の支援融資を供与
- [39]東海は譲受の理由に金融システムの安定性維持への協力と関西の取引基盤の強化を挙げた。直接コストは初年度86億円、3年間で107億円の試算
- 日経ビジネス 1996年1月22日号
- [40]大阪信組から営業譲渡を受ける東海銀行でも、債権移管に伴う抵当権移転の登録免許税が生じ、誰が負担すべきかが問題とされた(1996年1月)
1998年4月に副頭取から頭取に就任した小笠原日出男氏は、5年後には東海銀行はないかもしれないという危機感を表した。規模で劣る以上、金融ビッグバンの下で外国の金融機関並みの速さを身につける必要があるという認識だった。他の都市銀行に先駆けて社内分社のカンパニー制を表明し、数年で108店舗を統廃合する計画を立てた。1998年9月にはあさひ銀行と金融持株会社を視野に入れた戦略的提携で合意し、1999年10月7日に共同持株会社を設ける構想を発表した。両行は2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域銀行3社と国際資金証券銀行1社へ組み替える計画だった。合併はせず、地域ごとの銀行の独自性を残す設計に狙いを置いた。名古屋の地盤を手放さずに規模の不足を補う手段として、地域別の子会社を持株会社の傘下に置く方式が選ばれたと思われる。
- 日経ビジネス 1998年5月18日号
- [41]小笠原日出男は1998年4月1日に副頭取から頭取に就任し、「5年後、下手をすれば東海銀行はないかもしれない」と危機感を示した
- [42]ビッグバン本番で外国金融機関並みのスピードが必要で、規模で劣るだけになおさらだとされた
- [43]他の都銀に先駆けてカンパニー制(社内分社制)の導入を表明し、数年以内に108店舗の統廃合を進める
- 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
- [44]1998年9月にあさひ銀行と戦略的提携で合意。1999年10月7日に共同持株会社「東海あさひ」(2000年10月めど設立)の設立で合意と発表
- [45]2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域軸子会社3社と国際資金証券銀行1社に再編する
- [46]合併ではなく持株会社を活用し、各地域銀行の経営の独自性を尊重することに戦略性を置いた
2000年6月の時点で、東海銀行とあさひ銀行の統合には三和銀行が加わり、3行統合として構想を広げることになった。頭取の小笠原日出男氏は、地域の軸では関西が手薄で、機能の軸でも証券や信託を補う必要があったことを三和銀行と組む理由に挙げた。異業種の銀行業参入が進むなか、中堅・中小企業の市場で競争優位を保つには一定の規模と機能が要るという認識だった。ところが2000年6月にあさひ銀行が統合から離れることが明らかになった。2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行は持株会社を通じた経営統合で基本合意した。2001年4月に3行は株式移転でUFJホールディングスを設け、東海銀行はその子会社となって上場を終えた。2002年1月には三和銀行と合併してUFJ銀行となった。
- 金融財政事情 51(22) 2000年6月
- [47]2000年6月号のインタビュー時点で、東海・あさひの統合に三和銀行が参加し3行による統合となった
- [48]地域軸では関西が手薄(大和銀行は不参加)、機能軸では証券・信託を補強する必要があり、三和も同じ方向で戦略を考えていたため一緒にやることになった
- [49]異業種の銀行業進出など環境の変化で、中堅・中小企業マーケットで優位な競争を展開するには一定の規模と機能が要るとした
- 日経ビジネス 2000年10月16日号
- [50]2000年6月にあさひ銀行の統合離脱が明らかになった
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- [51]2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が持株会社の設立を通じた経営統合に基本合意
- [52]2001年4月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転によりUFJホールディングスを設立
- [53]2002年1月、三和銀行と東海銀行が合併しUFJ銀行に商号変更
参考文献[35]-[53]
- 金融財政事情 46(47) 1995年12月
- [35]1995年12月7日、大阪信用組合の事業を来夏(1996年夏)をメドに東海銀行が承継すると発表
- [36]東海は健全債権と預金を引き継ぎ、不良債権は日本版RTCへ移管、譲渡で生ずるロスは預金保険機構が資金援助
- [37]大阪信組は1995年10月末で預金3381億円・20店舗。9月12日に資金ショートし、大阪府は自主再建は困難と判断
- [38]東海銀行は1968年から役職員を派遣(延べ5人)、1995年10月に300億円の支援融資を供与
- [39]東海は譲受の理由に金融システムの安定性維持への協力と関西の取引基盤の強化を挙げた。直接コストは初年度86億円、3年間で107億円の試算
- 日経ビジネス 1996年1月22日号
- [40]大阪信組から営業譲渡を受ける東海銀行でも、債権移管に伴う抵当権移転の登録免許税が生じ、誰が負担すべきかが問題とされた(1996年1月)
- 日経ビジネス 1998年5月18日号
- [41]小笠原日出男は1998年4月1日に副頭取から頭取に就任し、「5年後、下手をすれば東海銀行はないかもしれない」と危機感を示した
- [42]ビッグバン本番で外国金融機関並みのスピードが必要で、規模で劣るだけになおさらだとされた
- [43]他の都銀に先駆けてカンパニー制(社内分社制)の導入を表明し、数年以内に108店舗の統廃合を進める
- 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
- [44]1998年9月にあさひ銀行と戦略的提携で合意。1999年10月7日に共同持株会社「東海あさひ」(2000年10月めど設立)の設立で合意と発表
- [45]2001年10月めどに首都圏・中部圏・関西圏の地域軸子会社3社と国際資金証券銀行1社に再編する
- [46]合併ではなく持株会社を活用し、各地域銀行の経営の独自性を尊重することに戦略性を置いた
- 金融財政事情 51(22) 2000年6月
- [47]2000年6月号のインタビュー時点で、東海・あさひの統合に三和銀行が参加し3行による統合となった
- [48]地域軸では関西が手薄(大和銀行は不参加)、機能軸では証券・信託を補強する必要があり、三和も同じ方向で戦略を考えていたため一緒にやることになった
- [49]異業種の銀行業進出など環境の変化で、中堅・中小企業マーケットで優位な競争を展開するには一定の規模と機能が要るとした
- 日経ビジネス 2000年10月16日号
- [50]2000年6月にあさひ銀行の統合離脱が明らかになった
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- [51]2000年7月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が持株会社の設立を通じた経営統合に基本合意
- [52]2001年4月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転によりUFJホールディングスを設立
- [53]2002年1月、三和銀行と東海銀行が合併しUFJ銀行に商号変更
出典・参考
18件
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- 財政金融ジャーナル 25(5) 1985年5月「東海銀行の巻『地元』をもったワールド・バンクへの飛躍」
- 日経ビジネス 1988年11月7日号
- 近代中小企業 23(10) 1988年9月号
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- 日経ビジネス 1996年1月22日号
- 日経ビジネス 1998年5月18日号
- 金融 632号 1999年11月「あさひ銀行と東海銀行--共同持株会社の設立で合意」
- 日経ビジネス 2000年10月16日号
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- Decide 5(4) 1987年7月
- 財界人 5(4) 1992年3月「不祥事で囁かれる加藤隆一会長東海銀行伊藤喜一郎頭取引責退陣説」
- 中部財界 35(6) 1992年6月「東海銀行会長「辞任報道」の正しい読み方――加藤隆一「悪夢の選択」」
- 中部財界 37(9) 1994年「東海銀行頭取西垣覚氏に聞く――こういう時代だから私が頭取になった」
- 金融財政事情 46(47) 1995年12月
- 金融財政事情 51(22) 2000年6月