第2章 年〜年

東海銀行:愛知・名古屋・伊藤の3行合併による東海銀行の発足

1920年〜愛知銀行の大成時代と、金融恐慌後の緊縮、合併不調の末に閉じた明治銀行

愛知銀行は1922年5月、資本金を700万円から1500万円へ引き上げた。同じ時期、全国の手形交換所加盟銀行は1923年6月に貸出が預金を上回り、1925年12月には預金100に対し貸出107.1まで膨らんだ。この1925年12月、愛知銀行の貸出は預金138に対して72にとどまっていた。1923年7月に名古屋で尾三銀行が取り付けに遭った際、日銀名古屋支店は愛知・明治・名古屋・村瀬の4行への融通を通じて救済の資金を出した。配当は1922年下期から1924年下期まで年1割1分弱を続けた。預金の半ばほどに貸出を抑えた運び方が、増資と高配当を同時に支えたとみられる。

  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [1]1922年5月に資本金を1500万円に増加(1917年12月に700万円)
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [2]全国手形交換所社員及代理交換銀行の預金に対する貸出比率は1923年6月に102.9、1925年12月に107.1
    • [3]1925年12月の愛知銀行は預金138に対し貸出72
    • [5]愛知銀行は1922年下期から1924年下期まで1割1分弱の配当を続けた
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
    • [4]1923年7月の尾三銀行取付で、日銀名古屋支店が愛知・明治・名古屋・村瀬の4行に融通する形式で担保の限度内で資金を供給

1927年の金融恐慌の後、全国の銀行は整理と合同で1932年末に650行まで減り、新設分を除けば6年で1000を超す銀行が消えた。大蔵省は1927年5月に合同と減配を勧め、愛知銀行も同年上期の配当を年1割から9分へ下げた。恐慌後は有力銀行に預金が集まり、愛知銀行の預金は1926年上期末の1億4803万円から1928年上期末に1億7034万円へ増えた。同じ期間に貸出は1億952万円から1億77万円へ減っている。1928年1月施行の新銀行法は最低資本金を100万円と定めたが、愛知銀行は定款を改めるだけで足りた。集まった預金を貸出に充てなかった姿勢が、1932年の合併交渉での慎重さにも通じたと推察される。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [6]1926年末1577行の全国銀行数は1932年末に650行へ減少
    • [7]1927〜1932年の6年間に新設・転業の増加87行を考慮すると1000を超える銀行が消滅
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [8]大蔵省は1927年5月に銀行の合同を促し減配を慫慂、愛知銀行は1927年上期の配当を年9分(前期比1分減)とした
    • [9]恐慌後の金融界の変動は有力銀行への預金集中。愛知銀行の預金は1926年上期末148,032,417円、1928年上期末170,346,686円
    • [10]愛知銀行の貸出は1926年上期末109,522,972円、1928年上期末100,779,594円
    • [11]新銀行法は最低資本金100万円(東京・大阪200万円)。愛知銀行は1928年1月26日の株主総会で定款を全面改正したが影響は受けなかった

明治銀行は1932年3月4日に閉店し、名古屋の本店銀行は愛知・名古屋の2行に絞られた。発端は前年、大株主の神野金之助・富田重助の両氏が銀行業から退く意向を示し、愛知銀行との合併を求めたことだった。2月29日、日本銀行名古屋支店での協議で、名目は合併としつつ実質は愛知銀行が明治銀行を買収する案がまとまり、その夜に公表された。ところが3月1日の調印の席に村瀬銀行の閉店の知らせが届くと、愛知銀行頭取の渡辺義郎氏は全資産の精査を求めて署名を延ばしたという。公表後の不調で明治銀行に取り付けが押し寄せ、愛知・名古屋の両行にも波及した。条件を詰める前に公表したことが、地元どうしの再編をかえって危うくしたのだろう。

  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [12]1932年春の金融恐慌で明治銀行が没落し、名古屋・愛知の両行が中京金融界の双璧となった
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
    • [13]1931年、明治銀行の大株主神野金之助・富田重助が銀行業をやめたいとして合併を持ち出し、愛知銀行との合併を主張
    • [14]1932年2月29日、日銀名古屋支店で合併の形式により愛知が明治を買収することが決まり、同夜に電通経由で発表
    • [15]3月1日夜の会議中に村瀬銀行が取付けに遭い翌日から閉店するとの通知が日銀名古屋支店長に届いた
    • [16]3月1日の調印の席で渡辺頭取が詳細な資産表の精査を求め、調印に至らなかった
    • [17]合併不調が伝わり明治銀行に取付けが殺到、村瀬・愛知農商・名古屋・愛知の各行も取付けに遭い、明治は4日から閉店
参考文献[1]-[17]
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [1]1922年5月に資本金を1500万円に増加(1917年12月に700万円)
    • [12]1932年春の金融恐慌で明治銀行が没落し、名古屋・愛知の両行が中京金融界の双璧となった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
    • [2]全国手形交換所社員及代理交換銀行の預金に対する貸出比率は1923年6月に102.9、1925年12月に107.1
    • [3]1925年12月の愛知銀行は預金138に対し貸出72
    • [5]愛知銀行は1922年下期から1924年下期まで1割1分弱の配当を続けた
    • [8]大蔵省は1927年5月に銀行の合同を促し減配を慫慂、愛知銀行は1927年上期の配当を年9分(前期比1分減)とした
    • [9]恐慌後の金融界の変動は有力銀行への預金集中。愛知銀行の預金は1926年上期末148,032,417円、1928年上期末170,346,686円
    • [10]愛知銀行の貸出は1926年上期末109,522,972円、1928年上期末100,779,594円
    • [11]新銀行法は最低資本金100万円(東京・大阪200万円)。愛知銀行は1928年1月26日の株主総会で定款を全面改正したが影響は受けなかった
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
    • [4]1923年7月の尾三銀行取付で、日銀名古屋支店が愛知・明治・名古屋・村瀬の4行に融通する形式で担保の限度内で資金を供給
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [6]1926年末1577行の全国銀行数は1932年末に650行へ減少
    • [7]1927〜1932年の6年間に新設・転業の増加87行を考慮すると1000を超える銀行が消滅
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
    • [13]1931年、明治銀行の大株主神野金之助・富田重助が銀行業をやめたいとして合併を持ち出し、愛知銀行との合併を主張
    • [14]1932年2月29日、日銀名古屋支店で合併の形式により愛知が明治を買収することが決まり、同夜に電通経由で発表
    • [15]3月1日夜の会議中に村瀬銀行が取付けに遭い翌日から閉店するとの通知が日銀名古屋支店長に届いた
    • [16]3月1日の調印の席で渡辺頭取が詳細な資産表の精査を求め、調印に至らなかった
    • [17]合併不調が伝わり明治銀行に取付けが殺到、村瀬・愛知農商・名古屋・愛知の各行も取付けに遭い、明治は4日から閉店

1932年〜一県一行を進めた結城豊太郎日銀総裁と、資本金3760万円の東海銀行

1936年、広田内閣の馬場鍈一蔵相は一県一行主義を掲げ、自立できる地方銀行まで統合を進めた。当局には県内の銀行を愛知・名古屋の2行へ集める構想もあったが、実現したのは尾張と三河の地区ごとの合同にとどまった。日中戦争が長引くと国債の引き受け先を地方銀行へ広げる必要が生じ、預金金利を下げるため群小の銀行の統合が求められた。3行合併を推した日銀総裁の結城豊太郎氏は、1939年ごろから親交のある愛知銀行頭取の渡辺義郎氏に合同を促していた。1940年10月中旬に大蔵省が3行の首脳を別々に招いて反対のないことを確かめ、12月15日に覚書が調印された。愛知銀行は1944年の行史で、戦時の体制が強まるなかで名古屋・伊藤の両行との提携を深める必要に迫られたと記した。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [18]1936年、広田内閣の馬場蔵相が一県一行主義を提唱し、自立可能な地方銀行の統合も推進
    • [19]1936年当時、県下の銀行を愛知・名古屋両行に併合させる構想が当局内にあったが、実現したのは稲沢銀行中心の尾張、岡崎銀行中心の三河の合同のみ
    • [20]国債消化と低金利政策のため地方銀行の資金コスト引き下げが必要となり、合同による競争緩和が図られた
    • [22]1939年ごろから結城日銀総裁が親交のあった渡辺愛知銀行頭取に合同の考慮を促していた
    • [23]1940年10月中旬に大蔵省が3行首脳を個別に招致、12月15日に愛知県庁で覚書に調印
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [21]3行合併を推進したのは当時の日銀総裁結城豊太郎
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
    • [24]戦時体制の強化により愛知銀行も名古屋・伊藤両行との提携を一段深くする必要に迫られ、3行は東海の名の下に一丸となった

覚書は3行を対等の条件で合わせると定め、新銀行の会長以下の人選は大蔵省に委ねた。行名は3行が結城総裁に命名を頼み、1941年2月20日に東海銀行と決まった。3月27日に合併契約が結ばれ、旧3行の株主には払込額の同じ新株が1株ずつ渡された。6月9日、東海銀行は公称資本金3760万円、払込2725万円で発足し、店は141、行員は3468人を数えた。会長には旧愛知銀行頭取の渡辺義郎氏、頭取には旧名古屋銀行頭取の井倉和雄氏が就任し、常務5人も愛知2人・名古屋2人・伊藤1人で分けた。役員の顔ぶれまで出身行で釣り合わせたのは、対等という覚書の約束を役員の構成で示すためだったと考えられる。

  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [25]1940年12月15日の覚書で3行対等の条件による合併と、会長以下重役の人選の大蔵省一任を定めた
    • [26]3行協議で命名を結城日銀総裁に依頼し、1941年2月20日に東海銀行と命名
    • [27]1941年3月27日に合併契約書を調印、3行の株式1株に新銀行の同払込額の株式1株を交付
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [28]1941年6月9日、公称資本金3760万円(払込2725万円)で設立
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [29]創立当初の営業店舗141店、行員3468名
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [30]創立当時の役員は会長渡辺義郎(旧愛知頭取)、頭取井倉和雄(旧名古屋頭取)
    • [31]創立時の常務5人は愛知出身2・名古屋出身2・伊藤出身1

松坂屋を営む伊藤家の一部門だった伊藤銀行の公称資本金は200万円で、愛知銀行の1500万円、名古屋銀行の2060万円より1桁小さかった。合同の機運が生じた段階で、伊藤銀行副社長の佐々部晩穂氏には愛知銀行との合併が持ちかけられていた。合併契約は伊藤銀行の株主にも新株を1株ずつ渡したが、合併前日までの配当相当金は年7分とし、他の2行の年8分より低く置いた。新銀行では常務1人と取締役2人を伊藤銀行から出し、社長の伊藤次郎左衛門氏は相談役に就任した。伊藤家の先代次郎左衛門氏は、1896年の愛知銀行の創立を発起した一人でもあった。規模の差は配当の差で埋め、枠は対等にそろえた構図と読める。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [32]伊藤銀行は公称資本金200万円、松坂屋の伊藤家の事業の一部門
    • [33]愛知銀行の公称資本金1500万円、名古屋銀行2060万円
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [34]合同の機運の中で佐々部伊藤銀行副社長に愛知との合併問題が持ちかけられた
    • [35]合併契約第5条・第7条で伊藤銀行株主にも1株対1株で交付、配当相当金は愛知・名古屋年8分に対し伊藤年7分
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [36]創立時の役員に伊藤銀行出身の常務久野真苗、取締役岩佐義徳・佐々部晩穂、相談役伊藤次郎左衛門(旧社長)
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [37]愛知銀行は1896年、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門(先代)らの主唱発起で創立
参考文献[18]-[37]
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [18]1936年、広田内閣の馬場蔵相が一県一行主義を提唱し、自立可能な地方銀行の統合も推進
    • [19]1936年当時、県下の銀行を愛知・名古屋両行に併合させる構想が当局内にあったが、実現したのは稲沢銀行中心の尾張、岡崎銀行中心の三河の合同のみ
    • [20]国債消化と低金利政策のため地方銀行の資金コスト引き下げが必要となり、合同による競争緩和が図られた
    • [22]1939年ごろから結城日銀総裁が親交のあった渡辺愛知銀行頭取に合同の考慮を促していた
    • [23]1940年10月中旬に大蔵省が3行首脳を個別に招致、12月15日に愛知県庁で覚書に調印
    • [25]1940年12月15日の覚書で3行対等の条件による合併と、会長以下重役の人選の大蔵省一任を定めた
    • [26]3行協議で命名を結城日銀総裁に依頼し、1941年2月20日に東海銀行と命名
    • [27]1941年3月27日に合併契約書を調印、3行の株式1株に新銀行の同払込額の株式1株を交付
    • [34]合同の機運の中で佐々部伊藤銀行副社長に愛知との合併問題が持ちかけられた
    • [35]合併契約第5条・第7条で伊藤銀行株主にも1株対1株で交付、配当相当金は愛知・名古屋年8分に対し伊藤年7分
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [21]3行合併を推進したのは当時の日銀総裁結城豊太郎
    • [28]1941年6月9日、公称資本金3760万円(払込2725万円)で設立
    • [32]伊藤銀行は公称資本金200万円、松坂屋の伊藤家の事業の一部門
    • [33]愛知銀行の公称資本金1500万円、名古屋銀行2060万円
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
    • [24]戦時体制の強化により愛知銀行も名古屋・伊藤両行との提携を一段深くする必要に迫られ、3行は東海の名の下に一丸となった
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [29]創立当初の営業店舗141店、行員3468名
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
    • [30]創立当時の役員は会長渡辺義郎(旧愛知頭取)、頭取井倉和雄(旧名古屋頭取)
    • [31]創立時の常務5人は愛知出身2・名古屋出身2・伊藤出身1
    • [36]創立時の役員に伊藤銀行出身の常務久野真苗、取締役岩佐義徳・佐々部晩穂、相談役伊藤次郎左衛門(旧社長)
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
    • [37]愛知銀行は1896年、徳川侯爵家・岡谷惣助・伊藤次郎左衛門(先代)らの主唱発起で創立

1941年〜岡崎・稲沢・大野の3行合併と、中央信託から継いだ信託業務と187の店

東海銀行は発足から半年で太平洋戦争を迎え、地盤である繊維・雑貨などの中小商工業は統制で縮んだ。1941年12月から1945年8月に預金は特殊預金を除いて約15億円増えたが、貸出は約5億円増にとどまり、国債が約7億9000万円増えた。預金を貸出に回せず、国債の引き受けで運用するほかなかったのである。店の網は1943年4月に尾州銀行、1944年11月に岡崎銀行の営業の一部を譲り受けて補った。戦時の主な融資先はワシノ製機や大隈鉄工などだったが、軍需の補償は少額だったという。軍需の大企業に深く入り込まなかったことが、終戦後に補償が打ち切られた際の損失を抑える側に働いたようだ。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [38]創立半年で大戦を迎え、地盤の東海地方の繊維・雑貨ほか中小商工業が戦時統制で打撃を受けた
    • [39]1941年12月から1945年8月の預金増加は特殊預金を除くと約15億円
    • [40]同期間の貸出増加は約5億円、国債増加は約7億9000万円
    • [41]大軍需会社の発展で中小商工業が不振となり、余裕資金を国債引受に向けるほかなかった
    • [42]1943年4月に尾州銀行の営業の一部、1944年11月に岡崎銀行八幡出張所の営業を譲り受け
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [43]戦時中の主な融資先はワシノ製機・中央発振・大隈鉄工・朝日兵器等で、軍需補償は極めて僅少

東海銀行は1945年9月、中央信託の営業を譲り受けて信託部を設け、信託業務を兼ねるようになった。同月17日には岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県内に本店を置く唯一の銀行となった。3行の公称資本金は岡崎381万円・稲沢150万円・大野115万円で、持ち込んだ店は支店57・出張所21・代理店7だった。岡崎と稲沢は、1936年以降に三河と尾張でそれぞれ地区の合同の核となった銀行である。合併の結果、公称資本金は4406万円、預金総額は約44億6600万円に達した。1936年から当局が描いた県内を1行にまとめる方針は、終戦の直後に地区ごとの中心行の吸収によって完結した可能性が高い。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [44]1945年9月に中央信託の営業を譲り受けて信託部を設置し信託業務を兼営
    • [45]1945年9月17日に岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県下唯一の本店銀行となる
    • [47]合併した3行の営業店舗は支店57・出張所21・代理店7
    • [49]合併後の公称資本金4406万円、預金総額44億6615万5千円(1945年9月17日現在)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [46]公称資本金は岡崎銀行381万円、稲沢銀行150万円、大野銀行115万円
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [48]県下では稲沢銀行中心の尾張地区、岡崎銀行中心の三河地区の銀行合同が実現していた

3行の合併で店は本店を含めて187となり、明治以来県内に設立された110余りの銀行のうち本店を残す唯一の銀行となった。一方で53の店が戦災を受けて在外資産も失い、配当は1945年3月決算の年8分を最後に途絶えた。金融機関再建整備法による特別損失は3億8200万円に上り、預金の切り捨てや9割減資で埋めて1948年3月に処理を終えた。資本金は9割減資で一時440万6000円まで縮んだ。第二封鎖預金の切り捨て率は38%で、軍需補償の少ない融資先が多かったため、帝国・三菱・住友の7割を下回ったという。統合を終えた時点で、戦後の再建は資本の積み直しから始まる状況にあったと見てよい。

  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [50]3行合併当日の営業店舗数は本店を加えて総計187店
    • [53]創立から1945年3月決算まで年8朱の配当を続け、終戦後は無配
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [51]明治以来愛知県下に設立された110余の銀行のうち残る唯一の本店銀行
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [52]戦時中に53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [54]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円等で補填し1948年3月に最終処理
    • [55]9割減資で資本金は一時440万6000円となった
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [56]第二封鎖預金の切捨率は東海3割8分、帝国・三菱・住友は7割。戦時の融資先の軍需補償が僅少だったため
参考文献[38]-[56]
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
    • [38]創立半年で大戦を迎え、地盤の東海地方の繊維・雑貨ほか中小商工業が戦時統制で打撃を受けた
    • [39]1941年12月から1945年8月の預金増加は特殊預金を除くと約15億円
    • [40]同期間の貸出増加は約5億円、国債増加は約7億9000万円
    • [41]大軍需会社の発展で中小商工業が不振となり、余裕資金を国債引受に向けるほかなかった
    • [42]1943年4月に尾州銀行の営業の一部、1944年11月に岡崎銀行八幡出張所の営業を譲り受け
    • [44]1945年9月に中央信託の営業を譲り受けて信託部を設置し信託業務を兼営
    • [45]1945年9月17日に岡崎・稲沢・大野の3行を合併し、愛知県下唯一の本店銀行となる
    • [47]合併した3行の営業店舗は支店57・出張所21・代理店7
    • [49]合併後の公称資本金4406万円、預金総額44億6615万5千円(1945年9月17日現在)
    • [50]3行合併当日の営業店舗数は本店を加えて総計187店
    • [53]創立から1945年3月決算まで年8朱の配当を続け、終戦後は無配
  • 新日本経済 12(6) 1948年
    • [43]戦時中の主な融資先はワシノ製機・中央発振・大隈鉄工・朝日兵器等で、軍需補償は極めて僅少
    • [56]第二封鎖預金の切捨率は東海3割8分、帝国・三菱・住友は7割。戦時の融資先の軍需補償が僅少だったため
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
    • [46]公称資本金は岡崎銀行381万円、稲沢銀行150万円、大野銀行115万円
    • [51]明治以来愛知県下に設立された110余の銀行のうち残る唯一の本店銀行
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」
    • [48]県下では稲沢銀行中心の尾張地区、岡崎銀行中心の三河地区の銀行合同が実現していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
    • [52]戦時中に53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
    • [54]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円等で補填し1948年3月に最終処理
    • [55]9割減資で資本金は一時440万6000円となった

出典・参考

11件
出典・参考
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第六章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第五章
  • 愛知銀行四十六年史(愛知銀行、1944年)第八章
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東海銀行」の項
  • 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
  • 実業の世界 29(12) 1932年12月号
  • 人的事業大系 銀行篇(1940年)「株式會社愛知銀行」
  • 新日本経済 12(6) 1948年
  • 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
  • 東海銀行史(東海銀行、1961年)第一編第二章「創立」

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