東海銀行:戦後の再建整備とロンドン支店の開設
1945年〜9割の減資からの再建と、日銀名古屋支店長から来た鈴木亨市頭取
1948年3月、東海銀行は金融機関再建整備法に基づいて資本金を9割減らした。再建整備で確定した特別損失3億8200万円は、預金切り捨ての2億9500万円と減資の3900万円、積立金と確定益で埋めた。損失の元には、地盤の繊維・雑貨などの中小商工業が戦時統制で縮み、53店が戦災に遭い、在外資産も失ったことがあった。同年9月には整備計画に沿って4億3059万4000円を増資し、資本金を4億3500万円とした。1953年2月には、確定損を負った預金者へ元利金の全額を、全国の銀行に先んじて払い戻した。預金者への払い戻しを急いだのは、預金を元手とする銀行として信用の回復を何より優先したためとみられる。
- 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
- [1]1948年3月、金融機関再建整備法により9割減資
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- [2]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円・積立金2700万円・確定益2100万円で補填し、1948年3月に最終処理完了
- [3]戦時中は地盤の繊維・雑貨等の中小商工業が戦時統制で圧縮され、53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
- [5]1953年2月、全国銀行に率先して確定損を負担した預金者に預金の元利金全部を支払い
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [4]1948年9月、整備計画に基づき4億3059万4000円を増資し資本金4億3500万円
戦後の再建を率いたのは、1943年に頭取となった日本銀行出身の鈴木亨市氏だった。鈴木氏は東海銀行の発足時に日銀名古屋支店長を務めており、三行合併を進めた日銀総裁の結城豊太郎氏の推薦で2代目頭取に就任した。首脳を日銀から迎え、旧行の重役を早めに退かせて若手行員を現業担当の重役に登用したことで、旧愛知と旧名古屋の行風の融合が進んだという。経営の軸には、地元産業の復興と大衆預金の獲得を据えた。店頭には「親切」の標語を掲げ、入りやすく話しやすい店であることを行員に求めた。合併銀行の首脳を旧行と無縁の日銀出身者に任せたことが、派閥を抑えて地元の営業へ力を集める条件になったのだろう。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
- [6]鈴木亨市は日銀出身、1943年(昭和18年)頭取、1959年会長
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [7]結城豊太郎日銀総裁の推薦で当時日銀名古屋支店長の鈴木亨市が2代目頭取に就いた
- [9]鈴木亨市は地元産業の復興と発展、大衆預金の獲得を軸に拡張策を展開
- 新日本経済 12(6) 1948年
- [8]首脳を日銀から迎え、旧銀行の重役を退陣させ若手行員から現業担当重役を抜擢したことが旧愛知・旧名古屋の行風の融合の一因
- 野田経済 1956年12月号
- [10]鈴木頭取は銀行のモットーに「親切」を掲げて店頭にも示し、入りやすく話しやすい店を心がけた
1948年の新日本経済の連載は東海銀行を八大銀行の一つとして扱い、東西の金融市場での地位を五大銀行に次ぐと評した。戦後の第二封鎖預金の切捨率は、帝国・三菱・住友の7割に対し、東海は3割8分にとどまった。戦時の主な融資先が中小の機械メーカーなどで、打ち切られた軍需補償が少なかったためだった。敗戦後に輸出産業として伸びた繊維・陶器・木材は、もともと東海銀行の取引基盤だった。1946年9月末から1947年4月末にかけての自由預金の増加率は206%で、全国の普通銀行の140%を上回った。1955年3月末の預金総額は1661億円となり、普通銀行の中で5位に並んだ。重工業への出遅れが、敗戦後にはかえって損失の小ささと輸出産業の地盤として利いたと推察される。
- 新日本経済 12(6) 1948年
- [11]八大銀行の連載で東海銀行を扱い、巨大な預金と東西両市場での地位から五大銀行に次ぐと評価
- [12]第二封鎖預金の切捨率は帝国・三菱・住友7割、三和6割、野村5割8分、安田5割5分、神戸5割、東海3割8分
- [13]東海の切捨率が低かったのは戦時中の主な融資先がワシノ製機・大隈鉄工等で軍需補償が僅少だったため
- [14]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤だった
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
- [15]自由預金の増加率は1946年9月末→1947年4月末で東海銀行206%、全国普通銀行140%
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- [16]1955年3月末の預金総額1661億円・貸出金総額1443億円で普通銀行中各5位
参考文献[1]-[16]
- 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
- [1]1948年3月、金融機関再建整備法により9割減資
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- [2]再建整備法に基づく特別損失3億8200万円を預金切捨2億9500万円・9割減資3900万円・積立金2700万円・確定益2100万円で補填し、1948年3月に最終処理完了
- [3]戦時中は地盤の繊維・雑貨等の中小商工業が戦時統制で圧縮され、53店が戦災を被り、終戦で在外資産を喪失
- [5]1953年2月、全国銀行に率先して確定損を負担した預金者に預金の元利金全部を支払い
- [16]1955年3月末の預金総額1661億円・貸出金総額1443億円で普通銀行中各5位
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [4]1948年9月、整備計画に基づき4億3059万4000円を増資し資本金4億3500万円
- [7]結城豊太郎日銀総裁の推薦で当時日銀名古屋支店長の鈴木亨市が2代目頭取に就いた
- [9]鈴木亨市は地元産業の復興と発展、大衆預金の獲得を軸に拡張策を展開
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
- [6]鈴木亨市は日銀出身、1943年(昭和18年)頭取、1959年会長
- 新日本経済 12(6) 1948年
- [8]首脳を日銀から迎え、旧銀行の重役を退陣させ若手行員から現業担当重役を抜擢したことが旧愛知・旧名古屋の行風の融合の一因
- [11]八大銀行の連載で東海銀行を扱い、巨大な預金と東西両市場での地位から五大銀行に次ぐと評価
- [12]第二封鎖預金の切捨率は帝国・三菱・住友7割、三和6割、野村5割8分、安田5割5分、神戸5割、東海3割8分
- [13]東海の切捨率が低かったのは戦時中の主な融資先がワシノ製機・大隈鉄工等で軍需補償が僅少だったため
- [14]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤だった
- 野田経済 1956年12月号
- [10]鈴木頭取は銀行のモットーに「親切」を掲げて店頭にも示し、入りやすく話しやすい店を心がけた
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
- [15]自由預金の増加率は1946年9月末→1947年4月末で東海銀行206%、全国普通銀行140%
1955年〜木下正美の東京進出とロンドン支店、日本のピープルズ・バンクを掲げた大衆預金
1968年までに東海銀行の東京都内の店舗は44店となり、新設店の大半は関東に置かれた。1956年に頭取の鈴木亨市氏は、東京と大阪の取引先を名古屋に縁のある企業から一般の得意先へ広げてきたと説明した。東京への本格的な進出を主導したのは、副頭取の木下正美氏だった。木下氏によれば、地元の取引を1行で受ける立場にあったため他行の進出が激しく、守るだけでは預金の伸び率を削られた。1962年までに東京の店舗は20店に達し、東京の伸びにより都市銀行の預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上がった。地元での強い地位がかえって他行を呼び込み、守りに限界が出たことが、外へ出る動機になったと考えられる。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [17]1968年の国内店舗は名古屋市58・愛知県56・東京都44・大阪府9で、東西進出政策により新設店の大半が関東に集中
- 野田経済 1956年12月号
- [18]鈴木頭取は、以前は東京・大阪でも名古屋に関係のある方面を主に活動していたが、一般の得意先・事業へ広げてきたと説明
- 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
- [19]木下正美(副頭取)が東京へ乗り出した時から東海銀行は一回りスケールを大きくした
- [20]木下副頭取は、地元を1行で受けているため他行の進出が激しく守勢では伸び率を侵食されるので、攻勢に出て東京進出を断行したと説明
- [21]1962年時点で東京の店舗は20店、東京の伸びにより都市銀行総預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上昇
1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営に触れた木下正美氏は、帰国後にピープルズ・バンクの路線を打ち出した。1961年3月に竣工した名古屋の新本店では、長さ約50mのカウンターに34人のテラーを並べ、客のための空間を広く取った。2階には経営相談所を設け、取引先が気軽に相談できる造りとした。事務では他行に先がけてIBMの電子計算機7070を入れ、窓口の処理を速めた。貸出では、中小企業への融資の比率が他行より高いことを木下氏は特色に挙げた。1966年9月末の預金は1兆1713億円で、10年間の伸びは都市銀行13行平均の4.7倍に対し5倍だった。財閥系の上位行と大企業のメーン取引で並びにくい以上、個人と中小企業の厚みで規模を補う選択だったとうかがえる。
- 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
- [22]木下副頭取は1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営を見聞し、帰国後に大衆との結びつきを重視するピープルズ・バンクの線を打ち出した
- [23]1961年3月31日竣工の新本店は完全テラー・システムで、約50mのカウンターに34名のテラーが並ぶ
- [24]新本店の2階営業場に経営相談所を設置
- [25]他行に先がけて最新型のIBM電子計算機7070を採用
- [26]木下副頭取は中小企業に対する融資率が他行より高いと説明
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [27]1966年9月末の預金は1兆1713億円、10年間の伸びは都銀13行平均4.7倍に対し東海5倍
東海銀行は甲種外国為替銀行として世界の主要地の銀行とコルレス契約を結んで貿易金融を手がけ、1954年3月にはニューヨーク事務所を開設した。地盤の東海地方には繊維・陶器など輸出向けの産業が多く、為替の需要は取引先の側にあった。1960年時点の海外拠点はニューヨークとロンドンの駐在員事務所で、1962年の役員名簿でもロンドンはまだ駐在員事務所と記された。1966年6月には店舗190のうち2店が海外に置かれ、1968年にはその2店がニューヨークとロンドンの支店と記された。取引先の輸出に伴う為替の取次ぎから入ったため、海外拠点も1960年代半ばの支店への格上げまで段を踏んで広げたようだ。
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- [28]甲種外国為替銀行として世界主要地の外国銀行とコルレス契約を結び貿易金融を実行
- [29]1954年3月にニューヨーク事務所を開設し将来の発展に備えた
- 新日本経済 12(6) 1948年
- [30]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤
- 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
- [31]1960年版時点の海外駐在員事務所はニューヨーク・ロンドン
- 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
- [32]1962年の人物紹介で中村幸四郎の役職はロンドン駐在員事務所長
- 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
- [33]1966年時点の店舗数190で、名古屋市内54・地元4県79・関東36・関西19・海外2
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [34]1968年の店舗はニューヨーク・ロンドンの2海外支店を含めて202
参考文献[17]-[34]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [17]1968年の国内店舗は名古屋市58・愛知県56・東京都44・大阪府9で、東西進出政策により新設店の大半が関東に集中
- [27]1966年9月末の預金は1兆1713億円、10年間の伸びは都銀13行平均4.7倍に対し東海5倍
- [34]1968年の店舗はニューヨーク・ロンドンの2海外支店を含めて202
- 野田経済 1956年12月号
- [18]鈴木頭取は、以前は東京・大阪でも名古屋に関係のある方面を主に活動していたが、一般の得意先・事業へ広げてきたと説明
- 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
- [19]木下正美(副頭取)が東京へ乗り出した時から東海銀行は一回りスケールを大きくした
- [20]木下副頭取は、地元を1行で受けているため他行の進出が激しく守勢では伸び率を侵食されるので、攻勢に出て東京進出を断行したと説明
- [21]1962年時点で東京の店舗は20店、東京の伸びにより都市銀行総預金に占めるシェアは5年で7.8%から8.8%に上昇
- [22]木下副頭取は1960年の海外視察でバンク・オブ・アメリカの経営を見聞し、帰国後に大衆との結びつきを重視するピープルズ・バンクの線を打ち出した
- [23]1961年3月31日竣工の新本店は完全テラー・システムで、約50mのカウンターに34名のテラーが並ぶ
- [24]新本店の2階営業場に経営相談所を設置
- [25]他行に先がけて最新型のIBM電子計算機7070を採用
- [26]木下副頭取は中小企業に対する融資率が他行より高いと説明
- [32]1962年の人物紹介で中村幸四郎の役職はロンドン駐在員事務所長
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- [28]甲種外国為替銀行として世界主要地の外国銀行とコルレス契約を結び貿易金融を実行
- [29]1954年3月にニューヨーク事務所を開設し将来の発展に備えた
- 新日本経済 12(6) 1948年
- [30]終戦後に輸出産業として浮上した繊維・陶器・木材等の産業が東海銀行の地盤
- 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
- [31]1960年版時点の海外駐在員事務所はニューヨーク・ロンドン
- 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
- [33]1966年時点の店舗数190で、名古屋市内54・地元4県79・関東36・関西19・海外2
1968年〜日銀出身の三宅重光頭取と、谷信一頭取の集まる預金への転換
1968年5月、日本銀行出身の三宅重光氏が東海銀行の頭取に就任した。三宅氏は前年9月に頭取の金子嘉徳氏から後任として求められ、11月に副頭取となって半年ほど行内の事情を学んだ。当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、首脳を外部から迎えざるを得なかったという。就任に際しては、1971年の創立30周年までに資金量を2兆円とする目標を掲げた。1969年の対談では、大銀行の合併は効果で個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が複数並んで競う構図が必要だとした。そのうえで、オープンコルレスやクレジットカードなどの業務提携が広く深く進めば、合併の意味は薄れるとの見方を示した。合併に頼らず提携で規模の不利を補う方針は、財閥の系列を持たない中位行の立場から導かれたと読める。
- 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
- [35]1968年5月、予定通り東海銀行頭取に就任
- [36]1967年9月18日に金子頭取から後任に求められ、同年11月に取締役副頭取、副頭取を半年務めてから頭取に就く予定だった
- [37]当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、外部から首脳を連れて来なければならなくなっていた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [38]三宅頭取は就任にあたり1971年の創立30周年までに資金量2兆円とする目標を持った
- 金融財政事情 20(9) 1969年
- [39]三宅頭取は、合併は効果の良し悪しで個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が幾つか競争し合う形が必要と述べた
- [40]オープンコルレス契約やクレジットカード業務などの業務提携の網が広く深く張られれば合併はあまり意味がなくなるとの見方
1975年5月、三宅重光氏が会長に退き、副頭取の谷信一氏が頭取に就任した。三宅氏は前年3月から名古屋商工会議所の会頭を兼ねており、頭取との兼務に無理を感じていた。谷氏は1937年に前身の愛知銀行へ入り、東京駐在の長い経歴を経た行員出身の頭取だった。就任後の1975年9月の取材で、谷氏は『さしあたり、集める預金から集まる預金へと体質転換する必要がありますね。』と預金の集め方を改める考えを示した。個人預金は小口でも質が高く、安定すれば全体の規模で大口の法人預金に劣らないという判断だった。後任の加藤隆一氏は1980年、谷氏の路線を大衆化・国際化・効率化の3本柱と整理した。企業の資金需要が鈍る局面で、預金の軸足を法人から個人へ移す転換だったと思われる。
- 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
- [41]1975年5月、谷信一副頭取を頭取にし、三宅は会長に就任
- [42]三宅は1974年3月4日に名古屋商工会議所会頭に就任し、頭取との兼職は無理で疲労が累積した
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [43]谷信一は1937年名古屋高商卒業と同時に前身の愛知銀行に入行、常務・専務期の大半を東京駐在で過ごし、1974年5月副頭取、1975年5月頭取
- [44]谷頭取は集める預金から集まる預金への体質転換が必要との考えを示した
- [45]個人預金は小口だが良質で、安定すれば全体の規模は大口法人預金に劣らないと説明
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [46]加藤頭取は就任に当たり前頭取の路線だった「大衆化」「国際化」「効率化」の三本柱を踏襲すると表明
1979年2月、東海銀行が主力銀行を務めていた林紡績とパシフィック通商が相次いで倒産した。1979年3月期に両社向けで償却した不良債権は80億円を超え、同期の経常利益198億円の4割を上回った。それまでは各常務に大きく権限を委ね、東京営業部は東京の案件をほぼ東京で決めていた。東海銀行は4月11日に常務会を新設し、6月1日からは担当常務3人の意見が一致した場合だけ融資を決める審査に改めた。同期の預金の34%を名古屋で集めた一方、貸出は29%にとどまり、余った資金を東京の大企業取引に回していた。1980年に頭取の加藤隆一氏は、名古屋を固められなければ東京も海外もあり得ないとの立場を示した。名古屋の預金で東京の貸出を支える構図こそが、巨大な地銀と呼ばれた理由だったのかもしれない。
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [47]1979年2月、東海銀行がメーンバンクの林紡績・パシフィック通商が相次いで倒産
- [48]1979年3月期に林紡績向け69億円、パシフィック通商向け10数億円、計80億円以上を償却し、同期経常利益198億円の40%超
- [49]専務・常務が各部門を担当し大幅に権限を委譲、東京営業部は東京のことはほとんど東京で決められた
- [50]1979年4月11日に常務会を新設、6月1日から3審査部担当常務の合議決裁に切り替え、一致した場合のみ決裁
- [51]1979年3月期の残高で預金の34%を名古屋地区で集め貸出は29%、預金超過分を東京に集中投入して大企業に食い込む原資とした
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [52]加藤頭取は、名古屋をしっかり固められなくて東京も大阪も海外もあり得ないと述べた
参考文献[35]-[52]
- 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
- [35]1968年5月、予定通り東海銀行頭取に就任
- [36]1967年9月18日に金子頭取から後任に求められ、同年11月に取締役副頭取、副頭取を半年務めてから頭取に就く予定だった
- [37]当時の東海銀行は不幸な出来事が続き、外部から首脳を連れて来なければならなくなっていた
- [41]1975年5月、谷信一副頭取を頭取にし、三宅は会長に就任
- [42]三宅は1974年3月4日に名古屋商工会議所会頭に就任し、頭取との兼職は無理で疲労が累積した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- [38]三宅頭取は就任にあたり1971年の創立30周年までに資金量2兆円とする目標を持った
- 金融財政事情 20(9) 1969年
- [39]三宅頭取は、合併は効果の良し悪しで個別に判断すべきで、似た規模の大銀行が幾つか競争し合う形が必要と述べた
- [40]オープンコルレス契約やクレジットカード業務などの業務提携の網が広く深く張られれば合併はあまり意味がなくなるとの見方
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [43]谷信一は1937年名古屋高商卒業と同時に前身の愛知銀行に入行、常務・専務期の大半を東京駐在で過ごし、1974年5月副頭取、1975年5月頭取
- [44]谷頭取は集める預金から集まる預金への体質転換が必要との考えを示した
- [45]個人預金は小口だが良質で、安定すれば全体の規模は大口法人預金に劣らないと説明
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」
- [46]加藤頭取は就任に当たり前頭取の路線だった「大衆化」「国際化」「効率化」の三本柱を踏襲すると表明
- [52]加藤頭取は、名古屋をしっかり固められなくて東京も大阪も海外もあり得ないと述べた
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- [47]1979年2月、東海銀行がメーンバンクの林紡績・パシフィック通商が相次いで倒産
- [48]1979年3月期に林紡績向け69億円、パシフィック通商向け10数億円、計80億円以上を償却し、同期経常利益198億円の40%超
- [49]専務・常務が各部門を担当し大幅に権限を委譲、東京営業部は東京のことはほとんど東京で決められた
- [50]1979年4月11日に常務会を新設、6月1日から3審査部担当常務の合議決裁に切り替え、一致した場合のみ決裁
- [51]1979年3月期の残高で預金の34%を名古屋地区で集め貸出は29%、預金超過分を東京に集中投入して大企業に食い込む原資とした
出典・参考
15件
- 株式会社年鑑 1953年版「東海銀行」
- 会社銀行八十年史(1955年)「東海銀行」の項
- 株式会社年鑑 1960年版「東海銀行」
- 企業の現代史「日本のピープルズ・バンクへ(東海銀行)」(1962年)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「東海銀行」の項
- 野田経済 1956年12月号
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「株式会社東海銀行」
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- 日経ビジネス 1979年7月2日号
- 私の履歴書 経済人21「三宅重光」(日本経済新聞社、1986年)
- 新日本経済 12(6) 1948年
- 金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会、1949年)「10 東海銀行」
- 経済情報 17(6) 1966年6月「中部地域の優位性で発展する東海銀行」
- 金融財政事情 20(9) 1969年
- 中部財界 23(13) 1980年「加藤隆一東海銀行頭取に聞く――「名古屋あっての東海銀行」で地域密着を強調」