日本興業銀行:長期信用銀行法による長期信用銀行への転換
1945年〜戦時融資の集中が残した75億円の特別損失
戦時下の興銀は、危険な軍需金融を一身に引き受ける位置にいた。1939年4月の会社利益配当および資金融通令に基づく命令融資制度では唯一の受命機関に指定され、融資残高は1941年末の27億8,300万円から終戦時の146億6,500万円へ約五・三倍に膨らむ。同じ期間の全国銀行は三・五倍にとどまった。1940年12月から総裁の職にあった河上弘一氏は、戦後の処理までを見越し、『他の銀行にキズをつけないで、興銀を整理すればよいという気持で、やむを得ないから掃きだめになろう』と決めていたという。戦時補償の打切りが1946年8月に決まると、五大銀行と興銀の貸出のうち補償をあてにしていたものは8割を超え、打切り額全体の7割を上回っていた。
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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損失の確定までには三年近くを要した。金融機関経理応急措置法と金融機関再建整備法により、旧勘定の最終処理と整備計画の作成という二段階で処理が進み、興銀は1948年3月に最終処理方法書を大蔵大臣へ提出して同月末に認可を得る。特別損失は75億8,600万円にのぼり、その補填のため資本金2億円の全額と、興業債券62億4,300万円を含む整理債務の8割の切捨てが確定した。切り捨てられた債券の多くは、戦中に引受けへの協力を求められた地方銀行や貯蓄銀行が抱えていたため、損失は銀行界へ広く波及している。河上総裁は1946年2月、戦争への協力は最高責任者の責任だとして自ら辞任し、以後は伊藤謙二、栗栖赳夫、岸喜二雄と総裁が入れ替わった。
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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占領軍は、銀行には商業銀行の役割だけを認め、長期の資金調達は証券市場に委ねさせるという考えから動かず、終戦直後の興銀は戦時金融金庫に続いて閉鎖されかねない状況にあった。経理の処理を終えても、銀行としての形はなお決まっていなかった。局面を変えたのは、1948年10月に日本銀行と足並みをそろえて出した長い意見書と、同年11月5日に岸総裁や中山素平理事らが経済科学局長のマーカット少将と会ったことである。その背景には東西冷戦の始まりがあり、占領政策は日本をアジアの工場に立て直す方向へ変わっていた。整備計画の承認は11月26日に占領軍から、27日には大蔵大臣から下り、同年12月、興銀は資本金5億円を新たに払い込み、長期資金を中心に事業へ貸す専門の金融機関として再出発した。
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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参考文献[1]-[16]
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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1949年〜特殊銀行の廃止と、債券だけを残した普通銀行への改組
1949年5月に興業債券の発行限度の特例に関する法律が施行され、資本金の20倍まで債券を出せるようになった。同年9月の5億円増資で、発行限度は100億円に広がる。同年6月には、戦後処理を終えた岸総裁に代わり、日本銀行副総裁だった川北禎一氏が総裁に就任した。川北氏は1922年に日本銀行へ入り、1946年に理事、翌年に副総裁を務めた人物である。ドッジ・ラインによる急激な安定政策のもとでも長期の産業資金需要は衰えず、1950年3月末までの一年間に融資残高は三・二倍へ膨らんだ。債券で集めた資金を長期で流すという方式は、再発足の直後に実地で試された。
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本企業要覧 1960年版「日本興業銀行」
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日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は、同じ特殊銀行でありながら債券の発行から手を引き、預金で資金を集める普通銀行へ移った。債券を出し続ける道を残したのは興銀ひとつだった。その興銀が48年間の特殊銀行の立場を離れたのは1950年4月で、日本勧業銀行法等を廃止する法律を受け、銀行法に基づく普通銀行へ改組している。債券の発行を引き続き認めた根拠は、このとき併せて定められた「銀行等の債券発行等に関する法律」である。預金を受け入れる際の制限もなくなった。同じ年の10月には甲種外国為替銀行に指定されている。特権を取り上げる法律が、結果としては興銀だけに固有の調達手段を残したことになる。
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
- [23]
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- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
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復興金融金庫を切り盛りした裏では、興銀が全面的に協力していた。1947年1月に設立されたこの金庫は、債券を発行して総額1,680億円を集め、傾斜生産方式に資金を回した。ところが債券の約4分の3は日本銀行が引き受けており、それがインフレーションを一段と加速させたため、1949年のドッジ・ライン実施にあたって廃止が決まる。1951年には2月に日本輸出銀行、4月に日本開発銀行が発足し、復興金融金庫は1952年1月の解散時に債権債務を開銀へ渡した。こうして長期の事業金融は、政府機関である開銀と民間の興銀の二本立てとなった。興銀は1950年4月に見返資金の引受けによる10億円の優先株増資で資本金20億円となり、朝鮮動乱のあとの設備資金需要に応じて1951年7月にも増資し、資本金は29億円となった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本興業銀行」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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参考文献[17]-[30]
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本企業要覧 1960年版「日本興業銀行」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
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- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本興業銀行」
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1952年〜長期信用銀行法という制度と、切捨債務の全額償還
市中銀行の設備資金融資も累増してオーバー・ローンの傾向が強まると、長短の金融の分野を明確にする必要が痛感された。1952年6月に長期信用銀行法が制定され、12月の施行とともに、興銀と日本長期信用銀行の二行が新法のもとに発足する。同法は、資本金と準備金の合計額の20倍を限度とする債券発行を主たる資金源と定める一方、短期資金の融通と一般預金の受入には制限を加え、商業銀行との間に機能上の一線を引いた。1956年3月には日本不動産銀行も同法によって設立された。創立以来この銀行が担ってきた業務のかたちが、ここではじめて一般の制度として書き直された。
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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1953年3月末の債券発行額は982億円、貸出金は1,408億円だった。1955年3月末には債券発行額が1,587億円、預金が465億円、貸出が2,049億円に達し、貸出の62%が設備資金、38%が運転資金を占めている。資本金は1956年9月の25億円増資を経て、1960年には100億円となった。見返資金の引受けによる優先株10億円は1957年6月に全額を償却し、1959年3月には金融機関再建整備法に基づく調整勘定を閉鎖して、切り捨てた整理債務の全額の償還を終えている。戦後処理で8割を切り捨てた債券を11年かけて返しきった作業は、債券という調達手段への信用を自ら作り直すことでもあった。
- 株式会社年鑑 1954年版「日本興業銀行」
- [35]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
- [36]
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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1959年9月期の貸出金は4,256億円、債券は3,665億円、預金は720億円だった。業種別の貸出は製造業が2,319億円で最も多く、電気ガス業804億円、運輸通信業575億円、鉱業247億円と続く。従業員は2,513名、支店は大阪と神戸、名古屋、福岡、仙台、富山、広島、札幌、高松、新潟、福島の十一にすぎなかった。株主には明治生命保険と第一生命保険、八幡製鉄、富士製鉄、日産自動車、日立製作所などが並んだが、最大の株主でも持株比率は三・3%、上位十社を合わせても一五・89%だった。この構成のもとで、興銀は民間の長期金融機構の中核として長期の事業資金の供給にあたっていた。系列を持たないという創業以来の条件が、設備資金を出す側の中立性として働いた。
- 日本企業要覧 1960年版「日本興業銀行」
- [39]
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- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
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参考文献[31]-[43]
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
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- [38]
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
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- 株式会社年鑑 1954年版「日本興業銀行」
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- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
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- 日本企業要覧 1960年版「日本興業銀行」
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筆者考察
戦後の興銀が守ろうとしたのは、貸出先でも規模でもなく、債券で資金を調達するという一点だった。1948年3月に確定した特別損失75億8,600万円は、資本金2億円の全額を消し、興業債券62億4,300万円を含む整理債務の8割を切り捨てさせた。損失の重さは、戦時に軍需金融を一身に引き受けた代償である。それでも岸喜二雄総裁と中山素平理事がマーカット経済科学局長との会談に望みをつないだのは、商業銀行へ転じれば手元に残るのは預金という短期の資金だけになり、十年単位で回収する設備投資に応える相手が国内から消えると見ていたからだった。戦時の損失を引き受けることと、戦後に担う役割を手放すことは、この銀行にとって別の問題だった。
制度の側も、結局この一点だけを残した。1950年4月に特殊銀行の資格が失われたとき、日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は債券の発行をやめて預金を集める銀行になり、債券を出し続けたのは興銀だけになる。1952年12月の長期信用銀行法は、資本金と準備金の合計額の20倍という発行枠を与える代わりに、一般預金の受入を制限した。集める手段を狭められた見返りに、集めた資金の長さを保証されたのである。1953年3月末に982億円だった債券の残高は、1959年9月末には3,665億円に達している。1959年3月に切捨債務の全額償還を終えたことは、経理上の整理であると同時に、債券を買った側への11年ぶりの回答でもあった。
- 1953年3月は株式会社年鑑 1954年版、1955年3月は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)、1958年9月以降は日本企業要覧 1960年版による。
1945年〜1960年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 255 | n/a | 17 | 6.9% | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 320 | +25.3% | 18 | 5.8% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 368 | +15.1% | 18 | 5.0% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 426 | +15.7% | 27 | 6.4% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算
出典・参考
6件
- 株式会社年鑑 1954年版「日本興業銀行」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
- 企業の現代史(1962年)「産業とともに歩む(日本興業銀行)」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本興業銀行」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- 日本企業要覧 1960年版「日本興業銀行」