第2章 年〜年

イトーヨーカ堂:伊藤雅俊の経営継承と伊藤ヨーカ堂のチェーン展開

1956年〜兄の死で継いだ北千住の羊華堂と、株式会社ヨーカ堂の設立

1956年7月、兄の伊藤譲氏が死去し、弟の伊藤雅俊氏が合資会社羊華堂の経営を継承した。羊華堂の源流は1920年に叔父の吉川敏雄氏が浅草で開いた洋品店で、1948年8月に伊藤譲氏を代表者として北千住で法人化。伊藤雅俊氏は1945年に三菱鉱業を退社して家業に加わり、当時の働き手は母の伊藤ゆき氏と19歳上の伊藤譲氏の2人だった。伊藤譲氏は喘息を持病に抱え、雨の日も御用聞きに回って病状を悪化させたという。1948年に千住の電器店の土地が50万円で売りに出ると、伊藤ゆき氏は資金の手当てより先に購入を決め、この土地が後の店の土台になった。兄の急逝により、母と店を続ける役目と経営の決定権が、32歳の伊藤雅俊氏に一度に移ったことになる。

  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [1]1956年7月伊藤譲の死去で伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承。前身は1920年吉川敏雄が浅草で開業した洋品店、1948年8月合資会社羊華堂を設立
    • [2]1956年7月伊藤譲の死去で伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承。前身は1920年吉川敏雄が浅草で開業した洋品店、1948年8月合資会社羊華堂を設立
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [3]1945年に三菱鉱業を辞め家業へ。働き手は母ゆきと19歳上の兄譲の2人。1948年に千住の電器店の土地50万円を母の判断で購入し後の土台に
    • [5]1945年に三菱鉱業を辞め家業へ。働き手は母ゆきと19歳上の兄譲の2人。1948年に千住の電器店の土地50万円を母の判断で購入し後の土台に
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [4]兄譲はぜんそく持ちで、雨の日も御用聞きに回り持病を悪化させた。昭和31年譲の死去で雅俊が継承

1958年4月、伊藤雅俊氏は合資会社羊華堂とは別に、資本金500万円で株式会社ヨーカ堂を設立した。新会社の目的は大量販売方式の実行で、掲げた標語は『「責任ある商品をより安く、大量に提供する。」』である。設立と同時に、足立区千住3丁目にあった羊華堂の建物を増改築し、衣料品の販売を始めた。1966年の取材で伊藤雅俊氏は、洋品店が出自である以上、スーパーになっても洋品を中心に置くという考えを示した。伊藤雅俊氏は1972年の講演で、日本の本格的なチェーンストアは1960年ごろに芽を出したと位置づけた。家業の合資会社を残したまま株式会社を別に立てた判断は、大量仕入れのための資金と取引を担う会社を家業から切り分ける狙いだったのだろう。

  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [6]1958年4月、合資会社羊華堂とは別に大量販売方式の実行のため株式会社ヨーカ堂(資本金500万円)を設立。モットーは「責任ある商品をより安く、大量に提供する。」
    • [7]1958年4月、合資会社羊華堂とは別に大量販売方式の実行のため株式会社ヨーカ堂(資本金500万円)を設立。モットーは「責任ある商品をより安く、大量に提供する。」
  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [8]1958年4月ヨーカ堂を設立し、足立区千住3丁目2番地の従来の建物を増改築して営業開始
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [9]洋品店出身のためスーパーになっても洋品中心主義は変わらないとの伊藤雅俊の発言(1966年)
  • 証券アナリストジャーナル 10(12) 1972年 伊藤雅俊(1972年11月17日講演要旨)
    • [10]日本の本格的チェーンストアは昭和35年頃から芽をふきはじめたとの伊藤雅俊の講演(1972年11月)

伊藤雅俊氏が店を増やす際の拠り所にしたのは、売上高の規模より利益を優先する方針である。1992年の講演で伊藤雅俊氏は、創業時からの哲学として『「お客さんは来てくださらないもの」「お金は貸していただけないもの」「お取引先は売ってくださらないもの」』を挙げた。1966年の取材では『「いたずらに大きさだけを競っても意味がない。わたしはガンコなくらい利益第一主義に徹してきた。」』と語った。仕入れは店ごとに任せず本部で一括し、現金払いと返品なしを条件に大量に買い付けて仕入れ値を下げた。1965年の売上高は前年の68億円から90億円に増え、利益はほぼ2倍になった。客も取引先も銀行も当てにできないという前提が、借入より先に利益を確保し、その範囲で出店する順序を選ばせたとみられる。

  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [11]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [13]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [14]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [15]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
  • IDR研究資料 116 1992年 伊藤雅俊「私の経営の考え方」
    • [12]創業時からの哲学は「お客さんは来てくださらないもの」「お金は貸していただけないもの」「お取引先は売ってくださらないもの」
参考文献[1]-[15]
  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [1]1956年7月伊藤譲の死去で伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承。前身は1920年吉川敏雄が浅草で開業した洋品店、1948年8月合資会社羊華堂を設立
    • [2]1956年7月伊藤譲の死去で伊藤雅俊が合資会社羊華堂の経営を継承。前身は1920年吉川敏雄が浅草で開業した洋品店、1948年8月合資会社羊華堂を設立
    • [8]1958年4月ヨーカ堂を設立し、足立区千住3丁目2番地の従来の建物を増改築して営業開始
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [3]1945年に三菱鉱業を辞め家業へ。働き手は母ゆきと19歳上の兄譲の2人。1948年に千住の電器店の土地50万円を母の判断で購入し後の土台に
    • [5]1945年に三菱鉱業を辞め家業へ。働き手は母ゆきと19歳上の兄譲の2人。1948年に千住の電器店の土地50万円を母の判断で購入し後の土台に
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [4]兄譲はぜんそく持ちで、雨の日も御用聞きに回り持病を悪化させた。昭和31年譲の死去で雅俊が継承
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [6]1958年4月、合資会社羊華堂とは別に大量販売方式の実行のため株式会社ヨーカ堂(資本金500万円)を設立。モットーは「責任ある商品をより安く、大量に提供する。」
    • [7]1958年4月、合資会社羊華堂とは別に大量販売方式の実行のため株式会社ヨーカ堂(資本金500万円)を設立。モットーは「責任ある商品をより安く、大量に提供する。」
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [9]洋品店出身のためスーパーになっても洋品中心主義は変わらないとの伊藤雅俊の発言(1966年)
    • [11]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [13]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [14]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
    • [15]利益第一主義を掲げ、仕入れ本部で一括・現金・返品なしで大量仕入れ。1965年の売上は前年68億円から90億円、利益はほぼ2倍
  • 証券アナリストジャーナル 10(12) 1972年 伊藤雅俊(1972年11月17日講演要旨)
    • [10]日本の本格的チェーンストアは昭和35年頃から芽をふきはじめたとの伊藤雅俊の講演(1972年11月)
  • IDR研究資料 116 1992年 伊藤雅俊「私の経営の考え方」
    • [12]創業時からの哲学は「お客さんは来てくださらないもの」「お金は貸していただけないもの」「お取引先は売ってくださらないもの」

1961年〜アメリカのチェーンストア視察と、伊藤ヨーカ堂への改称

1961年6月、伊藤雅俊氏は日本NCRが主催した米国小売業視察団に加わり、スーパーの実情を見て回った。この視察団は小売業界で初めての海外視察団だったという。帰国後、伊藤雅俊氏はスーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同じ1961年に衣料品へ日用品・医薬品・化粧品・加工食品を加えた。1961年10月には赤羽店を新設し、レギュラー・チェーンの1店目とした。1966年時点のヨーカ堂は、他社のような店ごとの仕入れをやめ、本部が一括して買い付けていた。伊藤雅俊氏が目標に置いた企業は、時計店から世界最大のスーパーになった米国のシアーズ・ローバックである。視察の収穫は品ぞろえの拡大以上に、本部が仕入れを集約して店数を増やす仕組みにあったといえる。

  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [16]1961年、日本NCR主催の米国小売業視察団に加わりチェーンストアへ進む決意。帰国後に北千住店を改造し2号店を赤羽に出店
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [17]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
    • [18]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
    • [19]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [20]仕入れ本部で一括購入(他社は店ごと)。伊藤雅俊の目標は米国シアーズ・ローバック
    • [21]仕入れ本部で一括購入(他社は店ごと)。伊藤雅俊の目標は米国シアーズ・ローバック

1963年9月、出版取次の東京出版販売で広報を担っていた鈴木敏文氏が、30歳でヨーカ堂に入社した。友人の勧誘を受けて入谷の本部で伊藤雅俊社長と会い、その人物にかけて転職を決めた。当時のヨーカ堂の店舗は5店で、本拠の下町の外ではほとんど知られていなかった。鈴木敏文氏は販売促進から始め、人事と採用を7年間担当したのち、1971年に38歳で取締役に就任。1971年末の鈴木敏文取締役は人事部総括マネジャーを兼ね、IEの導入を経営合理化と社員の士気の両面から評価した。1972年の上場時の役員欄では、生え抜きの森田兵三氏・田村節男氏と並んで取締役に名を連ねた。出店の速度に見合う人の採用と配置を、社外から来た鈴木敏文氏が担う体制になったといえる。

  • Decide 3(3) 1985年
    • [22]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [23]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [24]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [25]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
  • 日経ビジネス 1971年12月27日号
    • [26]1971年12月時点で鈴木敏文取締役(人事部総括マネジャー)がIE導入を経営合理化と社員モラール向上の両面で評価
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [27]1972年9月上場時の取締役に鈴木敏文・田村節男・森田兵三ら

1962年11月、ヨーカ堂は本店を台東区入谷へ移した。1962年12月の北浦和店から1965年10月の三鷹店まで、埼玉と東京で出店を重ねた。1966年時点のレギュラー・チェーンは北千住・大山・赤羽・三鷹など9店で、総売場面積は13,900平方メートルだった。1965年6月、ヨーカ堂は社名を株式会社伊藤ヨーカ堂に改めた。伊藤雅俊社長は改称に際し、従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配り、長期の目標を示した。冊子は、1964年に68億円だった売上高を1968〜69年に年300億円へ、10億8,000万円だった粗利益を50億円へ引き上げる計画である。本部の所在、社名、数値目標を同じ数年で整えたのは、店数が本部の管理なしには回らない段階に入ったためだろう。

  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [28]1962年11月本店を台東区入谷に移転、1965年6月ヨーカ堂の社名を伊藤ヨーカ堂に変更
    • [31]1962年11月本店を台東区入谷に移転、1965年6月ヨーカ堂の社名を伊藤ヨーカ堂に変更
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
    • [29]1962年12月北浦和店、1963年5月小岩店・6月立石店、1964年4月蒲田店・7月大山店、1965年10月三鷹店を開店
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [30]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
    • [32]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
    • [33]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
参考文献[16]-[33]
  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [16]1961年、日本NCR主催の米国小売業視察団に加わりチェーンストアへ進む決意。帰国後に北千住店を改造し2号店を赤羽に出店
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [17]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
    • [18]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
    • [19]1961年6月、業界初の海外視察団で欧米を視察。帰国後スーパーストア形態の大量販売方式に踏み切り、同年に日用品・医薬品・化粧品・加工食品を追加。1961年10月赤羽店を新設しレギュラー・チェーンの第一歩
    • [27]1972年9月上場時の取締役に鈴木敏文・田村節男・森田兵三ら
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [20]仕入れ本部で一括購入(他社は店ごと)。伊藤雅俊の目標は米国シアーズ・ローバック
    • [21]仕入れ本部で一括購入(他社は店ごと)。伊藤雅俊の目標は米国シアーズ・ローバック
    • [30]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
    • [32]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
    • [33]1966年時点でレギュラー・チェーン9店・総売場面積13,900平方メートル。改称に際し従業員1,200人に冊子「私達の未来」を配布、売上68億円(1964年)を1968〜69年に300億円、粗利益10億8千万円を50億円とする長期計画
  • Decide 3(3) 1985年
    • [22]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [23]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [24]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
    • [25]鈴木敏文は東京出版販売の広報課から1963年9月30歳でヨーカ堂入社。初対面は入谷の本部、当時店舗は5つ。販売促進の後人事・採用を7年担当し1971年38歳で取締役
  • 日経ビジネス 1971年12月27日号
    • [26]1971年12月時点で鈴木敏文取締役(人事部総括マネジャー)がIE導入を経営合理化と社員モラール向上の両面で評価
  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [28]1962年11月本店を台東区入谷に移転、1965年6月ヨーカ堂の社名を伊藤ヨーカ堂に変更
    • [31]1962年11月本店を台東区入谷に移転、1965年6月ヨーカ堂の社名を伊藤ヨーカ堂に変更
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
    • [29]1962年12月北浦和店、1963年5月小岩店・6月立石店、1964年4月蒲田店・7月大山店、1965年10月三鷹店を開店

1967年〜麻布十番の本店と西新井店のアメリカ式店舗、収益重視で百貨店に挑むスーパー

1967年9月、伊藤ヨーカ堂は本店を港区麻布十番へ移した。1968年6月25日には、16店目として足立区興野町に西新井店を出店。西新井店は売場面積3,300平方メートルの鉄筋2階建てで、商品構成は食料品と衣料品が各40%、日用雑貨と耐久消費財が20%だった。店の奥の壁面に生鮮食品売場を置き、客がレジの後に自分で袋詰めする台を設けるなど、米国のスーパーの配置を取り入れた。併設の冷蔵庫で枝肉を用途別に加工し、他のチェーン店にも配送した。1967年度の売上高は180億円で、小売業上位100社の25位、スーパーの7位にあたる。1969年4月開設の大井店からは、ショッピングセンター形式の出店を打ち出した。

  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [34]1967年9月本店を港区麻布十番に移転
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
    • [35]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [36]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [37]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [38]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [39]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [40]1969年4月新設の大井店からショッピングセンター形式による店舗拡大を打ち出す

1968年、伊藤ヨーカ堂は正社員とは別枠の定時社員制度を始めた。開始時の定時社員は約20人で時間給140円ほどだったが、1971年には50店で約280人、時間給は約250円になった。定時社員は1日2時間以上の範囲で勤務時間と曜日を選べ、賃金は正社員の約90%とした。正社員から定時社員へ、定時社員から正社員への切り替えも認めた。配置先はベビー用品や日用雑貨など、若い独身の正社員では経験の足りない売場が中心だった。1967〜68年の2年間は、正社員の差別意識を改めさせ、定時社員を月1回本部で教育する期間に充てた。新店の要員は1年の出店計画に合わせ、開店6カ月前に店の規模から割り出した。家事の経験を持つ主婦の能力を売場の戦力として評価したことで、店数の伸びに人の手当てを追いつかせたとみてよい。

  • 近代中小企業 臨時増刊6(8) 1971年6月
    • [41]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [42]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [43]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [44]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [45]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [46]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
    • [47]新規出店の人材は1年間の出店計画に合わせ、6カ月前に新店の規模に応じて検討

1969年5月、伊藤ヨーカ堂は5日制推進委員会を設け、IEで仕事を合理化できれば週5日制に移すと社員に約束した。IE部の設置は1970年2月、隔週5日制の実施は同年4月である。伊藤雅俊社長は、人を先に置いて商品を流す従来のスーパーを改め、『「商品の自然の流れに沿って人をどう配置したらいいかを考えるべきだ」』と説いた。1965年ごろ規模で先行したのはダイエーと西友ストアだった。1972年のダイエーの年間売上高2,800億円に対し、イトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位にとどまった。一方でイトーヨーカドーには赤字の店が1店もなかった。連結売上高は1970年2月期の246億円から1972年2月期に約500億円へ増え、連結当期利益は約2.8倍になった。売上高の順位より作業の標準化による利益を優先した経営が、1972年9月の上場を支えた。

  • 日経ビジネス 1971年12月27日号
    • [48]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
    • [49]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
    • [50]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [51]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない
    • [52]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない
    • [53]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [54]連結売上高は1970年2月期246億円から1972年2月期約500億円、連結当期利益は約2.8倍。1972年9月1日上場
参考文献[34]-[54]
  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
    • [34]1967年9月本店を港区麻布十番に移転
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
    • [35]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [36]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [37]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [38]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [39]1968年6月25日に16番目の西新井店を開店。売場1,000坪(3,300平方メートル)の鉄筋2階建、食品40%・衣料40%・雑貨耐久財20%、生鮮を奥壁面、ノンサッカー用テーブル、枝肉加工・集配送機能。1967年度売上180億円で小売上位100社25位・スーパー7位
    • [47]新規出店の人材は1年間の出店計画に合わせ、6カ月前に新店の規模に応じて検討
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [40]1969年4月新設の大井店からショッピングセンター形式による店舗拡大を打ち出す
    • [54]連結売上高は1970年2月期246億円から1972年2月期約500億円、連結当期利益は約2.8倍。1972年9月1日上場
  • 近代中小企業 臨時増刊6(8) 1971年6月
    • [41]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [42]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [43]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [44]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [45]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
    • [46]1968年に定時社員制度を開始(当初約20人・時給約140円)、1971年に50店で約280人・時給約250円、賃金は正社員の約90%、正社員との相互転換可、配置はベビー用品・日用雑貨など。1967〜68年は差別意識の解消と月1回の本部集中教育の期間
  • 日経ビジネス 1971年12月27日号
    • [48]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
    • [49]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
    • [50]1969年5月5日制推進委員会、1970年2月IE部設立、1970年4月隔週5日制。伊藤社長は商品の流れに沿って人を配置すべきと説く
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [51]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない
    • [52]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない
    • [53]昭和40年頃はダイエー・西友ストアが先行。1972年時点でダイエー年商2,800億円に対しイトーヨーカドーは800億円足らずで業界6位、赤字店は1店もない

1956年〜1971年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1956年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年02月期 単体 78 n/a 2 3.2% 1 n/a
1967年02月期 単体 90 +14.7% 2 2.8% 1 n/a
1968年02月期 単体 119 +32.5% 1 1.2% 1 n/a
1969年02月期 単体 151 +26.9% 1 1.3% 1 n/a
1970年02月期 単体 184 +21.6% 5 3.0% 2 n/a
1971年02月期 単体 267 +45.2% 7 3.0% 4 n/a

出所:会社年鑑 1976年版

出典・参考

12件
出典・参考
  • イトーヨーカ堂 有価証券報告書 2007年2月期「沿革」
  • 流通情報 13 1968年11月号「下町に開店したアメリカ式店舗――イトーヨーカ堂西新井店見学記」
  • 日経ビジネス 1971年12月27日号
  • 証券 24(9) 1972年9月号
  • 証券アナリストジャーナル 10(12) 1972年 伊藤雅俊(1972年11月17日講演要旨)
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
  • 50人の経営者(時評社・1966年)「利益第一主義に徹す イトー・ヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
  • 近代中小企業 臨時増刊6(8) 1971年6月
  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
  • Decide 3(3) 1985年
  • IDR研究資料 116 1992年 伊藤雅俊「私の経営の考え方」

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