第1章 年〜年

イトーヨーカ堂:東京の洋品店羊華堂の創業と伊藤譲による法人化

1920年〜浅草の叔父・吉川敏雄が開いた洋品店の羊華堂と、北千住へのれんを分けた兄・伊藤譲

伊藤家の商いの元は、1920年4月に吉川敏雄氏が東京・浅草で開業した個人経営の洋品店だった。屋号は「羊華堂」で、吉川敏雄氏は後のイトーヨーカ堂社長・伊藤雅俊氏の叔父にあたる。伊藤雅俊氏は1924年4月30日に東京で生まれた。母の伊藤ゆき氏は東京・神田の乾物問屋の生まれで、家業を支えた祖父の早い死去で実家の商いは傾いていた。伊藤雅俊氏は、実家の再興に向けた母の思いを『執念みたいなものがあったね』と振り返った。叔父の屋号は、実家の再興を願う伊藤ゆき氏にとって、一家が洋品で身を立てる足場になったとみられる。

  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [1]1920年4月、伊藤雅俊の叔父・吉川敏雄が東京都台東区浅草で個人経営の洋品店(商号 羊華堂)を開業し、これがイトーヨーカ堂の前身
    • [2]1920年4月、伊藤雅俊の叔父・吉川敏雄が東京都台東区浅草で個人経営の洋品店(商号 羊華堂)を開業し、これがイトーヨーカ堂の前身
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [3]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた
    • [4]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた
    • [5]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた

1940年4月、伊藤雅俊氏の兄・伊藤譲氏は叔父の羊華堂からのれん分けを受け、従業員10名で自らの店を始めた。伊藤譲氏は伊藤雅俊氏より19歳年上の、父親違いの兄にあたる。伊藤ゆき氏は二度の結婚がいずれも続かず、女手ひとつで二人の息子を育てながら商売を切り盛りした。伊藤譲氏自身は小学校までしか出ていなかった。伊藤雅俊氏が旧制の専門学校で学べたのは、伊藤譲氏の働きによった。伊藤雅俊氏は1944年12月に横浜市立商業専門学校を卒業。母子三人の暮らしと弟の学業は、のれん分けを受けた伊藤譲氏の店の売上に懸かっていたといえる。

  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [6]1940年4月、羊華堂はのれん分けされ、伊藤雅俊の実兄・伊藤譲のもと従業員10名でスタートした
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [7]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [8]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [9]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [11]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
  • はこだて財界 31(2) 1999年2月号「伊藤雅俊名誉会長の著書『商いの道』にみるお客さま第一主義の気配り哲学」
    • [10]伊藤雅俊は幼少期から父親違いの兄の努力によって旧制専門学校(現横浜市立大学)を卒業できた
参考文献[1]-[11]
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [1]1920年4月、伊藤雅俊の叔父・吉川敏雄が東京都台東区浅草で個人経営の洋品店(商号 羊華堂)を開業し、これがイトーヨーカ堂の前身
    • [2]1920年4月、伊藤雅俊の叔父・吉川敏雄が東京都台東区浅草で個人経営の洋品店(商号 羊華堂)を開業し、これがイトーヨーカ堂の前身
    • [6]1940年4月、羊華堂はのれん分けされ、伊藤雅俊の実兄・伊藤譲のもと従業員10名でスタートした
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [3]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた
    • [4]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた
    • [5]伊藤雅俊は1924年4月30日東京生まれ。母ゆきは神田の乾物問屋の生まれで、祖父の早世で家業が傾き、実家再興への執念を持っていた
    • [7]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [8]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [9]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
    • [11]譲は19歳年上の異父兄。ゆきは譲の父と別れ再婚して雅俊を生むが再び離婚し、女手ひとつで子を育て商売した。譲は小学校卒で弟を商業専門学校へ進ませた。雅俊は1944年12月横浜市立商業専門学校卒
  • はこだて財界 31(2) 1999年2月号「伊藤雅俊名誉会長の著書『商いの道』にみるお客さま第一主義の気配り哲学」
    • [10]伊藤雅俊は幼少期から父親違いの兄の努力によって旧制専門学校(現横浜市立大学)を卒業できた

1945年〜北千住駅前の一坪の店と、兄・伊藤譲を代表とした合資会社羊華堂

1945年、羊華堂の店舗は戦災で焼失した。1945年春、伊藤ゆき氏は国鉄北千住駅前の飲食店「たぬき屋」の店先1坪(3.3平方メートル)を借り、洋品店の羊華堂を始めた。伊藤雅俊氏は三菱鉱業を3カ月ほどで退社し、1945年12月に家業の羊華堂へ入った。別の記録では、当時の店は北千住のソバ屋の跡地に建つ敷地3坪・戸板1枚の店で、働き手は伊藤ゆき氏と伊藤譲氏の2人だったという。店は薄利多売と客を第一に置く方針で評判をとり、売上を拡大した。伊藤雅俊氏は母から学んだ商売の出発点を『お客さんは来ないもの。取引をしたくても、お取引先は簡単には応じてくれないもの。銀行は貸していただけないもの。』と語った。

  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [12]1945年、戦災により羊華堂の店舗を焼失した
  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [13]1945年春、夫と死別し長男譲・二男雅俊を抱えた伊藤ゆきが国鉄北千住駅前の飲食店「たぬき屋」の店先1坪を借り洋品店羊華堂を開いた。食糧難の時期で、薄利多売とお客第一で評判をとり発展した
    • [16]1945年春、夫と死別し長男譲・二男雅俊を抱えた伊藤ゆきが国鉄北千住駅前の飲食店「たぬき屋」の店先1坪を借り洋品店羊華堂を開いた。食糧難の時期で、薄利多売とお客第一で評判をとり発展した
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [14]雅俊は三菱鉱業を辞め1945年12月に家業の羊華堂に勤めた。店は北千住のソバ屋跡地の敷地3坪・戸板1枚、働き手は母ゆきと兄譲の2人
    • [15]雅俊は三菱鉱業を辞め1945年12月に家業の羊華堂に勤めた。店は北千住のソバ屋跡地の敷地3坪・戸板1枚、働き手は母ゆきと兄譲の2人
  • 今月の焦点 13(6) 1999年6月号 伊藤雅俊「商いの道――経営の原点を考える」
    • [17]伊藤雅俊は、客は来ないもの・取引先は応じてくれないもの・銀行は貸してくれないものという商売の出発点を母から学んだと語った

1948年8月、伊藤譲氏を代表者とする合資会社羊華堂が北千住で設立され、洋品業を再開した。同じ1948年、千住の電器店の土地が50万円で売りに出た。伊藤譲氏と伊藤雅俊氏は資金のあてがなく見送りかけたが、伊藤ゆき氏が『すぐに買いなさい。借金のことは、後で考えればいいじゃないの』と購入を決めた。一家は手付金を打ってから金策に回り、取得した土地の店がその後の展開の土台になった。店員も1人、2人と増え、伊藤ゆき氏は掃除の仕方から客への応対まで細かく仕込んだ。合資会社の設立は、露店並みの店から土地付きの店へ移る時期に、兄を代表に据えて家業の責任の所在を定めたものと考えられる。

  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [18]1948年8月、合資会社羊華堂(代表者 伊藤譲)を北千住に設立し、洋品業を再開した
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [19]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [20]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [21]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [22]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した

合資会社羊華堂では伊藤譲氏が代表を務め、仕入れは伊藤雅俊氏が1人で受け持つ分担である。伊藤譲氏は、若い店員が問屋とカネの絡む接触を持つと慢心するとみて、仕入れを従業員に任せない方針を貫いた。1956年までに年商1億円に達しても、伊藤譲氏はこの分担を改めなかった。伊藤雅俊氏が店の規模に合う方法への切り替えを求めると、伊藤譲氏は『お前はやっぱり地主根性だ。』と退けた。伊藤譲氏はぜんそくを抱え、雨の日も兵隊合羽を着て御用聞きに回り、持病を悪化させた。1956年7月に伊藤譲氏が死去し、伊藤雅俊氏が経営を継承した。仕入れを一手に担った10年余りが、兄を失った伊藤雅俊氏に店を引き継ぐ下地を与えたのだろう。

  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [23]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [24]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [25]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [26]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [27]ぜんそく持ちの譲は雨の日も兵隊合羽を着て御用聞きに回り、持病を悪化させた
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [28]1956年7月、伊藤譲が逝去し、伊藤雅俊が経営を継承した
参考文献[12]-[28]
  • 証券 24(9) 1972年9月号
    • [12]1945年、戦災により羊華堂の店舗を焼失した
    • [18]1948年8月、合資会社羊華堂(代表者 伊藤譲)を北千住に設立し、洋品業を再開した
    • [28]1956年7月、伊藤譲が逝去し、伊藤雅俊が経営を継承した
  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」
    • [13]1945年春、夫と死別し長男譲・二男雅俊を抱えた伊藤ゆきが国鉄北千住駅前の飲食店「たぬき屋」の店先1坪を借り洋品店羊華堂を開いた。食糧難の時期で、薄利多売とお客第一で評判をとり発展した
    • [16]1945年春、夫と死別し長男譲・二男雅俊を抱えた伊藤ゆきが国鉄北千住駅前の飲食店「たぬき屋」の店先1坪を借り洋品店羊華堂を開いた。食糧難の時期で、薄利多売とお客第一で評判をとり発展した
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [14]雅俊は三菱鉱業を辞め1945年12月に家業の羊華堂に勤めた。店は北千住のソバ屋跡地の敷地3坪・戸板1枚、働き手は母ゆきと兄譲の2人
    • [15]雅俊は三菱鉱業を辞め1945年12月に家業の羊華堂に勤めた。店は北千住のソバ屋跡地の敷地3坪・戸板1枚、働き手は母ゆきと兄譲の2人
    • [19]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [20]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [21]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [22]1948年、千住の電器屋の土地が50万円で売りに出た。兄弟は資金のあてがなく諦めかけたが、ゆきが即決し、手金を打って金策した。この店がその後の展開の土台になった。増えた店員にもゆきが躾を施した
    • [23]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [24]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [25]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
    • [26]譲は仕入れを従業員に任せず、1956年の死去時に年商1億円に達していても仕入れは雅俊1人が受け持った。雅俊が方法の変更を求めると譲は地主根性だと退けた。譲は持病のぜんそくで1956年に死去
  • 今月の焦点 13(6) 1999年6月号 伊藤雅俊「商いの道――経営の原点を考える」
    • [17]伊藤雅俊は、客は来ないもの・取引先は応じてくれないもの・銀行は貸してくれないものという商売の出発点を母から学んだと語った
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
    • [27]ぜんそく持ちの譲は雨の日も兵隊合羽を着て御用聞きに回り、持病を悪化させた

出典・参考

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出典・参考
  • 証券 24(9) 1972年9月号
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
  • はこだて財界 31(2) 1999年2月号「伊藤雅俊名誉会長の著書『商いの道』にみるお客さま第一主義の気配り哲学」
  • 今月の焦点 13(6) 1999年6月号 伊藤雅俊「商いの道――経営の原点を考える」
  • 政経人 29(7) 1982年「個性派経営者列伝(18) イトーヨーカ堂社長 伊藤雅俊」

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