伊勢丹:関東大震災を機にした新宿移転と接収下の十年
1923年〜関東大震災と、神田という立地の限界
1923年の関東大震災で、伊勢丹は壊滅状態に陥った。翌1924年4月に復興再建して百貨店形態の店舗を出店したが、この店は地の利が悪く、同社は再建の直後から次の進出地を探し始めた。同じ震災で本店と丸ノ内別館を焼失した三越は、応急策として市内各地にマーケットを開設し、これがのちに新宿・銀座両支店を出店する機縁となった。三越の災害損失高は737万5,000円に達し、700万円への減資に追い込まれている。震災による一般小売商の打撃を受けて百貨店は応急策に乗り出し、従来の下足預り制度の廃止によって一段と大衆化した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [1]「しかし十二年の関東大震災により壊滅状態に陥り、翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- [3]「翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- [2]大正13年 百貨店形態の店舗を開設
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [4]三越は関東大震災で本店および丸ノ内別館を焼失、応急策として市内各地にマーケットを開設し、のちに新宿・銀座両支店を開設する機縁となった
- [5]三越の震災による災害損失高 737万5,000円、700万円へ減資
- [7]震災のもたらした画期は従来の下足預り制度の廃止により一段と大衆化されたこと
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」
- [6]震災による一般小売商の大打撃で百貨店は震災後の応急策に乗り出した
探していた土地は、新宿のもと三福の地で見つかった。借地権買収の交渉が成立したことを受けて、伊勢丹は1930年9月に株式組織へ改組し、東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立した。会社の形を変えた理由は、新店舗の用地取得にあった。二代目はこの株式会社で近代的な商法を取り入れた百貨店を開こうとした。震災後の都市計画とあいまって、近接郊外地域への交通機関が発達していた。三越はこの時期、1924年10月に資本金1,500万円へ増資し、1927年4月に本店全館の修築を終えて、1928年6月に商号を三越と改めている。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [8]新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立
- [9]「たまたま新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立したので、昭和五年九月株式組織に改組し、資本金五十万円をもつて新発足した」
- [11]借地権買収の成立を受けて株式組織へ改組した(用地取得が改組の理由)
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- [10]昭和5年9月 東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊勢丹」
- [12]二代目は本格的な百貨店形式に脱皮すべく画策し、資本金50万円で株式会社伊勢丹を設立、近代的な商法を取り入れた百貨店を開業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [13]震災後の都市計画と相まって近接郊外地域への交通機関が発達
- [14]三越は大正13年10月に1,500万円へ増資、昭和2年4月に本店全館修築を完成、昭和3年6月に商号を三越と改めた
参考文献[1]-[14]
- [1]「しかし十二年の関東大震災により壊滅状態に陥り、翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- [3]「翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- [8]新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立
- [9]「たまたま新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立したので、昭和五年九月株式組織に改組し、資本金五十万円をもつて新発足した」
- [11]借地権買収の成立を受けて株式組織へ改組した(用地取得が改組の理由)
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- [2]大正13年 百貨店形態の店舗を開設
- [10]昭和5年9月 東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立
- [4]三越は関東大震災で本店および丸ノ内別館を焼失、応急策として市内各地にマーケットを開設し、のちに新宿・銀座両支店を開設する機縁となった
- [5]三越の震災による災害損失高 737万5,000円、700万円へ減資
- [7]震災のもたらした画期は従来の下足預り制度の廃止により一段と大衆化されたこと
- [13]震災後の都市計画と相まって近接郊外地域への交通機関が発達
- [14]三越は大正13年10月に1,500万円へ増資、昭和2年4月に本店全館修築を完成、昭和3年6月に商号を三越と改めた
- [6]震災による一般小売商の大打撃で百貨店は震災後の応急策に乗り出した
- [12]二代目は本格的な百貨店形式に脱皮すべく画策し、資本金50万円で株式会社伊勢丹を設立、近代的な商法を取り入れた百貨店を開業
1933年〜神田店の廃止と、新宿一店への集約
1933年9月、新宿の本館が竣工すると同時に神田店を廃止し、本社を新宿へ移して営業を開始した。新館は地上7階・地下1階、売場面積1万6,500平方メートルの本格的なデパートメントストアだった。創業から47年を過ごした神田の土地を新店舗の開業と引き換えに手放し、二店を並べて様子を見る形は採らなかった。神田店の廃止は、震災で壊れた店を1924年4月に再建してから9年後にあたる。同じころ三越は1928年から1933年にかけて新宿・銀座の両支店をはじめ神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設し、支店網によって信用を全国へ広げていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [15]「越えて八年九月本館竣工とともに神田店を廃止し、本社を新宿に移転、直ちに営業を開始し」
- [18]明治19年の創業から昭和8年9月の神田店廃止まで神田で営業
- [19]大正13年4月に復興再建し、昭和8年9月に神田店を廃止
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- [16]昭和8年9月 神田店を閉店し、新宿に新店舗開店
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊勢丹」
- [17]昭和8年9月 新宿へ進出、地上7階・地下1階、売場面積1万6,500平方メートルのデパートメントストア
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [20]三越は昭和3年から8年にかけて新宿・銀座両支店をはじめ神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設、支店網の確立により信用を全国に広げた
移転の判断は増床の速さに表れ、1935年6月には隣接のほてい屋を買収し、同年12月に資本金を400万円へ増やして、1936年3月に増築工事を終え、営業面積は1万余坪に達した。1937年7月には第三期の増築工事へ着手したが、日華事変の進展にともなって商業部門への統制が強化され、1938年4月に4階までで工事を中止した。同じ1937年には百貨店法が施行され、以後は統制の強化と売場の供出が業界に及んだ。三越では売場面積の8割が供出の対象となり、銀座・高松・仙台の各支店が空襲で焼失した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [21]昭和10年6月に隣接のほてい屋を買収、同年12月に400万円へ増資、11年3月に増築工事を完了して1万余坪の営業面積を擁した
- [22]昭和12年7月 第三期増築工事に着手、日華事変の進展にともなう商業部門への統制強化で13年4月に4階をもって拡張工事を中止
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [23]昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発と太平洋戦争への移行で統制の強化と売場の供出が生じた
- [24]三越は売場面積の80%を供出、銀座・高松・仙台の各支店は空襲により焼失
参考文献[15]-[24]
- [15]「越えて八年九月本館竣工とともに神田店を廃止し、本社を新宿に移転、直ちに営業を開始し」
- [18]明治19年の創業から昭和8年9月の神田店廃止まで神田で営業
- [19]大正13年4月に復興再建し、昭和8年9月に神田店を廃止
- [21]昭和10年6月に隣接のほてい屋を買収、同年12月に400万円へ増資、11年3月に増築工事を完了して1万余坪の営業面積を擁した
- [22]昭和12年7月 第三期増築工事に着手、日華事変の進展にともなう商業部門への統制強化で13年4月に4階をもって拡張工事を中止
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- [16]昭和8年9月 神田店を閉店し、新宿に新店舗開店
- [17]昭和8年9月 新宿へ進出、地上7階・地下1階、売場面積1万6,500平方メートルのデパートメントストア
- [20]三越は昭和3年から8年にかけて新宿・銀座両支店をはじめ神戸・高松・仙台・札幌に支店を開設、支店網の確立により信用を全国に広げた
- [23]昭和12年の百貨店法施行、日華事変の勃発と太平洋戦争への移行で統制の強化と売場の供出が生じた
- [24]三越は売場面積の80%を供出、銀座・高松・仙台の各支店は空襲により焼失
1948年〜進駐軍の接収と、10年ぶりの全館新装
終戦にともない、伊勢丹は本店の3階以上を進駐軍に接収された。接収が解けるまでは、使える売場を限られた縮小均衡型の経営が続いた。売場の大半を使えない状態のまま、1948年5月に資本金を2,000万円へ増やし、同年12月には横への発展を期して池袋駅東口に支店建設地を購入した。1952年2月には立川市曙町に立川店を出店し、同年3月には本店隣接地1,700余坪を買収した。三越も大阪・札幌の両支店を接収されたうえ在外支店を失い、1951年に本店全館を再び使えるようになるまで営業は苦しい立場に置かれた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [25]終戦にともない本店3階以上を進駐軍に接収された
- [27]昭和23年5月 2,000万円へ増資、同年12月 横への発展を期して池袋駅東口に支店建設地を購入
- [28]昭和27年2月 立川市曙町に立川店を開設
- [29]昭和27年3月 本店隣接地1,700余坪を買収
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊勢丹」
- [26]接収解除となる昭和28年10月までは縮小均衡型の経営が続いた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [30]三越は終戦にともない大阪・札幌の両支店を接収され在外支店を喪失、昭和26年に再び本店全館を使用しうるに至った
1953年4月、接収は10年ぶりに解除され、同年10月に全館の新装開店にこぎつけた。その後の動きは速く、1954年6月に本店隣接地へ老舗街売場を開設し、同年9月に本店駐車場を整備して、1955年2月には本店西側の増築工事へ着手した。完成すれば営業面積は1万6,000余坪となり、東京山の手随一の百貨店が出現する見込みだった。資本金は数次の増資を経て1953年12月に2億円となり、1955年5月期の売上高は40億7,000万円だった。同じ時期の三越は資本金18億6,000万円、1954年の年間総売上高は248億円で、本支店の店舗面積は延べ4万2,800坪と全国百貨店の11%強を占めていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- [31]昭和28年4月 10年ぶりに接収解除、同年10月に全館新装開店
- [32]昭和29年6月 本店隣接地に老舗街売場を開設、同年9月 本店駐車場を整備、30年2月 本店西側増築工事に着手
- [33]本店西側増築の完成後は1万6,000余坪の面積を擁し、東京山の手随一の百貨店が出現する見込み
- [34]昭和28年12月 資本金2億円、30年5月期 売上高40億7,000万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- [35]三越の資本金は昭和29年12月に18億6,000万円、昭和29年の年間総売上高248億円、本支店の店舗面積は延4万2,800坪で全国百貨店の11%強
参考文献[25]-[35]
- [25]終戦にともない本店3階以上を進駐軍に接収された
- [27]昭和23年5月 2,000万円へ増資、同年12月 横への発展を期して池袋駅東口に支店建設地を購入
- [28]昭和27年2月 立川市曙町に立川店を開設
- [29]昭和27年3月 本店隣接地1,700余坪を買収
- [31]昭和28年4月 10年ぶりに接収解除、同年10月に全館新装開店
- [32]昭和29年6月 本店隣接地に老舗街売場を開設、同年9月 本店駐車場を整備、30年2月 本店西側増築工事に着手
- [33]本店西側増築の完成後は1万6,000余坪の面積を擁し、東京山の手随一の百貨店が出現する見込み
- [34]昭和28年12月 資本金2億円、30年5月期 売上高40億7,000万円
- [26]接収解除となる昭和28年10月までは縮小均衡型の経営が続いた
- [30]三越は終戦にともない大阪・札幌の両支店を接収され在外支店を喪失、昭和26年に再び本店全館を使用しうるに至った
- [35]三越の資本金は昭和29年12月に18億6,000万円、昭和29年の年間総売上高248億円、本支店の店舗面積は延4万2,800坪で全国百貨店の11%強
出典・参考
5件
- 伊勢丹 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「伊勢丹」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「三越」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 47_百貨店「概説」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「伊勢丹」