第2章 年〜年

ライフコーポレーション:大証二部上場と南港物流センターの開設

大証・東証二部への上場から南港物流センターへ

1982年〜大証二部上場と、兄から弟への社長交代

1982年10月、ライフストアは大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。同じ年、清水信次氏は実弟の清水三夫氏へ社長の座を譲り、自らは会長へ退いた。天下国家を論じるほうが性に合うという理由からで、会長となった清水氏はその後、業界団体と税制の議論に時間を割いた。社長を継いだ清水三夫氏は、上場と同じ月の10月18日、大阪で開かれた日本証券アナリスト協会企業分析部会で自社の戦略を説く側へ回った。この講演で示した適正規模は、収益の面でも一店一店に神経を通わせ得る点でも、本体で売上高1,000億円から2,000億円だった。上場は資金を調達する手続きであると同時に、創業家の商いを外部の物差しへ載せる手続きでもあった。

  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1982年10月に大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した
  • 日経ビジネス 1987年3月16日号
    • [2]昭和57年に実弟の清水三夫氏へ社長を譲り、清水信次氏は会長となった
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [3]清水信次氏は天下国家を論じるほうが柄に合うとして、1982年に実弟の清水三夫氏へ社長の座を譲り会長へ退いた
  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [4]清水三夫社長は昭和57年10月18日、大阪で開かれた日本証券アナリスト協会企業分析部会で講演した
    • [5]本体で売上高1,000〜2,000億円ぐらいが、収益的にも、企業全体・一店一店・商品の一品一品に至るまで神経を通わせ得る点でも適正な規模である

1983年11月1日、ライフストアは東京証券取引所市場第二部へ上場し、商業の銘柄として証券コード8194を与えられた。前年の大阪証券取引所に続く上場で、株式の流通は東西2つの市場に広がった。事務幹事は大和証券が務めた。上場時の発行済株式総数は2,244万株、資本組入総額は25億円である。株主は清水信次氏が29.8%、清水三夫氏が12.5%、清水博氏と櫻井正子氏がそれぞれ5.5%、清水久良子氏が4.9%、従業員持株会が3.8%で、創業家の持ち分が過半を占めた。売り出しは清水信次氏の70万株と清水三夫氏の30万株で賄われた。公開は外部から資本を入れる行為であると同時に、創業家の持ち分を現金へ替える行為でもあった。

  • 証券 1983年12月号
    • [6]上場年月日は昭和58年11月1日、所属部・業種・銘柄コードは市場第二部・商業・8194である
    • [8]事務幹事会員は大和証券である
    • [9]昭和58年11月1日現在の発行済株式総数は22,440,000株、資本組入総額は2,500,000,000円である
    • [10]株主は清水信次29.8%、清水三夫12.5%、清水博5.5%、櫻井正子5.5%、清水久良子4.9%、ライフストア従業員持株会3.8%である
    • [11]売出株の放出元は清水信次70万株、清水三夫30万株である
  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1982年10月に大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した

上場前後の成長を支えたのは新店だった。過去5年間、総売上高に占める新店の構成比は50%以上で、これはかつてダイエーやイトーヨーカ堂が急成長した時期の姿によく似ていた。1983年11月時点の店舗は京阪神35店、東京18店の計53店、売上規模は京阪神が約800億円、東京が約270億円である。業界全体が冬の時代と言われるなかで、売上高は年率30%近い伸びを続けた。清水三夫氏は1985年度に売上高1,500億円と経常利益50億円、1980年代の早い時期に売上高3,000億円と経常利益100億円という目標を掲げた。伸びざかりの店を多く抱える構造は、出店が止まれば伸びも止まる構造の裏返しでもある。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [12]総売上高に占める新店の構成比が他社に比べて極めて高く、伸びざかりの店が多い
    • [13]過去5年間、新店が総売上高の50%以上を占めており、これはかつてダイエー、イトーヨーカ堂などが急成長したときの姿によく似ている
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [14]昭和58年11月時点で京阪神地区に35店、東京地区に18店の計53店を持ち、売上規模は京阪神が約800億円、東京が約270億円である
    • [15]業界全体が冬の時代といわれるなかで、売上高は年率30%近い伸びを続けている
    • [16]売上高1,500億円(大阪地区1,000億円、東京地区500億円)・経常利益50億円を昭和60年度に、売上高3,000億円・経常利益100億円を昭和60年代の早い時期に達成することを目指している
参考文献[1]-[16]
  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1982年10月に大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [7]1982年10月に大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した
  • 日経ビジネス 1987年3月16日号
    • [2]昭和57年に実弟の清水三夫氏へ社長を譲り、清水信次氏は会長となった
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [3]清水信次氏は天下国家を論じるほうが柄に合うとして、1982年に実弟の清水三夫氏へ社長の座を譲り会長へ退いた
  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [4]清水三夫社長は昭和57年10月18日、大阪で開かれた日本証券アナリスト協会企業分析部会で講演した
    • [5]本体で売上高1,000〜2,000億円ぐらいが、収益的にも、企業全体・一店一店・商品の一品一品に至るまで神経を通わせ得る点でも適正な規模である
    • [12]総売上高に占める新店の構成比が他社に比べて極めて高く、伸びざかりの店が多い
    • [13]過去5年間、新店が総売上高の50%以上を占めており、これはかつてダイエー、イトーヨーカ堂などが急成長したときの姿によく似ている
  • 証券 1983年12月号
    • [6]上場年月日は昭和58年11月1日、所属部・業種・銘柄コードは市場第二部・商業・8194である
    • [8]事務幹事会員は大和証券である
    • [9]昭和58年11月1日現在の発行済株式総数は22,440,000株、資本組入総額は2,500,000,000円である
    • [10]株主は清水信次29.8%、清水三夫12.5%、清水博5.5%、櫻井正子5.5%、清水久良子4.9%、ライフストア従業員持株会3.8%である
    • [11]売出株の放出元は清水信次70万株、清水三夫30万株である
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [14]昭和58年11月時点で京阪神地区に35店、東京地区に18店の計53店を持ち、売上規模は京阪神が約800億円、東京が約270億円である
    • [15]業界全体が冬の時代といわれるなかで、売上高は年率30%近い伸びを続けている
    • [16]売上高1,500億円(大阪地区1,000億円、東京地区500億円)・経常利益50億円を昭和60年度に、売上高3,000億円・経常利益100億円を昭和60年代の早い時期に達成することを目指している

1982年〜小集団経営と量販専門店

肉、青果、レジといった部門ごとに4人から25人の小集団を組み、各グループが職場のミーティングで、地域の客に最も信頼される店になるための目標とアイデアを決めた。ライフストアはこの小集団経営を自社の特色に挙げ、その根にあるのは全員が経営に参加するという思想だとした。一人ひとりが経営に加わる意識を持てば、仕事へのやりがいが出て、QCにも一段と効き目が出るという発想である。グループは1982年10月時点で約500、1983年11月時点では約6,000に増え、主体性と創意性を重んじるこの仕組みを会社はパワーの源のひとつに挙げた。売り場の工夫を本部からの指示でなくグループに預けた点に、この会社が効率をどこに置いたかが見える。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [17]肉、青果、レジといった各部門ごとに4〜25人程度のグループをつくり、各グループがストア・ロイヤリティーを高める目標やアイデアを設定していく
    • [18]全員参加の経営という思想の下に小集団経営を推進していることが当社の特色である
    • [19]自分で考え工夫するので従業員1人1人が経営参加の意識を持つことができ、働きがいも生まれ、QCの効果も高まる
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [20]グループ数は昭和57年10月時点でざっと500、昭和58年11月時点では約6,000である
    • [21]主体性と創意性を重んじる小集団経営は、当社のパワーの源のひとつである

すき焼き用とビフテキ用にとどまっていた需要がバーベキュー用やミンチ肉へ広がったのを受け、力を入れた生鮮のうち肉売り場では他のスーパーの2倍近い品ぞろえを用意した。ライフストアは、消費者の求めるものが安さから量より質、さらに個性化と多様化へ移ると読み、量販専門店という店づくりを打ち出していた。質のよい品を安く売る量販の力と、望む品が何でも見つかる専門店の力を一つの店に備えるという意味である。生鮮食品は売れ残れば夕方5時を過ぎてから大きく値引きして売り切り、包み直して翌日の売り場に出すことは一切なかった。値引きの時刻を客が知って待つという関係まで含めて、生鮮の回し方がこの会社の評判を作っていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [22]肉に対するニーズはかつてすき焼き用、ビフテキ用ぐらいだったが、バーベキュー用、ミンチ肉など非常に多種類になった
    • [23]最も力を入れている生鮮部門のうち肉部門では、品ぞろえが他のスーパーに比べて2倍近い
    • [24]低成長時代への移行に従って消費者のニーズが安さに加えて量より質、そして個性化・多様化へと変化すると予想した
    • [25]良い商品をより安く提供する量販性と、欲しいものが何でもそろう専門性を兼ね備えた量販専門店づくりを進めたことが大きな成長の源になった
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [26]生鮮食料品が売れ残った場合は夕方5時以降の大幅な値引き販売で全部売り切り、リパックは一切やっていない

1983年2月期の販売実績は913億1,200万円で、内訳は一般食品が338億9,800万円で37.1%、生鮮食品が320億1,900万円で35.1%を占めた。衣料品は101億8,000万円、生活関連用品は98億2,800万円で、合わせても2割強にとどまる。創業の柱だった貿易は7億2,200万円、構成比0.8%まで縮んだ。店舗は大阪29店、埼玉9店、東京8店、兵庫4店、京都と奈良が各1店の52店、物流センターは大阪3か所と埼玉1か所の4か所、従業員は1983年4月末で2,158人だった。翌1984年2月期の売上高は1,074億8,000万円で、1,000億円を超えた。GMSまで含む4つの業態を抱えながら、中身は食品が7割を占める会社である。

  • 証券 1983年12月号
    • [27]昭和58年2月期の販売実績は総額91,312百万円で、うち一般食品33,898百万円(37.1%)、生鮮食品32,019百万円(35.1%)である
    • [28]昭和58年2月期の販売実績のうち衣料品は10,180百万円(11.1%)、生活関連用品は9,828百万円(10.8%)である
    • [29]昭和58年2月期の販売実績のうち貿易は722百万円(0.8%)である
    • [30]主な事業所はスーパーマーケット52店舗(大阪府29店、兵庫県4店、東京都8店、埼玉県9店、京都府1店、奈良県1店)と物流センター4か所(大阪3か所、埼玉1か所)で、従業員数は昭和58年4月30日現在2,158人である
  • 会社年鑑 1986年版
    • [31]1984年2月期の売上高は1,074.8億円である
参考文献[17]-[31]
  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
    • [17]肉、青果、レジといった各部門ごとに4〜25人程度のグループをつくり、各グループがストア・ロイヤリティーを高める目標やアイデアを設定していく
    • [18]全員参加の経営という思想の下に小集団経営を推進していることが当社の特色である
    • [19]自分で考え工夫するので従業員1人1人が経営参加の意識を持つことができ、働きがいも生まれ、QCの効果も高まる
    • [22]肉に対するニーズはかつてすき焼き用、ビフテキ用ぐらいだったが、バーベキュー用、ミンチ肉など非常に多種類になった
    • [23]最も力を入れている生鮮部門のうち肉部門では、品ぞろえが他のスーパーに比べて2倍近い
    • [24]低成長時代への移行に従って消費者のニーズが安さに加えて量より質、そして個性化・多様化へと変化すると予想した
    • [25]良い商品をより安く提供する量販性と、欲しいものが何でもそろう専門性を兼ね備えた量販専門店づくりを進めたことが大きな成長の源になった
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [20]グループ数は昭和57年10月時点でざっと500、昭和58年11月時点では約6,000である
    • [21]主体性と創意性を重んじる小集団経営は、当社のパワーの源のひとつである
    • [26]生鮮食料品が売れ残った場合は夕方5時以降の大幅な値引き販売で全部売り切り、リパックは一切やっていない
  • 証券 1983年12月号
    • [27]昭和58年2月期の販売実績は総額91,312百万円で、うち一般食品33,898百万円(37.1%)、生鮮食品32,019百万円(35.1%)である
    • [28]昭和58年2月期の販売実績のうち衣料品は10,180百万円(11.1%)、生活関連用品は9,828百万円(10.8%)である
    • [29]昭和58年2月期の販売実績のうち貿易は722百万円(0.8%)である
    • [30]主な事業所はスーパーマーケット52店舗(大阪府29店、兵庫県4店、東京都8店、埼玉県9店、京都府1店、奈良県1店)と物流センター4か所(大阪3か所、埼玉1か所)で、従業員数は昭和58年4月30日現在2,158人である
  • 会社年鑑 1986年版
    • [31]1984年2月期の売上高は1,074.8億円である

1985年〜出店規制のなかの南港物流センターと売上税反対

1983年度、規模の拡大は足踏みした。大規模小売店舗法による規制、とくに1981年末から1982年初めにかけての約半年にわたる出店凍結が響いたためである。それでも、翌年度以降は新店の開発が再び勢いを取り戻すと見込まれていた。1983年3月から8月の既存店売上高が前年同期比109%、9月と10月も110%近くと、なお伸びを保っていたからである。規制は厳しさを増した。そこでセカンダリー・マーケットより小さい商圏にサード・マーケットという呼び名を与え、出店先に加えた。出店をやめるという道を持たない会社は、規制が強まるほど立地の見方を細かくしていった。1987年1月には、埼玉県志木市の商店街の副会長から、姿勢を改める気はまったくないので今後商店街に入らないよう通告を受けている。

  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [32]本年度は大店法による規制で規模の拡大が足踏み状態になった
    • [33]一昨年から昨年初めにかけての約半年間にわたる出店凍結により規模の拡大が足踏みした
    • [34]既存店の売り上げは昭和58年3〜8月が前年同期比109%、9〜10月も同110%近い伸びで、新店の開発は来年度以降に再び活発になるとみている
    • [35]新規出店が大幅に規制されているため、より小さな商圏であるサード・マーケットでも出店立地を選定している
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [36]1987年1月19日、志木市の宗岡銀座商店街副会長から「絶対反対の態度は変わらないので、迷惑なので今後、一切商店街に立ち入らないでもらいたい」と告げられた

1985年9月、南港物流センターを開設した。上場した1983年の時点で物流センターは大阪に3か所、埼玉に1か所あり、52店をこの4か所で賄っていた。売上の7割を生鮮食品と一般食品が占める品ぞろえでは、配送の頻度がそのまま売り場の鮮度になる。店舗を東京と大阪の二大都市圏へ集めた東西二眼レフ展開は、配送の距離を短く保てる形でもあった。競争の焦点は各地域でどれだけ比較優位をつけられるかにあり、その基本は人材で、生鮮食料品部門では優秀な実践部隊を育て上げていた。東西に開発本部を置き、社内で最も腕利きの者を出店開発へ投入して、毎年10%以上の売場面積の増加を目標に掲げた。南港の拠点は大阪側の集約先となり、首都圏の拠点整備は後年この形を東で繰り返すことになった。

  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1985年9月に南港物流センターを開設した
  • 証券 1983年12月号
    • [38]昭和58年時点の主な事業所はスーパーマーケット52店舗と物流センター4か所(大阪3か所、埼玉1か所)である
    • [39]昭和58年2月期の販売実績は生鮮食品35.1%、一般食品37.1%で、両者で7割を超える
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [40]東京・大阪という二大消費地に店舗を集中させる東西二眼レフ展開を出店戦略としている
    • [41]各地域で比較優位をどれだけつけていくかが競争に勝つポイントであり、その基本はやはり人材で、とくに生鮮食料品部門では極めて優秀な実践部隊を育て上げた
    • [42]東西に開発本部をもち、社内で最も腕ききの者を開発へ投入して、毎年10%以上の売場面積の増加をぜひ達成したいとした

会長に退いた清水信次氏が向き合っていたのは、店ではなく制度だった。1986年5月、売上税反対の課題を抱えて第6代の日本チェーンストア協会会長に選ばれた。1987年には協会会長として反対運動を展開し、中曽根康弘内閣の退陣のきっかけを作ったと評された。反対の的は間接税そのものではなく、非課税品目を政治力で増やした法案の作り方にあった。清水氏は非課税をなくし、税率1%から始める消費税を代案として示した。同じころ清水三夫氏は、既存店の伸びが頭打ちになる日に備えて業務の多角化と新規事業の開発が必要だとして、先行投資を積極的に進める方針を掲げていた。兄が制度を相手に論陣を張る間、弟は本業の外へ資金を向け始めていた。

  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [43]清水信次氏は税制国民会議議長として売上税反対運動の先頭に立ち、大店法をめぐって政府相手に論陣を張った
    • [45]1987年の売上税のとき、日本チェーンストア協会会長として精力的に反対運動を展開し、中曽根退陣のきっかけを作った
  • 日経ビジネス 1987年3月16日号
    • [44]昭和61年5月、売上税反対の課題を抱えて6代目の日本チェーンストア協会会長に選出された
    • [46]間接税そのものに反対しているわけではなく、原則は非課税をなくすこと、その代わり税率は1%でスタートするという代案を示した
    • [47]間接税そのものに反対しているわけではなく、原則は非課税をなくすこと、その代わり税率は1%でスタートするという代案を示した
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [48]いずれ企業として成熟化し既存店の売り上げの伸びも頭打ちになることに備え、中期経営計画のなかで業務の多角化や新規事業の開発が必要との考えから先行投資を積極的に進める
参考文献[32]-[48]
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
    • [32]本年度は大店法による規制で規模の拡大が足踏み状態になった
    • [33]一昨年から昨年初めにかけての約半年間にわたる出店凍結により規模の拡大が足踏みした
    • [34]既存店の売り上げは昭和58年3〜8月が前年同期比109%、9〜10月も同110%近い伸びで、新店の開発は来年度以降に再び活発になるとみている
    • [35]新規出店が大幅に規制されているため、より小さな商圏であるサード・マーケットでも出店立地を選定している
    • [40]東京・大阪という二大消費地に店舗を集中させる東西二眼レフ展開を出店戦略としている
    • [41]各地域で比較優位をどれだけつけていくかが競争に勝つポイントであり、その基本はやはり人材で、とくに生鮮食料品部門では極めて優秀な実践部隊を育て上げた
    • [42]東西に開発本部をもち、社内で最も腕ききの者を開発へ投入して、毎年10%以上の売場面積の増加をぜひ達成したいとした
    • [48]いずれ企業として成熟化し既存店の売り上げの伸びも頭打ちになることに備え、中期経営計画のなかで業務の多角化や新規事業の開発が必要との考えから先行投資を積極的に進める
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [36]1987年1月19日、志木市の宗岡銀座商店街副会長から「絶対反対の態度は変わらないので、迷惑なので今後、一切商店街に立ち入らないでもらいたい」と告げられた
    • [43]清水信次氏は税制国民会議議長として売上税反対運動の先頭に立ち、大店法をめぐって政府相手に論陣を張った
    • [45]1987年の売上税のとき、日本チェーンストア協会会長として精力的に反対運動を展開し、中曽根退陣のきっかけを作った
  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1985年9月に南港物流センターを開設した
  • 証券 1983年12月号
    • [38]昭和58年時点の主な事業所はスーパーマーケット52店舗と物流センター4か所(大阪3か所、埼玉1か所)である
    • [39]昭和58年2月期の販売実績は生鮮食品35.1%、一般食品37.1%で、両者で7割を超える
  • 日経ビジネス 1987年3月16日号
    • [44]昭和61年5月、売上税反対の課題を抱えて6代目の日本チェーンストア協会会長に選出された
    • [46]間接税そのものに反対しているわけではなく、原則は非課税をなくすこと、その代わり税率は1%でスタートするという代案を示した
    • [47]間接税そのものに反対しているわけではなく、原則は非課税をなくすこと、その代わり税率は1%でスタートするという代案を示した

筆者考察

株式の公開は、創業家が持ち分を現金へ替える手続きでもある。1983年11月に東京証券取引所市場第二部へ上場した時点で、清水信次氏は29.8%、清水三夫氏は12.5%を握り、売り出しに出したのは2人あわせて100万株だった。創業家の支配は揺らいでいない。それでも東西2つの取引所へ株式を並べた意味は、出店の資金を市場から引けるようになった点にある。過去5年の売上高の半分以上を新店が生む会社にとって、出店の速度はそのまま収益の速度であり、その速度を縛っていたのは土地でも人でもなく、大規模小売店舗法の運用だった。1983年11月の店舗は京阪神35店と東京18店の計53店、売上規模は京阪神が約800億円、東京が約270億円である。

1982年に社長を譲った兄と、譲られた弟とでは、見ている先が違っていた。清水信次氏は日本チェーンストア協会の会長として売上税に反対し、非課税をなくして税率1%から始める消費税という代案まで用意した。清水三夫氏は小集団経営で約6,000のグループに売り場の工夫を競わせて売上高を1,000億円へ乗せる一方、既存店の伸びが頭打ちになる日に備えて業務の多角化と新規事業の開発を掲げ、先行投資を進める方針を示していた。1986年5月には売上税反対の課題を抱えた第6代の協会会長に選ばれ、会社の外の議論が清水信次氏の主な仕事になっていた。1985年9月の南港物流センターは本業の側への投資である。本業の外へ向かった資金の行方は、この章の先で決着する。

売上高 1982年2月期から1985年2月期(億円)

793.95 82年2月期 917.02 83年2月期 1,074.8 84年2月期 1,143.29 85年2月期

1982年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1982年02月期 単体 793 n/a 12 1.6% 5 n/a
1983年02月期 単体 917 +15.5% 17 1.9% 8 n/a
1984年02月期 単体 1,074 +17.2% 26 2.4% 11 n/a
1985年02月期 単体 1,143 +6.4% 32 2.8% 14 n/a
1986年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑 1986年版
  • 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
  • 証券 1983年12月号
  • 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
  • 日経ビジネス 1987年3月16日号
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号

免責事項およびポリシー