ライフコーポレーション:清水實業の設立と豊中店によるスーパーへの業態転換
輸入果実の利益で支えた豊中店から東西二眼レフ展開へ
1945年〜大阪天満の乾物問屋と、輸入枠を自ら確保した戦後
ライフの元手は、創業者の清水信次氏の父が大阪天満で営んだ乾物問屋だった。清水家はもともと三重県津市で綿紡績工場を営んでいたが、清水氏が9歳のころ不景気で工場を閉め、一家をあげて大阪へ移り、海苔やかんぴょう、しいたけを扱う問屋を始めた。家業は明治43年に父の清水茂氏が三重県津市で起こしたタオル等の製造卸にさかのぼり、昭和10年ごろには大阪の天満で食料品を中心とする卸小売業へ移っていた。大正15年生まれの清水氏は大阪貿易学校を出て千葉の鉄道第2連隊に入り、敗戦で行き場を失って大阪へ戻り、この食品問屋を手伝い始めた。戦後は食品問屋として出直し、大阪中央市場が再開すると同時に、仲卸商として市場へ入った。
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [1]清水信次氏の父は大阪・天満で海苔やかんぴょう、しいたけなどを商う乾物問屋を営んだ
- [2]清水家は三重県津市の出で、父は綿紡績工場を営んでいたが、清水氏が9歳のとき不景気で工場を閉鎖し、家族を引き連れて大阪へ移った
- [4]清水信次氏は大正15年4月18日生まれ、昭和18年に大阪貿易学校を卒業し、敗戦の1年前に千葉の鉄道第2連隊へ入隊した。敗戦後は大阪へ戻り家業の食品問屋を手伝った
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [3]明治43年に清水茂氏が三重県津市で始めたタオル等の製造・卸業から出発し、昭和10年ごろからは大阪の天満で食料品中心の卸小売業に転じた
- [5]戦後はいち早く食品問屋として出発し、大阪中央市場が再開されると同時に食品関係の仲卸商として同市場へ進出した
26歳のとき、清水氏は貿易庁長官の白洲次郎氏を訪ねて外国食品の輸入を認めるよう直接求め、白洲氏は吉田茂首相につないだうえで、近く発足する通商産業省に頼むよう助言した。その後、日本パインアップル輸入協会と日本バナナ輸入組合を自ら立ち上げて受け皿となる団体を作り、商社と肩を並べる輸入枠を得た。戦後に商いを広げる元手になったのは、こうした果実の輸入枠だった。昭和25年から26年にかけて吉田首相のもとへ自由貿易の再開を願い出た関係は、その後の鳩山一郎氏、岸信介氏、池田勇人氏ら歴代首相との交際へ続いた。割当を受ける側ではなく、割当の仕組みそのものを作る側に回ったことが、この時期の利益の源だった。
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [6]清水信次氏は26歳で貿易庁長官・白洲次郎に面談を求め、外国食品を輸入させよと申し入れた
- [7]白洲次郎は清水氏に吉田茂を紹介するとともに、近く通産省が設置されるのでそちらに頼めと教えた
- [8]清水氏は受け皿団体として日本パインアップル輸入協会や日本バナナ輸入組合を設立し、商社などと並んで輸入枠を確保した
- [9]スーパー開業後も収益はバナナやパイナップルの輸入で得ており、多少の赤字はこたえなかった
- 日経ビジネス 1987年3月16日号
- [10]昭和25、26年に吉田茂首相のもとへ自由貿易の再開を願いに行ってからの付き合いで、鳩山一郎、岸信介、池田勇人の各首相にも親しくしてもらった
1956年10月、清水氏は家業の食品問屋から貿易部門を分け、清水實業を設立した。資本金は500万円だった。登記上の設立は昭和31年10月24日で、形式上の設立は昭和16年2月22日にさかのぼる。この会社は食品卸売業に加えてフルーツを主とする貿易輸入業務を手がけ、のちのライフストアの母体になった。設立からの5年間は売り場を持たず、卸と輸入だけで商いを続けており、清水氏自身はこの設立を実質的なライフストアの出発と位置づけている。日々の回転で現金を生む問屋と、割当さえ取れれば利幅の厚い輸入とをひとつの財布へ収めたことが、次の投資に耐える体力をこの会社へ与えた。
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [11]1956年に家業の食品問屋業から貿易部門を分離し、清水実業を設立した
- [15]1956年に清水実業を設立し、5年後にスーパーマーケット1号店を大阪・豊中市に開いた。これが実質的なライフストアの出発である
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [12]1956年10月に清水實業を資本金500万円で設立した
- 証券 1983年12月号
- [13]設立年月日は昭和31年10月24日(形式上は昭和16年2月22日)である
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [14]昭和31年に現在のライフストアの前身である清水実業を設立し、食品卸売業に加えてフルーツを主とする貿易輸入業務も手がけ始めた
参考文献[1]-[15]
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [1]清水信次氏の父は大阪・天満で海苔やかんぴょう、しいたけなどを商う乾物問屋を営んだ
- [2]清水家は三重県津市の出で、父は綿紡績工場を営んでいたが、清水氏が9歳のとき不景気で工場を閉鎖し、家族を引き連れて大阪へ移った
- [4]清水信次氏は大正15年4月18日生まれ、昭和18年に大阪貿易学校を卒業し、敗戦の1年前に千葉の鉄道第2連隊へ入隊した。敗戦後は大阪へ戻り家業の食品問屋を手伝った
- [6]清水信次氏は26歳で貿易庁長官・白洲次郎に面談を求め、外国食品を輸入させよと申し入れた
- [7]白洲次郎は清水氏に吉田茂を紹介するとともに、近く通産省が設置されるのでそちらに頼めと教えた
- [8]清水氏は受け皿団体として日本パインアップル輸入協会や日本バナナ輸入組合を設立し、商社などと並んで輸入枠を確保した
- [9]スーパー開業後も収益はバナナやパイナップルの輸入で得ており、多少の赤字はこたえなかった
- [11]1956年に家業の食品問屋業から貿易部門を分離し、清水実業を設立した
- [15]1956年に清水実業を設立し、5年後にスーパーマーケット1号店を大阪・豊中市に開いた。これが実質的なライフストアの出発である
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [3]明治43年に清水茂氏が三重県津市で始めたタオル等の製造・卸業から出発し、昭和10年ごろからは大阪の天満で食料品中心の卸小売業に転じた
- [5]戦後はいち早く食品問屋として出発し、大阪中央市場が再開されると同時に食品関係の仲卸商として同市場へ進出した
- [14]昭和31年に現在のライフストアの前身である清水実業を設立し、食品卸売業に加えてフルーツを主とする貿易輸入業務も手がけ始めた
- 日経ビジネス 1987年3月16日号
- [10]昭和25、26年に吉田茂首相のもとへ自由貿易の再開を願いに行ってからの付き合いで、鳩山一郎、岸信介、池田勇人の各首相にも親しくしてもらった
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [12]1956年10月に清水實業を資本金500万円で設立した
- 証券 1983年12月号
- [13]設立年月日は昭和31年10月24日(形式上は昭和16年2月22日)である
1960年〜45日間の欧米視察と、10年間利益の出なかったスーパー部門
スーパーマーケットという業態は、清水氏が自分の目で確かめて持ち帰ったものである。1960年、清水氏は欧米視察団に加わって45日間、欧米の小売機構、とくにスーパーマーケットの仕組みを調べた。近代化した販売機構を目の当たりにして日本へ導入する必要を痛感し、帰国後すぐ準備に入った。翌1961年11月、大阪府豊中市にスーパーマーケットの第1号店を開いた。1963年11月には第2号店の塚本店を開き、チェーンストアを志す姿勢を明らかにした。当時の食品小売は公設市場と個人商店が担っており、売り場を自ら構えて値段と品ぞろえを決める形は、卸の側から見れば取引先を作り直すに等しい転換だった。
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [16]戦後スーパー経営に乗り出したのは、昭和35年に欧米の流通業界を視察してスーパーの隆盛を目のあたりにしたのがきっかけである
- [19]昭和36年11月に大阪府豊中市でスーパー・マーケットの第1号店を開設した
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [17]昭和35年に欧米視察団へ加わって45日間、欧米の小売機構、とくにスーパー・マーケットの機構を調べた
- [18]非常に近代化した販売機構を目のあたりにして日本へ導入することの必要性を痛感し、帰国後すぐに準備へ入った
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [20]1963年11月に第2号店の塚本店を開設し、チェーンストア志向を明確にした
出店を始めてからの10年間、スーパー部門は利益を生まなかった。5年で11店舗まで増やしても収益は上がらず、バナナやパイナップルの輸入で得た利益がその赤字を埋めた。清水氏は後年、当時を『5年かけて11店舗つくりましたけど、さっぱり儲からない。結局、バナナとかパイナップルの輸入で儲かってましたからね。ちょっとくらい赤字だってこたえない。利益が出始めたのは10年ぐらいたってからのことです』と振り返った。1961年の豊中店以降は京阪神地区に出店を続けて基礎固めを進め、この約10年間、事業は従来の食品卸売業と貿易部門にスーパー部門を加えた3本柱で進んだ。スーパー部門への参入は割合早かったものの、全力投球に入ったのは1971年以降で、業界のなかではむしろ後発のニュー・パワーだった。赤字の店を10年抱えられたのは輸入という別の稼ぎが同じ会社の中にあったからで、食品卸の同業には難しい我慢だった。
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [21]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
- [22]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
- [23]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [24]昭和36年11月の第1号店開設以来、京阪神地区に出店を続けて基礎固めをする一方、昭和46年には東京・板橋に首都圏第1号店を開設した
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [25]昭和36年の1号店開設からの約10年は、従来の食品卸売業と貿易部門にスーパー部門を加えた3本柱で事業を進めた
- [26]スーパー部門への参入は割合早かったが全力投球に入ったのは昭和46年以降で、この業界ではむしろニュー・パワーである
1971年10月、東京都板橋区に首都圏第1号店となる板橋店を開き、関東へ進出した。翌1972年には大阪府堺市に初の大型店を開き、これを契機に事業の重点を3本柱からスーパー部門へ絞る方向へ転換して、本格的な店舗展開に入った。1973年5月には商号を株式会社ライフへ変え、資本金を2億円へ増資した。1978年12月には母体だった清水實業を吸収合併し、本店を東京都板橋区へ移した。卸と貿易は、法人ごとスーパーの側へ吸い込まれた。1981年3月、商号は株式会社ライフストアとなり、店の名が会社の名になった。卸と貿易で稼いだ利益を店へ回す段階から、店の利益で店を増やす段階へ移ったのが、この10年である。
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [27]昭和46年10月に東京都板橋区へ首都圏第1号店となる板橋店を開設し、関東進出を果たした
- [30]1978年12月に清水實業を吸収合併し、本店所在地を東京都板橋区仲宿47番地へ移した
- [31]1978年12月に清水實業を吸収合併し、本店所在地を東京都板橋区仲宿47番地へ移した
- [32]1981年3月に商号をライフストアへ変更した
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [28]昭和47年に大阪府堺市で初の大型店を開設し、これを契機に事業の重点を3本柱からスーパー部門へ絞る方向へ転換して本格的な店舗展開に入った
- [29]昭和48年に社名を株式会社ライフへ変更し、資本金を2億円へ増資した
参考文献[16]-[32]
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [16]戦後スーパー経営に乗り出したのは、昭和35年に欧米の流通業界を視察してスーパーの隆盛を目のあたりにしたのがきっかけである
- [19]昭和36年11月に大阪府豊中市でスーパー・マーケットの第1号店を開設した
- [24]昭和36年11月の第1号店開設以来、京阪神地区に出店を続けて基礎固めをする一方、昭和46年には東京・板橋に首都圏第1号店を開設した
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [17]昭和35年に欧米視察団へ加わって45日間、欧米の小売機構、とくにスーパー・マーケットの機構を調べた
- [18]非常に近代化した販売機構を目のあたりにして日本へ導入することの必要性を痛感し、帰国後すぐに準備へ入った
- [25]昭和36年の1号店開設からの約10年は、従来の食品卸売業と貿易部門にスーパー部門を加えた3本柱で事業を進めた
- [26]スーパー部門への参入は割合早かったが全力投球に入ったのは昭和46年以降で、この業界ではむしろニュー・パワーである
- [28]昭和47年に大阪府堺市で初の大型店を開設し、これを契機に事業の重点を3本柱からスーパー部門へ絞る方向へ転換して本格的な店舗展開に入った
- [29]昭和48年に社名を株式会社ライフへ変更し、資本金を2億円へ増資した
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [20]1963年11月に第2号店の塚本店を開設し、チェーンストア志向を明確にした
- [27]昭和46年10月に東京都板橋区へ首都圏第1号店となる板橋店を開設し、関東進出を果たした
- [30]1978年12月に清水實業を吸収合併し、本店所在地を東京都板橋区仲宿47番地へ移した
- [31]1978年12月に清水實業を吸収合併し、本店所在地を東京都板橋区仲宿47番地へ移した
- [32]1981年3月に商号をライフストアへ変更した
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [21]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
- [22]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
- [23]5年かけて11店舗をつくったがさっぱり儲からず、利益が出始めたのは10年ぐらいたってからだった
1973年〜東西二眼レフ展開とセカンダリー・マーケット
出店先を東京と大阪の二大都市圏に限ったのが、ライフの基本戦略だった。大手チェーンストアが全国の主要都市へ店を散らす出店を点の展開とすれば、自社のやり方は面の出店戦略だと清水三夫氏は位置づけた。人口密度が高く、なお人口の増え続ける二大消費地に店を固める考え方で、同氏はこれを東西二眼レフ展開と名づけている。範囲を広げすぎると目配りが届かず、顧客が満足しない店になって、地域で最も信頼される店という目標が崩れてしまう。それが同氏の挙げた理由である。昭和50年代に入ってからは、面での展開が可能な近畿圏と首都圏の商圏で、この二眼レフ戦略が進められた。規模を追うのではなく、守る範囲を絞って密度を高める判断だった。
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [33]昭和46年の首都圏第1号店開設以来、東京・大阪という人口密度が高く人口増加の続く日本の二大消費地に店舗を集中させる出店戦略をとっている
- [34]全国の主要都市に店舗を配置する大手チェーン・ストアの点の展開に対し、東西二眼レフ展開は面の出店戦略である
- [35]この出店戦略を「東西二眼レフ展開」と呼んでいる
- [36]出店エリアを拡大しすぎると神経が行き届かなくなり、結局は顧客に不満足な店になってストア・ロイヤリティの確立ができなくなる
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [37]昭和50年代に入ってからは、近畿圏と首都圏という東西の人口密集地域、面展開が可能な商圏で二眼レフ戦略を展開した
出店の場所は、商業集積と商業集積の間に置いた。百貨店や大手チェーンストアが集まる商業地区の狭間には真空地帯があるという考え方に立ち、これをセカンダリー・マーケットと呼んで、出店立地を徹底的に絞った。さらに店舗を売場面積で4つに分け、1,000平方メートル前後のSM、1,300から2,000平方メートルのSSM、非食品の比率を高めた2,500から4,000平方メートルのCbS、5,000平方メートル以上のGMSとして、地域の需要に応じて使い分けた。大規模小売店舗法の改正で大型店の出店規制は厳しくなっていたが、GMSでは規模が大きすぎて地元商店街の反対が強い場合に、CbSへ落として地元の協力を得る例が少なくなかった。4つの規格は、反対の強さに応じて計画の大きさを下げられる装置だった。
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [38]昭和50年代に入り、従来の商業地区ではなく商業地区と商業地区の間に真空マーケットがあるという考え方の下に出店を進めた
- [40]店舗形態をSM(1,000平方メートル前後)、SSM(1,300〜2,000平方メートル)、CbS(2,500〜4,000平方メートル)、GMS(5,000平方メートル以上)の四つに分類し、セカンダリー・マーケットのニーズに応じて使い分けている
- [41]大店法の改正で大型店の出店規制は極めて厳しくなったが、GMSでは規模が大き過ぎて地元商店街などの反対が強い場合にCbSにして地元の協力が得られるケースが少なくない
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [39]商業集積地と商業集積地の狭間の空白地帯をセカンダリー・マーケットと呼び、出店立地を徹底的に絞ってきた
売上高は1978年2月期の283億8,100万円から1981年2月期の627億4,900万円へと3年で2.2倍になり、1970年代後半に伸びが速まったことを示している。京阪神地域の店が25店を数え、売上高も400億円を上回ったあたりから、収益力は加速度的に増していった。それでも経常利益は、1978年2月期の1億7,700万円から1981年2月期でも5億3,800万円にとどまり、売上高比では1%未満だった。同じ1981年に計画した埼玉県志木市への出店は地元の同意が得られず、そこから9年間で商工会・市役所・通商産業省を494回訪ねることになった。店を増やす速さを決めていたのは、資金ではなく出店の許可だった。
- 会社年鑑 1986年版
- [42]売上高は1978年2月期が283.81億円、1981年2月期が627.49億円である
- [43]1978年2月期から1981年2月期にかけて売上高は283.81億円、364.55億円、475.12億円、627.49億円と増加した
- [45]経常利益は1978年2月期が1.77億円、1979年2月期が2.32億円、1980年2月期が5.11億円、1981年2月期が5.38億円である
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [44]収益面で加速度的に力をつけ始めたのは、京阪神地域で25店、売上高400億円を超えたころからである
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [46]埼玉県志木市への出店を計画した1981年から1990年2月までの9年間に、同市の商工会、市役所、埼玉県庁、東京通産局、通産省産業政策局へ494回足を運んだ
参考文献[33]-[46]
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- [33]昭和46年の首都圏第1号店開設以来、東京・大阪という人口密度が高く人口増加の続く日本の二大消費地に店舗を集中させる出店戦略をとっている
- [34]全国の主要都市に店舗を配置する大手チェーン・ストアの点の展開に対し、東西二眼レフ展開は面の出店戦略である
- [35]この出店戦略を「東西二眼レフ展開」と呼んでいる
- [36]出店エリアを拡大しすぎると神経が行き届かなくなり、結局は顧客に不満足な店になってストア・ロイヤリティの確立ができなくなる
- [39]商業集積地と商業集積地の狭間の空白地帯をセカンダリー・マーケットと呼び、出店立地を徹底的に絞ってきた
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- [37]昭和50年代に入ってからは、近畿圏と首都圏という東西の人口密集地域、面展開が可能な商圏で二眼レフ戦略を展開した
- [38]昭和50年代に入り、従来の商業地区ではなく商業地区と商業地区の間に真空マーケットがあるという考え方の下に出店を進めた
- [40]店舗形態をSM(1,000平方メートル前後)、SSM(1,300〜2,000平方メートル)、CbS(2,500〜4,000平方メートル)、GMS(5,000平方メートル以上)の四つに分類し、セカンダリー・マーケットのニーズに応じて使い分けている
- [41]大店法の改正で大型店の出店規制は極めて厳しくなったが、GMSでは規模が大き過ぎて地元商店街などの反対が強い場合にCbSにして地元の協力が得られるケースが少なくない
- [44]収益面で加速度的に力をつけ始めたのは、京阪神地域で25店、売上高400億円を超えたころからである
- 会社年鑑 1986年版
- [42]売上高は1978年2月期が283.81億円、1981年2月期が627.49億円である
- [43]1978年2月期から1981年2月期にかけて売上高は283.81億円、364.55億円、475.12億円、627.49億円と増加した
- [45]経常利益は1978年2月期が1.77億円、1979年2月期が2.32億円、1980年2月期が5.11億円、1981年2月期が5.38億円である
- 日経ビジネス 1990年7月16日号
- [46]埼玉県志木市への出店を計画した1981年から1990年2月までの9年間に、同市の商工会、市役所、埼玉県庁、東京通産局、通産省産業政策局へ494回足を運んだ
筆者考察
スーパーマーケットを10年赤字のまま続けられる食品卸は多くない。豊中の1号店から5年かけて11店まで広げた売り場は利益を生まず、それを埋めたのはバナナとパイナップルの輸入だった。清水信次氏は26歳で貿易庁長官の白洲次郎氏に面談を求め、日本バナナ輸入組合と日本パインアップル輸入協会という受け皿団体を自ら作って輸入枠を取った人物である。制度の側に食い込んで得た利幅で、売り場の赤字を10年埋め続けた。参入が早かったことではなく、赤字に耐えられる別の財布を同じ会社の中に持っていたことが、この会社を業態転換の途中で倒れさせなかった条件である。大阪中央市場で仲卸として得た日々の現金の回転と、輸入の厚い利幅。性格の違う2つの稼ぎを1つの法人に集約した1956年の清水實業の設立が、この10年を支えた。
1972年の堺の大型店を境に、ライフは卸と貿易を畳んでスーパーへ一本化した。ここから先の制約は資金ではなく、出店の許可に移る。大規模小売店舗法の下では地元商店街の同意が要るため、店舗を売場面積で4つに分け、反対が強ければGMSをCbSへ落として計画そのものを小さくした。出店先も百貨店と大手チェーンの商圏の狭間に絞り、セカンダリー・マーケットと呼んだ。売上高は1978年2月期の283億円から1981年2月期の627億円へ伸びたが、経常利益率は1%に届かない。規格を細かく刻む手間は、規制の下で出店を止めないための費用でもあった。1981年に計画した埼玉県志木市の店に至っては、9年で494回の折衝を重ねてなお開けない。
1956年〜1981年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1956年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年02月期 | 単体 | 283 | n/a | 1 | 0.6% | 1 | n/a |
| 1979年02月期 | 単体 | 364 | +28.4% | 2 | 0.6% | 0 | n/a |
| 1980年02月期 | 単体 | 475 | +30.3% | 5 | 1.1% | 2 | n/a |
| 1981年02月期 | 単体 | 627 | +32.1% | 5 | 0.9% | 2 | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- ライフコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑 1986年版
- 証券アナリストジャーナル 1982年11月号(清水三夫)
- 証券 1983年12月号
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(清水三夫)
- 日経ビジネス 1987年3月16日号
- 日経ビジネス 1990年7月16日号