ピジョン:ピジョン哺乳器本舗の設立と哺乳器の国内シェア9割
1957年〜シベリア抑留から帰った男が引き受けた月商23万円の会社
ピジョンの前身は1948年に創業した哺乳器メーカーであり、当時としては目新しいアメリカ式の哺乳ビンを作っていた。ただし経営は成り立っておらず、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる状態だった。仲田祐一氏がこの会社への経営参加を持ちかけられたのは1951年で、内情を知ったときにはすでに引き返せないところまで足を踏み入れていた。前任者との争いは訴訟が20数種類にのぼり、仲田祐一氏自身も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けた。支配権を掌握したのは1955年前後で、そのうえで1957年8月15日、神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
- [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
- [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
- [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
- [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立
仲田祐一氏は1910年6月23日に新潟県直江津市で生まれ、1926年に県立直江津農商学校を出て神戸の近藤忠商店に入った。室内装飾品の製造販売を扱う店で、1935年まで勤めて室内装飾と家具の知識を身につけた。1945年ごろの時点では、大陸での土地売買によって10万坪を超える農園の持ち主となっていた。これに先立ち、大連の幾久屋百貨店では家具・内装飾部の主任を務めている。戦局が悪くなると新潟の資産まで処分して大連へ移していたため、敗戦で全てを失った。1945年5月には現地で召集され、ソ満国境ムーリンの部隊に入ったが、そのとき一緒に召集された13名で生還したのは2名だけだった。ソ連軍の捕虜となってシベリアへ送られ、日本の土を再び踏んだのは1947年7月である。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
- [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
- [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
- [10]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
- [11]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
- [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
- [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
- [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国
仲田祐一氏が引き受けた市場は、小さな作り手が多数ひしめく状態にあった。哺乳器と乳首を作って売っていたメーカーは30社ほどあったが、全国ブランドとして売っていたのはピジョンを含む数社にすぎず、大半は地域のガラス製造業者やゴム製造業者が地元の卸店の名前で売る商品だった。この構造の中で仲田祐一氏が差をつける手段としたのは、一品ごとの作り分けではなく品ぞろえだった。軸は哺乳器である。そこに調乳・洗浄・消毒の用品を一通り加え、授乳に要る道具をまとめて供給する形をとった。乳幼児の発達の段階に応じて、ミルクの量や出る速さの違いで選べる商品をそろえたのも、同じ時期のことである。
- 証券 1995年9月号
- [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
- [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
- [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
- [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
- [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
- [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした
参考文献[1]-[20]
- [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
- [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
- [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
- [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
- [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
- [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
- [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
- [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
- [10]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
- [11]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
- [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
- [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
- [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立
- [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
- [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
- [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
- [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
- [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
- [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした
1967年〜病・産院への普及活動とJIS規格の取得による全国ブランド化
品ぞろえと並ぶもう一方の手立ては、母親が最初に育児を教わる場所を押さえることだった。乳業メーカーと組んで病院・産院に商品を持ち込み、マタニティ雑誌・ベビー雑誌やテレビの広告と合わせて、育児に携わる人への知名度を上げていった。規格の面でも足場を確立しており、ピジョンの"キャップ式哺乳器"の規格は1967年にJIS規格へ認定された。営業拠点も増やし、1958年の東京出張所を皮切りに、1963年に大阪、1964年に福岡、1965年に名古屋と札幌、1967年に広島、1968年に仙台と、全国主要7都市へ広げた。
- 証券 1995年9月号
- [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
- [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
- [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
- [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
- [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設
実用新案は300種類に達し、哺乳器・調乳器具・離乳用品・育児用品・洗浄消毒器具の大半に仲田祐一社長の発想が盛り込まれていた。商品の設計自体、社長本人の手になるものだった。逸話としては、新潟へ墓参りに帰ったとき持った醤油ビンをもとに、乳児向けのジュースのみ器を考え出したという話が伝わる。乳房と乳首の研究は実地で数年に及び、その対象は千人近くになったとされる。これを取り上げた"週刊文春"の見出しは"オッパイ社長奮戦す"だった。求められているのはどんな商品か、いくらなら売れるか、利益はどれほど出るか、将来性はあるか、という順で商品化を判断すると仲田祐一社長は語った。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
- [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
- [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
- [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
- [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
- [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた
参考文献[21]-[32]
- [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
- [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
- [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
- [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
- [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設
- [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
- [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
- [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
- [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
- [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
- [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた
1970年〜第二次ベビーブーム下で哺乳器シェア93%に達した独占状態
人工栄養で子どもを育てる家庭が増えるにつれ、ピジョンの名は母親たちの間で広く通じる商標となった。1960年代後半から1970年代初めには、特殊調整粉乳の広がりと第二次ベビーブームが同社の品ぞろえとかみ合った。売上高は1965年に9億円だったものが、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円と増え、1970年には30億円となって、6年間で3倍強に膨らんだ。1971年時点のシェアは哺乳器が93%、おしゃぶりが80%、洗浄消毒器具が72%、紙おむつが45%に上った。哺乳器だけで見ればアメリカの3社に続く世界第4位で、ヨーロッパには比べうるメーカーがないとされた。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [33]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている
- [35]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
- [36]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
- [37]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
- [38]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
- 証券 1995年9月号
- [34]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた
火事で供給が途絶えれば世間に迷惑をかける、と仲田祐一社長は語った。この考えから、主力の哺乳器は1か所にまとめず、東と西に振り分けて蓄える方針がとられた。千葉県の市川工場裏に建坪約3,000坪の倉庫を建てる計画は1971年末の時点で持っていたが、それでも在庫を集中させはしなかった。東京都から多年の研究活動をたたえられ表彰を受けたのは1970年10月10日である。従業員は300名を上回り、社員持株制度と、社員を海外へ送って学ばせる研修制度も取り入れた。商号は1966年6月にピジョン株式会社へ改めており、哺乳器本舗という創業時の看板からは離れていた。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [39]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
- [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
- [41]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
- [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
- [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更
もっとも、この独占には条件が付いていた。育児用品の分野に有力企業が入ってこなかったのは、ピジョンが強かったことに加えて、その規模の市場に大手が目をつけていなかったからでもある。売上が30億円から40億円、50億円へと上がれば、事情は変わりうる。社内に目を向けると、重役の大半が血縁者で占められていた。外に対しては、独占的な地位の支えだった実用新案もいずれ期限が来れば公開を避けられず、資本の自由化が進めば海外の有力企業が日本に入ってくることも予想された。会社を動かしてきた力は、おもに仲田祐一社長その人から出ていた。それゆえ、後をどう継ぐかが最大の課題として残った。
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
- [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
- [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
- [48]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
- [49]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
- [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
参考文献[33]-[50]
- [33]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている
- [35]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
- [36]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
- [37]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
- [38]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
- [39]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
- [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
- [41]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
- [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
- [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
- [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
- [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
- [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
- [48]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
- [49]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
- [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
- [34]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更
出典・参考
3件
- ピジョン 有価証券報告書【沿革】
- 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
- 証券 1995年9月号