ミノルタ:一眼レフ転換の遅れによる無配と普通紙複写機への本格参入
1963年〜中級機への傾斜と高級一眼レフの遅れ、1965年の2年連続無配と大手12社の不況カルテル
千代田光学精工から社名を改めた翌年の1963年3月期、半期の販売実績は光学機械が38億5,796万円、事務用機器が1億8,998万円だった。事務機は光学機械の5%に達せず、売上のほぼすべてを写真機とその周辺が占めていた。カメラは高級機の一眼レフSR系2機種から、完全自動をうたうユニオマット、ハイマチックの中級機までを品ぞろえしていた。創業者で社長の田嶋一雄氏は、このうち売れ行きの良い中級機へ力を注ぎ、高級一眼レフへの移行を後回しにした。同じ時期には、堺・豊川・伊丹・西宮の4工場を約12億円で増強する計画が、1963年12月の完成を目標に進んでいた。売れ筋を中級機と見込んだまま、設備の能力を積み増した形だったとみられる。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- [1]1963年3月期(1962年10月〜1963年3月)の販売実績 光学機械3,857,959千円(うち写真機3,402,789千円)、事務用機器189,975千円。1962年7月にミノルタカメラへ改称
- [2]1963年3月期(1962年10月〜1963年3月)の販売実績 光学機械3,857,959千円(うち写真機3,402,789千円)、事務用機器189,975千円。1962年7月にミノルタカメラへ改称
- [3]高級機は一眼レフのミノルタSR系2種、中級機は完全オートメーションカメラのユニオマットとハイマチック
- [5]所要資金約12億円で、1963年12月の完成を目標に堺・豊川・伊丹・西宮4工場の建物と機械設備を増強中
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [4]好調だった中級機種に力を入れていたため、高級一眼レフへの転換が立ち遅れた
前年までの市況は悪くなく、1964年版の総覧は中級機の内需が堅調で輸出も好調と評していた。1965年、東京オリンピックの反動で国内景気が冷え込むと、カメラ業界ではそれまでの強気の投資と販売の拡張が過剰な生産に転じた。製品の比重を中級機に置いていたミノルタカメラは同業のなかで最も大きな損失を受け、配当を2年続けて見送った。株価は1964年の高値177円から、1965年には安値33円まで下落した。大手12社はこの年の春から1年間の不況カルテルを結成し、日本写真機工業会の会長だった田嶋氏がその取りまとめにあたった。完成を急いだ4工場の増強は、結果として需要の急減と時期が重なったと推察される。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- [6]中級機ともに内需がしっかりしているほか、輸出が好調
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [7]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- [8]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- [10]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [9]株価 1964年(39年)最高177円、1965年(40年)最低33円
田嶋氏は不況のさなか、研究開発費の維持、高級一眼レフの開発の前倒し、輸出の強化の3点を社内に指示した。自身も愛用者カードを1枚ずつ読み込み、どの層が何を買っているかを確かめた。1966年に出した一眼レフは市場が一眼レフへ移る流れと重なって大きく売れ、業績の立て直しを支えた。同じ年、日本のカメラ産業は台数と金額の両方で西独を上回った。輸出比率は1965年を境に50%を超え、その後も年ごとに上がった。株価は1968年に高値204円まで戻り、1968年3月期には8%の配当を出した。不況の間に製品を高級機へ、販路を海外へ寄せた判断が、次の10年の拡大の起点になったと考えられる。
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [11]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [12]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [13]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [14]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [15]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [16]株価 1968年(43年)最高204円。1968年3月期(43・3月期)売上高6,327,460千円・配当8%
参考文献[1]-[16]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- [1]1963年3月期(1962年10月〜1963年3月)の販売実績 光学機械3,857,959千円(うち写真機3,402,789千円)、事務用機器189,975千円。1962年7月にミノルタカメラへ改称
- [2]1963年3月期(1962年10月〜1963年3月)の販売実績 光学機械3,857,959千円(うち写真機3,402,789千円)、事務用機器189,975千円。1962年7月にミノルタカメラへ改称
- [3]高級機は一眼レフのミノルタSR系2種、中級機は完全オートメーションカメラのユニオマットとハイマチック
- [5]所要資金約12億円で、1963年12月の完成を目標に堺・豊川・伊丹・西宮4工場の建物と機械設備を増強中
- [6]中級機ともに内需がしっかりしているほか、輸出が好調
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [4]好調だった中級機種に力を入れていたため、高級一眼レフへの転換が立ち遅れた
- [7]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- [8]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- [10]1965年の40年不況で、業界の強気の設備投資や販売拡張が裏目に出た。ミノルタは高級一眼レフへの転換の遅れで業界で最も大きな痛手を負い、2年連続の無配。大手12社が同年春から1年間の不況カルテルを実施し、日本写真機工業会会長の田嶋一雄が結成役を担った
- [11]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [12]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [13]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [14]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- [15]不況下で「研究開発費は削るな」「高級一眼レフの開発を急げ」「輸出に一層の力を入れよ」と指示し、自ら愛用者カードを点検した。1966年発売の一眼レフが一眼レフ時代の到来で大ヒットし不況脱出のテコとなった。同年、日本のカメラ業界は台数・金額とも西独を追い抜いた。輸出比率は1965年を境に50%を超え、以後上昇
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [9]株価 1964年(39年)最高177円、1965年(40年)最低33円
- [16]株価 1968年(43年)最高204円。1968年3月期(43・3月期)売上高6,327,460千円・配当8%
1967年〜全米の小売店への直販とライツ社との技術相互協力、ジアゾ・湿式で先発した複写機の伸び悩み
半期の売上高は1968年3月期の63億2,746万円から、1970年3月期には98億8,073万円まで増え、配当も12%に上がった。増収の背景には、写真機の輸出を担う海外の販売網の拡充があった。1959年にニューヨーク、続いて西独のハンブルクに販売拠点を置き、1970年春には全米で小売店へ直接卸す体制に移った。現地の代理店が極端な安値競争に巻き込まれたことを教訓とした措置だった。この移行は日本のカメラ業界で最初の試みだった。1981年時点で、事務機を含む輸出は売上高の8割を占めるまでになった。輸出への依存が深まるほど、為替と各国の景気が業績を左右する度合いも増したはずである。
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [17]1968年3月期(43・3月期)売上高6,327,460千円・配当8%、1970年3月期(45・3月期)売上高9,880,732千円・配当12%
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [18]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- [19]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- [20]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- [21]事務機を含めて輸出が売上全体の8割を占める
ライツ社との提携は、先方からの打診で始まった。1970年10月のフォトキナの直後、日本の大手数社の工場を見て回った同社は、カメラの一部をミノルタで下請け生産してほしいと申し入れた。量産の技術では既に西独を上回っており、繁忙期に下請けを引き受ける理由はないとして社内の反対は多かった。『技術的には見習うべき点はないのだから損だ』という意見も出た。田嶋氏は高級品の印象を補い、西欧の市場開拓にも役立つと判断し、1971年春に交渉の続行を決めた。1972年6月に技術相互協力契約を結び、翌1973年に共同開発の高級35ミリ機ライツ・ミノルタCLを発売した。田嶋氏自身は塗装の仕上げや製品への責任感に学ぶ点を認めていたが、提携の主な効用は技術の習得より欧州での信用と販路にあったと思われる。
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [22]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [23]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [25]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [26]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- [24]ライツ社との提携に社内から反対の声があった。田嶋一雄はボディーの塗りの見事さや製品に対する責任感の強さを評価
- [27]ライツ社との提携に社内から反対の声があった。田嶋一雄はボディーの塗りの見事さや製品に対する責任感の強さを評価
複写機は、1957年の不況を機に始めた多角化の検討から生まれた事業だった。田嶋氏は『多角化とは言っても、"光"を中心に、という原点を忘れるな』と条件を付け、電卓やタイプライターを初めから候補の外に置いた。1959年に研究へ入り、1960年のジアゾ式を第1号機として湿式の電子複写機も数機種を出した。1963年時点では、三菱製紙向けの乾式機ダイヤファックスや、米ブルーニング社の技術によるコピーフレックスの製造も請け負っていた。それでも売上に占める比率は1960年代前半まで10%未満にとどまり、1970年3月期の構成は写真機78%、事務機22%だった。人員をカメラ部門から移したため、数十キロの機械や感光体・現像剤の知識を一から学ぶ必要があり、独創性を求める方針も開発を長引かせた。
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [28]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [29]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [31]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [33]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- [30]三菱製紙の注文により乾式複写機ダイヤファックス(米RCA社エレクトロファックス利用)の製造を担当。コピーフレックス105型は米ブルーニング社と文祥堂との技術契約にもとづき製造を担当
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [32]事業内容 写真機部門78%・事務機部門22%
参考文献[17]-[33]
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- [17]1968年3月期(43・3月期)売上高6,327,460千円・配当8%、1970年3月期(45・3月期)売上高9,880,732千円・配当12%
- [32]事業内容 写真機部門78%・事務機部門22%
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [18]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- [19]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- [20]1959年4月、全米向け販売会社ミノルタ・コーポレーションをニューヨークに設立し、続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた。1970年春、全米で小売店向けの直販体制を敷いた。現地代理店が安値合戦に巻き込まれたことを教訓とし、業界の先陣を切った試み
- [22]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [23]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [25]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [26]1970年10月のフォトキナ後、ライツ社が日本の大手数社の工場を視察したうえでカメラの一部の下請け生産を要請。社内では量産技術で西独を凌駕しているのになぜ下請けをやるのか、生産に追われる時期に、との反対が多かった。高級品志向のイメージに合い西欧市場の開拓にもプラスと判断し、1971年春に「ゴー」を決断。1972年6月に技術相互協力契約を締結し、翌年に共同開発の高級35ミリカメラ「ライツ・ミノルタCL」を発売
- [28]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [29]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [31]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- [33]1957年の不況を機に多角化を指示し、電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に関係の薄いものを除外。複写機は1959年に研究開発を始め、1960年にジアゾ型の第1号機、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売。先発グループの一角だったが売上構成は昭和30年代を通じて10%以下、40年代後半にようやく20%台。人材はカメラ部門から転用し、数十キロの重量物や感光体・現像剤など未知の分野を一から学んだ。独創性を求めたため開発に時間がかかった
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- [21]事務機を含めて輸出が売上全体の8割を占める
- [24]ライツ社との提携に社内から反対の声があった。田嶋一雄はボディーの塗りの見事さや製品に対する責任感の強さを評価
- [27]ライツ社との提携に社内から反対の声があった。田嶋一雄はボディーの塗りの見事さや製品に対する責任感の強さを評価
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- [30]三菱製紙の注文により乾式複写機ダイヤファックス(米RCA社エレクトロファックス利用)の製造を担当。コピーフレックス105型は米ブルーニング社と文祥堂との技術契約にもとづき製造を担当
1973年〜石油危機後の非カメラ部門の伸長、1979年の独自現像システムと普通紙複写機、1982年の社長交代
1973年秋の石油危機は、拡大の途中にあった業績の伸びを止めた。半期の売上高は1973年3月期の148億9,000万円から1974年9月期には236億4,300万円に増えた。しかし1975年3月期は236億5,300万円で、前の半期とほぼ同じ水準にとどまった。田嶋氏は経費の節約と経営体質の強化で危機に対処し、1975年ごろから複写機などカメラ以外の部門が育って業績は上向いた。この年、欧州での複写機の営業を他社ブランド向けのOEMから自社ブランドへ改め、ハノーバーに拠点を新設した。翌1976年9月にはカメラの国内販売を担うミノルタカメラ販売を発足させ、1977年3月期の売上高は528億5,800万円に達した。1978年11月の創業50周年を、田嶋氏は10年ごとの節目で初めて順調な業況のもとで迎えた。
- 日本企業要覧 1975年版「ミノルタカメラ」
- [34]売上高 1973年3月期(48・3月期)14,890百万円、1974年9月期(49・9月期)23,643百万円、1975年3月期(50・3月期)23,653百万円(半期)
- [35]売上高 1973年3月期(48・3月期)14,890百万円、1974年9月期(49・9月期)23,643百万円、1975年3月期(50・3月期)23,653百万円(半期)
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [36]1973年秋の石油ショックを節約と経営体質の強化で切り抜け、複写機などカメラ以外の部門が育ち始めた1975年ごろから業績が再び上向いた。1978年11月の創業50周年は、10年ごとの周年で初めて順調な中で迎えた
- [39]1973年秋の石油ショックを節約と経営体質の強化で切り抜け、複写機などカメラ以外の部門が育ち始めた1975年ごろから業績が再び上向いた。1978年11月の創業50周年は、10年ごとの周年で初めて順調な中で迎えた
- 週刊東洋経済(1999年10月2日号)
- [37]1975年 複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設
- 日本企業要覧 1981年版「ミノルタカメラ」
- [38]1976年9月、写真機部門の国内販売体制を強化するためミノルタカメラ販売株式会社を発足。1977年3月期売上高52,858百万円
複写機が低迷を抜け出したのは、独自技術の蓄積が製品に表れ始めた1970年代後半からだった。1979年には自社独自の現像システムを完成させ、これを差別化要因として普通紙複写機の市場へ本格的に参入した。普及型のEP310とEP520が販売の中心となり、1980年には複写機専用の瑞穂工場が稼働した。1981年3月期にはIBM向けに小型の普通紙複写機を開発して製造を始め、イギリスに販売会社を設けて事務機の直接販売にも入った。売上高は1980年3月期の856億6,500万円から1981年3月期に1,156億8,200万円へ増えた。売上の構成はカメラ関係55%に対し、事務機・特機が45%を占めた。四半世紀近く続けた投資を経て、カメラだけに収益を依存する構造がようやく改まったのだろう。
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [40]複写機は独自技術の蓄積が実り始めた昭和50年代初めから低迷を脱した。1979年に独自の現像システムの開発に成功し、これを武器にPPC(普通紙複写機)分野へ本格進出
- [41]複写機は独自技術の蓄積が実り始めた昭和50年代初めから低迷を脱した。1979年に独自の現像システムの開発に成功し、これを武器にPPC(普通紙複写機)分野へ本格進出
- 日本企業要覧 1981年版「ミノルタカメラ」
- [42]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [43]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [44]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [45]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
1981年11月、82歳の誕生日を迎えた田嶋一雄氏は、翌年に社長を退任する意向を明らかにした。家電各社から提携の誘いが相次いだビデオカメラとVTRについては、方式が定まらず電卓のような乱売に陥る恐れがあるとして参入の判断を保留した。当面は事務機に開発の焦点を絞り、他社と組む場合も光学の独自技術が生きる部分に限る方針だった。後継者の選定は幹部役員6〜7人に委ね、長男の田嶋英雄副社長を推す結論を受けて、主力銀行である太陽神戸銀行の石野信一会長の了解も得た。1982年8月23日に田嶋英雄氏が社長に就任し、一雄氏は社長を退任して会長に就任した。カメラの側でどの技術に次の経営資源を投じるかの判断は、新しい経営陣に委ねられた。
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- [46]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [47]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [48]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [49]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [50]1982年8月23日、長男・英雄を後継社長とし、自らは会長に就任
参考文献[34]-[50]
- 日本企業要覧 1975年版「ミノルタカメラ」
- [34]売上高 1973年3月期(48・3月期)14,890百万円、1974年9月期(49・9月期)23,643百万円、1975年3月期(50・3月期)23,653百万円(半期)
- [35]売上高 1973年3月期(48・3月期)14,890百万円、1974年9月期(49・9月期)23,643百万円、1975年3月期(50・3月期)23,653百万円(半期)
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- [36]1973年秋の石油ショックを節約と経営体質の強化で切り抜け、複写機などカメラ以外の部門が育ち始めた1975年ごろから業績が再び上向いた。1978年11月の創業50周年は、10年ごとの周年で初めて順調な中で迎えた
- [39]1973年秋の石油ショックを節約と経営体質の強化で切り抜け、複写機などカメラ以外の部門が育ち始めた1975年ごろから業績が再び上向いた。1978年11月の創業50周年は、10年ごとの周年で初めて順調な中で迎えた
- [40]複写機は独自技術の蓄積が実り始めた昭和50年代初めから低迷を脱した。1979年に独自の現像システムの開発に成功し、これを武器にPPC(普通紙複写機)分野へ本格進出
- [41]複写機は独自技術の蓄積が実り始めた昭和50年代初めから低迷を脱した。1979年に独自の現像システムの開発に成功し、これを武器にPPC(普通紙複写機)分野へ本格進出
- [50]1982年8月23日、長男・英雄を後継社長とし、自らは会長に就任
- 週刊東洋経済(1999年10月2日号)
- [37]1975年 複写機の欧州営業をOEMから自社ブランドへ切り替え、ハノーバーに拠点を新設
- 日本企業要覧 1981年版「ミノルタカメラ」
- [38]1976年9月、写真機部門の国内販売体制を強化するためミノルタカメラ販売株式会社を発足。1977年3月期売上高52,858百万円
- [42]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [43]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [44]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- [45]普及型PPC「ミノルタEP310」「ミノルタEP520」を軸に複写機部門が好調、複写機専用の瑞穂工場が1980年に稼動。1981年3月期にIBM社用の小型普通紙複写機を開発・製造開始、イギリスに販売会社を設立し事務機の自社直接販売を開始。売上高 1980年3月期85,665百万円、1981年3月期115,682百万円。構成 カメラ・付属品関係55%、事務機・特機45%
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- [46]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [47]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [48]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
- [49]1981年11月20日(82歳の誕生日)のインタビューで引退を表明。ビデオカメラ・VTRは家電メーカーからの提携の働きかけがあるが、技術変化が激しく方式も不確定で電卓のような乱売合戦の恐れがあり、もう半年は様子を見る。現在は事務機に焦点を絞る。提携では光学機器メーカーとしての独自技術が生かせる部分に特化。後継者は幹部役員6〜7人に決めさせ、英雄副社長が継ぐならという回答を得て、メーンバンクの太陽神戸銀行・石野信一会長に相談し了承を得た
1963年〜1984年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1963年03月期 | 単体 | 72 | n/a | 8 | 5 | 7.3% | 3 | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 236 | n/a | n/a | 19 | 8.1% | 9 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 254 | +7.6% | n/a | 11 | 4.3% | 6 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 291 | +14.6% | n/a | 12 | 4.1% | 7 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 394 | +35.4% | n/a | 14 | 3.6% | 10 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 489 | +24.1% | n/a | 18 | 3.7% | 10 | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 480 | ▲1.8% | n/a | 19 | 4.1% | 12 | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 528 | +10.1% | n/a | 24 | 4.5% | 14 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 705 | +33.5% | n/a | 40 | 5.7% | 20 | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 836 | +18.6% | n/a | 56 | 6.7% | 24 | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 856 | +2.4% | n/a | 45 | 5.4% | 25 | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 1,156 | +35.0% | 5 | 92 | 8.0% | 45 | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 1,323 | +14.4% | n/a | 102 | 7.8% | 50 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 1,143 | ▲13.6% | n/a | 55 | 4.8% | 34 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 1,333 | +16.6% | n/a | 65 | 4.9% | 35 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑
出典・参考
7件
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「ミノルタカメラ」
- 日経ビジネス(1981年12月14日号 307号 p26-28)
- 週刊東洋経済(1999年10月2日号)
- 私の履歴書 田嶋一雄(日本経済新聞, 1983年)
- 日本企業要覧 1970年版「ミノルタカメラ」
- 日本企業要覧 1975年版「ミノルタカメラ」
- 日本企業要覧 1981年版「ミノルタカメラ」