ミノルタ:千代田光学精工の生産再開と米国販社による輸出への傾斜
1945年〜海軍艦政本部の500万円と9割減資、資本金1億4,000万円での新規上場
終戦の時点で千代田光学精工は、武庫川・尼崎・小松の3工場を戦災で失っていた。戦争末期には生産能力の95%を光学兵器に向けており、敗戦で需要の大半が消えた。残る堺・伊丹・西宮の3工場で千人を超す従業員を抱え続ける見通しは立たず、社長の田嶋一雄氏は各工場で経営の実情を明かしたうえで、残るか去るかを各人の判断に委ねた。終戦から2カ月後の従業員は400人前後まで減った。当座の給与の原資は500万円だった。戦時中に納めた兵器の代金のうち未払いの分を、海軍艦政本部がこの額だけ払い込んだ。民需への転換は1945年11月から工場ごとに許可され、大阪地区では最も早い部類に入った。軍需の喪失を人員の縮小と未収金の回収でしのぎ、カメラへ戻るまでの時間を確保した再出発だったとみられる。
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- [1]終戦直前に武庫川・尼崎・小松の三工場を戦災で失った
- [2]戦争末期には望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機等の光学兵器が主製品となり、能力の95%を軍需生産に当てた
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [3]主力三工場を失い堺・伊丹・西宮の三工場が残るなか千人を超す従業員を抱え、各自の自由意思で去就を決めさせた結果、終戦二カ月後の従業員は400人前後となった
- [4]主力三工場を失い堺・伊丹・西宮の三工場が残るなか千人を超す従業員を抱え、各自の自由意思で去就を決めさせた結果、終戦二カ月後の従業員は400人前後となった
- [5]海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払い、これで給料を払いながら会社を維持した
- [6]GHQに民需産業への転換許可を求め、大阪地区では一番早く1945年11月から各工場ごとに許可が下りた
生産は1946年4月に再開し、8月には戦後の第1号機ミノルタセミを発売した。国産で初めてコーティング処理のレンズを備えた機種で、製品の大半は進駐軍へ納めた。同年9月には愛知県豊川市に分工場を設け、本社工場・堺・豊川に機種を1つずつ割り当て、光学ガラスは伊丹工場から供給する一貫生産の体制を組んだ。ただしカメラには6割の物品税が課され、国内の家計に買う余裕は乏しく、主な買い手は米兵に限られて経営は苦しかった。カメラの売上だけでは運営費を賄えず、眼鏡レンズやオペラグラス、真空管、顕微鏡といった副業製品で不足を埋めた。1950年6月の朝鮮戦争を機に国内のカメラ需要が戻ると、これらの副業からは順次撤退した。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [7]1946年4月から新体制で生産を開始し、8月に国産初の増透処理(コーティング)レンズを使った戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売。製品の大半は進駐軍に納入
- [8]1946年4月から新体制で生産を開始し、8月に国産初の増透処理(コーティング)レンズを使った戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売。製品の大半は進駐軍に納入
- [11]カメラだけでは運営経費を賄えず眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡などの副業製品を製造。1950年6月の朝鮮戦争でカメラの国内需要が増えると副業製品から徐々に撤退
- [12]カメラだけでは運営経費を賄えず眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡などの副業製品を製造。1950年6月の朝鮮戦争でカメラの国内需要が増えると副業製品から徐々に撤退
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- [9]1946年9月 愛知県豊川市に新分工場を建設し、本社工場・堺・豊川で三製品を一工場一製品主義で生産、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた
- 証券 1953年
- [10]写真機の生産再開は最も早かったが、国民生活に余裕がなく物品税六割を課せられたため米兵が買う程度で経営は困難だった
財務の立て直しは生産より遅れた。1949年7月、債権の切り捨てに伴って資本金を9割減らし、22万5,000円とした。再建整備は1951年1月と10月の増資で完了し、資本金は3,500万円となった。以後は内需の回復と輸出の伸びを受けて設備投資を増資で賄い、1952年8月に7,000万円、1953年5月に1億4,000万円と資本を倍にし続けた。1953年の増資は、堺工場内に工費5,000万円で建てる恒温恒湿のレンズ研磨工場と新鋭機械の購入に充てた。株式は1952年5月に大阪で上場し、1953年9月14日には新規上場会社に名を連ねた。2年前まで500人に満たなかった従業員は、1953年3月末に887人、同年秋には約1,000人まで増えた。
- 証券 1953年
- [13]1949年7月 債権切捨てに伴う資本九割減資で資本金22万5千円。再建整備は業界の見通し難もあり遅れていた
- [14]1949年7月 債権切捨てに伴う資本九割減資で資本金22万5千円。再建整備は業界の見通し難もあり遅れていた
- [15]1951年1月・10月の増資で再建整備を完了、資本金3,500万円
- [17]1953年5月の増資で資本金1億4,000万円。堺工場内に工費5千万円で恒温恒湿のレンズ研磨工場を新設し、新鋭機械を各工場に増置
- [19]新規上場 1953年9月14日、資本金140,000千円
- [20]従業員は2年程前まで500名に満たなかったが、1953年3月末887名、最近は約1,000名
- 『株式会社年鑑 1953年版』
- [16]沿革 1951年1月 資本金1,500万円、1951年10月 3,500万円、1952年8月 7,000万円に増資
- [18]上場市場 大阪(1952年5月15日上場)
参考文献[1]-[20]
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- [1]終戦直前に武庫川・尼崎・小松の三工場を戦災で失った
- [2]戦争末期には望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空用写真機等の光学兵器が主製品となり、能力の95%を軍需生産に当てた
- [9]1946年9月 愛知県豊川市に新分工場を建設し、本社工場・堺・豊川で三製品を一工場一製品主義で生産、光学ガラスを伊丹工場から供給して一貫メーカーの業態を整えた
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [3]主力三工場を失い堺・伊丹・西宮の三工場が残るなか千人を超す従業員を抱え、各自の自由意思で去就を決めさせた結果、終戦二カ月後の従業員は400人前後となった
- [4]主力三工場を失い堺・伊丹・西宮の三工場が残るなか千人を超す従業員を抱え、各自の自由意思で去就を決めさせた結果、終戦二カ月後の従業員は400人前後となった
- [5]海軍艦政本部が終戦までの納入代金の一部として500万円を支払い、これで給料を払いながら会社を維持した
- [6]GHQに民需産業への転換許可を求め、大阪地区では一番早く1945年11月から各工場ごとに許可が下りた
- [7]1946年4月から新体制で生産を開始し、8月に国産初の増透処理(コーティング)レンズを使った戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売。製品の大半は進駐軍に納入
- [8]1946年4月から新体制で生産を開始し、8月に国産初の増透処理(コーティング)レンズを使った戦後第一号機「ミノルタセミ」を発売。製品の大半は進駐軍に納入
- [11]カメラだけでは運営経費を賄えず眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡などの副業製品を製造。1950年6月の朝鮮戦争でカメラの国内需要が増えると副業製品から徐々に撤退
- [12]カメラだけでは運営経費を賄えず眼鏡レンズ・オペラグラス・カットグラス・真空管・顕微鏡などの副業製品を製造。1950年6月の朝鮮戦争でカメラの国内需要が増えると副業製品から徐々に撤退
- 証券 1953年
- [10]写真機の生産再開は最も早かったが、国民生活に余裕がなく物品税六割を課せられたため米兵が買う程度で経営は困難だった
- [13]1949年7月 債権切捨てに伴う資本九割減資で資本金22万5千円。再建整備は業界の見通し難もあり遅れていた
- [14]1949年7月 債権切捨てに伴う資本九割減資で資本金22万5千円。再建整備は業界の見通し難もあり遅れていた
- [15]1951年1月・10月の増資で再建整備を完了、資本金3,500万円
- [17]1953年5月の増資で資本金1億4,000万円。堺工場内に工費5千万円で恒温恒湿のレンズ研磨工場を新設し、新鋭機械を各工場に増置
- [19]新規上場 1953年9月14日、資本金140,000千円
- [20]従業員は2年程前まで500名に満たなかったが、1953年3月末887名、最近は約1,000名
- 『株式会社年鑑 1953年版』
- [16]沿革 1951年1月 資本金1,500万円、1951年10月 3,500万円、1952年8月 7,000万円に増資
- [18]上場市場 大阪(1952年5月15日上場)
1954年〜FR社との販売代理店契約と「FR-ミノルタ」、32年不況での初の無配
輸出の端緒は1947年春で、南アフリカのヨハネスブルグからミノルタセミ170台の注文が届き、戦後の国産カメラとして最初の輸出となった。1949年初めには同地のカメラ販売会社へ、信用状に基づく100台の直接輸出も実現した。1953年の時点で輸出の主力はミノルタ35で、月産は約500台だった。レンズの明るさでは上位機に及ばなかったが、セルフタイマーを備えた点が海外で評価されていた。ただし輸出の伸びは鈍く、田嶋氏は最大の市場である米国の開拓を決め、1954年2月に入社3年目の輸出課員をニューヨークへ駐在させた。同年8月には田嶋氏も渡米したが、ボルジー社との製造請負の交渉は条件が折り合わず、続く十数社との交渉も日本製であることを理由に進まなかった。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [21]1947年春 南アフリカ・ヨハネスブルグからの注文で「セミ」170台を輸出、戦後の国産カメラの初輸出。1949年初め 同地のカメラ販売会社に「ミノルタ35」100台を信用状に基づき戦後初めて直接輸出
- [22]1947年春 南アフリカ・ヨハネスブルグからの注文で「セミ」170台を輸出、戦後の国産カメラの初輸出。1949年初め 同地のカメラ販売会社に「ミノルタ35」100台を信用状に基づき戦後初めて直接輸出
- [25]輸出がはかばかしくなく米国市場の開拓を決め、1954年2月に入社三年目の輸出課員をニューヨークへ派遣。同年8月末に渡米しボルジー社と交渉したが条件が折り合わず不調、その後十数社と交渉したが「日本のカメラ」ということで話に乗ってもらえなかった
- [26]輸出がはかばかしくなく米国市場の開拓を決め、1954年2月に入社三年目の輸出課員をニューヨークへ派遣。同年8月末に渡米しボルジー社と交渉したが条件が折り合わず不調、その後十数社と交渉したが「日本のカメラ」ということで話に乗ってもらえなかった
- 証券 1953年
- [23]ミノルタ35は当社輸出品の主品目で月産約500台。レンズの明るさなどで多少劣るが、セルフタイマー付である点が特色で海外でも評判が良い
- [24]ミノルタ35は当社輸出品の主品目で月産約500台。レンズの明るさなどで多少劣るが、セルフタイマー付である点が特色で海外でも評判が良い
渡米から1カ月余りのち、田嶋氏は写真薬品メーカーFR社のローレンス・R・フィンク社長と面会した。フィンク氏は、シャッターとフラッシュを同調させるMX接点を備えることを条件に、ミノルタのカメラを全米で販売すると提案した。国内ではまだ作られていない機構だったが、田嶋氏はその場で受け入れた。1955年初めにミノルタオートコードなど条件を満たす2機種を仕上げ、3月の全米写真業協会のショーで評判を得たうえでFR社と販売代理店契約を結び、夏から二重ブランドのFR-ミノルタで本格販売に入った。日本のカメラ業界で初めての海外販売提携で、価格はドイツ製競合品の半分以下だった。1955年には全製品の60%が輸出向けとなり、同年9月期の半期売上高4億5,143万円のうち写真機が3億9,994万円を占めた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [27]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [28]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [29]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [30]1955年初めに「ミノルタオートコード」など二機種を開発し、同年3月アトランタのMPDFA(全米写真業協会)ショーに出品して評判となる。FR社と販売代理店契約を結び夏ごろから本格販売、日本のカメラ業界で初の対海外販売提携。「FR-ミノルタ」のダブルブランド、ドイツ製品の2分の1以下の価格
- [31]1955年初めに「ミノルタオートコード」など二機種を開発し、同年3月アトランタのMPDFA(全米写真業協会)ショーに出品して評判となる。FR社と販売代理店契約を結び夏ごろから本格販売、日本のカメラ業界で初の対海外販売提携。「FR-ミノルタ」のダブルブランド、ドイツ製品の2分の1以下の価格
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- [32]1955年度新製品ミノルタオートコード等をはじめ、現在当社全製品の60%が輸出向け
- 『株式会社年鑑 1956年版』
- [33]生産状況(1955年4月〜9月)売上高合計451,439千円、うち写真機399,944千円
1957年の不況は、輸出で伸びた業績を反転させた。景気の波をカメラ1品目で越えることはできないと判断した田嶋氏は、社内に多角化の検討を命じ、その際『多角化とは言っても、"光"を中心に、という原点を忘れるな』という条件を付けた。この条件に沿い、電卓やタイプライター、金銭登録機のように光学・映像と直接結び付かない品目は最初から候補から外し、複写機、マイクロ写真機器、拡大投影機など数品目に研究開発を絞り込んだ。業績は回復に至らず、千代田光学精工は1958年3月期に初めて無配となった。田嶋氏は立て直し策として、経営の合理化と多角化に加えて輸出の一段の強化を打ち出した。1958年11月の時点で本社のほか東京とニューヨークに事務所を置き、西宮には研究所を構えていた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [34]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- [35]32年不況に直面し「景気の波を乗り切るにはカメラだけでは駄目だ」と考え、事業多角化の検討を社内に指令、"光"を中心にという条件を付けた
- [36]電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に直接関連のないものを除外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機など数品目に絞って研究開発を進めた
- [37]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- [38]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- 『株式会社年鑑 1959年版』
- [39]事業所 本社・堺工場・伊丹工場・豊川工場・西宮研究所・東京事務所・紐育事務所(米国紐育市ブロードウエイ150)、役員は1958年11月28日現在
参考文献[21]-[39]
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [21]1947年春 南アフリカ・ヨハネスブルグからの注文で「セミ」170台を輸出、戦後の国産カメラの初輸出。1949年初め 同地のカメラ販売会社に「ミノルタ35」100台を信用状に基づき戦後初めて直接輸出
- [22]1947年春 南アフリカ・ヨハネスブルグからの注文で「セミ」170台を輸出、戦後の国産カメラの初輸出。1949年初め 同地のカメラ販売会社に「ミノルタ35」100台を信用状に基づき戦後初めて直接輸出
- [25]輸出がはかばかしくなく米国市場の開拓を決め、1954年2月に入社三年目の輸出課員をニューヨークへ派遣。同年8月末に渡米しボルジー社と交渉したが条件が折り合わず不調、その後十数社と交渉したが「日本のカメラ」ということで話に乗ってもらえなかった
- [26]輸出がはかばかしくなく米国市場の開拓を決め、1954年2月に入社三年目の輸出課員をニューヨークへ派遣。同年8月末に渡米しボルジー社と交渉したが条件が折り合わず不調、その後十数社と交渉したが「日本のカメラ」ということで話に乗ってもらえなかった
- [27]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [28]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [29]渡米後一カ月余りでFR社(写真薬品メーカー)のローレンス・R・フィンク社長に会い、MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付きシャッターを絶対条件に全米で販売する提案を受けた。当時日本では未製造だったが、その場で承諾
- [30]1955年初めに「ミノルタオートコード」など二機種を開発し、同年3月アトランタのMPDFA(全米写真業協会)ショーに出品して評判となる。FR社と販売代理店契約を結び夏ごろから本格販売、日本のカメラ業界で初の対海外販売提携。「FR-ミノルタ」のダブルブランド、ドイツ製品の2分の1以下の価格
- [31]1955年初めに「ミノルタオートコード」など二機種を開発し、同年3月アトランタのMPDFA(全米写真業協会)ショーに出品して評判となる。FR社と販売代理店契約を結び夏ごろから本格販売、日本のカメラ業界で初の対海外販売提携。「FR-ミノルタ」のダブルブランド、ドイツ製品の2分の1以下の価格
- [34]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- [35]32年不況に直面し「景気の波を乗り切るにはカメラだけでは駄目だ」と考え、事業多角化の検討を社内に指令、"光"を中心にという条件を付けた
- [36]電卓・タイプライター・金銭登録機など光学・映像に直接関連のないものを除外し、複写機・マイクロ写真機器・拡大投影機など数品目に絞って研究開発を進めた
- [37]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- [38]1958年3月期に32年不況のあおりで業績が悪化し初めての無配。回復策として経営の合理化・多角化とともに輸出の一層の強化を打ち出した
- 証券 1953年
- [23]ミノルタ35は当社輸出品の主品目で月産約500台。レンズの明るさなどで多少劣るが、セルフタイマー付である点が特色で海外でも評判が良い
- [24]ミノルタ35は当社輸出品の主品目で月産約500台。レンズの明るさなどで多少劣るが、セルフタイマー付である点が特色で海外でも評判が良い
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- [32]1955年度新製品ミノルタオートコード等をはじめ、現在当社全製品の60%が輸出向け
- 『株式会社年鑑 1956年版』
- [33]生産状況(1955年4月〜9月)売上高合計451,439千円、うち写真機399,944千円
- 『株式会社年鑑 1959年版』
- [39]事業所 本社・堺工場・伊丹工場・豊川工場・西宮研究所・東京事務所・紐育事務所(米国紐育市ブロードウエイ150)、役員は1958年11月28日現在
1959年〜ミノルタ・コーポレーションとジアゾ型複写機、フレンドシップ7号に載ったハイマチック
輸出強化の具体策として、1959年4月、全米向けの販売会社ミノルタ・コーポレーションを業界に先駆けてニューヨークに設けた。当時の米国ではスーパーマーケットが現れて流通の構造が変わりつつあったが、FR社はこの変化に対応できず、カメラの売上も停滞していた。千代田光学精工はFR社との契約を円満に解いたうえで、販売を自社の現地法人へ移した。米国向けの輸出はその後急速に伸び、西ドイツのハンブルクにも販売拠点を設けた。半期の売上高は1955年9月期の4億5,143万円から、1960年3月期に12億1,055万円、1961年3月期に18億821万円へと増えた。販売を他社の商標と流通に委ねる段階から、自社の名で米国市場に向き合う段階へ移った転換と推察される。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [40]1959年4月 業界に先駆けて全米向け販売会社「ミノルタ・コーポレーション」をニューヨークに設立
- [41]米国はスーパーマーケットが登場し消費革命・流通革命の時代に入っていたが、FR社は時流に乗り遅れてカメラの売上も伸び悩み、同社との契約を円満に解約した上でミノルタ・コーポレーションを設立
- [42]米国はスーパーマーケットが登場し消費革命・流通革命の時代に入っていたが、FR社は時流に乗り遅れてカメラの売上も伸び悩み、同社との契約を円満に解約した上でミノルタ・コーポレーションを設立
- [43]ミノルタ・コーポレーション設立の結果、米国向け輸出は急上昇し、米国に続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた
- 『株式会社年鑑 1956年版』
- [44]生産状況(1955年4月〜9月)売上高合計451,439千円
- 『株式会社年鑑 1962年版』
- [45]売上高 1960年3月期1,210,558千円・1960年9月期1,412,495千円・1961年3月期1,808,218千円
多角化の検討は複写機で形になった。研究開発は1959年に始まり、1960年にジアゾ式(青焼き)の第1号機を出して事務機の分野に参入し、湿式の電子複写機も数機種を送り出した。1961年には西宮工場が事務用複写機の生産を受け持っていたが、同年3月期の売上高に占める比率は写真機の81.0%に対し、事務用複写機は3.2%にとどまった。新部門の人材はほぼ全員をカメラ部門から移しており、数百グラムの製品から数十キロの機械へ、さらに感光体や現像剤、感光紙という未知の領域へと、技術者は一から学び直す必要があった。独創性を重んじる田嶋氏の方針も、開発期間を延ばす一因になったという。先行グループの一角に入りながら、カメラの光学技術が事務機の競争優位にそのまま移らなかったと思われる。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [46]複写機の研究開発は1959年から始め、1960年のジアゾ型(青焼き)で第一号機を出したのを皮切りに、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売
- [47]複写機の研究開発は1959年から始め、1960年のジアゾ型(青焼き)で第一号機を出したのを皮切りに、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売
- [49]複写機など非カメラ部門の人材はほとんどすべてカメラ部門から転用し、数百グラムの仕事から数十キロの重量物へ、感光体・現像剤・感光紙など未知の分野の勉強を一から始めねばならなかった
- [50]「独創性のあるものを!」と常々言っていたため開発に時間がかかったことも否めない、先発グループの一角に加わりながら売り上げは伸び悩んだ
- 『株式会社年鑑 1962年版』
- [48]西宮工場(事務用複写機)。1961年3月期の売上構成比率 写真機81.0%、事務用複写機3.2%
1962年2月、米国の宇宙船フレンドシップ7号にミノルタのハイマチックが積まれ、グレン中佐が宇宙から撮った地球の写真は各国の新聞とテレビで報じられた。グレン中佐は各国の二十数機種を1台ずつ点検して4機種に絞り、最後にハイマチックを選んだという。ハイマチックは、絞りとシャッターを1組の羽根で兼ねる世界初のプログラムシャッターを積んだ1960年発売のユニオマットに、自動露出を加えた改良機だった。業績も岩戸景気のなかで伸び、1961年3月期の営業利益は2億463万円と、1960年3月期の6,277万円から3倍余りに増えていた。1962年を昭和30年代で最良の年とみた田嶋氏は、ブランド名と社名を一致させる機会はこの時を置いてないと判断し、同年7月に商号を千代田光学精工からミノルタカメラへ改めた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [51]1962年2月 グレン中佐の乗る「フレンドシップ7号」に「ハイマチック」が搭載され、撮影した地球の写真が世界中の新聞やテレビで紹介された。グレン中佐は各国の二十数機種を点検して四機種に絞り、最後にハイマチックに決めた
- [52]1962年2月 グレン中佐の乗る「フレンドシップ7号」に「ハイマチック」が搭載され、撮影した地球の写真が世界中の新聞やテレビで紹介された。グレン中佐は各国の二十数機種を点検して四機種に絞り、最後にハイマチックに決めた
- [53]ハイマチックは2年前に発売した「ユニオマット」の改良機種。ユニオマットは絞りとシャッターを一組の羽根でまとめた世界初のプログラムシャッターを内蔵し、これをEE(自動露出)化したのがハイマチック
- [55]1962年は昭和30年代で最良の年。岩戸景気の中で会社も順調に伸びた。この時期を逃せばブランド名と社名の一致を実現する機会はないと考え、千代田光学精工からミノルタカメラへの改称を決意し、同年7月から新社名で発足
- 『株式会社年鑑 1962年版』
- [54]営業利益 1960年3月期62,775千円・1960年9月期77,321千円・1961年3月期204,638千円
参考文献[40]-[55]
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- [40]1959年4月 業界に先駆けて全米向け販売会社「ミノルタ・コーポレーション」をニューヨークに設立
- [41]米国はスーパーマーケットが登場し消費革命・流通革命の時代に入っていたが、FR社は時流に乗り遅れてカメラの売上も伸び悩み、同社との契約を円満に解約した上でミノルタ・コーポレーションを設立
- [42]米国はスーパーマーケットが登場し消費革命・流通革命の時代に入っていたが、FR社は時流に乗り遅れてカメラの売上も伸び悩み、同社との契約を円満に解約した上でミノルタ・コーポレーションを設立
- [43]ミノルタ・コーポレーション設立の結果、米国向け輸出は急上昇し、米国に続いて西独ハンブルクにも販売拠点を設けた
- [46]複写機の研究開発は1959年から始め、1960年のジアゾ型(青焼き)で第一号機を出したのを皮切りに、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売
- [47]複写機の研究開発は1959年から始め、1960年のジアゾ型(青焼き)で第一号機を出したのを皮切りに、EF(湿式電子複写機)も数機種を発売
- [49]複写機など非カメラ部門の人材はほとんどすべてカメラ部門から転用し、数百グラムの仕事から数十キロの重量物へ、感光体・現像剤・感光紙など未知の分野の勉強を一から始めねばならなかった
- [50]「独創性のあるものを!」と常々言っていたため開発に時間がかかったことも否めない、先発グループの一角に加わりながら売り上げは伸び悩んだ
- [51]1962年2月 グレン中佐の乗る「フレンドシップ7号」に「ハイマチック」が搭載され、撮影した地球の写真が世界中の新聞やテレビで紹介された。グレン中佐は各国の二十数機種を点検して四機種に絞り、最後にハイマチックに決めた
- [52]1962年2月 グレン中佐の乗る「フレンドシップ7号」に「ハイマチック」が搭載され、撮影した地球の写真が世界中の新聞やテレビで紹介された。グレン中佐は各国の二十数機種を点検して四機種に絞り、最後にハイマチックに決めた
- [53]ハイマチックは2年前に発売した「ユニオマット」の改良機種。ユニオマットは絞りとシャッターを一組の羽根でまとめた世界初のプログラムシャッターを内蔵し、これをEE(自動露出)化したのがハイマチック
- [55]1962年は昭和30年代で最良の年。岩戸景気の中で会社も順調に伸びた。この時期を逃せばブランド名と社名の一致を実現する機会はないと考え、千代田光学精工からミノルタカメラへの改称を決意し、同年7月から新社名で発足
- 『株式会社年鑑 1956年版』
- [44]生産状況(1955年4月〜9月)売上高合計451,439千円
- 『株式会社年鑑 1962年版』
- [45]売上高 1960年3月期1,210,558千円・1960年9月期1,412,495千円・1961年3月期1,808,218千円
- [48]西宮工場(事務用複写機)。1961年3月期の売上構成比率 写真機81.0%、事務用複写機3.2%
- [54]営業利益 1960年3月期62,775千円・1960年9月期77,321千円・1961年3月期204,638千円
1946年〜1962年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 16 | n/a | n/a | 1 | 8.1% | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 15 | ▲5.5% | n/a | 0 | 1.0% | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 14 | ▲7.9% | n/a | 0 | ▲5.2% | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 21 | +48.9% | n/a | 0 | 0.9% | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 32 | +49.0% | n/a | 1 | 4.2% | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 49 | +53.5% | 6 | 3 | 6.2% | 1 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
出典・参考
7件
- 『株式会社年鑑 1953年版』
- 『会社銀行八十年史』第二篇 日本会社史(1955年)「千代田光学精工」
- 『株式会社年鑑 1956年版』
- 『株式会社年鑑 1959年版』
- 『株式会社年鑑 1962年版』
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1983年)「田嶋一雄」
- 証券 1953年