ミノルタ:日独写真機商店の開業と光学ガラスの一貫生産
1928年〜ドイツ人技術者2人と興した日独写真機商店と、1台20円のニフカレッテ
日独写真機商店は、田嶋一雄氏がドイツ人技術者2人の協力を得て興した写真機の工場である。田嶋氏は父の田嶋商店の新規事業として始めることを望んだが、父は業種の隔たりを危ぶみ、同意しなかった。見積もりでは土地と木造の建屋に1万円、設備まで含めると最低でも1万5000円を要した。資金は、和歌山・海南にある生家「田長」の番頭、森脇佐助氏からの借入と、父が出した5000円で工面した。1928年11月、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川べりに工場を建て、個人企業として小型カメラの製造に着手した。同月11日の操業開始時点で人員は約30人、田嶋氏は満29歳の誕生日を目前に控えていた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [1]社名の「日独」は、日本人の田嶋一雄がドイツ人2人の協力を得て出発したことに由来する
- [2]田嶋商店の新規事業として始めたい旨を父に伝えたが、業種がかけ離れて危険だとして同意を得られなかった
- [3]土地購入費と木造の建築費で1万円、機械設備を加えて最低1万5000円が必要と見積もられた
- [4]生家の漆器商「田長」(和歌山・海南)の番頭 森脇佐助から借金し、父からも5000円を受け取った
- [6]昭和3年11月11日 日独写真機商店として操業開始。人員は田嶋を含め約30人、田嶋は満29歳の誕生日を迎える直前
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [5]昭和3年11月 田嶋一雄が個人企業として兵庫県武庫川(現西宮市鳴尾町)に武庫川工場を建設し、小型カメラの製造に着手
当時の国内の写真機市場は、国産の大手が小西六1社にとどまり、ドイツをはじめ欧米からの輸入品がほとんどを占めた。創業時の日独写真機商店もレンズとシャッターは輸入品で、自社で製作したのはボディーだけだった。大阪・神戸には部品の下請けがほぼ無く、ネジも自製し、ボディーはアルミの砂型鋳物から切削加工で仕上げた。技術面はドイツ人のノイマン氏が率い、1929年3月初めに8枚撮りのロールフィルムを使う蛇腹式カメラを完成させた。田嶋氏は日独の「ニ」、写真の「フ」、カメラの「カ」に小ささを表す「レッテ」を加え、ニフカレッテと命名した。量産に移ると3カ月目には月産100台を超えた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [7]当時の国産写真機メーカーの大手は小西六1社のみで、市場の大半はドイツをはじめ欧米からの輸入品
- [9]大阪・神戸に部品の下請け企業がほとんど無く、ネジまで自作。ボディーはアルミを砂型で鋳造し切削・研磨して仕上げた
- [10]昭和4年3月初め ノイマンの指導で8枚撮り・ロールフィルム使用の蛇腹式ハンドカメラが完成(レンズ・シャッターは輸入品)
- [11]「ニフカレッテ」は日独の「ニ」、フォトグラフィーの「フ」、カメラの「カ」、小さいものを表す愛称「レッテ」から田嶋が命名
- [12]製品化当初は1日1台、2カ月目から1日2〜3台、3カ月目から月産100台以上が可能になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [8]創業当時はレンズもシャッターも輸入に依存し、ボディーのみを製作していた
ニフカレッテは1929年に発売され、1台20円の価格で、外観の評判と大阪の山寛商店の販売協力を得て出足は順調だった。ところが浜口雄幸内閣の緊縮財政で同年後半から景気が再び冷え込み、問屋や販売店は仕入れを控えた。ドイツ人2人には月給300円ずつを払い、日本人従業員の月収も最低40円前後と、人件費は小さくなかった。年末に田嶋氏は100台を携えて東京の問屋を回ったものの、値引きには応じず、1台も売らないまま帰阪した。不足した資金は森脇氏からの借入で補い、借入は4、5回で合わせて5万円を超えた。安売りを拒んで操業を続けたことで、東京の問屋筋は製品への見方を改めたという。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [13]昭和4年 最初の製品ニフカレッテを発売
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [14]価格は1台20円。外観のスマートさが評判となり、大阪の山寛商店が販売に力を入れたため発売当初はよく売れた
- [15]浜口雄幸内閣の緊縮財政で昭和4年後半から景気が下り坂となり、問屋・販売店が仕入れを手控えた
- [16]ドイツ人2人には月給300円ずつ、日本人一般従業員の最低月収は40円程度
- [17]昭和4年暮れ 100台を持って東京の問屋を回ったが、不当な値引きを拒み1台も売れずに帰った
- [18]森脇佐助からの借入は都合4〜5回、合計5万円超
- [19]資金繰りに困りながら工場を続ける様子を見た東京の問屋筋が製品に良いイメージを持ち始め、営業がやりやすくなった
参考文献[1]-[19]
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [1]社名の「日独」は、日本人の田嶋一雄がドイツ人2人の協力を得て出発したことに由来する
- [2]田嶋商店の新規事業として始めたい旨を父に伝えたが、業種がかけ離れて危険だとして同意を得られなかった
- [3]土地購入費と木造の建築費で1万円、機械設備を加えて最低1万5000円が必要と見積もられた
- [4]生家の漆器商「田長」(和歌山・海南)の番頭 森脇佐助から借金し、父からも5000円を受け取った
- [6]昭和3年11月11日 日独写真機商店として操業開始。人員は田嶋を含め約30人、田嶋は満29歳の誕生日を迎える直前
- [7]当時の国産写真機メーカーの大手は小西六1社のみで、市場の大半はドイツをはじめ欧米からの輸入品
- [9]大阪・神戸に部品の下請け企業がほとんど無く、ネジまで自作。ボディーはアルミを砂型で鋳造し切削・研磨して仕上げた
- [10]昭和4年3月初め ノイマンの指導で8枚撮り・ロールフィルム使用の蛇腹式ハンドカメラが完成(レンズ・シャッターは輸入品)
- [11]「ニフカレッテ」は日独の「ニ」、フォトグラフィーの「フ」、カメラの「カ」、小さいものを表す愛称「レッテ」から田嶋が命名
- [12]製品化当初は1日1台、2カ月目から1日2〜3台、3カ月目から月産100台以上が可能になった
- [14]価格は1台20円。外観のスマートさが評判となり、大阪の山寛商店が販売に力を入れたため発売当初はよく売れた
- [15]浜口雄幸内閣の緊縮財政で昭和4年後半から景気が下り坂となり、問屋・販売店が仕入れを手控えた
- [16]ドイツ人2人には月給300円ずつ、日本人一般従業員の最低月収は40円程度
- [17]昭和4年暮れ 100台を持って東京の問屋を回ったが、不当な値引きを拒み1台も売れずに帰った
- [18]森脇佐助からの借入は都合4〜5回、合計5万円超
- [19]資金繰りに困りながら工場を続ける様子を見た東京の問屋筋が製品に良いイメージを持ち始め、営業がやりやすくなった
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [5]昭和3年11月 田嶋一雄が個人企業として兵庫県武庫川(現西宮市鳴尾町)に武庫川工場を建設し、小型カメラの製造に着手
- [13]昭和4年 最初の製品ニフカレッテを発売
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [8]創業当時はレンズもシャッターも輸入に依存し、ボディーのみを製作していた
1930年〜1カ月のストライキとドイツ人2人の離脱、資本金30万円のモルタ合資とシャッター・レンズの内製
1930年10月、田嶋氏の東京出張中に、ドイツ人ハイレマン氏と日本人工場長に反発する従業員がストライキに入った。争議団は2人の解雇と大幅な賃上げを要求し、工場長への暴行で首謀者らが西宮警察署に留置された。ハイレマン氏はレンズ・シャッター・蛇腹といった主要部品の輸入を一手に担っており、田嶋氏はその主張を容れて従業員をいったん全員解雇した。1カ月に及んだ争議の後は、帰参者も受け入れて製造を再開した。1931年2月には自社製シャッターを初めて組み込んだニフカドックスを発売し、収益は大きく改善した。同年7月、個人経営を改め、資本金30万円の合資会社モルタとした。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [20]昭和5年10月 田嶋の東京出張中に、ドイツ人ハイレマンと日本人工場長に反感を持つ者がストライキを起こした
- [21]争議団はハイレマンと工場長の解雇、賃上げを要求。工場長への暴行でリーダーらが西宮警察署に留置された
- [22]ハイレマンがレンズ・シャッター・蛇腹など重要部品の輸入を一手に引き受けていたため、その意見を入れて従業員をいったん全員解雇
- [23]ストライキは1カ月続いて収束し、新規募集の従業員と帰参組で製造を再開
- [24]初の自社製シャッター内蔵の「ニフカドックス」(昭和6年2月発売)がよく売れ、収益がかなり向上した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [25]昭和6年7月 個人組織を資本金30万円のモルタ(資)に改めた
改組から4カ月後の1931年11月、ハイレマン氏は写真機部品の商売で独立するとして退社した。翌1932年の初めにはノイマン氏も日本人工員数人を連れて去り、2人でシャッターなどの製造を始めた。技術の要を失った田嶋氏は日本人だけで事業を続けると決め、1932年4月に仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設けた。同じ1932年からはシャッターの輸入を取りやめて自作に切り替え、1935年ごろにはレンズも輸入をやめて国内で研磨させた。この間に若手を中心とする日本人技術者の力量も上がっていた。ドイツ人の離脱は、輸入部品の組立から部品の内製へ移る転機になったと推察される。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [26]昭和6年11月 ハイレマンが写真機部品の商売で独立するとして突然退社
- [27]昭和7年初め ノイマンも日本人工員数人を連れてハイレマンのもとへ移り、シャッターなどの製造を始めた
- [28]日本人だけで続けると決め、昭和7年4月1日付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設置
- [31]このころには若い技術者を中心に日本人の技術がかなり向上していた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [29]昭和7年からシャッターの輸入をやめて自作を開始
- [30]昭和10年ごろからレンズの輸入もやめ、日本内地でレンズを研磨させた
1933年半ば、ボタンを押すとレンズとシャッターがせり出す速写型カメラを発売し、初めて「ミノルタ」の名を用いた。名は Machinery and Instruments Optical by Tashima から取り、「稔る田」の意味も重ねた。1934年1月のミノルタベストは、入手の難しくなった羊皮に代えてベークライトで蛇腹を作り、19円50銭の価格で売れ行きを伸ばした。1936年7月には尼崎に分工場を設けて二眼レフの専門工場とし、1937年2月には堺市に第二分工場を建てて写真用レンズの自製に入った。同年末には国産初の二眼レフ、ミノルタフレックスを発売した。稼いだ資金の使い道について、田嶋氏は『独創的な製品をつくり、それで稼いだ金は全部、次の拡大に投資する』ことを自らの主義に掲げた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [32]昭和8年半ば ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写タイプの「ミノルタ」を発売し、この4文字が初めて登場
- [34]昭和9年1月発売の「ミノルタベスト」は、満州事変後に入手困難となった羊皮に代えベークライト製の蛇腹を採用し、19円50銭の安さもあってよく売れた
- [38]独創的な製品で稼いだ金をすべて次の拡大に投資することを主義とした
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [33]ミノルタの語源はMachinery & Instruments optical by Tashimaで、田の実りにも通じる
- [37]国産最初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を製造(田嶋の回想では昭和12年暮れに発売)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [35]昭和11年7月 わが国最初の二眼レフレックスを製造するため尼崎市に分工場を建設し、その専門工場とした
- [36]昭和12年2月 堺市に第二分工場を建設し、自社で写真用レンズの製作を開始
参考文献[20]-[38]
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [20]昭和5年10月 田嶋の東京出張中に、ドイツ人ハイレマンと日本人工場長に反感を持つ者がストライキを起こした
- [21]争議団はハイレマンと工場長の解雇、賃上げを要求。工場長への暴行でリーダーらが西宮警察署に留置された
- [22]ハイレマンがレンズ・シャッター・蛇腹など重要部品の輸入を一手に引き受けていたため、その意見を入れて従業員をいったん全員解雇
- [23]ストライキは1カ月続いて収束し、新規募集の従業員と帰参組で製造を再開
- [24]初の自社製シャッター内蔵の「ニフカドックス」(昭和6年2月発売)がよく売れ、収益がかなり向上した
- [26]昭和6年11月 ハイレマンが写真機部品の商売で独立するとして突然退社
- [27]昭和7年初め ノイマンも日本人工員数人を連れてハイレマンのもとへ移り、シャッターなどの製造を始めた
- [28]日本人だけで続けると決め、昭和7年4月1日付で仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部と総務課を設置
- [31]このころには若い技術者を中心に日本人の技術がかなり向上していた
- [32]昭和8年半ば ボタンを押すとレンズとシャッターが飛び出す速写タイプの「ミノルタ」を発売し、この4文字が初めて登場
- [34]昭和9年1月発売の「ミノルタベスト」は、満州事変後に入手困難となった羊皮に代えベークライト製の蛇腹を採用し、19円50銭の安さもあってよく売れた
- [38]独創的な製品で稼いだ金をすべて次の拡大に投資することを主義とした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [25]昭和6年7月 個人組織を資本金30万円のモルタ(資)に改めた
- [29]昭和7年からシャッターの輸入をやめて自作を開始
- [30]昭和10年ごろからレンズの輸入もやめ、日本内地でレンズを研磨させた
- [35]昭和11年7月 わが国最初の二眼レフレックスを製造するため尼崎市に分工場を建設し、その専門工場とした
- [36]昭和12年2月 堺市に第二分工場を建設し、自社で写真用レンズの製作を開始
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [33]ミノルタの語源はMachinery & Instruments optical by Tashimaで、田の実りにも通じる
- [37]国産最初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を製造(田嶋の回想では昭和12年暮れに発売)
1937年〜千代田光学精工への改組、1台約60円の赤字で受けた海軍双眼鏡と伊丹の光学ガラス溶解
1937年7月に日中戦争が始まると、田嶋氏は統制色を強める経済の下で合資会社の形態には限界があると判断した。同年9月に資本金150万円の株式会社へ改め、商号を千代田光学精工とした。社名はブランドに揃えた「ミノルタカメラ」も考えたが、洋風の名称が嫌われ始めた風潮を踏まえ、漢字を選んだという。発足時の従業員は武庫川・尼崎・堺の3工場で約1000人に達した。軍の仕事も加わり、堺工場が海軍、武庫川工場が陸軍の案件を分担した。1938年初めには大阪陸軍造兵廠から砲弾用信管の製造を求められ、武庫川工場の構内に信管専門の工場を建てた。1940年11月には資本金を225万円に積み増した。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [39]戦時経済体制に向かうなか、戦局の拡大に対応するには合資会社組織では限度があると判断
- [41]社名はブランド名に合わせ「ミノルタカメラ」としたかったが、バタ臭い名称が嫌われ始めた風潮に配慮して漢字にした
- [42]新会社発足時の従業員は武庫川・尼崎・堺の3工場で約1000人
- [44]昭和13年初め 大阪陸軍造兵廠から砲弾用信管の製造を依頼され、武庫川工場内に信管専門の工場を建設
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [40]昭和12年9月 株式組織に変更し、商号を千代田光学精工、資本金150万円とした
- [43]日華事変の勃発で民需用写真機のみの生産は不可能となり、堺工場は海軍関係、武庫川工場は陸軍関係の仕事を分担
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [45]昭和15年11月 半額増資で資本金225万円
田嶋氏は、統制の進行で写真機の資材が細れば本業も続かないとみて、光学技術を生かせる軍用機器の受注を自ら求めた。東京の海軍艦政本部へ何度も足を運び、士官用の7倍50ミリのプリズム双眼鏡の打診を得た。工場の見積原価は1台200円、指示された納入価格は139円75銭で、月1000台の目標では毎月約6万円の損失となる計算だった。社内は辞退論が大勢を占めたが、写真機の収益で全社の黒字は保てるとして受注を決め、1938年11月に堺工場で本格生産に入った。約2年後には単価1000円超の8センチ双眼望遠鏡の発注を得て採算は持ち直した。戦時中は望遠鏡や照準器などの軍需品が全生産の8割に及んだ。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [46]統制経済の進行で写真機の資材入手が困難になると考え、光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることが民需用写真機の製造を続ける唯一の道と結論した
- [47]海軍艦政本部に二度三度と出向いて発注を頼み、士官用の携帯双眼鏡(7倍50ミリのプリズム双眼鏡)の打診を受けた
- [48]見積原価1台200円に対し納入指示価格は139円75銭で1台約60円の損失。目標月間納入1000台で月約6万円の赤字
- [49]工場の者は辞退論が圧倒的だったが、写真機の収益で会社全体は黒字と判断して赤字覚悟で受注し、昭和13年11月 堺工場で本格生産を開始
- [50]2年ほど後に海軍から単価1000円以上の8センチ双眼望遠鏡の発注があり、利益が出た
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [51]戦時中は軍管理工場として望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空写真機等の軍需品が全生産の80%に達した
1942年1月、海軍艦政本部長の名で、光学ガラスの溶解工場を急ぎ建設するよう求める通達が届いた。民間の光学ガラス製造は日本光学や小原光学など東京地区に集まっており、関西には無かったため、海軍は拠点の分散を求めていた。同年2月に伊丹工場の建設に着手し、資材難と熟練工の不足で稼働までに2年近くを費やした。1944年に稼働した伊丹工場は、自社用のほか豊川などの軍工廠にもガラスを出した。これにより、ガラスの溶解からレンズの製作までを自社で賄う一貫生産の体制が整った。1945年3月の大阪空襲を機に工場の疎開を急ぐなか、武庫川・小松・尼崎の3工場が焼失し、同年8月15日の終戦を迎えた。
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [52]昭和17年1月 海軍艦政本部長名で「光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ」との通達が届いた
- [53]民間の光学ガラス製造は海軍系統の日本光学、陸軍系統の小原光学など東京地区に集中し関西には皆無で、海軍が製造拠点の分散化を唱えた
- [55]資材難と熟練工不足で稼働開始までに2年近くを要した
- [58]昭和20年3月14日の大阪空襲後に工場疎開を進めるなか、空襲や火災で武庫川・小松・尼崎の各工場が焼失。8月15日に終戦
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [54]昭和17年2月 伊丹工場の建設に着手
- [56]ガラス工場の伊丹工場は昭和19年初めから稼動し、自家用のほか豊川その他の軍工廠へも供給した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [57]伊丹工場を光学ガラスの溶解工場とし、全製品のレンズ生地を自製する一貫生産体制を確立
参考文献[39]-[58]
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- [39]戦時経済体制に向かうなか、戦局の拡大に対応するには合資会社組織では限度があると判断
- [41]社名はブランド名に合わせ「ミノルタカメラ」としたかったが、バタ臭い名称が嫌われ始めた風潮に配慮して漢字にした
- [42]新会社発足時の従業員は武庫川・尼崎・堺の3工場で約1000人
- [44]昭和13年初め 大阪陸軍造兵廠から砲弾用信管の製造を依頼され、武庫川工場内に信管専門の工場を建設
- [46]統制経済の進行で写真機の資材入手が困難になると考え、光学技術を生かせる軍用機器を積極的に手がけることが民需用写真機の製造を続ける唯一の道と結論した
- [47]海軍艦政本部に二度三度と出向いて発注を頼み、士官用の携帯双眼鏡(7倍50ミリのプリズム双眼鏡)の打診を受けた
- [48]見積原価1台200円に対し納入指示価格は139円75銭で1台約60円の損失。目標月間納入1000台で月約6万円の赤字
- [49]工場の者は辞退論が圧倒的だったが、写真機の収益で会社全体は黒字と判断して赤字覚悟で受注し、昭和13年11月 堺工場で本格生産を開始
- [50]2年ほど後に海軍から単価1000円以上の8センチ双眼望遠鏡の発注があり、利益が出た
- [52]昭和17年1月 海軍艦政本部長名で「光学ガラスの溶融工場を急ぎ建設せよ」との通達が届いた
- [53]民間の光学ガラス製造は海軍系統の日本光学、陸軍系統の小原光学など東京地区に集中し関西には皆無で、海軍が製造拠点の分散化を唱えた
- [55]資材難と熟練工不足で稼働開始までに2年近くを要した
- [58]昭和20年3月14日の大阪空襲後に工場疎開を進めるなか、空襲や火災で武庫川・小松・尼崎の各工場が焼失。8月15日に終戦
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- [40]昭和12年9月 株式組織に変更し、商号を千代田光学精工、資本金150万円とした
- [43]日華事変の勃発で民需用写真機のみの生産は不可能となり、堺工場は海軍関係、武庫川工場は陸軍関係の仕事を分担
- [54]昭和17年2月 伊丹工場の建設に着手
- [56]ガラス工場の伊丹工場は昭和19年初めから稼動し、自家用のほか豊川その他の軍工廠へも供給した
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)
- [45]昭和15年11月 半額増資で資本金225万円
- [51]戦時中は軍管理工場として望遠鏡・双眼鏡・照準器・方位鏡・航空写真機等の軍需品が全生産の80%に達した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- [57]伊丹工場を光学ガラスの溶解工場とし、全製品のレンズ生地を自製する一貫生産体制を確立
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「千代田光学精工」
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)「ミノルタカメラ」
- 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)「田嶋一雄」
- 証券 1953年(新規上場会社紹介)