SCREEN HD:石田旭山印刷所の個人創業と京都での印刷業
1868年〜石田才次郎氏が京都で興した銅版彫刻と、石版美術印刷の家業
SCREEN ホールディングスの技術の起点は、明治初年に石田才次郎氏が京都で興した印刷業にある。1968年刊の企業紹介は、その印刷所の名を石田旭山堂印刷所と記した。当時の刷り物は瓦版と木版が主で、石田才次郎氏は銅の板に図柄を彫り込んで刷る銅版印刷をその代わりとして始めた。1974年の講演で、孫にあたる社長の石田徳次郎氏は祖父を石田旭山の名で呼んだ。石田徳次郎氏は、1943年(昭和18年)に設立した大日本スクリーン製造の技術の源泉を、祖父の銅版彫刻にまでさかのぼらせた。金属の板を細かく彫る技術から、のちの写真製版用スクリーン、さらに半導体製造装置へ至る系譜が始まったとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大日本スクリーン製造」(1968年)
- [1]明治初年、石田才次郎が京都で石田旭山堂印刷所を興した
- [2]明治初年、石田才次郎が京都で石田旭山堂印刷所を興した
- 証券アナリストジャーナル 12巻8号 1974年(講演要旨・当社の沿革)
- [3]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
- [4]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
- [5]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
石田才次郎氏は銅版印刷と並行して石版印刷に取り組み、線画だけで写真に近い効果を出す刷り方を実用にこぎつけた。1974年の講演で石田徳次郎氏は、この石版の成果を銅版彫刻と並ぶ祖父の仕事に数え、印刷製版技術の先駆けと位置づけた。1968年刊の企業紹介は、石田旭山堂印刷所を『京都で唯一の石版美術印刷業』と記した。1967年の講演では、石田徳次郎氏が家業を石田旭山印刷の名で紹介し、明治初年からの事業を銅版彫刻と石版印刷の2本と説明。銅版と石版の2つの版式を手元に持ったことが、京都の印刷業者の中で美術印刷を手がける差別化要因になったのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 12巻8号 1974年(講演要旨・当社の沿革)
- [6]石田旭山は銅版印刷のかたわら、線画で写真と同じ効果を出す石版印刷に取り組み成功し、印刷製版技術のパイオニアの役割を果たした(社長石田徳次郎の講演)
- [7]石田旭山は銅版印刷のかたわら、線画で写真と同じ効果を出す石版印刷に取り組み成功し、印刷製版技術のパイオニアの役割を果たした(社長石田徳次郎の講演)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大日本スクリーン製造」(1968年)
- [8]石田旭山堂印刷所は京都で唯一の石版美術印刷業とされる
- 証券アナリストジャーナル 5巻12号 1967年
- [9]前身は祖父が創設した石田旭山印刷で、明治初年から切手・紙幣を刷る銅版彫刻技術と石版印刷を家業とした(社長石田徳次郎の講演)
石田才次郎氏の家業は切手や紙幣を刷る銅版彫刻を担い、版を彫る・磨く・薬品で溶かす作業を日々繰り返した。1974年の講演で石田徳次郎氏は、紙幣と切手には銅版彫刻の技法によるグラビア印刷が引き続き使われていると語った。網目スクリーンで写真を製版する方式は明治中頃に日本へ入ったものの、スクリーン自体の国産化は技術的に難しかった。スクリーンは昭和に入ってもアメリカとドイツからの輸入品に依存し、輸入手続きの煩雑さと高価格が普及を妨げた。石田徳次郎氏は、ガラススクリーンの製造を精密彫刻・研磨・腐蝕の3つの技術に分け、いずれも祖父の銅版彫刻以来の蓄積だと述べた。輸入品が普及を妨げていた部品を自社で作る素地は、明治の家業の中で整っていたと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 5巻12号 1967年
- [10]石田旭山印刷は明治初年から切手・紙幣等を印刷する銅版彫刻技術と石版印刷を家業とし、銅版彫刻・腐蝕技術を持っていた
- 証券アナリストジャーナル 12巻8号 1974年(講演要旨・当社の沿革)
- [11]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [12]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [13]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [14]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
参考文献[1]-[14]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大日本スクリーン製造」(1968年)
- [1]明治初年、石田才次郎が京都で石田旭山堂印刷所を興した
- [2]明治初年、石田才次郎が京都で石田旭山堂印刷所を興した
- [8]石田旭山堂印刷所は京都で唯一の石版美術印刷業とされる
- 証券アナリストジャーナル 12巻8号 1974年(講演要旨・当社の沿革)
- [3]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
- [4]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
- [5]明治初年、石田旭山(石田才次郎)が瓦版・木版に代わる銅版彫刻による銅版印刷を始めた。1943年設立の会社の技術の源泉とする(社長石田徳次郎の講演)
- [6]石田旭山は銅版印刷のかたわら、線画で写真と同じ効果を出す石版印刷に取り組み成功し、印刷製版技術のパイオニアの役割を果たした(社長石田徳次郎の講演)
- [7]石田旭山は銅版印刷のかたわら、線画で写真と同じ効果を出す石版印刷に取り組み成功し、印刷製版技術のパイオニアの役割を果たした(社長石田徳次郎の講演)
- [11]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [12]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [13]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- [14]紙幣・切手は銅版彫刻技法のグラビア印刷。スクリーン製版は明治中頃に導入されたが国産化は難しく、昭和に入っても米独からの輸入で煩雑・高価のため普及しなかった。ガラススクリーン製造の基本技術(精密彫刻・研磨・腐蝕)は旭山の銅版彫刻以来の蓄積
- 証券アナリストジャーナル 5巻12号 1967年
- [9]前身は祖父が創設した石田旭山印刷で、明治初年から切手・紙幣を刷る銅版彫刻技術と石版印刷を家業とした(社長石田徳次郎の講演)
- [10]石田旭山印刷は明治初年から切手・紙幣等を印刷する銅版彫刻技術と石版印刷を家業とし、銅版彫刻・腐蝕技術を持っていた
出典・参考
3件
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「大日本スクリーン製造」(1968年)
- 証券アナリストジャーナル 5巻12号 1967年
- 証券アナリストジャーナル 12巻8号 1974年(講演要旨・当社の沿革)