写真製版技術の転用による半導体製造装置への参入

1975年実施

写真製版の会社が畑違いの半導体へ乗り出すか——石田徳次郎氏は製版で培った三つの技術の転用に活路を求めた

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時期 1975
意思決定者 石田徳次郎(社長)
論点 多角化と技術の転用
概要
1975年、写真製版用スクリーンと製版機で国内最大手だった大日本スクリーン製造が、石油危機で本業が赤字に沈むなか、ウエハー腐食機(ウェット式エッチング装置)を自社開発して半導体製造装置事業に加わった判断。写真製版で培った位置決め・塗布・表面処理の技術を半導体の製造工程へ転用し、数年で塗布・現像・洗浄の装置群をそろえた。
背景
石田家は代々、技術の転機に追われて事業を継いできた。三代目の石田徳次郎社長は、印刷という一つの市場はそれほど広がらないとみて、技術・設備・人材を活かせる複数の業界へ入る方針を掲げていた。1973年秋の石油危機で製版機の受注が細り、1975年3月期は経常損失に転じた。
内容
細い線を引く技術、レンズで拡大・縮小する光学の技術、銅版を腐食させ金属表面を処理する化学の技術——製版を支える三技術は、半導体のウエハー加工と骨組みを同じくする。1975年にウエハー腐食機EMW-322/411を開発し、1978年に塗布・現像のスピンナー、のちに洗浄のウエットステーションを投入した。
含意
製版機で得た利益を半導体装置の開発へ再投資する自己資金型の組み替えにより、外部資本に頼らず事業の柱を入れ替えた。1994〜95年に半導体製造装置で世界トップ10入りを果たし、電子工業向けの機器が印刷関連機器を上回る主力へ育った。既存事業が利益を生むうちに次の柱を別の産業へ仕込んだ判断であった。
筆者の見解

製品ではなく技術の組み合わせで自社をとらえ直す

この判断の核心は、危機を前にした撤退や縮小ではなく、手元の技術を別の産業へ差し向けた点にある。印刷市場の頭打ちと石油危機で本業が赤字に沈んだ年に、大日本スクリーン製造は写真製版で磨いた位置決め・塗布・表面処理の技術を、勃興していた半導体の製造工程へ向けた。畑違いに見える半導体への参入は、製品でみれば飛躍でも、技術の中身でみれば地続きだった。徳次郎氏が専業にはかなわなくとも集積の力なら勝てると語った見立ては、自社の強みを製品の名前ではなく技術の組み合わせでとらえ直すものであった。

もっとも、この転換が実を結ぶまでには20年近い時間がかかり、その間には半導体特有の好不況の波もあった。祖業の製版機で稼いだ利益を新事業へ回し続けられたからこそ、外部資本に頼らずに事業の柱を入れ替えられた面は大きい。既存事業がまだ利益を生むうちに、次の柱を別の産業に育てておく——1975年の参入は、成熟した本業を持つ会社が新規事業をどう仕込むかという問いに、一つの答えを示している。写真製版という言葉が消えても技術は生き延びるという、この会社の代々の経験がそこに重なる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

製版で育った同族企業と多角化の思想

大日本スクリーン製造の源流は、1868年に石田才次郎氏が京都で興した銅版・石版の印刷所にさかのぼる。写真版の普及を見た石田敬三氏が独力で写真製版用スクリーンの製法研究に着手し、八年をかけて特許を取得。1937年にはその工業化のため大日本スクリーン製造所を設けた。細い網目を刻んだガラス製のスクリーンは、写真を印刷用の網点画像へ変える要の部材であり、同社はこの部材と製版機械で国内最大手の同族企業へ育っていた[1]

石田家は代々、技術の転機に追われて生きてきた。明治期に祖父・才次郎氏が銅版彫刻を西欧の機械に脅かされ、技術改良でこれを退けた。父・敬三氏は米国製ガラススクリーンの国産化に力を注ぐ。三代目の徳次郎氏はこの繰り返しから、印刷という一つの市場はそれほど広がらないと見切り、技術や設備、人材を活かせる三つ以上の業界へ入っていく方針を早くから掲げていた[2]

印刷市場の頭打ちと石油危機

本業の写真製版機は1970年代に入ると普及が一巡し、印刷業界という買い手だけでは大きな伸びを描きにくくなっていた。そこへ1973年秋の石油危機が重なる。設備投資の冷え込みで製版機の受注は細り、1975年3月期の大日本スクリーン製造は経常損失3億6000万円、当期純損失1億8000万円と赤字に転じた。社長歴30年に近い徳次郎氏はのちに、この時期を一番苦しかったと振り返り、会社が飛ぶかと思ったと語っている。畑違いの半導体への参入は、本業がもっとも傷んだこの年に始まった[3]

決断

製版三技術の転用とウエハー腐食機

徳次郎氏が半導体に活路を求めた根拠は、製版で積み上げた技術の中身にあった。写真製版は、細い線を精密に引く技術、レンズで画像を拡大・縮小して投影する光学の技術、銅版を薬品で腐食させ金属表面を処理する化学の技術——この三つを組み合わせて成り立つ。半導体のウエハーに回路を刻む工程も、位置決め・塗布・表面処理という同じ骨組みでできていた。電気や機械の専業には及ばなくとも、複数の技術をまとめる集積の力でなら勝てる、と徳次郎氏はみていた[4][5]

1975年、大日本スクリーン製造は半導体向けにウエハー腐食機「EMW-322/411」を自社開発し、ウェット式のエッチング装置で半導体製造装置事業に加わった。彦根の旧化学工場を生産拠点に転換し、エレクトロニクス向け装置の製造体制を整える。石油危機によるインフレ不況のさなかに、本業の製版機で稼いだ利益を新事業の開発へ回す判断であった。参入は、印刷の会社が半導体という装置産業へ移る長い転換の第一歩となった[6]

数年での装置群の整備

参入からの数年で、同社は塗布・現像・洗浄の装置群をそろえていく。1978年には半導体用のフォトレジストコーティング装置「スピンナーシリーズ」を開発して半導体製造分野に本格参入し、1982年には米国系の大手半導体メーカー向けにウエットステーションを開発して24台を一括納入した。1985年には洛西工場を建て、半導体製造装置の生産力を高める。製版で得た資金を半導体装置の研究開発へ再投資する自己資金型の組み替えが、外部資本に頼らず進んだ[7]

結果

半導体が主力へ

業態の入れ替えは、売上の伸びに表れた。単体売上高は参入時の1975年3月期に135億円だったのが、1985年3月期に879億円、1990年代半ばには1500億円規模へ拡大する。半導体製造装置事業では、1994年に顧客満足度で、翌1995年には売上高で世界トップ10入りを果たし、電子工業向けの機器が印刷関連機器を上回る主力へ育った。祖業の写真製版の会社は、20年ほどをかけて半導体装置の主要メーカーへと変わっていった[8][9]

出典・参考