ダイハツ工業:四輪車への転換とトヨタとの業務提携
軽三輪ミゼットの量産からトヨタとの業務提携へ
1957年〜1トン半を上限とした三輪車と軽三輪ミゼット
三輪車の積載量は年を追って上がり、2分の1トンから4分の3トン、1トン、1トン半、2トンへと移った。ところがダイハツ工業は三輪車の上限を1トン半に置き、それ以上は造らない方針をとっていた。街の交通量を妨げる車はいずれ嫌われる、というのが小石雄治社長の理由である。2トン車は販売店の要望を受けて後から採ったものの、東洋工業より2年遅れ、供給台数では4倍以上の差がついた。小石社長は、各社が大型車へ向かったことで小さい側に弱点ができたと見て、そこへ新しい車を置いた『みんな大きいものへ行つたため、小さい方にウイーク・ポイントができた。ここへミゼットを作つて行こう。』。1957年3月1日に創立50周年を迎えたこの年、軽三輪ミゼットが世に出た。
- 野田経済(1959年) ダイハツ工業社長 小石雄治
- [1]三輪車の積載量は当初2分の1トンから4分の3トン、1トン、1トン半、2トンへと移行した(小石雄治社長の発言)
- [2]ダイハツは三輪車は1トン半程度が最大であるべきだとして1トン半以上の車は造らない方針で進んだ(小石雄治社長の発言)
- [3]街のにくまれものにならないようにしたい、街の中の交通量を妨げるやり方をすれば自然に嫌がられる(小石雄治社長の発言)
- [4]2トン車は販売店の要望もあり採用したが東洋工業より2年ほど遅れ、2トン車の供給台数は東洋工業がダイハツの4倍以上であった(小石雄治社長の発言)
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [5]1957年3月1日に創立50周年を迎え、この年に軽三輪ミゼットを発売
ミゼットは売り方から作り直された。価格を22万円と決め、月賦の条件も定型にしたため、下取りの査定に目利きが要る従来の三輪車の商売と違って、売る側に熟練が要らなくなった。小石雄治社長はこれを販売のオートメーションと呼んでいる。担当には三輪車に関わったことのない若い社員だけを当て、本社ではなく北浜の分室に置いてミゼットだけを扱わせた。古参と新人を同じ場所に置けば、それまでの取引の慣行がそのまま新しい商品へ移るからである。狙いは利潤よりも取引条件の改善、すなわち代金回収の立て直しにあった。生産能力の都合で、当初の販売先は6大都市と岐阜県に限られていた。
- 野田経済(1959年) ダイハツ工業社長 小石雄治
- [6]ミゼットは値段が22万円と決まり月賦の条件も定まっていたため下取り査定の玄人でなくても売れた(小石雄治社長の発言)
- [7]小石雄治社長はミゼットの売り方を販売のオートメーションと呼んだ
- [8]ミゼットの販売には三輪車に全然関係のない若い社員だけを当て、本社ではなく北浜の分室に置いてミゼットに関するものだけを担当させた(小石雄治社長の発言)
- [9]古参と新来を同じ場所に置くと従来の慣行が新しい業種へ植えつけられるため分けた(小石雄治社長の発言)
- [10]ミゼットについては利潤が第一ではなく取引条件の改善が目的で、代金回収の改善を狙った(小石雄治社長の発言)
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [11]軽三輪自動車ミゼットは生産能力の関係で販売が最初は6大都市と岐阜県に限定された
立ち上がりは市場の声を聞きながら進んだ。1957年8月に大阪市内へ3台を出し、使い手の意見をテープレコーダーで聞き取って改造を重ねた。9月は29台、10月は32台、その期は計64台にとどまったが、1958年2月に200台、3月に376台、4月に600台と伸び、次の期には5,065台へ達した。登録累計は1959年1月に1万台、1960年1月に5万台、同年9月には10万台を超え、同年12月の月間登録は8,128台を記録した。初期のミゼットは軽三輪車市場の70%から80%を占め、中小企業のほか電力会社・ガス会社・警察署・防衛庁・郵政省・電電公社にも大量に納められた。車体を造ったのは、1956年8月に発足した旭工業である。
- 野田経済(1959年) ダイハツ工業社長 小石雄治
- [12]1957年8月に3台を大阪市内だけに出し、使用者の意見をテープレコーダーまで使って聞き取り、それをもとに改造を重ねた(小石雄治社長の発言)
- [13]1957年9月の販売は29台、10月は32台で、その期の計は64台であった(小石雄治社長の発言)
- [14]1958年2月に200台、3月376台、4月600台となり、次の期は5,065台に達した(小石雄治社長の発言)
- [18]1956年8月に昭和自動車工業の土地建物・機械・施設を継承して旭工業が発足し、ダイハツ・ミゼット号は旭工業で生産することとされた(小石雄治社長の発言)
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [15]1957年8月にわずか3台の登録でスタートしたミゼットは1959年1月に登録累計1万台、1960年1月に5万台、同年9月に10万台を突破し、同年12月に月間登録台数8,128台を記録した
- [16]初期のミゼットは70〜80%のマーケットシェアをもって軽三輪自動車界をリードした
- [17]ミゼットは中小企業のみならず電力会社・ガス会社・警察署・防衛庁・郵政省・電電公社などにも大量に納入された
参考文献[1]-[18]
- 野田経済(1959年) ダイハツ工業社長 小石雄治
- [1]三輪車の積載量は当初2分の1トンから4分の3トン、1トン、1トン半、2トンへと移行した(小石雄治社長の発言)
- [2]ダイハツは三輪車は1トン半程度が最大であるべきだとして1トン半以上の車は造らない方針で進んだ(小石雄治社長の発言)
- [3]街のにくまれものにならないようにしたい、街の中の交通量を妨げるやり方をすれば自然に嫌がられる(小石雄治社長の発言)
- [4]2トン車は販売店の要望もあり採用したが東洋工業より2年ほど遅れ、2トン車の供給台数は東洋工業がダイハツの4倍以上であった(小石雄治社長の発言)
- [6]ミゼットは値段が22万円と決まり月賦の条件も定まっていたため下取り査定の玄人でなくても売れた(小石雄治社長の発言)
- [7]小石雄治社長はミゼットの売り方を販売のオートメーションと呼んだ
- [8]ミゼットの販売には三輪車に全然関係のない若い社員だけを当て、本社ではなく北浜の分室に置いてミゼットに関するものだけを担当させた(小石雄治社長の発言)
- [9]古参と新来を同じ場所に置くと従来の慣行が新しい業種へ植えつけられるため分けた(小石雄治社長の発言)
- [10]ミゼットについては利潤が第一ではなく取引条件の改善が目的で、代金回収の改善を狙った(小石雄治社長の発言)
- [12]1957年8月に3台を大阪市内だけに出し、使用者の意見をテープレコーダーまで使って聞き取り、それをもとに改造を重ねた(小石雄治社長の発言)
- [13]1957年9月の販売は29台、10月は32台で、その期の計は64台であった(小石雄治社長の発言)
- [14]1958年2月に200台、3月376台、4月600台となり、次の期は5,065台に達した(小石雄治社長の発言)
- [18]1956年8月に昭和自動車工業の土地建物・機械・施設を継承して旭工業が発足し、ダイハツ・ミゼット号は旭工業で生産することとされた(小石雄治社長の発言)
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [5]1957年3月1日に創立50周年を迎え、この年に軽三輪ミゼットを発売
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [11]軽三輪自動車ミゼットは生産能力の関係で販売が最初は6大都市と岐阜県に限定された
- [15]1957年8月にわずか3台の登録でスタートしたミゼットは1959年1月に登録累計1万台、1960年1月に5万台、同年9月に10万台を突破し、同年12月に月間登録台数8,128台を記録した
- [16]初期のミゼットは70〜80%のマーケットシェアをもって軽三輪自動車界をリードした
- [17]ミゼットは中小企業のみならず電力会社・ガス会社・警察署・防衛庁・郵政省・電電公社などにも大量に納入された
1958年〜小型四輪トラックへの進出と軽乗用車での出遅れ
ダイハツ工業が2トン積みキャブオーバー型の小型四輪トラックの設計を始めたのは1955年3月である。背景には三輪車の側の行き詰まりがあった。小型トラックが四輪へ移った理由として、モータリゼーションの広がりに加え、三輪トラックの改良が頭打ちとなって買い手が新しい車種を待ち望んでいたこと、既存の四輪メーカーが値の安い1トン車クラスを相次いで投入したこと、ロングボデーの1.75トン車や2トン車までそろって三輪業界を攻め立てたことが挙げられる。試作車は同年9月に1号車、1956年2月に2号車ができ、同年8月には当時まれだったダブルタイヤを備えた3号車が完成した。1958年10月、FPO型ベスタの生産が始まる。
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [19]小型トラックの四輪化が促進された理由は、モータリゼーションの浸透のほか、三輪トラックの発達がすでに限界に達しユーザーが新車種の出現を待望していたこと、既存の四輪車メーカーが価格の低い1トン車クラスを次々に市場に送りだしたこと、ロングボデーの1.75トン車や2トン車も出そろって三輪業界への攻勢が強化されたことであった
- [20]1955年3月に2トン積みキャブオーバー型小型四輪トラックの設計に着手し、1955年9月に試作1号車、1956年2月に試作2号車、1956年8月にダブルタイヤを採用した試作3号車を完成した
- [21]1958年10月に小型四輪車FPO型ベスタの生産を開始し翌月から販売を開始した
四輪車の最初の数年は重かった。ベスタの生産は1958年12月に180台、1959年2月から5月にかけては毎月250台の水準を保ったが、当初の売れ行きは順調とはいえず、販路の開拓に努めても、先発の大手メーカーが押さえた四輪車業界のなかで所期の目標には届かなかった。それでも三輪トラックを含む生産台数は1959年3月の月5,000台から1960年3月には月1万台を超え、1959年3月には21億4,100万円の設備計画を決めて池田・伊丹の両工場へ投じた。1960年5月には水冷4気筒を求める声に応えて小型四輪トラックDV200を発表し、同年10月に軽四輪のハイゼットを発売して、四輪メーカーとして立った。
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [22]ベスタの生産は1958年12月には180台、1959年2月から5月にかけては毎月250台ベースの生産を続けた
- [23]当初の売れ行きは順調とまでは至らず、販路開拓に努力したにもかかわらず先発大手メーカーの地盤強固な四輪車業界のなかで所期の目標に達しなかった
- [24]三輪トラックを含めた生産台数は1959年3月の月産5,000台ベースから1960年3月には月産10,000台を突破した
- [25]1959年3月に21億4,100万円の設備計画を決定し、伊丹工場の鋳造工場設備や池田工場の自動ターレット旋盤・各種調質炉など総額4億円の設備投資を実施した
- [26]ユーザーから水冷4気筒エンジン搭載の小型四輪トラックを望む声が高まり、1960年5月に2トン積みの本格的小型四輪トラックDV200を発表した
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [27]1960年10月に軽四輪自動車「ハイゼット」を発売
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [28]1958年10月に小型四輪車トラック「ベスタ」を発表し三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進出
軽自動車の競争の焦点は、貨物から乗用へ移っていた。1958年4月期には東洋工業の売上高はダイハツ工業より11億円少なく、利益も1億円下回っていたが、1960年4月期には売上高で33億円、利益で3億円を上回られた。東洋工業が30万円の値をつけた360ccの乗用車を出したためで、その生産は1960年5月の315台から7月には2,213台へ伸び、専門の販売店を全国に31店増やしていた。ミゼットで軽自動車の市場を開いたダイハツ工業が、その市場の乗用車を先に取られた。ダイハツ工業が商用車コンパーノバンと乗用車コンパーノベルリーナを出したのは1963年、軽乗用車を発売したのは1966年11月である。
- 経済知識(1960年)
- [29]1958年4月期には東洋工業の売上高はダイハツより11億円少なく利益も1億円下回っていたが、1960年4月期には東洋工業の売上高がダイハツを33億円上回り利益も3億円引き離した
- [30]東洋工業は30万円の360ccエンジンの乗用車クーペを発売し、生産台数は1960年5月315台、6月1,000台、7月2,213台と増え、専門販売店を全国に31店増設した
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [31]1963年4月に商用車コンパーノバン、同年10月に乗用車コンパーノベルリーナを発売
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [32]1966年11月に軽乗用車を発売
参考文献[19]-[32]
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [19]小型トラックの四輪化が促進された理由は、モータリゼーションの浸透のほか、三輪トラックの発達がすでに限界に達しユーザーが新車種の出現を待望していたこと、既存の四輪車メーカーが価格の低い1トン車クラスを次々に市場に送りだしたこと、ロングボデーの1.75トン車や2トン車も出そろって三輪業界への攻勢が強化されたことであった
- [20]1955年3月に2トン積みキャブオーバー型小型四輪トラックの設計に着手し、1955年9月に試作1号車、1956年2月に試作2号車、1956年8月にダブルタイヤを採用した試作3号車を完成した
- [21]1958年10月に小型四輪車FPO型ベスタの生産を開始し翌月から販売を開始した
- [22]ベスタの生産は1958年12月には180台、1959年2月から5月にかけては毎月250台ベースの生産を続けた
- [23]当初の売れ行きは順調とまでは至らず、販路開拓に努力したにもかかわらず先発大手メーカーの地盤強固な四輪車業界のなかで所期の目標に達しなかった
- [24]三輪トラックを含めた生産台数は1959年3月の月産5,000台ベースから1960年3月には月産10,000台を突破した
- [25]1959年3月に21億4,100万円の設備計画を決定し、伊丹工場の鋳造工場設備や池田工場の自動ターレット旋盤・各種調質炉など総額4億円の設備投資を実施した
- [26]ユーザーから水冷4気筒エンジン搭載の小型四輪トラックを望む声が高まり、1960年5月に2トン積みの本格的小型四輪トラックDV200を発表した
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [27]1960年10月に軽四輪自動車「ハイゼット」を発売
- [32]1966年11月に軽乗用車を発売
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [28]1958年10月に小型四輪車トラック「ベスタ」を発表し三輪車メーカーから四輪車メーカーへ進出
- [31]1963年4月に商用車コンパーノバン、同年10月に乗用車コンパーノベルリーナを発売
- 経済知識(1960年)
- [29]1958年4月期には東洋工業の売上高はダイハツより11億円少なく利益も1億円下回っていたが、1960年4月期には東洋工業の売上高がダイハツを33億円上回り利益も3億円引き離した
- [30]東洋工業は30万円の360ccエンジンの乗用車クーペを発売し、生産台数は1960年5月315台、6月1,000台、7月2,213台と増え、専門販売店を全国に31店増設した
1961年〜開放経済への備えとトヨタとの業務提携
1960年から1961年を境に、ダイハツ工業は完全な四輪メーカーへ移った。新機種を続けて出し、池田第二工場の稼働で量産へ移ったこの局面で、ダイハツ工業は組織の作り替えにも着手した。1961年12月、本社管理部門とディーゼル部門を除く技術・生産・営業の3部門へ本部制を敷き、常務取締役3名がそれぞれ本部長に就任した。管理部・社長室・教育部・原価管理課が相次いで新設され、自由化に備えた教育と研究部門の拡充へも投資が向かった。1964年9月1日には自動車の総生産台数が100万台を超えた。1966年5月には創業以来の内燃機関事業を担ってきた大阪事業部を分離してダイハツディーゼルを設立し、自動車専業のメーカーとなった。
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [33]貿易自由化の動きのなかで1960年・1961年を境に完全に四輪メーカーへ移行した
- [34]次々に新機種を開発・販売するとともに池田第二工場の稼動による量産体制を整え、この事態に対処するため経営管理面で全社的規模の改革を実施した
- [35]1961年12月に本社管理部門およびディーゼル部門を除く自動車関係の技術・生産・営業の3部門に本部制を採用し、3名の常務取締役がそれぞれ本部長に就任した
- [36]管理部(1960年1月)・社長室(1961年1月)・教育部(1962年9月)・原価管理課(同)が新設され、自由化に備えての教育・研究部門拡充のための投資が増えた
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [37]1964年9月1日に自動車総生産台数が100万台を突破
- [38]1966年5月にディーゼル機関の製造販売部門である大阪事業部を分離しダイハツディーゼルを設立、自動車専業メーカーとなった
1967年11月、ダイハツ工業はトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携を締結した。本格的な開放経済に対処するためというのが会社の説明である。ただし、提携は経営危機によるものではない。トヨタは同じ時期に日野自動車工業とも提携しており、ダイハツの話が出てきたのはその直後だった。話を持ち込んだのは三和銀行の渡辺忠雄氏で、19年前の企業再建整備で債権者側の特別管理人を務めた人物である。当時のダイハツはバランスシートの上では健全経営そのものだったが、小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して仲介を頼んだのだろう、というのが豊田英二氏の見方である。
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [39]1967年11月にトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [40]本格的開放経済に対処するため1967年11月にトヨタ両社と業務提携を結んだ
- 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
- [41]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツは健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった(提携は経営危機によるものではない)
- [42]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。日野との提携直後にダイハツとの話が出てきた
- [43]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツとの話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
- [45]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった
- [46]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して三和に仲介を頼んだのだろう
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [44]1948年の再建整備計画認可当時の特別管理人は債権者側として三和銀行頭取の渡辺忠雄が選任された
提携の第一段階は販売部門の切り出しだった。1968年6月、トヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立した。もっとも、両社の役割分担が最初から定まっていたわけではない。車種が競合したためトヨタ側は軽自動車へ力を入れるよう求めたが、ダイハツには大衆車を手がける意欲があり、その状態が長く続いたと豊田英二氏は書き残した。売上高は1957年4月期の154億円から、1970年4月期には991億円へ伸びたが、途中の1969年4月期には940億円へ一度沈んだ。1970年11月にはミゼットを造ってきた旭工業を合併し、資本金は183億円となった。軽と登録車のどちらを主とするかという問いは、その後も残った。
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [47]トヨタとの提携の第一段階として販売部門を分離した
- [48]提携の第一段階として販売部門を分離し、トヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立
- 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
- [49]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。トヨタとダイハツでは車種が競合し、軽自動車に力を入れるよう求めたがダイハツは大衆車もやる気があった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [50]1957年4月期の売上高は154.00億円(単体・4月期と10月期の合算)
- 会社年鑑 1976年版
- [51]1969年4月期の売上高は940.28億円、1970年4月期は990.90億円(単体・4月期と10月期の合算)
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [52]1970年11月に旭工業を合併し新資本金183億円
参考文献[33]-[52]
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- [33]貿易自由化の動きのなかで1960年・1961年を境に完全に四輪メーカーへ移行した
- [34]次々に新機種を開発・販売するとともに池田第二工場の稼動による量産体制を整え、この事態に対処するため経営管理面で全社的規模の改革を実施した
- [35]1961年12月に本社管理部門およびディーゼル部門を除く自動車関係の技術・生産・営業の3部門に本部制を採用し、3名の常務取締役がそれぞれ本部長に就任した
- [36]管理部(1960年1月)・社長室(1961年1月)・教育部(1962年9月)・原価管理課(同)が新設され、自由化に備えての教育・研究部門拡充のための投資が増えた
- [44]1948年の再建整備計画認可当時の特別管理人は債権者側として三和銀行頭取の渡辺忠雄が選任された
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- [37]1964年9月1日に自動車総生産台数が100万台を突破
- [38]1966年5月にディーゼル機関の製造販売部門である大阪事業部を分離しダイハツディーゼルを設立、自動車専業メーカーとなった
- [40]本格的開放経済に対処するため1967年11月にトヨタ両社と業務提携を結んだ
- [47]トヨタとの提携の第一段階として販売部門を分離した
- [48]提携の第一段階として販売部門を分離し、トヨタ両社の協力を得てダイハツ自動車販売を設立
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- [39]1967年11月にトヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売と業務提携
- [52]1970年11月に旭工業を合併し新資本金183億円
- 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
- [41]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツは健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった(提携は経営危機によるものではない)
- [42]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。日野との提携直後にダイハツとの話が出てきた
- [43]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツとの話は三和銀行の渡辺忠雄氏から持ち込まれた
- [45]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。ダイハツはバランスシートをみても健全経営そのもので、そんなに困ってはいなかった
- [46]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。当時の小石雄治社長が先の見込みがつかないと判断して三和に仲介を頼んだのだろう
- [49]トヨタ自動車工業の豊田英二氏による発言。トヨタとダイハツでは車種が競合し、軽自動車に力を入れるよう求めたがダイハツは大衆車もやる気があった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [50]1957年4月期の売上高は154.00億円(単体・4月期と10月期の合算)
- 会社年鑑 1976年版
- [51]1969年4月期の売上高は940.28億円、1970年4月期は990.90億円(単体・4月期と10月期の合算)
筆者考察
ミゼットは、各社が大きい車へ向かった結果として空いた場所に置かれた車である。三輪車の積載量が2分の1トンから2トンへ上がっていく間、ダイハツ工業は1トン半を上限と決めて大型車を追わず、2トン車では東洋工業に2年遅れ、供給台数で4倍以上の差をつけられていた。競争劣位にある土俵から降り、誰も作らない小さい側へ回ったのが1957年である。22万円という定価と月賦の条件を定型にして下取り査定の目利きが要らない売り方へ改め、三輪車を売った経験のない若い社員だけを北浜の分室に集めた。既存の販売店の商習慣も、三輪車を売る技能も持ち込まない。商品を替えたというより、商売そのものを別に立てている。
もっとも、市場を開いたダイハツ工業がその市場の乗用車まで取れたわけではない。1958年4月期に売上高でダイハツ工業を11億円下回っていた東洋工業は、30万円の360cc乗用車を出して2年後には33億円上回る。ミゼットが作った軽自動車という枠の内側で競争の焦点は貨物から乗用へ移り、ダイハツ工業が軽乗用車を出したのは1966年だった。軽で先んじながら乗用車で後れる会社が、資本の自由化を単独で迎える姿は描きにくい。1967年にトヨタとの業務提携を持ち込んだ三和銀行の渡辺忠雄は、19年前の企業再建整備で債権者側の特別管理人を務めた人物である。決算は健全なまま、次の10年の見込みだけが立たなくなっていた。
1957年〜1970年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1957年04月期 | 単体 | 154 | n/a | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 165 | +7.1% | n/a | 8 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 178 | +7.9% | n/a | 13 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 256 | +44.3% | n/a | 21 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 402 | +56.6% | n/a | 34 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 504 | +25.4% | 47 | 40 | 24 | 4.9% | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 551 | +9.3% | n/a | n/a | 37 | 6.9% | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | 648 | +17.6% | n/a | n/a | 38 | 6.0% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 680 | +4.9% | n/a | n/a | 43 | 6.4% | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | 720 | +5.8% | n/a | n/a | 51 | 7.1% | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | 851 | +18.2% | n/a | n/a | 57 | 6.8% | n/a |
| 1968年04月期 | 単体 | 952 | +11.9% | n/a | n/a | 52 | 5.5% | n/a |
| 1969年04月期 | 単体 | 940 | ▲1.3% | n/a | n/a | 40 | 4.3% | n/a |
| 1970年04月期 | 単体 | 990 | +5.4% | n/a | 61 | 40 | 4.1% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1967年版、1971年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版
出典・参考
8件
- ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
- ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
- 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
- 会社年鑑 1976年版
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- 豊田英二「私の履歴書」(日本経済新聞社『昭和の経営者群像8』1992年)
- 野田経済(1959年) ダイハツ工業社長 小石雄治
- 経済知識(1960年)