第1章 年〜年

ダイハツ工業:発動機製造の設立と国産三輪自動車への進出

発動機製造の吸入ガス機関から三輪自動車ダイハツ号へ

1907年〜輸入原動機への依存と吸入ガス発動機の国産化

学校長と実業家が内燃機関の国産化を掲げて会社を興す

当時のわが国で何より必要とされた機械は原動機だったが、その大半は輸入に頼っていた。そこで大阪高等工業学校の校長安永義章氏と機械科長鶴見正四郎氏は、まだ揺籃期の内燃機関を工業として興すことに目を付け、実業家の岡実康氏・桑原政氏・竹内善次郎氏らに会社を起こすよう勧めた。根を張った発展には技術の国産化から始めるほかないという趣意のもと、1907年3月3日に大阪市西区の岡実康氏宅で発動機製造の創立総会が開かれた。資本金は20万円で、第1回払込みはその4分の1にあたる5万円だった。政府の保護も財閥の資本も持たない、純民間資本の会社だった。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [1]当時もっとも要求されたものは原動機であったが、そのほとんどは輸入に依存していた
    • [2]大阪高等工業学校校長の安永義章と同校機械科長の鶴見正四郎が内燃機関の工業化に着目し、実業家の岡実康・桑原政・竹内善次郎らに会社の創設をすすめた
    • [4]1907年3月3日に岡実康を委員長として大阪市西区新町南通5丁目の岡実康宅で創立総会を開き、発動機製造株式会社を設立
    • [6]誕生の地が大阪であったこと、純民間資本によって設立されたこと
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [3]設立の趣意は技術の国産化なくして産業の発展はありえないというもので、学者・実業家が設立した
    • [5]設立時の公称資本金20万円・払込資本金5万円
輸入機を手本に石油発動機から吸入ガス発動機へ移る

最初に製作へ着手したのは5馬力と7馬力の石油発動機だった。ところが、自社の工場で動力に使うため輸入していた英国ラストン・プロックター社の吸入ガス機関が、性能でも燃料消費でも石油発動機を上回っていた。発動機製造はただちに吸入ガス発動機の研究へ移り、設立から9か月後の1907年12月に最初の6馬力機関を試運転にかけた。1908年1月に営業開始届を出したのち、6馬力から30馬力までを標準型として並べ、同年4月には50馬力機を完成させて関係者と新聞記者を招いた公式試運転で宣伝した。同年10月には新宮水電から受注した発電用100馬力機を引き渡している。自家用に買った輸入機が、そのまま最初の製品の手本になった。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [7]国産化をめざしてまず製作に着手したのは5馬力と7馬力の石油発動機であった
    • [8]自家用として工場で使用するため輸入した英国ラストン・プロックター会社の吸入ガス機関は、性能でも燃料消費の面でも石油発動機を上回る優秀なエンジンであった
    • [10]1908年1月28日付けで大阪・上福島税務署あてに営業開始届を提出
    • [11]6馬力・15馬力・20馬力・25馬力・30馬力などを標準型として製作に着手
    • [12]1908年4月27日に50馬力吸入ガス発動機が完成し、関係者や新聞記者を招待して公式試運転を行い宣伝につとめた
    • [13]1908年10月に新宮水電株式会社から受注した発電用100馬力吸入ガス機関を引き渡した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [9]1907年12月に国産吸入ガス発動機の第一号機(6馬力機関)の試運転を行った
漁船用で燃料の木炭に伸びを止められる

販路は陸上から海上へ広がった。1908年10月には長崎県飽の浦航船事務所の新造船2隻へ船舶用機関を納め、1909年5月には四国沿岸航路の新若松丸が積んだ40馬力機が速力8.75ノットで海事局の検査に合格した。漁船では1909年の三重県のカツオ船天祐丸が最初で、燃料は木炭、1馬力1時間あたりの消費量は160匁、運転費は1銭6厘から1銭8厘で足りた。灯油を焚くユニオン型より運転費が軽いため水産業界は一時これを歓迎したが、木炭の生産量に限りがあり、機関の優位は燃料の側から崩れた。販路は国内にとどまらず、1914年には南満州へ輸出し、翌1915年には当時のわが国最大となる400馬力の吸入ガス機関を製作した。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [14]1908年10月に長崎県飽の浦航船事務所の新造船2隻に船舶用吸入ガス発動機が完成・搭載された
    • [15]1909年5月に四国沿岸航路の新若松丸に40馬力船舶用吸入ガス発動機が搭載され、速力8.75ノットで海事局の検査に合格した
    • [16]吸入ガスエンジンを最初に搭載した漁船は1909年の三重県二木島のカツオ船天祐丸で、燃料は木炭、1馬力1時間の消費量160匁、運転費1銭6厘から1銭8厘であった
    • [17]ユニオン型は灯油を使用し経費がかさんだため水産業界は吸入ガスエンジンに注目して一時全盛期を迎えたが、燃料の木炭生産量などの制約があって成功とはいえなかった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [18]1914年(大正3年)に南満州方面へ輸出し海外への新販路を開拓
    • [19]1915年(大正4年)にわが国最大の400馬力吸入ガス機関を製作
参考文献[1]-[19]
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [1]当時もっとも要求されたものは原動機であったが、そのほとんどは輸入に依存していた
    • [2]大阪高等工業学校校長の安永義章と同校機械科長の鶴見正四郎が内燃機関の工業化に着目し、実業家の岡実康・桑原政・竹内善次郎らに会社の創設をすすめた
    • [4]1907年3月3日に岡実康を委員長として大阪市西区新町南通5丁目の岡実康宅で創立総会を開き、発動機製造株式会社を設立
    • [6]誕生の地が大阪であったこと、純民間資本によって設立されたこと
    • [7]国産化をめざしてまず製作に着手したのは5馬力と7馬力の石油発動機であった
    • [8]自家用として工場で使用するため輸入した英国ラストン・プロックター会社の吸入ガス機関は、性能でも燃料消費の面でも石油発動機を上回る優秀なエンジンであった
    • [10]1908年1月28日付けで大阪・上福島税務署あてに営業開始届を提出
    • [11]6馬力・15馬力・20馬力・25馬力・30馬力などを標準型として製作に着手
    • [12]1908年4月27日に50馬力吸入ガス発動機が完成し、関係者や新聞記者を招待して公式試運転を行い宣伝につとめた
    • [13]1908年10月に新宮水電株式会社から受注した発電用100馬力吸入ガス機関を引き渡した
    • [14]1908年10月に長崎県飽の浦航船事務所の新造船2隻に船舶用吸入ガス発動機が完成・搭載された
    • [15]1909年5月に四国沿岸航路の新若松丸に40馬力船舶用吸入ガス発動機が搭載され、速力8.75ノットで海事局の検査に合格した
    • [16]吸入ガスエンジンを最初に搭載した漁船は1909年の三重県二木島のカツオ船天祐丸で、燃料は木炭、1馬力1時間の消費量160匁、運転費1銭6厘から1銭8厘であった
    • [17]ユニオン型は灯油を使用し経費がかさんだため水産業界は吸入ガスエンジンに注目して一時全盛期を迎えたが、燃料の木炭生産量などの制約があって成功とはいえなかった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [3]設立の趣意は技術の国産化なくして産業の発展はありえないというもので、学者・実業家が設立した
    • [5]設立時の公称資本金20万円・払込資本金5万円
    • [9]1907年12月に国産吸入ガス発動機の第一号機(6馬力機関)の試運転を行った
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [18]1914年(大正3年)に南満州方面へ輸出し海外への新販路を開拓
    • [19]1915年(大正4年)にわが国最大の400馬力吸入ガス機関を製作

1930年〜三輪自動車ダイハツ号と無試験免許の小型自動車規格

国産エンジンが採用されず自ら完成車の製作へ回る

1930年12月、発動機製造は500型の三輪自動車を完成させた。昭和初期の三輪車は英国製をはじめとする外国製オートバイのエンジンを架装したものが流行しており、発動機製造はその国産化をねらって試作を重ねていた。ところが三輪車の組立業者は輸入エンジンに慣れており、国産エンジンを採らなかった。売り先が無い以上、自ら完成車を作るほかなく、こうして国産エンジンを積んだ最初の三輪自動車が市場へ出た。第1号車は空冷4サイクル側弁式の単気筒498cc、最大積載量400キロ、後輪はチェーン・ドライブという簡素な構造である。車名は、各地に同名の発動機製造会社が現れたため需要家が大阪の大の字と発動機の発の字を取って呼び分けた略称に由来する。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [20]1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成(有報沿革は1930年12月 三輪自動車発売=ダイハツ1号車)
    • [21]昭和初期は外国製オートバイエンジンを三輪車に架装したものが流行していた
    • [22]同社はガソリンエンジンの国産化に着目し試作研究を続けた
    • [23]当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れ国産エンジンを採用しなかった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [24]初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車を市場に供給し国産三輪自動車の嚆矢となった
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [25]三輪自動車第1号車の仕様は空冷4サイクル側弁式単気筒・総排気量498cc・最大積載量400kg・チェーンドライブ式後輪駆動
    • [26]ダイハツの名は、地名を冠した発動機製造会社が各地に出たため需要家がそれらと区別して大阪の「大」と発動機の「発」を取って略称したことに始まり、三輪自動車の発売時にダイハツ号と名づけた
排気量の上限が上がった日に750cc車を出す

三輪自動車の市場を広げたのは規格の改定だった。1933年8月の内務省自動車取締令の改正で、小型自動車の範囲は500ccから750ccへ引き上げられ、しかも無試験免許で乗れることになった。これを境に三輪車メーカーの数は増え、生産も加速度的に伸びて小型自動車工業は量産段階へ入った。それまで650cc車を作っていた発動機製造は、改正を機にただちに750cc搭載車を出した。単気筒とするか2気筒とするかは技術面で大いに議論されたが、買い手がまだエンジンの補修や整備に習熟していないことを理由に、構造が最も簡単で部品の少ない単気筒が選ばれた。1931年8月には四輪車と同じ差動装置付きシャフト・ドライブ式を三輪車へ初めて採っている。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [27]1933年8月の内務省自動車取締令改正により小型自動車の範囲が500cc(4行程)から750cc(4行程)へ拡大され、しかも無試験免許とされた
    • [28]取締令改正を契機に三輪自動車メーカーの数は増し生産も加速度的に増えて小型自動車工業は軌道に乗った
    • [29]それまで650ccエンジンの三輪自動車を製造していたが、取締令改正を機会にただちに750ccエンジン搭載車を出した
    • [30]750ccを単気筒とするか2気筒とするかが技術的に議論されたが、一般需要層がエンジンの補修・整備に習熟していないため構造が簡単で部品が最小限の単気筒が選ばれた
    • [31]1931年8月に四輪自動車と同じ差動装置付きシャフト・ドライブ式を三輪自動車に初めて採用した
販売店と特約店を国内外に並べて量産へ備える

売り方も同じ時期に形が決まった。1931年から1934年にかけての販売網は、東日本総販売店のダイハツ商会をはじめ国内25店・海外3店、傘下の特約店は108店を数えた。戦前の最盛期とされる1937年ころには特約店が国内外あわせて131店へ増え、1940年には樺太・満州・朝鮮・台湾・青島などへ海外7店を置いた。東日本の拠点として1933年6月に東京出張所を神田美倉町へ設けている。生産は1936年夏に月450台、1937年には年5,122台に達し、同業者のなかで絶対優位に立った。設備を広げる原資として、1937年には資本金600万円のダイハツ号自動車を別に設立したうえで合併し、資本金を400万円から1,000万円へ増やした。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [32]1931年から1934年にかけての三輪自動車の販売網は東日本総販売店のダイハツ商会をはじめ国内販売店25店・海外販売店3店の計28店、傘下の特約店は108店であった
    • [33]戦前の最盛期といわれる1937年ころには販売店は国内28店・海外5店、傘下特約店は国内外あわせて131店に増加した
    • [34]1940年には国内32店、海外は樺太・満州・朝鮮・台湾・青島などに7店を設けた
    • [35]販売拡張のため1933年6月に東京支社の前身である東京出張所を東京市神田美倉町10番地に設けた
    • [36]工場設備の増設などにより1936年夏ころには月産450台となった
    • [37]1937年当時の三輪自動車の年産実績は5,122台に達し、同業者の中でも絶対優位に立っていた
    • [38]1937年に資本金600万円の別会社ダイハツ号自動車株式会社を設立して合併するという変態増資の形式で資本金を400万円から1,000万円に増資
参考文献[20]-[38]
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [20]1930年12月に500型ダイハツ三輪一号車HA型が完成(有報沿革は1930年12月 三輪自動車発売=ダイハツ1号車)
    • [21]昭和初期は外国製オートバイエンジンを三輪車に架装したものが流行していた
    • [22]同社はガソリンエンジンの国産化に着目し試作研究を続けた
    • [23]当時の三輪車組立業者は輸入エンジンに慣れ国産エンジンを採用しなかった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [24]初めて国産エンジンを搭載した三輪自動車を市場に供給し国産三輪自動車の嚆矢となった
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [25]三輪自動車第1号車の仕様は空冷4サイクル側弁式単気筒・総排気量498cc・最大積載量400kg・チェーンドライブ式後輪駆動
    • [26]ダイハツの名は、地名を冠した発動機製造会社が各地に出たため需要家がそれらと区別して大阪の「大」と発動機の「発」を取って略称したことに始まり、三輪自動車の発売時にダイハツ号と名づけた
    • [27]1933年8月の内務省自動車取締令改正により小型自動車の範囲が500cc(4行程)から750cc(4行程)へ拡大され、しかも無試験免許とされた
    • [28]取締令改正を契機に三輪自動車メーカーの数は増し生産も加速度的に増えて小型自動車工業は軌道に乗った
    • [29]それまで650ccエンジンの三輪自動車を製造していたが、取締令改正を機会にただちに750ccエンジン搭載車を出した
    • [30]750ccを単気筒とするか2気筒とするかが技術的に議論されたが、一般需要層がエンジンの補修・整備に習熟していないため構造が簡単で部品が最小限の単気筒が選ばれた
    • [31]1931年8月に四輪自動車と同じ差動装置付きシャフト・ドライブ式を三輪自動車に初めて採用した
    • [32]1931年から1934年にかけての三輪自動車の販売網は東日本総販売店のダイハツ商会をはじめ国内販売店25店・海外販売店3店の計28店、傘下の特約店は108店であった
    • [33]戦前の最盛期といわれる1937年ころには販売店は国内28店・海外5店、傘下特約店は国内外あわせて131店に増加した
    • [34]1940年には国内32店、海外は樺太・満州・朝鮮・台湾・青島などに7店を設けた
    • [35]販売拡張のため1933年6月に東京支社の前身である東京出張所を東京市神田美倉町10番地に設けた
    • [36]工場設備の増設などにより1936年夏ころには月産450台となった
    • [37]1937年当時の三輪自動車の年産実績は5,122台に達し、同業者の中でも絶対優位に立っていた
    • [38]1937年に資本金600万円の別会社ダイハツ号自動車株式会社を設立して合併するという変態増資の形式で資本金を400万円から1,000万円に増資

1937年〜統制と再建整備を越えて三輪車が売上の9割を占める

資材の統制で三輪車を減産し軍需品へ回る

三輪自動車の需要増を受け、1937年12月に池田工場の建設へ着手し、1939年5月に竣工した。だが日中戦争から太平洋戦争へ進むと、三輪自動車は資材の制約から生産の抑制を迫られた。1941年には産業経済界に統制が敷かれて三輪車も割当制となり、販売店を各府県へ置く必要が生じて海外を含め64店へ増えた一方、特約店は63店へ減った。工場ではディーゼル機関のほかに軍需用のトラクター・弾倉・機関銃部品を作り、1943年4月には資本金を2,000万円として生産設備を増強した。1945年8月の終戦にともない各分工場を閉鎖したのち、同年11月にはいち早く三輪車の生産を再開した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [39]三輪自動車の需要増を受け1937年12月に池田工場の建設に着手、1939年5月竣工
    • [40]日華事変から太平洋戦争への移行で三輪自動車の製作は資材面の制約から生産抑制を余儀なくされた
    • [42]戦時中はディーゼル機関のほか軍需用トラクター・弾倉・機関銃部品を製作
    • [43]1943年(昭和18年)4月に資本金を2000万円へ増額して生産設備を増強
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [41]1941年に産業経済界の統制で三輪自動車も割当て制になり販売店を各府県に設置する必要が生じて販売店数は海外を含め64店に増加、特約店は63店に減少した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [44]1945年8月15日の終戦により各分工場を閉鎖し、同年11月にいち早く三輪車を生産した
借入に頼らなかった戦時の拡張が戦後処理を軽くする

戦後の再建は軽く済んだ。借入に依存した過度の設備拡張をとらなかったため資本や債務の切り捨ては全く行われず、特別損失の合計は4,800万円余にとどまって、積立金と繰越益金、さらに材料・仕掛品の評価益で埋めることができた。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定を受けたものの、審査の結果、業界での地位が独占に当たらないと認められ、日本エヤーブレーキほか1社の株式を処分する指定にとどまった。同年11月30日に企業再建整備計画の認可を受け、12月にその実行を完了する。このとき債権者側の特別管理人を務めたのが三和銀行頭取の渡辺忠雄氏で、増資を経て資本金は7,000万円となった。

  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [45]借入依存による過度の設備増大などの無謀な拡張方針をとらなかったため資本・債務の切り捨ては全く行われず、特別損失の合計は4,800万円余りにとどまり積立金・繰越益金と材料・仕掛品の評価益で充当できた
    • [46]1948年2月に過度経済力集中排除法の指定を受けたが、審査の結果、業界における地位が独占事業になっていないと証明され、日本エヤーブレーキほか関係会社1社の株式を処分する指定を受けただけであった
    • [47]1948年11月30日に再建整備計画の認可を受け、同年12月28日に企業再建整備計画の実行を完了したと公告した
    • [48]再建整備計画認可当時の特別管理人は債権者側として三和銀行頭取の渡辺忠雄と日本興業銀行理事の坂口五郎が選任された
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [49]1948年12月に企業再建整備計画を完了し資本金7000万円
池田工場へ生産を集約して三輪車の首位を固める

戦後の三輪自動車は、わが国の道路と燃料の事情に合う輸送手段として需要が伸びた。連合軍総司令部が1945年9月に月1,500台のトラック生産を認めたのを口火に自動車工業は動き出し、発動機製造は池田工場へ三輪車の生産を集め、1946年以降は重点的に設備の合理化を進めた。これが同業を刺激し、新三菱重工業・三井精機工業・明和自動車工業など航空機エンジンや車両から転じたメーカーが相次いで三輪車へ参入した。1951年6月に資本金を1億5,000万円へ増やし、同年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ改める。1953年8月には業界各社に先んじて延生産台数10万台を超え、1955年には三輪自動車が生産高の約90%、三輪貨物車では全国保有台数の32%を占めて業界第一位にあった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [50]三輪自動車はわが国の道路・燃料事情に最適なものとして需要が逐年累増した
    • [55]1953年8月に業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破
    • [56]ダイハツ三輪自動車は全生産高の約90%を占め、三輪貨物車は全国保有台数の32%を供給して業界第一位を占めた
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [51]連合軍総司令部は1945年9月25日に月間1,500台のトラック生産を許可した
    • [52]三輪自動車を量産体制に移すため池田工場に生産を集中し、1946年以来重点的に設備の合理化を実施した
    • [53]池田工場への生産集中と設備合理化は同業各社を刺激し、新三菱重工・三井精機工業・明和自動車工業など戦前の航空機エンジン・車両工業から転換して三輪自動車の製造に着手するメーカーが続出した
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1951年6月に資本金1億5000万円へ増資し、同年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ変更
参考文献[39]-[56]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
    • [39]三輪自動車の需要増を受け1937年12月に池田工場の建設に着手、1939年5月竣工
    • [40]日華事変から太平洋戦争への移行で三輪自動車の製作は資材面の制約から生産抑制を余儀なくされた
    • [42]戦時中はディーゼル機関のほか軍需用トラクター・弾倉・機関銃部品を製作
    • [43]1943年(昭和18年)4月に資本金を2000万円へ増額して生産設備を増強
    • [49]1948年12月に企業再建整備計画を完了し資本金7000万円
    • [50]三輪自動車はわが国の道路・燃料事情に最適なものとして需要が逐年累増した
    • [55]1953年8月に業界各社に先んじて延生産台数10万台を突破
    • [56]ダイハツ三輪自動車は全生産高の約90%を占め、三輪貨物車は全国保有台数の32%を供給して業界第一位を占めた
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
    • [41]1941年に産業経済界の統制で三輪自動車も割当て制になり販売店を各府県に設置する必要が生じて販売店数は海外を含め64店に増加、特約店は63店に減少した
    • [45]借入依存による過度の設備増大などの無謀な拡張方針をとらなかったため資本・債務の切り捨ては全く行われず、特別損失の合計は4,800万円余りにとどまり積立金・繰越益金と材料・仕掛品の評価益で充当できた
    • [46]1948年2月に過度経済力集中排除法の指定を受けたが、審査の結果、業界における地位が独占事業になっていないと証明され、日本エヤーブレーキほか関係会社1社の株式を処分する指定を受けただけであった
    • [47]1948年11月30日に再建整備計画の認可を受け、同年12月28日に企業再建整備計画の実行を完了したと公告した
    • [48]再建整備計画認可当時の特別管理人は債権者側として三和銀行頭取の渡辺忠雄と日本興業銀行理事の坂口五郎が選任された
    • [51]連合軍総司令部は1945年9月25日に月間1,500台のトラック生産を許可した
    • [52]三輪自動車を量産体制に移すため池田工場に生産を集中し、1946年以来重点的に設備の合理化を実施した
    • [53]池田工場への生産集中と設備合理化は同業各社を刺激し、新三菱重工・三井精機工業・明和自動車工業など戦前の航空機エンジン・車両工業から転換して三輪自動車の製造に着手するメーカーが続出した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」
    • [44]1945年8月15日の終戦により各分工場を閉鎖し、同年11月にいち早く三輪車を生産した
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1951年6月に資本金1億5000万円へ増資し、同年12月に社名を発動機製造からダイハツ工業へ変更

筆者考察

発動機製造が三輪自動車の完成車づくりへ回ったのは、エンジンが売れなかったからである。1907年に大阪高等工業学校の安永義章と鶴見正四郎が在阪の実業家へ持ちかけて興したこの会社は、輸入に依存していた原動機を国産で置き換えるために生まれた。ところが昭和初期の三輪車の組立業者は輸入したオートバイのエンジンに慣れており、国産品を採らなかった。部品として売れないものは、完成車に積んで売るほかない。エンジンを卸すだけなら買い手は組立業者に限られるが、完成車を出せば車体も販売店も自前で抱えることになる。1930年の500型はそうして市場へ出た。技術の国産化を掲げて出発した会社が、売り先の都合で組立と販売まで引き受ける会社に変わっている。

三輪自動車が売れたのは、車の出来よりも規格の改定による。買い手の数を決めたのは技術ではなく、免許の要らない範囲を広げた役所の判断だった。1933年の内務省自動車取締令の改正は、小型自動車の上限を500ccから750ccへ引き上げ、しかもこれを無試験免許とする。運転免許を持たない中小の商店が、その日から荷物を運ぶ車の買い手になった。発動機製造が750ccで単気筒を選んだのも、エンジンの整備に習熟していない買い手に合わせた設計である。1937年には年5,122台で同業の首位に立ち、1955年には三輪貨物車の全国保有台数の32%を供給する。会社は線引きの内側を誰よりも早く埋めた。

ダイハツ工業の売上高 1952年4月期〜1956年4月期(単体・4月期と10月期の合算)(億円)

56.12 52年4月期 87.77 53年4月期 100.58 54年4月期 101.3 55年4月期 109.96 56年4月期
  • 出所は上場会社総覧 昭和31年版(1952年4月期〜1955年4月期)およびダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(1956年4月期)。

1907年〜1956年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年04月期 単体 56 n/a 8 n/a 7 12.5% n/a
1953年04月期 単体 87 +56.4% 11 n/a 10 11.8% n/a
1954年04月期 単体 100 +14.6% 9 n/a 8 8.3% n/a
1955年04月期 単体 101 +0.7% 6 n/a 6 6.5% n/a
1956年04月期 単体 109 +8.5% n/a 6 n/a n/a n/a

出所:上場会社総覧 昭和31年版、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

4件
出典・参考
  • ダイハツ工業 有価証券報告書【沿革】
  • ダイハツ工業『六十年史』(1967年)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「ダイハツ工業」
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「ダイハツ工業」

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