日本電子:日本電子光学研究所の電子顕微鏡から分析機器・磁気共鳴装置へ
1949年〜茂原から三鷹へ出た風戸健二氏と、資本金50万円の日本電子光学研究所
風戸健二氏ら若い技術者は1949年5月、千葉県茂原の電子科学研究所の経営者と分かれ、東京で日本電子光学研究所を創業した。風戸健二氏は復員した海軍士官で、郷里の茂原で戦後まもなく電子顕微鏡の開発に取り組んでいた。茂原を選んだのは敗戦直後の食糧と住居の事情によるもので、社会が落ち着くと政治・経済・学術の中心である東京への進出を決めた。独立の契機は、茂原時代に外部の出資者の意向で技術者の望む研究開発が進まなかったことにある。資本金50万円は電子科学研究所からの退職金を充て、社長の風戸健二氏の14万円を筆頭に役員が過半を出資した。経営と所有を技術者の手にそろえた出資の組み方は、研究開発の自由を守る狙いだったとみられる。
- 日本電子三十五年史(1986)「1.設立の経緯と三鷹工場」
- [1]1949年5月14日創業・5月30日登記。茂原の電子科学研究所の経営者と袂を分かって独立し、食糧・住居事情で選んだ茂原から、社会の安定を受けて東京へ進出した
- [3]1949年5月14日創業・5月30日登記。茂原の電子科学研究所の経営者と袂を分かって独立し、食糧・住居事情で選んだ茂原から、社会の安定を受けて東京へ進出した
- 日本電子三十五年史(1986)「第2節日本電子の技術的系譜(炎原時代)」
- [2]創立者の風戸健二は復員した海軍士官で、郷里の千葉県茂原で終戦直後に電子顕微鏡の開発を始めた
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営の基盤」
- [4]茂原時代は外部出資者により自由な研究開発が阻まれ、これが分離独立の契機。設立時資本金50万円、風戸14万円を筆頭に役員が過半数を保有
- 日本電子三十五年史(1986)「電子顕微鏡の生産開始と工場の買収」
- [5]電子科学研究所からの退職金50万円を新会社の株式出資に充当した
日本電子光学研究所は電子顕微鏡の研究と製造を主な目的に据え、電子回折装置と高周波電気機器も事業目的に加えた。社名に研究所を付けたのは、研究開発を中心とする運営を考えていたためである。設備を持たずに出発したため、1号機のJEM-1型は鏡体を藤田製作所に、電源を日本無線に委託して製作し、1949年12月に山梨大学へ納入した。1950年9月、日本無線三鷹工場の一角の土地467坪と建物を150万円の手形払いで取得。同年の文部省予算による電子顕微鏡3件をすべて受注し、その代金で手形を決済した。創業から5年間の赤字期の資金繰りは、社長の風戸健二氏とその親族が負った。
- 日本電子三十五年史(1986)「1.設立の経緯と三鷹工場」
- [6]社名の「電子光学」は電子顕微鏡の研究・製造を主目的とするため。電子回折装置と高周波電気機器も当初から事業目的。「研究所」は研究所的な運営を考えていたため
- [7]社名の「電子光学」は電子顕微鏡の研究・製造を主目的とするため。電子回折装置と高周波電気機器も当初から事業目的。「研究所」は研究所的な運営を考えていたため
- 日本電子三十五年史(1986)「電子顕微鏡の生産開始と工場の買収」
- [8]設備がなく、鏡体を千葉県本納町の藤田製作所、電源を日本無線に製作委託した
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営の基盤」
- [9]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [10]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [11]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [12]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
参考文献[1]-[12]
- 日本電子三十五年史(1986)「1.設立の経緯と三鷹工場」
- [1]1949年5月14日創業・5月30日登記。茂原の電子科学研究所の経営者と袂を分かって独立し、食糧・住居事情で選んだ茂原から、社会の安定を受けて東京へ進出した
- [3]1949年5月14日創業・5月30日登記。茂原の電子科学研究所の経営者と袂を分かって独立し、食糧・住居事情で選んだ茂原から、社会の安定を受けて東京へ進出した
- [6]社名の「電子光学」は電子顕微鏡の研究・製造を主目的とするため。電子回折装置と高周波電気機器も当初から事業目的。「研究所」は研究所的な運営を考えていたため
- [7]社名の「電子光学」は電子顕微鏡の研究・製造を主目的とするため。電子回折装置と高周波電気機器も当初から事業目的。「研究所」は研究所的な運営を考えていたため
- 日本電子三十五年史(1986)「第2節日本電子の技術的系譜(炎原時代)」
- [2]創立者の風戸健二は復員した海軍士官で、郷里の千葉県茂原で終戦直後に電子顕微鏡の開発を始めた
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営の基盤」
- [4]茂原時代は外部出資者により自由な研究開発が阻まれ、これが分離独立の契機。設立時資本金50万円、風戸14万円を筆頭に役員が過半数を保有
- [9]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [10]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [11]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- [12]JEM-1型1号機は1949年10月完成・12月山梨大学納入。1950年9月に元青年学校の土地467坪と建物を150万円の手形払いで購入し、文部省予算の3件を全て受注して決済。創業5カ年の赤字期の資金繰りは風戸社長と親族が負った
- 日本電子三十五年史(1986)「電子顕微鏡の生産開始と工場の買収」
- [5]電子科学研究所からの退職金50万円を新会社の株式出資に充当した
- [8]設備がなく、鏡体を千葉県本納町の藤田製作所、電源を日本無線に製作委託した
1952年〜高周波焼入装置で得た産業機器の収益源と、昭和30年2月の工場買収
1949年の時点で日立製作所と島津製作所も電子顕微鏡を市場に出しており、電子顕微鏡専業の日本電子光学研究所は3社の販売競争に入った。顧客は大学や国公立研究機関などに限られ、1950年代半ばの国内設置台数は約250台である。国内で最大のシェアを得ても収支は償わず、1953年初頭に輸出を目標とする方針を打ち出した。山梨大学の教授の仲介で、フランスの理科学機器の販売業者から1953年1月に代理店の申し入れが寄せられた。1954年7月には研究部長の伊藤一夫氏をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣し、試料加熱装置の報告が欧米の研究者の関心を呼んだ。1956年4月にフランス政府の原子力研究所へ電子顕微鏡を納入し、輸出の第1号とした。
- 日本電子三十五年史(1986)「1.昭和20年代の電子顕微鏡市場」
- [13]1949年10月のJEM-1型完成時に日立製作所HU-5型・島津製作所SM-1B型が市場に出ており3社の販売競争。当社は当初電子顕微鏡専業。顧客は大学・国公立研究機関等に限定。昭和20年代末の国内設置台数は約250台
- [14]1949年10月のJEM-1型完成時に日立製作所HU-5型・島津製作所SM-1B型が市場に出ており3社の販売競争。当社は当初電子顕微鏡専業。顧客は大学・国公立研究機関等に限定。昭和20年代末の国内設置台数は約250台
- 日本電子三十五年史(1986)「3.輸出マーケティングの萌芽」
- [15]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- [16]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- [17]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [18]1956年4月、電子顕微鏡がフランス政府原子力研究所に納入され、輸出第1号機となった
電子顕微鏡の顧客は政府の科学研究費で購入するため、納期と支払いが年度末に集中し、年間の資金繰りが苦しくなった。日本電子光学研究所は電子顕微鏡の高周波電源の技術を応用し、1952年3月に金属の高周波焼入装置の開発に着手した。同年11月に30kWの真空管式装置が完成し、1954年前半までの焼入装置の販売は12基。100kW級の単価は600万円で電子顕微鏡の2倍を超え、利益率も高かった。それでも1955年5月までの8期のうち黒字は2期だけで、累積赤字は177万円である。1955年ごろには電子顕微鏡と高周波の2部門を製品系列に持ち、焼入装置をトヨタ自動車工業や日産自動車に納入した。
- 日本電子三十五年史(1986)「第4節高周波加熱装置の開発」
- [19]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [20]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [21]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [22]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- 日本電子三十五年史(1986)「3.業績と財務」
- [23]第1期(1949年5月〜)から第8期(〜1955年5月)で黒字は2回のみ、累積赤字177万円
- 日本電子三十五年史(1986)「1.時代背景と当社製品への需要動向」
- [24]昭和30年代初頭は電子顕微鏡部門と高周波部門の二大製品系列。JEH型の納入先にトヨタ自動車工業・三菱日本重工業・古河電気工業・日産自動車
1950年9月に取得した三鷹の敷地は東邦無線の敷地を挟んだ飛地で、資材の搬入と製品の搬出に不便だった。1954年に東邦無線の敷地と建物の売却を知り、経営陣は買収を決めた。敷地1295坪と延べ848坪の建物に千数百万円を投じる計画は、資本金750万円の会社には過大な投資である。歯車の熱間転造を工業化する共同研究で設備の拡大が必要になり、フランス向け輸出に備えて設備と対外的な印象を高める必要もあった。1955年2月1日に買収を終えて製造部門の場所を確保し、工作機械も1951年4月の8台から1956年2月には約30台へ増えた。資本金を上回る買収は、輸出と産業機器の受注増に備えて生産の場所を先に確保する判断だったと思われる。
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営陣の再編成と工場施設の充実」
- [25]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [26]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [27]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [28]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- 日本電子三十五年史(1986)「4.昭島製作所の建設」
- [29]1955年2月に工場を買収して製造部門のスペースを確保した
- 日本電子三十五年史(1986)「2.設備と生産」
- [30]工作機械は1951年4月時点8台、1956年2月約30台
参考文献[13]-[30]
- 日本電子三十五年史(1986)「1.昭和20年代の電子顕微鏡市場」
- [13]1949年10月のJEM-1型完成時に日立製作所HU-5型・島津製作所SM-1B型が市場に出ており3社の販売競争。当社は当初電子顕微鏡専業。顧客は大学・国公立研究機関等に限定。昭和20年代末の国内設置台数は約250台
- [14]1949年10月のJEM-1型完成時に日立製作所HU-5型・島津製作所SM-1B型が市場に出ており3社の販売競争。当社は当初電子顕微鏡専業。顧客は大学・国公立研究機関等に限定。昭和20年代末の国内設置台数は約250台
- 日本電子三十五年史(1986)「3.輸出マーケティングの萌芽」
- [15]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- [16]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- [17]国内最大シェアでも国内市場に限度があり収支償わず、1953年初頭に輸出方針。1953年1月28日付でフランスのデルビルから代理店申し入れ(山梨大学教授の仲介)。1954年7月伊藤(一)研究部長をロンドンの第3回国際電子顕微鏡会議に派遣、試料加熱装置の報告が関心を集めた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [18]1956年4月、電子顕微鏡がフランス政府原子力研究所に納入され、輸出第1号機となった
- 日本電子三十五年史(1986)「第4節高周波加熱装置の開発」
- [19]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [20]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [21]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- [22]顧客の購入費は科学研究費で納期・支払が年度末に集中し資金繰りが困難なため副次的商品として産業機械を加えた。1952年3月開発開始、11月30kW真空管式焼入装置完成。1954年前半までに焼入装置12基販売、100kW級は単価600万円で電子顕微鏡の約2倍以上、利益率が高い
- 日本電子三十五年史(1986)「3.業績と財務」
- [23]第1期(1949年5月〜)から第8期(〜1955年5月)で黒字は2回のみ、累積赤字177万円
- 日本電子三十五年史(1986)「1.時代背景と当社製品への需要動向」
- [24]昭和30年代初頭は電子顕微鏡部門と高周波部門の二大製品系列。JEH型の納入先にトヨタ自動車工業・三菱日本重工業・古河電気工業・日産自動車
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営陣の再編成と工場施設の充実」
- [25]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [26]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [27]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- [28]1950年9月取得地は東邦無線の敷地を挟む飛地で搬出入に不便。1954年に東邦無線の敷地・建物売却を知り買収を決断。敷地1295坪・建物延848坪、資本金750万円に対し千数百万円を調達。理由は歯車熱間転造工業化の共同研究による設備拡大とフランス輸出に向けた設備増強・イメージ向上
- 日本電子三十五年史(1986)「4.昭島製作所の建設」
- [29]1955年2月に工場を買収して製造部門のスペースを確保した
- 日本電子三十五年史(1986)「2.設備と生産」
- [30]工作機械は1951年4月時点8台、1956年2月約30台
1956年〜磁気共鳴装置で入った分析機器と、昭島製作所の建設
社長の風戸健二氏は、無機物質の結晶構造を見る電子顕微鏡に加え、有機物質の構造を解析できる機器を求めていた。経営を安定させる新商品も必要で、市場性を疑う意見が多いなか1955年12月に核磁気共鳴装置の1号機の試作に着手した。どのメーカーも手がけておらず、独自の商品になりうるとの判断。磁石には電子顕微鏡の励磁電源の技術を基に大型電磁石を採用し、金沢大学の助手だった服部秀三氏を共同研究者に迎えた。共鳴周波数32MHzのJNM-1型は1956年8月に完成し、電子顕微鏡専業から分析機器へ製品が広がった。一方で1950年代後半の輸出はソ連向けの数台にとどまり、海外へ出た製品は電子顕微鏡が中心である。
- 日本電子三十五年史(1986)「1.分析機器への進出」
- [31]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [32]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [33]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [34]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [35]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [36]電子顕微鏡の専門メーカーとして始まり、1956年に核磁気共鳴装置を製品に加えた
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営陣の再編成と工場施設の充実」
- [37]昭和30年代前半、電子顕微鏡以外の輸出は困難で、核磁気共鳴装置がソ連に数台輸出されるにとどまった
1955年2月の買収後も業務の拡大が続き、1958年末には三鷹の工場の拡張が限界に達した。社長の風戸健二氏は1958年12月20日の取締役会に新工場建設を上程し、海外市場の拡大を理由に挙げた。1959年3月に定めた選定基準は、東京駅から電車で1時間以内、中央線の駅から1000m以内など8項目にわたる。同年12月に東京都昭島市中神町と宮沢町の1万4000坪を坪当たり約3500円で購入すると決め、1961年3月に第1期第1次工事が竣工した。1960年9月には昭島製作所の近くに精密機械加工のさくら精機を資本金500万円で設立し、外注に依存した機械加工を補った。従業員は1955年の136名から10年で1592名に増えた。
- 日本電子三十五年史(1986)「4.昭島製作所の建設」
- [38]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [39]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [40]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [41]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [42]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [43]従業員は1955年から1965年の間に136名から1592名へ増加
1961年5月、日本電子光学研究所は社名を日本電子株式会社に改め、海外で知られた略称JEOLの元になった英文社名は残した。研究所の名では企業の印象が弱く、株式上場を決めていた経営陣は上場会社にふさわしい社名を求めた。1960年度まで995万円だった資本金は、上場を目指して1962年2月に7000万円へ増資した。1960年度に300%まで上げた配当は、株主の払込資金の一部になった。東京証券取引所第二部への上場は1961年10月の市場開設時の予定を景気の停滞で見送り、1962年4月に延ばした。研究所の名を外した改称は、上場と海外展開に向けた体裁の整備だったと推察される。
- 日本電子三十五年史(1986)「第1節高度経済成長下の当社の経営状況」
- [44]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [45]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [46]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [48]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [49]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [47]資本金は1961年3500万円、1962年2月7000万円、4月2億1000万円で株式公開
参考文献[31]-[49]
- 日本電子三十五年史(1986)「1.分析機器への進出」
- [31]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [32]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [33]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [34]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- [35]風戸社長は有機物質の構造解析ができる機器を求め、経営安定化の新商品も欲していた。市場性で反対が多いなか、どのメーカーも未着手で独自商品になりうるとして1955年12月に1号機試作着手。電子顕微鏡の励磁電源技術を基に大型電磁石を採用、金沢大学の服部秀三助手が共同研究者。JNM-1型(32MHz)は1956年8月完成
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」
- [36]電子顕微鏡の専門メーカーとして始まり、1956年に核磁気共鳴装置を製品に加えた
- [43]従業員は1955年から1965年の間に136名から1592名へ増加
- [47]資本金は1961年3500万円、1962年2月7000万円、4月2億1000万円で株式公開
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営陣の再編成と工場施設の充実」
- [37]昭和30年代前半、電子顕微鏡以外の輸出は困難で、核磁気共鳴装置がソ連に数台輸出されるにとどまった
- 日本電子三十五年史(1986)「4.昭島製作所の建設」
- [38]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [39]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [40]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [41]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- [42]1958年末に新工場が必要となり、風戸社長が12月20日の取締役会に新工場建設を上程(現工場の拡張限界・海外市場の拡大)。1959年3月に8項目の選定基準、12月に昭島市中神町・宮沢町1万4000坪を坪約3500円で購入決定。1961年3月第1期第1次工事竣工。1960年9月さくら精機設立(資本金500万円・精密機械加工・昭島)、当時全工数の約半分を外注
- 日本電子三十五年史(1986)「第1節高度経済成長下の当社の経営状況」
- [44]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [45]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [46]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [48]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
- [49]1961年5月に日本電子株式会社へ社名変更。理由は研究所では企業イメージが弱いことと上場会社にふさわしい社名への配慮。英文社名は従来のまま使用。1960年度経常利益1億数千万円、配当率1956年度12%→1960年度300%、資本金は1960年度まで995万円。東証第二部上場は1961年10月予定を景気停滞で1962年4月に延期
1949年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 1 | 0.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 1 | 0.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 2 | +100.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 3 | +50.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 4 | +33.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 4 | 0.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 9 | +125.0% | 2 | 2 | 22.2% | 1 | n/a |
出所:日本電子三十五年史
出典・参考
15件
- 日本電子三十五年史(1986)「1.設立の経緯と三鷹工場」
- 日本電子三十五年史(1986)「第2節日本電子の技術的系譜(炎原時代)」
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営の基盤」
- 日本電子三十五年史(1986)「電子顕微鏡の生産開始と工場の買収」
- 日本電子三十五年史(1986)「1.昭和20年代の電子顕微鏡市場」
- 日本電子三十五年史(1986)「3.輸出マーケティングの萌芽」
- 日本電子三十五年史(1986)「第4節高周波加熱装置の開発」
- 日本電子三十五年史(1986)「3.業績と財務」
- 日本電子三十五年史(1986)「1.時代背景と当社製品への需要動向」
- 日本電子三十五年史(1986)「2.経営陣の再編成と工場施設の充実」
- 日本電子三十五年史(1986)「4.昭島製作所の建設」
- 日本電子三十五年史(1986)「2.設備と生産」
- 日本電子三十五年史(1986)「1.分析機器への進出」
- 日本電子三十五年史(1986)「第1節高度経済成長下の当社の経営状況」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「日本電子」