第1章 年〜年

デンソー:トヨタからの分離独立とボッシュ提携による技術基盤の獲得

1949年〜企業再建整備計画で切り出された第二会社

デンソーの源流は、1933年7月に豊田喜一郎氏が自動車の国産化を目的として豊田自動織機製作所内に設けた自動車部の電装部門にある。1937年8月に自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立した際も、電装部門は刈谷町にとどまって同社の刈谷工場となった。戦後の日本では1948年まで乗用車の製造が禁じられ、解禁後も各社は何の援助もなく細々と生産を続けていた。トヨタ自動車工業は1949年11月に企業再建整備計画の認可を受け、12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯、翌1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた。豊田自動織機製作所の石田退三社長は財閥指定を避けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外の全社の社名を変更した。日本電装は資本金1500万円で発足し、電装工場長だった林虎雄氏が社長に就任、ラジエータ部門から引き継いだ1.4億円の累積赤字を借入金として承継した。

  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年第7巻第3号
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした

1949年に始まったドッジ・ラインの金融引き締めは自動車業界を直撃した。親会社のトヨタ自動車工業も基礎物資の値上がりによるコスト高が重なって1950年に人員整理へ踏み切り、2か月にわたるストライキに発展した。日本電装も設立3か月後の1950年3月に資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇する再建案を発表し、同年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を実施した。6月の朝鮮戦争の勃発が転機となり、トヨタ自動車工業は7月以降に車両4679台の特需を受注、日本電装の社業も好調に転じた。日本電装は1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据え付けを進め、国有賠償機械も取得して設備を拡充し、電装品の生産高で全国の4割を占めるに至った。

  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された
参考文献[1]-[14]
    • [1]1933年7月に豊田喜一郎氏が豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、その一環として電装部門を設けた
    • [2]1937年8月に豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立され、挙母工場へ移転した際、電装部門は刈谷町にとどまり同社の刈谷工場となった
    • [4]トヨタ自動車工業の企業再建整備計画が1949年11月に認可され、同年12月に刈谷北工場を日本電装、中川工場の琺瑯部門を愛知琺瑯として分離独立させた
    • [5]1950年5月に刈谷南工場を民成紡績として分離独立させた
    • [7]1949年12月にトヨタ自動車工業の決定整備計画に基づき資本金1500万円の第二会社日本電装が設立され、電装工場長の林虎雄氏が社長に就任した
    • [8]日本電装はドッジ・ラインの影響を受けて企業整備を行った
    • [10]1950年5月に3割に及ぶ人員整理を含む企業整備を行い、企業の再建に努めた
    • [11]朝鮮動乱の勃発を契機として日本電装の社業は好調に転じた
    • [12]朝鮮動乱を契機に特需車の受注が相次ぎ、トヨタ自動車工業が1950年7月以降に受注した特需は車両4679台に達した
    • [13]1950年以降、老朽機械の更新と専用機械の据付け、さらに国有賠償機械の取得によって設備の拡充を図った
    • [14]設備拡充の結果、日本電装の電装品の生産高は全国の4割を占めるに至った
    • [3]日本では1948年まで乗用車の製造が禁止されており、禁止令が解かれてからも長い間、何の援助もなく細々と生産を続けた
    • [6]財閥指定を受けて豊田関係の会社を分割し、自動織機製作所以外は全部社名を変えた。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装とした
    • [9]1950年にトヨタ自動車工業の経営は重大な段階に至った。前年のディスインフレ政策による業界不振と基礎物資の値上りによるコスト高が原因で、人員整理を行い2か月にわたるストライキが展開された

1953年〜ボッシュ提携で拡充した品質管理と製品領域

ドイツのロバート・ボッシュ社は世界有数の電装品メーカーで、日本電装は1953年に同社と提携し、株式の10%を割り当てた。提携までに日本電装は、設立時から技術を高めるための研究を自力で積み、欧米各国の自動車工業界へ何度も視察に出ていた。技術の習得に向け、1954年4月に技師2名がドイツへ渡り、同年8月にはボッシュ側の技術者2名が刈谷に赴任した。厳しい検査のもとで『作り上げた製品をドイツに送り検査を受ける』ことが繰り返され、『かくすること3回もあってようやく合格する』状態が続いた。1954年にはカーヒーターの製造を開始し、1955年2月に噴射ポンプと点火プラグが提携品目に加わり、1957年にはカーエアコンに及んだ。1957年に点火栓生産のため愛知電装を設立し、1959年に吸収合併した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)
    • [15]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [16]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
  • 会社銀行八十年史(1955)
    • [17]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ

日本電装の販売先はトヨタ自動車工業に限らず、1956年時点でトヨタ向けは5割から6割、残る4割から5割は一般の需要に応じていた。系列外のメーカーへ売るには品質で納得させる必要があり、日本電装は創業直後から社内に技能者養成所を設けて技能工を自前で育て、ボッシュから受け取った品質管理の手法を全社の作業へ落とし込んだ。1961年には自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞し、技術移転を受ける立場から自ら品質を設計する立場へ移った。『ここ3〜4年のうちには"日本のデンソー"から"世界のデンソー"への飛躍がなされるであろう』という評価を受けたのが1967年である。同年のトヨタ自工とトヨタ自販向けは57.1%を占め、日産自動車を除く各社へ軒並み供給していた。

  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
  • 企業の歴史 明治百年(1968)
    • [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
    • [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた

創業当時の日本電装は外国製の点火プラグを写生するところから始め、その写生さえ容易には運ばなかった。ボッシュが日立製作所や東京芝浦電気ではなく日本電装を提携相手に選んだ背景には、日本電装が相手なら主導権を握れるという読みがあったという。技術導入は発電機や始動電動機のライセンス生産として続き、日本電装はその過程で先端技術の吸収に努めた。特許の申請件数がボッシュ社を上回った1979年、日本電装は電装品に関するボッシュからの技術導入を打ち切る方針を決めた。提携が与えたのは製品の図面と検査の基準であり、それを自前の設計へ置き換えるまでに四半世紀を要した。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [34]1949年にトヨタから分離独立して以来在籍する戸田憲吾相談役が、創業当時は外国製のプラグをスケッチすることから始め、そのスケッチさえ簡単にはいかなかったと述べている
    • [35]ボッシュが日立や東芝と組まずに日本電装を選んだのは、日本電装が相手なら主導権を握れると考えたからではないかと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [36]1953年にボッシュ社と提携関係を結び、発電機や始動電動機など様々なボッシュ製品をライセンス生産した
    • [37]ライセンス生産を進めながら先端技術の吸収に努めた
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [38]1979年時点で特許申請数がボッシュ社の件数を上回っており、過去数度にわたって更改してきた電装品に関するボッシュからの技術導入を1979年で打ち切る予定だった
参考文献[15]-[38]
    • [15]1953年に世界的電装品メーカーである西独ロバート・ボッシュ社と技術契約を締結した
    • [21]ボッシュの技術者着任を受けてカーヒーター等の新製品の生産に成功し、1954年にカーヒーター、ワイパー、レギュレーターテスターの製造を開始した
    • [23]1957年にカーエアコンへ製品領域を広げた
    • [24]1957年に愛知電装を設立して点火栓の生産に着手し、1959年に同社を吸収合併した
    • [30]品質管理の最高権威である1961年度デミング賞を受賞した
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
    • [16]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [20]作り上げた製品をドイツに送り検査を受け、不備の箇所を指摘されて送り返される往復を3回繰り返してようやく合格した
    • [25]日本電装の電装品はトヨタに供給するだけでなく広く一般の需要に応じており、トヨタへの供給は5割ないし6割、残り4割ないし5割は一般の需要に応じている
    • [26]トヨタ向けを除く4割ないし5割は一般の需要に応じていた
    • [28]ボッシュは電装品では世界一の会社であり、それと提携して品質の向上を図った
    • [17]かねてより技術面の向上について独自の研究を重ねるとともに、数次にわたる欧米各国の自動車工業界視察の結果、ロバート・ボッシュ社との技術提携契約締結に至った
    • [18]1954年4月に技術習得のため技師2名をドイツへ派遣した
    • [19]1954年8月にボッシュ社から技術者2名が日本電装へ着任した
    • [22]1955年2月にボッシュ社との間で噴射ポンプおよび点火プラグの提携品目追加契約を結んだ
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [27]創業直後から社内組織として技能者養成所を設け、独自に技能工を育ててきた。この教育体制が技術水準の底上げと品質改善の人的な基礎になった
    • [29]1961年に自動車部品メーカーとして初めてデミング賞を受賞したと平野史社長が述べている
    • [38]1979年時点で特許申請数がボッシュ社の件数を上回っており、過去数度にわたって更改してきた電装品に関するボッシュからの技術導入を1979年で打ち切る予定だった
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
    • [31]ここ3〜4年のうちには「日本のデンソー」から「世界のデンソー」への飛躍がなされるであろうと評価された
    • [32]1967年時点で日本電装の納入の57.1%がトヨタ自工とトヨタ自販向けだった
    • [33]三菱重工業、東洋工業、ダイハツ、富士重工業、日野自動車、本田技研、鈴木自動車など日産自動車以外の会社には軒並み供給しており、その比率は30%を超えていた
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [34]1949年にトヨタから分離独立して以来在籍する戸田憲吾相談役が、創業当時は外国製のプラグをスケッチすることから始め、そのスケッチさえ簡単にはいかなかったと述べている
    • [35]ボッシュが日立や東芝と組まずに日本電装を選んだのは、日本電装が相手なら主導権を握れると考えたからではないかと戸田憲吾相談役が振り返っている
    • [36]1953年にボッシュ社と提携関係を結び、発電機や始動電動機など様々なボッシュ製品をライセンス生産した
    • [37]ライセンス生産を進めながら先端技術の吸収に努めた

1960年〜貿易自由化に備えた設備と人材の自前化

林虎雄社長は1960年1月の年賀式で、貿易自由化に対処する体質改善を課題に掲げ、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内製と外注の区分と外注工場の育成、事務の単純化、人間関係の重視という5項目を示した。翌1961年に発表した第2次5カ年計画は、1963年末までに国際品質と国際価格を実現し、1965年に総生産額の10%を輸出へ充てること、国内の市場占拠率を5年で20%高めることを目標に置いた。刈谷の本社には地下1階地上5階・延べ8,931平方米の技術センターが1960年8月に着工され、延べ42,094平方米の北工場が1961年6月に竣工した。売上高は1961年12月期の140.4億円から、1965年12月期には278億円へ伸びた。自由化の期限が、投資の順序を決めていた。

  • 日本電装のあゆみ(1964)「技術センターの建設」
    • [39]1960年1月5日の年賀式で林虎雄社長が、貿易自由化に対処する体質改善として、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内外製の区分と外注工場の育成方針の確立、事務の単純化、人間関係の重視の5項目を示した
    • [41]技術センターと事務本館は鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階・延べ8,931平方米で、1960年8月22日に第1期工事の地鎮祭が行なわれ着工された
    • [42]北工場(第5および第6工場)は地上3階建・延べ42,094平方米で、1961年6月に竣工した
  • 日本電装のあゆみ(1964)「第2次5カ年計画」
    • [40]第2次5カ年計画(昭和36年から40年)は、昭和38年末までに国際品質・国際価格を実施して国際的電装品メーカーとなり昭和40年には総生産額の10%を輸出する状態に持って行くこと、国内競争で優位の態勢を確立し市場占拠率を5年間に20%高めることを目標とした
  • 会社年鑑
    • [43]1961年12月期の売上高は140.4億円
    • [44]1965年12月期の売上高は278億円

設備と人の供給も社内で賄った。日本電装は工機部と呼ぶ部署を高棚製作所(愛知県安城市)に置き、一部の汎用工作機械を除く生産設備のほとんどをそこで製造し、保守と点検まで自ら行った。1979年時点では専用設計のスタッフ約140人を含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製しており、各工場の機械設備は7割近くを自家製が占めた。創業直後に設けた技能者養成所は社内に実習工場を備え、日本電装学園となって年間約100人を送り出し、その卒業生の7割が工機部へ重点的に配属された。設備を自社で開発したことが、合理化の進んだ大きな要因だった。外から買えば仕様も納期も他社と等しくなり、原価で差をつける余地は残らない。

  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [45]工機部は高棚製作所(愛知県安城市)の一角にあり、一部の汎用工作機械を除いてほとんどの生産設備をここで製造し、保守・点検も行っている
    • [46]工機部は約140人の専用設計スタッフを含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製している
    • [47]各工場・製作所の機械設備の7割近くが工機部の自家製機械で占められている
    • [49]技能者養成所は日本電装学園と呼ばれ、年間約100人の卒業生を送り出している
    • [50]学園卒業者の一般作業現場への配属は全体の30%程度に抑え、残りの70%は工機部へ重点的に投入されている
    • [51]設備の自社開発がわが社の合理化が進んだ大きな要因だと平野史社長が述べている
  • 日本電装のあゆみ(1964)「機械・設備」
    • [48]1964年時点で技能者養成所の実習工場を社内に備えていた

電子部品への投資はさらに早かった。日本電装は1968年に電子事業部を設立し、1970年には集積回路の社内生産へ本格的に着手した。当時は社内にも、あのような石まで手がけなくてもよいという疑問の声があった。それでも続けた結果、高温と振動という自動車特有の条件のもとで機能する集積回路と電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積した。研究開発費は1979年時点で売上高の5%を目安に置き、トヨタ自動車工業の3%強、業界平均の2%前後を大きく上回った。技術スタッフは1973年の2000人から1979年に2800人へ増え、1978年夏には本社工場内でC-MOS型のLSI生産を始めた。

  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [52]日本電装は1968年に電子事業部を設立した
    • [53]1970年には本格的にICの社内生産に乗り出した
    • [54]IC の社内生産に乗り出した当時は、あんな石までやらなくてもという疑問の声が社内にもあった
    • [55]高温・振動という自動車特有の条件の中で機能するICと電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積していった
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [56]1979年時点の研究開発費は売上高の5%をメドとしており、トヨタ自工の3%強や業界平均の2%前後をはるかに上回っていた
    • [57]技術スタッフは1973年の2000人から1979年時点で2800人まで強化された
    • [58]1978年夏から本社工場内でC-MOS型のLSI生産をスタートさせた
参考文献[39]-[58]
    • [39]1960年1月5日の年賀式で林虎雄社長が、貿易自由化に対処する体質改善として、研究開発と設備の高水準化、生産品目の取捨選択、内外製の区分と外注工場の育成方針の確立、事務の単純化、人間関係の重視の5項目を示した
    • [41]技術センターと事務本館は鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階・延べ8,931平方米で、1960年8月22日に第1期工事の地鎮祭が行なわれ着工された
    • [42]北工場(第5および第6工場)は地上3階建・延べ42,094平方米で、1961年6月に竣工した
    • [40]第2次5カ年計画(昭和36年から40年)は、昭和38年末までに国際品質・国際価格を実施して国際的電装品メーカーとなり昭和40年には総生産額の10%を輸出する状態に持って行くこと、国内競争で優位の態勢を確立し市場占拠率を5年間に20%高めることを目標とした
  • 会社年鑑
    • [43]1961年12月期の売上高は140.4億円
    • [44]1965年12月期の売上高は278億円
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [45]工機部は高棚製作所(愛知県安城市)の一角にあり、一部の汎用工作機械を除いてほとんどの生産設備をここで製造し、保守・点検も行っている
    • [46]工機部は約140人の専用設計スタッフを含む1600人の技術者を抱え、年間100億円弱の設備機械を内製している
    • [47]各工場・製作所の機械設備の7割近くが工機部の自家製機械で占められている
    • [49]技能者養成所は日本電装学園と呼ばれ、年間約100人の卒業生を送り出している
    • [50]学園卒業者の一般作業現場への配属は全体の30%程度に抑え、残りの70%は工機部へ重点的に投入されている
    • [51]設備の自社開発がわが社の合理化が進んだ大きな要因だと平野史社長が述べている
    • [56]1979年時点の研究開発費は売上高の5%をメドとしており、トヨタ自工の3%強や業界平均の2%前後をはるかに上回っていた
    • [57]技術スタッフは1973年の2000人から1979年時点で2800人まで強化された
    • [58]1978年夏から本社工場内でC-MOS型のLSI生産をスタートさせた
    • [48]1964年時点で技能者養成所の実習工場を社内に備えていた
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号
    • [52]日本電装は1968年に電子事業部を設立した
    • [53]1970年には本格的にICの社内生産に乗り出した
    • [54]IC の社内生産に乗り出した当時は、あんな石までやらなくてもという疑問の声が社内にもあった
    • [55]高温・振動という自動車特有の条件の中で機能するICと電子部品を他社に先駆けて開発し、技術を蓄積していった

筆者考察

日本電装の出発点は、親会社が背負いきれなかった工場と負債を引き受けたことにあった。1949年に切り出されたこの会社は、資本金1500万円に対して1.4億円の累積赤字を借入金として承継し、トヨタの商号も名乗れない。設立3か月で資金繰りが行き詰まり、従業員約1400名のうち473名を解雇している。取りうる選択肢は2つしかなかった。親会社の注文が増えるのを待つか、系列の外へ売るかである。日本電装は後者を選び、1956年の時点でトヨタ向けを5割から6割に抑え、残りを一般の需要に充てていた。系列の外へ売る会社は、値段ではなく品質で相手を納得させるほかない。ボッシュとの提携は、その説得の材料を外から借りる手段だった。

借りた基準を自前の基準へ置き換えるまでに、四半世紀を要した。1953年の提携で受け取ったのは製品の図面と検査の合否であって、設計の考え方ではない。ドイツへ送った製品が3度返ってくる関係は、教わる側の立場をそのまま映していた。1960年の貿易自由化を前に林虎雄社長が掲げたのは、設備の高水準化と内外製の区分である。買える技術を減らし、作れる技術を増やす方向だった。工機部が工場設備の7割を自前で作り、日本電装学園が技能工を送り出す体制は、外から買えば仕様も納期も他社と同じになるという判断から出ている。1979年、特許の申請件数がボッシュを超え、電装品の技術導入は打ち切られた。

売上高(単体) 1950年12月期〜1980年12月期(億円)

4.79 50 18.41 55 110.3 60 278 65 930 70 2,266 75 5,173 80
  • 5年ごとの12月期。出所は会社年鑑(1976年版・1986年版)。

1949年〜1981年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年12月期 単体 4 n/a n/a n/a 0 ▲0.2% n/a
1951年12月期 単体 7 +58.0% n/a n/a 0 9.5% n/a
1952年12月期 単体 11 +51.7% n/a n/a 0 8.5% n/a
1953年12月期 単体 15 +38.1% n/a n/a 1 10.9% n/a
1954年12月期 単体 17 +10.3% n/a n/a 1 9.8% n/a
1955年12月期 単体 18 +5.3% n/a n/a 1 9.4% n/a
1956年12月期 単体 33 +82.0% n/a n/a 2 8.4% n/a
1957年12月期 単体 46 +39.4% n/a n/a 3 8.3% n/a
1958年12月期 単体 47 +1.5% n/a n/a 3 8.3% n/a
1959年12月期 単体 67 +42.6% n/a n/a 5 8.2% n/a
1960年12月期 単体 110 +63.2% n/a n/a 9 8.5% n/a
1961年12月期 単体 140 +27.3% n/a n/a 11 8.4% n/a
1962年12月期 単体 150 +7.5% n/a n/a 12 8.5% n/a
1963年12月期 単体 197 +30.6% n/a n/a 12 6.2% n/a
1964年12月期 単体 253 +28.4% n/a n/a 11 4.5% n/a
1965年12月期 単体 278 +9.9% n/a n/a 12 4.4% 刈谷市に池田工場を建設(1965/05)
1966年12月期 単体 341 +22.7% n/a n/a 15 4.6% n/a
1967年12月期 単体 442 +29.6% n/a n/a 20 4.6% 安城市に安城製作所を建設(1967/07)
1968年12月期 単体 601 +36.0% n/a n/a 26 4.5% n/a
1969年12月期 単体 775 +29.0% n/a n/a 35 4.6% n/a
1970年12月期 単体 930 +20.0% n/a 85 42 4.5% 西尾市に西尾製作所を建設(1970/08)日本自動車部品総合研究所(現SOKEN)を設立(1970/11)
1971年12月期 単体 1,134 +21.9% n/a 106 49 4.3% n/a
1972年12月期 単体 1,262 +11.3% n/a 120 54 4.3% n/a
1973年12月期 単体 1,653 +31.0% n/a 136 58 3.5% n/a
1974年12月期 単体 2,054 +24.3% n/a 91 47 2.3% n/a
1975年12月期 単体 2,266 +10.3% n/a 178 77 3.4% n/a
1976年12月期 単体 2,774 +22.4% n/a 294 132 4.8% n/a
1977年12月期 単体 3,327 +19.9% n/a 330 154 4.6% n/a
1978年12月期 単体 3,909 +17.5% n/a 447 208 5.3% n/a
1979年12月期 単体 4,545 +16.3% n/a 526 260 5.7% n/a
1980年12月期 単体 5,173 +13.8% 415 487 245 4.7% n/a
1981年12月期 単体 5,791 +11.9% n/a 518 248 4.3% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

12件
出典・参考
  • 日本電装のあゆみ(1964)「技術センターの建設」
  • 日本電装のあゆみ(1964)「第2次5カ年計画」
  • 日本電装のあゆみ(1964)「機械・設備」
  • 会社銀行八十年史(1955)
  • 企業の歴史 明治百年(1968)
  • 私の履歴書 経済人3(石田退三, 1980)
  • 会社年鑑
  • ダイヤモンド 1956年10月9日号
  • ダイヤモンド 1967年9月18日号
  • 証券アナリストジャーナル 1969年第7巻第3号
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
  • 日経ビジネス 1991年8月26日号

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