オンキヨー:東芝グループ入りと欧米での販売・生産会社の設立
1957年〜東芝の資本参加と寝屋川の香里・日新2工場、オンキヨーへの改称
テレビから退いた後、五代武は事業をスピーカーとオーディオという音の領域に限った。対象を絞れば、景気や生活様式の変化に合わせて向きを変えにくくなるという代償を、五代武は後年に認めた。戦後に大阪だけで23社を数えたスピーカーメーカーも、1990年までに大半が市場から退出した。1957年6月、大阪音響は東芝と資本提携を結んだ。東芝の傘下に入った後も、自社ブランドの製品を作り、自ら販売する体制は続いた。総合電機の各社は、音響の分野をグループ企業に任せる戦略をとっていた。資本は総合電機に仰ぎ、製品の名義と音づくりは手元に残すという分担が、この提携の骨格になったとみられる。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [1]テレビからの撤退後、スピーカーとオーディオ事業に仕事の対象を絞った。
- [2]対象を絞り込むと時代の変化に対して柔軟性を発揮できず、そこに大変な苦労があると五代武は述べた。
- [3]戦後のスタート時に大阪だけで23社あったスピーカーメーカーは、1990年までにその大半が姿を消した。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [4]昭和32年6月、株式会社東芝と資本提携した。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [5]東芝の傘下に入った後も、独自ブランドの製品を製造・販売した。
- 日経ビジネス 1992年2月24日号
- [6]総合電機各社は音響分野をグループ企業に任せる戦略を進めてきた。
1961年1月に香里工場、1969年4月に日新工場を、いずれも大阪府寝屋川市に新設した。1971年9月には商号を大阪音響からオンキヨーへ改め、翌1972年11月に本社を寝屋川市へ移して音響技術研究所を置いた。新製品は五代武自身が試聴して承認し、1週間ほど後に聴き直しては手直しを重ねたという。音楽再生の水準を限界まで引き上げることを、五代武は若い頃からの執念としていた。技術者は理論に強くても情緒の再現には弱いというのが五代武の見方で、自らについては『私は経営者ではなく職人といえる』と語った。創業以来、商品政策の主導権は技術と生産の部門が握り続けた。寝屋川に集めた工場と研究所は、創業者の耳を頂点とする技術主導の体制を支える拠点だったのだろう。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [7]昭和36年1月に寝屋川市に香里工場、昭和44年4月に同市に日新工場を新設した。
- [8]昭和46年9月、商号をオンキヨー株式会社に変更した。
- [9]昭和47年11月、本社を寝屋川市に移転し、音響技術研究所を設置した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [10]製品ができると五代武が試聴して承認の判を押し、1週間ほど後に聴き直して不満な点を直させた。
- [11]音楽再生のレベルをこれ以上はできないという所まで引き上げたいという一念は、若い時からの執念である。
- [12]技術者は理論に強いが情緒に弱く、情緒的な感動の再現は難しいと五代武は考えていた。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [13]創業以来、社内では技術・生産部門が商品政策の主導権を握ってきた。
参考文献[1]-[13]
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [1]テレビからの撤退後、スピーカーとオーディオ事業に仕事の対象を絞った。
- [2]対象を絞り込むと時代の変化に対して柔軟性を発揮できず、そこに大変な苦労があると五代武は述べた。
- [3]戦後のスタート時に大阪だけで23社あったスピーカーメーカーは、1990年までにその大半が姿を消した。
- [10]製品ができると五代武が試聴して承認の判を押し、1週間ほど後に聴き直して不満な点を直させた。
- [11]音楽再生のレベルをこれ以上はできないという所まで引き上げたいという一念は、若い時からの執念である。
- [12]技術者は理論に強いが情緒に弱く、情緒的な感動の再現は難しいと五代武は考えていた。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [4]昭和32年6月、株式会社東芝と資本提携した。
- [7]昭和36年1月に寝屋川市に香里工場、昭和44年4月に同市に日新工場を新設した。
- [8]昭和46年9月、商号をオンキヨー株式会社に変更した。
- [9]昭和47年11月、本社を寝屋川市に移転し、音響技術研究所を設置した。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [5]東芝の傘下に入った後も、独自ブランドの製品を製造・販売した。
- [13]創業以来、社内では技術・生産部門が商品政策の主導権を握ってきた。
- 日経ビジネス 1992年2月24日号
- [6]総合電機各社は音響分野をグループ企業に任せる戦略を進めてきた。
1972年〜ドイツ・米国の販売会社とソウルの合弁韓国音響
1972年7月、オンキヨーはドイツに販売会社ONKYO EUROPE ELECTRONICS GMBHを設立した。1975年10月には米国にも販売会社ONKYO U.S.A. CORP.を設け、欧米の2市場に自前の販売拠点を持った。五代武は、音楽には民族ごとに固有の伝統があり、再生した音を各国へ売るには国を越えて通じる音が要ると考えていた。日本の伝統文化の中で育った作り手がその普遍性に挑む難しさは、事業を続けるうちに次第に分かってきたと、1990年に振り返った。欧米に販売会社を置いたことで、オンキヨーは好みの異なる各国の聴き手を相手に、同じ製品で競う立場に立った。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [14]昭和47年7月、ドイツに販売会社ONKYO EUROPE ELECTRONICS GMBHを設立した。
- [15]昭和50年10月、アメリカに販売会社ONKYO U.S.A. CORP.を設立した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [16]音楽には民族固有の伝統があり、再生した音楽を世界各国へ売るには世界的な普遍性が問われる。
- [17]日本の伝統文化の中で育った者が世界の普遍性に挑む難しさは、やっているうちに分かってきた。
五代武は、オーディオメーカーは海外での販売比率が高く、円高がすぐに業績へ響くと指摘していた。1973年9月、オンキヨーは在日韓国人の経営者2人と折半で出資し、ソウルに韓国音響を設立した。高級スピーカーは国内で作っても採算を確保できるが、中級品以下は費用と作業者の確保に難があった。その価格帯を捨てずに海外で作り続けることが、進出の動機だった。候補地には香港、台北、シンガポールも挙がったが、隣国であることと労働力の豊富さで韓国に決まった。工場はソウルの韓国輸出産業公団に置き、法人税などが5年間免除される代わりに輸出を義務づけられた。高級品は国内、中級品は韓国という価格帯の分業は、為替と人件費の上昇に備える手立てでもあったと推察される。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [18]オーディオメーカーは海外の販売比率が非常に高く、円高になるとたちまち業績にこたえる。
- 日経ビジネス 1976年8月30日号
- [19]韓国音響は1973年9月にソウルで設立され、出資比率はオンキョー50%、韓国側(在日韓国人の社長・会長)50%。
- [20]高級スピーカーは日本で生産しても採算が合うが、中級品以下はコストやオペレーターの面で問題があった。
- [21]中級品以下の生産を中止せず海外で生かすことが、海外進出決定の動機だった。
- [22]香港・台北・シンガポールも候補地だったが、隣国であること、労働力が豊富であることの2点で韓国に決めた。
- [23]本社・工場は韓国輸出産業公団内にあり、外資優遇策で法人税などの5年間全面免除を受ける一方、輸出が義務とされた。
韓国音響の工場は1973年11月に月産10万本で動き出し、1974年12月には第2次の設備導入で月産100万本の能力を備えた。だが当時の実際の生産は40万本にとどまり、国際的な需要の減少が響いた。五代武が挙げたとおり、この時期の音響業界はニクソン・ショックと石油危機を続けて受けた。部品は8割を日本から入れ、オンキヨーは必要経費のほかは取らない価格で供給した。稼働の直後は育成のためにオンキヨーが注文を優先して回したが、1976年には本体の側が韓国の製品を必要として発注する関係に変わった。部品と注文の両方を本体が握る以上、韓国音響は独立した合弁というより、オンキヨーの生産工程の延長として育った。
- 日経ビジネス 1976年8月30日号
- [24]1973年11月の稼働直後は月間10万本、1974年12月の第2次設備導入で月間100万本の能力になった。
- [25]1974年当時の実際の生産量は月間40万本で、国際的な需要不振がひびいていた。
- [27]部品の80%を日本からの輸入に頼り、オンキョーは必要経費以外を取らない低価格で部品を供給していた。
- [28]稼働直後はオンキョーが育成のため優先的に注文を回したが、1976年にはオンキョー側も必要度が高くなって注文するようになった。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [26]五代武の事業の間に、ニクソン・ショック、第1次・第2次のオイルショックがあった。
参考文献[14]-[28]
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [14]昭和47年7月、ドイツに販売会社ONKYO EUROPE ELECTRONICS GMBHを設立した。
- [15]昭和50年10月、アメリカに販売会社ONKYO U.S.A. CORP.を設立した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [16]音楽には民族固有の伝統があり、再生した音楽を世界各国へ売るには世界的な普遍性が問われる。
- [17]日本の伝統文化の中で育った者が世界の普遍性に挑む難しさは、やっているうちに分かってきた。
- [18]オーディオメーカーは海外の販売比率が非常に高く、円高になるとたちまち業績にこたえる。
- [26]五代武の事業の間に、ニクソン・ショック、第1次・第2次のオイルショックがあった。
- 日経ビジネス 1976年8月30日号
- [19]韓国音響は1973年9月にソウルで設立され、出資比率はオンキョー50%、韓国側(在日韓国人の社長・会長)50%。
- [20]高級スピーカーは日本で生産しても採算が合うが、中級品以下はコストやオペレーターの面で問題があった。
- [21]中級品以下の生産を中止せず海外で生かすことが、海外進出決定の動機だった。
- [22]香港・台北・シンガポールも候補地だったが、隣国であること、労働力が豊富であることの2点で韓国に決めた。
- [23]本社・工場は韓国輸出産業公団内にあり、外資優遇策で法人税などの5年間全面免除を受ける一方、輸出が義務とされた。
- [24]1973年11月の稼働直後は月間10万本、1974年12月の第2次設備導入で月間100万本の能力になった。
- [25]1974年当時の実際の生産量は月間40万本で、国際的な需要不振がひびいていた。
- [27]部品の80%を日本からの輸入に頼り、オンキョーは必要経費以外を取らない低価格で部品を供給していた。
- [28]稼働直後はオンキョーが育成のため優先的に注文を回したが、1976年にはオンキョー側も必要度が高くなって注文するようになった。
1980年〜津・倉吉・マレーシアの生産会社と経常赤字17億円への転落
1980年4月、三重県津市に生産会社オンキョーエレクトロニクスを設立した。1986年5月には鳥取県倉吉市で生産会社の鳥取オンキヨーを立ち上げた。1991年4月にはマレーシアにも生産会社ONKYO ELECTRIC (MALAYSIA) SDN. BHD.を置いた。その間の1982年、音響業界の不振はオーディオ不況の名で報じられ、多くのメーカーが赤字や倒産、社長交代に追い込まれた。続いて円高が進み、海外比率の高い音響各社は不況と為替の二重の打撃を受けた。倒産や社長交代が相次ぐなか、五代武の実感では、不況をくぐって生き残った創業経営者は自分一人に近かった。生産を国内の地方と東南アジアへ分けた展開は、円高の下で国内工場の費用を薄める手立てになった。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [29]昭和55年4月、三重県津市に生産会社オンキョーエレクトロニクス株式会社を設立した。
- [30]昭和61年5月、鳥取県倉吉市に生産会社鳥取オンキヨー株式会社を設立した。
- [31]平成3年4月、マレーシアに生産会社ONKYO ELECTRIC (MALAYSIA) SDN. BHD.を設立した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [32]昭和57年には「オーディオ不況」という呼称で報じられ、多くのオーディオメーカーが赤字・倒産・社長交代に見舞われた。
- [33]続く円高で、海外販売比率の高い音響メーカーはオーディオ不況と円高のダブルパンチを受けた。
- [34]倒産や世代交代が相次ぎ、今日まで生き長らえたのは自分一人のような感じがするほどだった。
オンキヨーの業績は1987年に最盛期を迎え、売上高468億円、経常利益11億円を計上した。しかし1980年代後半から国内のオーディオ市場は縮み、5000億円あった規模は1990年代前半に2000億円まで細った。1990年の講演で五代武は、業界が第2次のオーディオ不況に入ったとの認識を示し、会社の経営は4、5年前から若い世代に任せていると明かした。研究所は京都大学農学部の助言を受け、ダイセル化学工業と共同で、ホヤの外皮のセルロースを振動板の紙に混ぜる研究を進めた。この素材をウーハーに用いた1本20万円の「セプター2002」を、1990年10月13日に発売した。市場が半分以下に縮む局面で、オンキヨーは台数ではなく素材と音質で単価を上げる方針を取った。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [35]最盛期の1987年に売上高468億円、経常利益11億円を計上した。
- [36]1980年代後半から国内オーディオ市場が縮み、5000億円の市場規模は1990年代前半に2000億円まで縮小した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [37]1990年6月の講演時点で第2次オーディオ不況にあり、会社経営は4、5年前から若い人たちが担っている。
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [38]オンキョーは京都大学農学部の助言でホヤの外皮に注目し、ダイセル化学工業と共同で研究、ホヤのセルロースを7%混ぜた振動板を得た。
- [39]ホヤ入り振動板をウーハーに採用した高級スピーカーシステム「セプター2002」(1本20万円)を10月13日に発売した。
親会社の東芝は、1991年末までに音響機器の自社生産を打ち切った。以後はケンウッドや傘下のオンキヨーからOEM供給を受け、CDラジカセなどを少量だけ自社ブランドで売った。オンキヨーの側では、500台で足りるステレオを生産部門の都合で600台、700台と作り、在庫を積み上げていた。1992年度の売上高は448億7900万円、経常損益は17億300万円の赤字で、累積損失は34億6900万円に達した。赤字が3期続いた1993年4月、東芝の保有株をテクノグループ代表の大朏直人が個人で買い取ると報じられた。36年続いた資本の結びつきは、ここで解かれることになる。親会社にとってオンキヨーがOEMの調達先でしかなくなった時点で、資本提携はすでに意味を失いかけていたと思われる。
- 日経ビジネス 1992年2月24日号
- [40]東芝の音響事業は自社生産を1991年末までに中止した。
- [41]東芝はケンウッドや傘下のオンキョーからOEM供給を受け、CDラジカセなどをごく少量自社ブランドで販売していた。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [42]技術・生産部門の都合で、500台で十分なステレオを600台、700台と作り、過剰在庫を抱えていた。
- [43]1992年度の売上高448億7900万円、経常損失17億300万円、累積損失34億6900万円。
- 日経ビジネス 1993年6月28日号
- [44]1993年4月25日付の日本経済新聞が、東芝がオンキョー株をテクノグループの大朏直人に譲渡すると報じた。オンキョーは3期連続の赤字だった。
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [45]昭和32年6月に東芝と資本提携し、平成5年6月に株式会社東芝との資本提携を解消した。
参考文献[29]-[45]
- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- [29]昭和55年4月、三重県津市に生産会社オンキョーエレクトロニクス株式会社を設立した。
- [30]昭和61年5月、鳥取県倉吉市に生産会社鳥取オンキヨー株式会社を設立した。
- [31]平成3年4月、マレーシアに生産会社ONKYO ELECTRIC (MALAYSIA) SDN. BHD.を設立した。
- [45]昭和32年6月に東芝と資本提携し、平成5年6月に株式会社東芝との資本提携を解消した。
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- [32]昭和57年には「オーディオ不況」という呼称で報じられ、多くのオーディオメーカーが赤字・倒産・社長交代に見舞われた。
- [33]続く円高で、海外販売比率の高い音響メーカーはオーディオ不況と円高のダブルパンチを受けた。
- [34]倒産や世代交代が相次ぎ、今日まで生き長らえたのは自分一人のような感じがするほどだった。
- [37]1990年6月の講演時点で第2次オーディオ不況にあり、会社経営は4、5年前から若い人たちが担っている。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」
- [35]最盛期の1987年に売上高468億円、経常利益11億円を計上した。
- [36]1980年代後半から国内オーディオ市場が縮み、5000億円の市場規模は1990年代前半に2000億円まで縮小した。
- [42]技術・生産部門の都合で、500台で十分なステレオを600台、700台と作り、過剰在庫を抱えていた。
- [43]1992年度の売上高448億7900万円、経常損失17億300万円、累積損失34億6900万円。
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [38]オンキョーは京都大学農学部の助言でホヤの外皮に注目し、ダイセル化学工業と共同で研究、ホヤのセルロースを7%混ぜた振動板を得た。
- [39]ホヤ入り振動板をウーハーに採用した高級スピーカーシステム「セプター2002」(1本20万円)を10月13日に発売した。
- 日経ビジネス 1992年2月24日号
- [40]東芝の音響事業は自社生産を1991年末までに中止した。
- [41]東芝はケンウッドや傘下のオンキョーからOEM供給を受け、CDラジカセなどをごく少量自社ブランドで販売していた。
- 日経ビジネス 1993年6月28日号
- [44]1993年4月25日付の日本経済新聞が、東芝がオンキョー株をテクノグループの大朏直人に譲渡すると報じた。オンキョーは3期連続の赤字だった。
出典・参考
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- オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1976年8月30日号
- 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- 日経ビジネス 1992年2月24日号
- 日経ビジネス 1993年6月28日号
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』(1995年)「当たり前経営で仲良しクラブを燃える集団に」