第1章 年〜年

オンキヨー:五代武の大阪電気音響社設立とスピーカー第1号機

1945年〜松下電器での12年と、電熱器の売上で立てた大阪電気音響社

五代武氏は、松下電器でスピーカーの製造と設計に携わった技術者として独立した。1933年に18歳で入社し、十三のラジオ工場でマグネチックスピーカーの現場を約2年務め、技術部でダイナミックスピーカーの設計に移った。1939年ごろには東京研究所へ転じ、国産のロッシェル塩を使うマイクロホンやピックアップの研究に助手として加わった。戦時は当時専務の井植歳男氏の指示で、航空機用のマイクロホンとレシーバーの生産を1枚の図面から立ち上げた。その音響工場の責任者を終戦まで務めた経験を携え、五代氏は満足のいく国産スピーカーが無いことを独立の理由とした。設計・材料・量産の三つを一人で経験していたことが、資本の乏しい創業者にとって最大の元手だったとみられる。

  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [1]五代武氏は松下電器でスピーカーの製造と設計に携わった後、独立して事業を始めた。
    • [2]1933年、18歳で松下電器に入社し、十三のラジオ工場のスピーカー部門でマグネチックスピーカーの現場を約2年経験した後、技術部でダイナミックスピーカーの設計を担当した。
    • [3]1939年ごろ松下電器の東京研究所へ移り、田中愛二郎氏の助手としてロッシェル塩を使ったマイクロホン・スピーカー・ピックアップの研究に従事した。ロッシェル塩は酒石酸から採れ、国産で賄えた。
    • [4]太平洋戦争の開始後に本社へ戻り、専務の井植歳男氏の指示で、図面1枚と見本1つから航空無線用のマイクロホン・レシーバーの生産を始め、終戦まで音響工場の責任者を務めた。
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [5]満足できるダイナミックな国産スピーカーがないと感じた五代武が、自らスピーカーを作るべく創業した。

五代氏が松下電器を退いたのは1945年9月で、社長の松下幸之助氏と直属の上司だった藤尾氏から叱責を受けた末の退社だったという。最初の商品はスピーカーではなく電気コンロで、燃料の払底した戦後の家庭で需要をつかんだ。続く電気アイロンもよく売れ、アルミの胴やニクロム線を闇市場で調達しながら資金を積み上げた。父親からの出資の申し出は、後々の貸し借りを嫌って断っている。法人としての出発は1946年4月の有限会社大阪電気音響で、同年9月に株式会社大阪電気音響社として大阪市都島区で設立された。翌1947年3月には商号を大阪音響株式会社へ改めた。親族の資本を入れず、家電の売上で開業資金を賄った順序が、創業者の裁量を保つ土台になったのだろう。

  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [6]五代武氏は1945年9月に松下電器を退社して独立した。退社にあたっては松下幸之助社長と直接の上司の藤尾氏に叱られたが、許しを得た。
    • [7]独立後、資金を得るためにまず電気コンロを作った。燃料のない時代で、停電が続いても電気コンロはよく売れた。
    • [8]次いで電気アイロンを作り、材料のアルミの胴体やニクロム線は闇で入手した。電熱器の販売で若干の資金を得た。
    • [9]父親から出資の申し出があったが、後で恩に着せられることを避けるため断った。
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [10]1946年4月、有限会社大阪電気音響を創業した(1946年9月に株式会社に変更)。
  • オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
    • [11]1946年9月、株式会社大阪電気音響社として大阪市都島区に設立した。
    • [12]1947年3月、商号を大阪音響株式会社に変更した。

1946年5月、大阪電気音響は最初の自社ブランド製品としてクリスタルピックアップを出した。当時は完成品のラジオや電蓄に重い物品税が掛かり、街で部品を買い集めて自ら組み立てる需要が広がっていた。五代氏はこの組み立て需要に向けた部品のうち、最も少ない資本で始められる品目としてピックアップを選んだ。材料のロッシェル塩は東京研究所で扱い慣れたもので、軍需が消えて製品化しやすくなっていた。ピックアップで得た収益は、スピーカーの研究と工場の建設に振り向けられた。本命のスピーカーへ進む前に、税制の外側にある部品市場で日々の現金を得る順序を踏んだことになる。

  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [13]1946年5月、オンキヨーブランド第1号の製品としてクリスタルピックアップを出した。
    • [17]ピックアップの収益でスピーカーの研究を始め、工場設立を目指した。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [14]戦後はメーカー製のラジオや電蓄に高率の物品税が掛かったため、街で部品を買い集めて組み立てることが流行した。
    • [15]ピックアップは一番資本がかからない品目として選んだ。
    • [16]ピックアップはロッシェル塩を使って作った。ロッシェル塩は軍需用だったが戦後は不要となり、製品化は容易だった。
参考文献[1]-[17]
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [1]五代武氏は松下電器でスピーカーの製造と設計に携わった後、独立して事業を始めた。
    • [2]1933年、18歳で松下電器に入社し、十三のラジオ工場のスピーカー部門でマグネチックスピーカーの現場を約2年経験した後、技術部でダイナミックスピーカーの設計を担当した。
    • [3]1939年ごろ松下電器の東京研究所へ移り、田中愛二郎氏の助手としてロッシェル塩を使ったマイクロホン・スピーカー・ピックアップの研究に従事した。ロッシェル塩は酒石酸から採れ、国産で賄えた。
    • [4]太平洋戦争の開始後に本社へ戻り、専務の井植歳男氏の指示で、図面1枚と見本1つから航空無線用のマイクロホン・レシーバーの生産を始め、終戦まで音響工場の責任者を務めた。
    • [6]五代武氏は1945年9月に松下電器を退社して独立した。退社にあたっては松下幸之助社長と直接の上司の藤尾氏に叱られたが、許しを得た。
    • [7]独立後、資金を得るためにまず電気コンロを作った。燃料のない時代で、停電が続いても電気コンロはよく売れた。
    • [8]次いで電気アイロンを作り、材料のアルミの胴体やニクロム線は闇で入手した。電熱器の販売で若干の資金を得た。
    • [9]父親から出資の申し出があったが、後で恩に着せられることを避けるため断った。
    • [14]戦後はメーカー製のラジオや電蓄に高率の物品税が掛かったため、街で部品を買い集めて組み立てることが流行した。
    • [15]ピックアップは一番資本がかからない品目として選んだ。
    • [16]ピックアップはロッシェル塩を使って作った。ロッシェル塩は軍需用だったが戦後は不要となり、製品化は容易だった。
    • [5]満足できるダイナミックな国産スピーカーがないと感じた五代武が、自らスピーカーを作るべく創業した。
    • [10]1946年4月、有限会社大阪電気音響を創業した(1946年9月に株式会社に変更)。
    • [13]1946年5月、オンキヨーブランド第1号の製品としてクリスタルピックアップを出した。
    • [17]ピックアップの収益でスピーカーの研究を始め、工場設立を目指した。
  • オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
    • [11]1946年9月、株式会社大阪電気音響社として大阪市都島区に設立した。
    • [12]1947年3月、商号を大阪音響株式会社に変更した。

1948年〜マグナボックスの分解研究と、他社の1.5倍の値で販売されたED-100

終戦直後の大阪には23社のスピーカーメーカーがあり、東京より大阪に集まる地場産業の色合いが濃かった。当時は外から買ったコーン紙を組み立てるのが業界の通例で、国産品の性能は米国製と比べる水準に無かった。一方でGHQの民間通信局は、雇用の受け皿であり情報を届ける手段でもあるラジオの生産を後押しした。珪素鋼板のような希少な資材が業界へ優先して配分されたことを、五代氏は産業が立ち上がった要因に挙げている。1948年1月、大阪音響は念願のスピーカー工場を完成させた。部材を買って組むだけの同業が並ぶ市場では、振動板まで自ら作れるかどうかが差をつける余地になったと考えられる。

  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [18]戦後の出発時、スピーカーメーカーは大阪だけで23社あった。スピーカーは大阪の地場産業的なもので、東京には余りなかった。
    • [20]戦後直後に良いスピーカーといえば舶来品で、特にアメリカ製と比べると日本製は性能で比較にならなかった。
    • [21]GHQの民間通信局(CCS)は、ニュースを大衆へ届け、かつ多くの人手を使う産業としてラジオの生産を奨励した。
    • [22]CCSの働きかけで、珪素鋼板などの重要資材が優先的に業界へ割り当てられ、産業の立ち上がりに寄与した。
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [19]当時のスピーカーはコーン紙を購入して組み立てるのが常識だった。
    • [23]1948年1月、念願のスピーカー工場が完成した。

五代氏が手本に据えたのは、戦前から輸入されていた米国のマグナボックスとローラーのスピーカーだった。自社の工場と技術陣だけでは測定が及ばず、大阪大学と京都大学に協力を仰いでマグナボックスの構造と特性を細部まで分析した。まず見本どおりの品を作って国産品との差がどこで生じるかを突き止め、原品にかなり近い試作品を得た。分析で判明した材料の中には国内で調達できないものが含まれ、代用品を探して置き換えた。コーン紙も購入に頼らず、自社で研究を始めた。模倣から入り、測定値で差を詰める方法は、社内の設計経験を大学の設備で補う組み合わせだった。

  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [24]戦前から入っていたマグナボックスやローラーなどの外国製スピーカーを研究対象とした。
    • [25]自社の工場も技術力も貧弱だったため、大阪大学や京都大学に支援を求め、マグナボックスを分析して性能を確かめた。
    • [26]当初はデータが無いため、自社品との違いを調べる目的で見本に即して作ることから始め、原品に近いものができた。
    • [27]大学の分析で示された条件には日本で入手できない材料が含まれ、代用品を工夫してスピーカーを完成させた。
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [28]コーン紙を購入して組み立てるのが常識だったなか、自らコーン紙の研究に取り組んだ。

1948年4月、大阪音響はスピーカーの1号機として、25cmのドライバーを積んだED-100を発売した。価格は他社製品の1.5倍だったが売れ行きは伸び、『感度が良く、丈夫で、いい音』との評価を集めた。五代氏はこの1号機を長く売れ続けた製品と振り返り、ここから事業の基礎が固まったとしている。1950年2月には最初のノンプレスコーンを開発して特許を出願し、1953年1月にはED-100の振動板をこのコーンに替えて再発売した。1.5倍の価格を買い手に受け入れさせたのは、見本の再現で得た性能の水準と、振動板を自前で作る工程が重なった結果だったのだろう。

  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [29]1948年4月、スピーカー1号機ED-100を発売した。25cmドライバーを採用した。
    • [30]ED-100の価格は他社の1.5倍だったが大ヒットした。
    • [32]1950年2月、最初のノンプレスコーンを開発し、特許を出願した。
    • [33]1953年1月、スピーカー1号機ED-100をノンプレスコーンに変更して再発売した。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [31]第1号のスピーカーは戦後のロングヒット商品となり、その評判で事業の基礎ができた。
参考文献[18]-[33]
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [18]戦後の出発時、スピーカーメーカーは大阪だけで23社あった。スピーカーは大阪の地場産業的なもので、東京には余りなかった。
    • [20]戦後直後に良いスピーカーといえば舶来品で、特にアメリカ製と比べると日本製は性能で比較にならなかった。
    • [21]GHQの民間通信局(CCS)は、ニュースを大衆へ届け、かつ多くの人手を使う産業としてラジオの生産を奨励した。
    • [22]CCSの働きかけで、珪素鋼板などの重要資材が優先的に業界へ割り当てられ、産業の立ち上がりに寄与した。
    • [24]戦前から入っていたマグナボックスやローラーなどの外国製スピーカーを研究対象とした。
    • [25]自社の工場も技術力も貧弱だったため、大阪大学や京都大学に支援を求め、マグナボックスを分析して性能を確かめた。
    • [26]当初はデータが無いため、自社品との違いを調べる目的で見本に即して作ることから始め、原品に近いものができた。
    • [27]大学の分析で示された条件には日本で入手できない材料が含まれ、代用品を工夫してスピーカーを完成させた。
    • [31]第1号のスピーカーは戦後のロングヒット商品となり、その評判で事業の基礎ができた。
    • [19]当時のスピーカーはコーン紙を購入して組み立てるのが常識だった。
    • [23]1948年1月、念願のスピーカー工場が完成した。
    • [28]コーン紙を購入して組み立てるのが常識だったなか、自らコーン紙の研究に取り組んだ。
    • [29]1948年4月、スピーカー1号機ED-100を発売した。25cmドライバーを採用した。
    • [30]ED-100の価格は他社の1.5倍だったが大ヒットした。
    • [32]1950年2月、最初のノンプレスコーンを開発し、特許を出願した。
    • [33]1953年1月、スピーカー1号機ED-100をノンプレスコーンに変更して再発売した。

1952年〜旭区への工場移転と20cmスピーカーのラジオOS-55、1955年のテレビ生産

1952年6月、大阪音響は本社と本社工場を大阪市都島区から旭区へ移した。生産の増加に合わせ、事務所と工場を広げるための移転だった。会社はこの時期を、スピーカーの最大手としての地盤が固まった段階と位置づけている。五代氏は続いて、自社のスピーカーを生かした音の良いラジオへ製品を広げた。1953年3月に出したラジオ1号機OS-55は、12cmか16cmが主流だったラジオ用スピーカーに20cmの口径を採った。五代氏の回想では、このラジオも評判を呼んで相当な台数が売れた。他社の完成品に納める部品として売ってきたスピーカーを自社の完成品に組み込み、口径の差をそのまま商品の売り物に変えた転換である。

  • オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
    • [34]1952年6月、本社と本社工場を大阪市旭区に移転した。
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [35]生産の増加に伴い、事務所と工場を大阪市旭区へ移転して拡大した。
    • [36]移転後さらに売上を伸ばし、名実ともにスピーカーのトップメーカーとしての地盤が築かれた(会社の説明)。
    • [38]1953年3月、ラジオ1号機OS-55を発売した。当時のラジオ用スピーカーは12cmか16cmが主流だったが、20cmスピーカーを採用した。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [37]スピーカーを応用して、より良い音のラジオを作ろうとラジオに参入した。
    • [39]良い音のラジオは好評で、かなりの量が売れた。

1953年11月の第2回全日本オーディオフェアで、大阪音響はスピーカーの過渡応答性が音質を左右することを実演で示した。1954年7月からは、全国の公会堂などの大ホールでLPレコードを聴かせるコンサートを主催した。1956年2月にはコーン型ツイーターを組み込んだ同軸型のCX-12・CX-10・CX-8を発表した。同年4月にはプラスチックを振動板に用いたPOP CONEも出している。同じ4月には長さ4mのホーンと3ウェイのマルチアンプを並べた立体再生の催しも開いている。五代氏自身、後年まで過渡特性を周波数特性や歪みと並ぶ再生の課題に数えていた。特性の差は売り場では伝わりにくく、音を聴かせる場を自ら設けることが販売の手段を兼ねた。

  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [40]1953年11月、第2回全日本オーディオフェアで、スピーカーの過渡応答性の重要性を実演で示した。
    • [41]1954年7月、オンキヨー主催のLPコンサートの開催を始めた。会場は全国各地の公会堂や公民館の大ホールだった。
    • [42]1956年2月、コーン型ツイーターを使った同軸型スピーカーCX-12・CX-10・CX-8を発表した。
    • [43]1956年4月、プラスチックを素材にしたスピーカー「POP CONE」を発表した(会社は日本初と説明)。
    • [44]1956年4月、長さ4mの巨大ホーンと3ウェイのマルチチャンネルアンプによる立体コンサートを開いた。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [45]1990年の講演で、五代武氏は音楽再生の課題として周波数特性、ダイナミックレンジ、歪み、過渡特性を挙げた。

1955年8月、大阪音響は「音のいいテレビ」を掲げてテレビの生産を始めた。テレビはブラウン管の周囲に多数の部品を詰めながら、スピーカーは貧弱なものが1本載るだけだった。映像が主役になれば音は従となり、スピーカーはコストを削られる側に回ると五代氏は読んだ。スピーカー専業のままでは商売が細ると見て、自らテレビの組み立てに参入した。参入の前、居合わせた松下幸之助氏からは『テレビというものは大変なものやからよう考えなあかんぞ』と釘を刺されたが、計画は変えなかった。後年の五代氏は、このテレビ参入を若さゆえの無謀な失敗だったと総括している。スピーカーの需要の移り変わりを追って完成品へ出た判断は、部品専業の限界を見越した多角化の最初の一手だった。

  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)
    • [46]1955年8月、オンキヨーテレビの生産を開始した。コンセプトは「音のいいテレビ」だった。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [47]当時のテレビはブラウン管の周りに部品が詰まっていたが、スピーカーはラジオより貧弱なものが1本付くだけだった。
    • [48]テレビの時代には映像が主、音が従となり、スピーカーはコスト面で割を食うと五代氏は考えた。
    • [49]テレビの時代になればスピーカー屋は商売にならないと考え、テレビを手がけた。
    • [50]松下幸之助氏・井植歳男氏と同席した折、テレビ参入の意向を察した松下氏から慎重に考えるよう忠告されたが、五代氏は参入するつもりでいた。
    • [51]五代氏はテレビ参入を若気の至りによる無謀な試みとして失敗し、音の事業に戻ったと振り返った。
参考文献[34]-[51]
  • オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
    • [34]1952年6月、本社と本社工場を大阪市旭区に移転した。
    • [35]生産の増加に伴い、事務所と工場を大阪市旭区へ移転して拡大した。
    • [36]移転後さらに売上を伸ばし、名実ともにスピーカーのトップメーカーとしての地盤が築かれた(会社の説明)。
    • [38]1953年3月、ラジオ1号機OS-55を発売した。当時のラジオ用スピーカーは12cmか16cmが主流だったが、20cmスピーカーを採用した。
    • [40]1953年11月、第2回全日本オーディオフェアで、スピーカーの過渡応答性の重要性を実演で示した。
    • [41]1954年7月、オンキヨー主催のLPコンサートの開催を始めた。会場は全国各地の公会堂や公民館の大ホールだった。
    • [42]1956年2月、コーン型ツイーターを使った同軸型スピーカーCX-12・CX-10・CX-8を発表した。
    • [43]1956年4月、プラスチックを素材にしたスピーカー「POP CONE」を発表した(会社は日本初と説明)。
    • [44]1956年4月、長さ4mの巨大ホーンと3ウェイのマルチチャンネルアンプによる立体コンサートを開いた。
    • [46]1955年8月、オンキヨーテレビの生産を開始した。コンセプトは「音のいいテレビ」だった。
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
    • [37]スピーカーを応用して、より良い音のラジオを作ろうとラジオに参入した。
    • [39]良い音のラジオは好評で、かなりの量が売れた。
    • [45]1990年の講演で、五代武氏は音楽再生の課題として周波数特性、ダイナミックレンジ、歪み、過渡特性を挙げた。
    • [47]当時のテレビはブラウン管の周りに部品が詰まっていたが、スピーカーはラジオより貧弱なものが1本付くだけだった。
    • [48]テレビの時代には映像が主、音が従となり、スピーカーはコスト面で割を食うと五代氏は考えた。
    • [49]テレビの時代になればスピーカー屋は商売にならないと考え、テレビを手がけた。
    • [50]松下幸之助氏・井植歳男氏と同席した折、テレビ参入の意向を察した松下氏から慎重に考えるよう忠告されたが、五代氏は参入するつもりでいた。
    • [51]五代氏はテレビ参入を若気の至りによる無謀な試みとして失敗し、音の事業に戻ったと振り返った。

出典・参考

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出典・参考
  • オンキヨー 有価証券報告書(第87期・2010年3月期)【沿革】
  • 五代武「音響ひとすじ」『電子』30巻8号(日本電子機械工業会、1990年)
  • オンキヨー公式サイト「Onkyo ヒストリー」(2016年1月時点)

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