第1章 年〜年

月島ホールディングス:東京月島機械製作所の創業と株式会社化

1905年〜鈴木鉄工部を出た黒板傳作氏の月島の製缶工場と、大倉組の後ろ盾

黒板傳作氏は東京帝国大学を卒業後、鈴木藤三郎氏が個人で営む鈴木鉄工部に技師として入社し、日本精製糖の器械係嘱託技師も兼ねた。黒板傳作氏は機械を買い入れる側の嘱託技師でもあり、鈴木式ボイラーの採用をめぐって鈴木藤三郎氏と意見が対立した。日露戦争のさなかに退職を決めた黒板傳作氏は、1905年4月、日本精製糖の職工長だった山谷和吉氏と東京鉄工所機械部を共同で発足させた。深川の村本鉄工所を借りた工場は持ち主から立ち退きを求められ、両氏は月島の高橋鉄工場を1万5,000円で取得する話をまとめた。代金の半分を即金、残りを年賦とする条件で、1905年8月、月島での操業開始。機械を買い入れる側の技師として雇い主の製品に異を唱えたことが、自前の工場を持つ契機になったとみられる。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [1]黒板傳作は鈴木藤三郎個人経営の鈴木鉄工部に技師として入社し、日本精製糖の器械係嘱託技師を兼ねた
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [2]鈴木式ボイラー採用で鈴木社長と対立し退職を決意、1905年4月に山谷和吉と村本鉄工所を借りて東京鉄工所機械部を共同で発足
    • [3]鈴木式ボイラー採用で鈴木社長と対立し退職を決意、1905年4月に山谷和吉と村本鉄工所を借りて東京鉄工所機械部を共同で発足
    • [4]村本氏から立ち退きを求められ、月島東仲通5丁目の高橋鉄工場を買収総額1万5,000円(半額即金・半額年賦)で取得し1905年8月に月島で操業開始
    • [5]村本氏から立ち退きを求められ、月島東仲通5丁目の高橋鉄工場を買収総額1万5,000円(半額即金・半額年賦)で取得し1905年8月に月島で操業開始

1908年4月30日締切の第5期決算書では、東京月島機械製作所は機械部と製罐部に分かれ、機械部は資本金4万円の匿名組合に近い組織だった。高橋鉄工場の取得と設備の拡充にあたり、黒板傳作氏は夫人の縁故から山口俊太郎氏の資金援助を得た。事業規模を広げるには、より有力な資本家の後援が必要だと黒板傳作氏は判断した。友人の福原俊丸男爵が大倉喜七郎氏と懇意だったことから、話は大倉喜七郎氏を経て一族の大倉粂馬氏へ取り次がれた。山口俊太郎氏も大倉組の門野重九郎氏と親しく、以後の製作所は大倉組から金融と仕事の両面で支援を受けた。個人の信用で調達できる資金には限りがあり、大倉組との関係が後の株式会社化の土台になったのだろう。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [6]現存唯一の第5期決算書(1908年4月30日締切)で、製作所は機械部と製罐部に分かれ、機械部は資本金4万円の匿名組合的組織
    • [10]山口氏が大倉組の門野重九郎と懇意で、以後製作所は大倉組と金融・仕事の両面で関係を深めた
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [7]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた
    • [8]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた
    • [9]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた

黒板傳作氏は月島へ移ると同時に徒弟を採用し、1905年秋には工場の一隅に徒弟宿舎を完成させた。学校出の工場は駄目だと忠告した工場主の高橋熊次氏に対し、黒板傳作氏は『俺は人間を育ててやる。だから直ぐには駄目だが末には伸す積りだ』と答えた。黒板傳作氏は自身も知人の援助で苦学を終えており、その恩に報いるため後輩の養成を念願とした。徒弟は朝7時30分から夕方5時まで工場で働き、夕食後は9時まで勉強し、応募者の10人に9人は入所できなかった。明治の末には、軍工場の職長級の職工でも製作所の徒弟に腕で及ばないほどになった。1918年には月島東仲通5丁目に養成所を新設して5年制の夜学を採用し、人員は約60人に達した。熟練工を外から確保しにくい時期に、自前の育成が製作所の技術の底を支えたと考えられる。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [11]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
    • [12]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
    • [13]黒板は苦学時代に知人の援助を受けた恩に報いるため後輩の養成を念願とし、養成所は創業当初から置かれた
    • [15]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [14]徒弟の日課は7時30分〜17時作業、18時30分〜21時勉強。応募者の10人中9人は入所できなかった
    • [16]1918年に月島東仲通5丁目へ養成所を新設、5年制の夜学を採用し人員約60人
参考文献[1]-[16]
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [1]黒板傳作は鈴木藤三郎個人経営の鈴木鉄工部に技師として入社し、日本精製糖の器械係嘱託技師を兼ねた
    • [6]現存唯一の第5期決算書(1908年4月30日締切)で、製作所は機械部と製罐部に分かれ、機械部は資本金4万円の匿名組合的組織
    • [10]山口氏が大倉組の門野重九郎と懇意で、以後製作所は大倉組と金融・仕事の両面で関係を深めた
    • [11]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
    • [12]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
    • [13]黒板は苦学時代に知人の援助を受けた恩に報いるため後輩の養成を念願とし、養成所は創業当初から置かれた
    • [15]月島移転と同時に徒弟を集め1905年秋に徒弟宿舎竣成。高橋熊次の忠告に黒板が人を育てると答えた。明治末には軍工場の職長級も徒弟に及ばなかった
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [2]鈴木式ボイラー採用で鈴木社長と対立し退職を決意、1905年4月に山谷和吉と村本鉄工所を借りて東京鉄工所機械部を共同で発足
    • [3]鈴木式ボイラー採用で鈴木社長と対立し退職を決意、1905年4月に山谷和吉と村本鉄工所を借りて東京鉄工所機械部を共同で発足
    • [4]村本氏から立ち退きを求められ、月島東仲通5丁目の高橋鉄工場を買収総額1万5,000円(半額即金・半額年賦)で取得し1905年8月に月島で操業開始
    • [5]村本氏から立ち退きを求められ、月島東仲通5丁目の高橋鉄工場を買収総額1万5,000円(半額即金・半額年賦)で取得し1905年8月に月島で操業開始
    • [7]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた
    • [8]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた
    • [9]高橋鉄工場買収と拡充の資金を夫人の縁故で山口俊太郎に仰ぎ、さらに資本家の後援を要すると考え、福原俊丸男爵から大倉喜七郎、大倉粂馬へ話が取り次がれた
    • [14]徒弟の日課は7時30分〜17時作業、18時30分〜21時勉強。応募者の10人中9人は入所できなかった
    • [16]1918年に月島東仲通5丁目へ養成所を新設、5年制の夜学を採用し人員約60人

1909年〜台湾の製糖工場の拡張で得た受注と、月島の水害と不況の災厄

1907〜1908年、台湾では5大製糖会社の新工場の建設が重なり、機械の大半は外国製だった。東京月島機械製作所は堀宗一氏の依頼で塩水港製糖の据え付けを受注し、1908年2月に山谷和吉氏が工員12名ほどを連れて渡台した。他社より2か月遅れて着工した塩水港製糖は真っ先に竣工し、900トンの圧搾予定に対して1,000トン以上を処理する成果を上げた。1909年6月には大日本製糖の依頼で同社のドイツ製機械を分解して手直しし、予定の1,200トンを圧搾できるようになった。1910年夏には、松岡製糖所から300トン分蜜糖工場の機械を受注。大日本製糖の仕事は同社技師長の松井元治郎氏を通じて得たもので、以後も台湾の製糖工場からの注文が続いた。外国製機械の据え付けと手直しで得た信用が、製糖機械の国産化へ進む足場になったと推察される。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [17]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [18]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [19]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [20]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [21]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [22]大日本製糖技師長松井元治郎を通じて同社工場を手直しし、台湾の製糖工場に地盤を築いた

日露戦後の好況は1907年を境に反動不況へ転じ、東京月島機械製作所では1909年頃から製缶の仕事がほとんど途絶えた。受注は岐阜県安八郡仁木村の排水用ポンプ類などにとどまり、製缶部は早くも相当の赤字を計上した。護岸工事の済んでいない月島は豪雨のたびに浸水し、1910年8月の水害と1911年7月の津波を伴う暴風雨で床上浸水の被害を受けた。連年の水害で月島の人口は半減したと伝えられる。1910年8月の群馬県の大洪水を機に、県技師で黒板傳作氏の従兄の佐藤三四郎氏の勧めを受け、製作所は1912年にかけて復旧用の橋梁を架設した。木鉄橋だけで27橋を架け、鉄道の鉄柱工事も加えて明治末の不況を切り抜けた。製糖機械の受注の空白を鋼構造物で埋めたことが、存続の支えになったとうかがえる。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [23]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [25]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [26]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [28]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [24]製缶部は早くも相当の赤字。仁木村の排水ポンプ程度の受注。1910年8月の群馬県大洪水で従兄の佐藤三四郎の進言により1912年にかけ橋梁を架設、木鉄橋だけで27橋
    • [27]製缶部は早くも相当の赤字。仁木村の排水ポンプ程度の受注。1910年8月の群馬県大洪水で従兄の佐藤三四郎の進言により1912年にかけ橋梁を架設、木鉄橋だけで27橋

第1次世界大戦で欧米からの機械の輸入はほぼ途絶し、国内では製造工場の新設と増設が相次いだ。黒板傳作氏は大倉發身氏と協議し、事業を一段と拡充するため株式会社への改組を決めた。1917年3月に設立趣旨書を頒布した時点で、製作所の受注は年額100万円を超えていた。1917年5月31日の設立総会で、資本金150万円(払込37万5,000円)、株主62人の月島機械株式会社の発足。新会社は製作所の営業権と設備一切を27万9,270円で取得し、趣旨書の帝国機械鉄工株式会社ではなく月島機械の名で事業を継いだ。改組当初の役員は取締役会長が大倉發身氏、専務取締役が黒板傳作氏で、大倉粂馬氏も取締役として経営に加わった。受注が個人経営の資金の枠を超えたことが、外部の出資を仰ぐ改組の直接の理由であろう。

  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [29]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [30]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [31]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [32]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [33]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [34]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [35]大倉發身は1917年の改組当初から取締役会長、大倉粂馬は改組以来1944年11月まで取締役
参考文献[17]-[35]
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [17]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [18]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [19]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [20]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [21]1907〜08年に台湾で5大製糖の新工場建設が集中。1908年2月に山谷和吉が渡台し塩水港製糖を据え付け最初に竣工、1909年6月に大日本製糖の機械を手直し、打狗・南投に赤糖機械、1910年夏に松岡製糖所300トン工場の機械を受注
    • [23]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [25]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [26]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [28]1907年から反動不況、1909年頃から製罐の仕事がほぼ途絶。護岸未完成の月島は1910年8月・1911年7月に水害、人口半減と伝わる。橋梁・鉄柱工事で明治末の不況を切り抜けた
    • [35]大倉發身は1917年の改組当初から取締役会長、大倉粂馬は改組以来1944年11月まで取締役
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [22]大日本製糖技師長松井元治郎を通じて同社工場を手直しし、台湾の製糖工場に地盤を築いた
    • [24]製缶部は早くも相当の赤字。仁木村の排水ポンプ程度の受注。1910年8月の群馬県大洪水で従兄の佐藤三四郎の進言により1912年にかけ橋梁を架設、木鉄橋だけで27橋
    • [27]製缶部は早くも相当の赤字。仁木村の排水ポンプ程度の受注。1910年8月の群馬県大洪水で従兄の佐藤三四郎の進言により1912年にかけ橋梁を架設、木鉄橋だけで27橋
    • [29]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [30]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [31]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [32]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [33]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す
    • [34]大戦で機械輸入が途絶し国産需要が増加。黒板は大倉發身と改組を決意、1917年3月設立趣旨書、5月31日設立総会、資本金150万円(払込37万5,000円)・株主62人、営業権と設備を27万9,270円で買収、趣旨書の社名帝国機械鉄工から月島機械に改め発足。役員は取締役会長大倉發身・専務取締役黒板傳作・取締役田川新吉ら。趣旨書は注文年額100万円超と記す

1917年〜東京造船所の汽機5台で始めた株式会社と、黒板傳作氏の58歳での逝去

改組後の第1期(1917年6月1日〜10月31日)、月島機械は製糖の外に造船と化学工業の注文を相次いで受けた。東京造船所からは船舶用汽機5台と汽罐8基を31万3千余円で受注し、日本染料と大倉組からは二重効用蒸発装置の注文が入った。台湾では帝国製糖潭仔墘工場から結晶罐や四重効用罐など27万4千余円の工事を受け、工場は連日夜業を続けた。1917年10月1日には台風と津波で倒壊家屋6棟などの被害を出し、工場は約1週間作業を止めた。第1期は新規受注142万円、生産高90万円を計上し、普通1割と特別2分の配当を実施した。1918年2月には第2回の払込を徴収して払込資本金を52万5,000円に増額し、復旧の費用に充てた。造船や化学の需要を取り込んだことで、製糖に偏った受注の構成が変わり始めたと読める。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [36]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [37]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [38]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [39]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [40]第1期は新規受注142万円・生産高90万円、普通1割特別2分の初配当。1918年2月第2回払込で払込資本金52万5,000円とし工場事務所の復旧に充当
    • [41]第1期は新規受注142万円・生産高90万円、普通1割特別2分の初配当。1918年2月第2回払込で払込資本金52万5,000円とし工場事務所の復旧に充当

黒板傳作氏は1921年2月に取締役会長となり、同年11月29日の定款変更で月島機械の初代社長に就任した。1923年9月1日の関東大震災で月島の事務所と工場は全焼し、残ったのは佃島工場の製罐工場1棟だけだった。設計製作図面もすべて焼失し、社員は三菱21号館の一室を借りて再建に着手した。社長の黒板傳作氏は一時、会社を解散するか、2、30万円規模の会社に縮小することを考えた。黒板傳作氏は田川新吉専務取締役や大倉粂馬取締役らと協議して再起を決め、日本興業銀行に復興資金の借入を申し込んだ。銀行は社長の私邸の担保と重役の連帯保証を求め、重役会の異論に対して黒板傳作氏は会社を一生の仕事として自邸を抵当に入れた。創業者個人の資産を差し出す決断が、震災後の資金の手当てを可能にしたと思われる。

  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [42]1921年2月に大倉發身会長の辞任で黒板傳作が会長、同年11月29日の定款変更で初代社長に就任
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [43]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [44]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [45]震災直後、黒板社長は解散または2、30万円の小さな会社への縮小を考えた(五十嵐粛氏談)
    • [46]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [47]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた

黒板傳作氏は1932年、ドイツの熱処理材デュルフェリットの国産化を図り、合弁で東洋鋼化株式会社を設立して取締役に就任した。月島機械はエンケ型特殊ブロワーの国内唯一の製造会社にもなり、黒板傳作氏は自ら各地を回って受注に当たった。1933年春に満洲へ出張して風邪を引き、帰京後に中耳炎を患った黒板傳作氏は、同年11月に持病の胆石病を再発させた。黒板傳作氏は1933年12月27日に58歳で死去し、葬儀は同月29日に青山斎場で営まれた。死因は、過労に持病の胆石病の悪化が重なったものである。1936年7月には銅像が建てられ、同年11月27日に黒板傳作氏の号を冠した第1回溪堂会が開かれた。創業者の采配に依存した経営は、大倉家の重役と創業期からの幹部が支える体制へ移らざるを得なかったとみてよい。

  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [48]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [49]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [50]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [51]1933年12月27日逝去、享年58歳、29日青山斎場で葬儀
    • [53]1936年7月銅像建設、1936年11月27日第1回溪堂会
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [52]1933年12月、過労に重ねて持病の胆石病が悪化して急死
参考文献[36]-[53]
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
    • [36]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [37]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [38]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [39]第1期(1917年6月1日〜10月31日)に東京造船所の船舶用汽機5台・汽罐8基31万3千余円、日本染料と大倉組の二重効用蒸発装置、帝国製糖潭仔墘工場27万4千余円等を受注し連日夜業。10月1日の台風・津波で倒壊家屋6棟、作業休止約1週間
    • [43]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [44]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [45]震災直後、黒板社長は解散または2、30万円の小さな会社への縮小を考えた(五十嵐粛氏談)
    • [46]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [47]関東大震災で事務所・工場とも全焼、佃島工場の製罐工場1棟のみ残存。図面全焼、三菱21号館で再建。田川新吉・大倉粂馬らと再起を決め興銀に借入を申込み、私邸担保と重役連帯保証の条件を黒板が受け入れた
    • [48]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [49]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [50]1932年頃デュルフェリット国産化のため合弁で東洋鋼化株式会社を設立(取締役に黒板傳作・宮崎好文)、エンケ型特殊ブロワーの本邦唯一のメーカー。1933年春満洲出張で風邪、帰京後中耳炎、11月胆石病再発
    • [51]1933年12月27日逝去、享年58歳、29日青山斎場で葬儀
    • [53]1936年7月銅像建設、1936年11月27日第1回溪堂会
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)
    • [40]第1期は新規受注142万円・生産高90万円、普通1割特別2分の初配当。1918年2月第2回払込で払込資本金52万5,000円とし工場事務所の復旧に充当
    • [41]第1期は新規受注142万円・生産高90万円、普通1割特別2分の初配当。1918年2月第2回払込で払込資本金52万5,000円とし工場事務所の復旧に充当
    • [42]1921年2月に大倉發身会長の辞任で黒板傳作が会長、同年11月29日の定款変更で初代社長に就任
    • [52]1933年12月、過労に重ねて持病の胆石病が悪化して急死

出典・参考

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出典・参考
  • 月島機械株式会社五十年史(1957)
  • 創造への年輪 月島機械株式会社七十年の歩み(1977)

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