リクルートHD:「住宅情報」「カーセンサー」の創刊とリクルート事件
1976年〜未開の分野を探し、同じ型を市場ごとに複製する
1976年1月、住宅情報を創刊した。核であった就職情報の事業は、このとき成長の踊り場にあった。不況の前まで年率4割から5割で伸びていた売上高は、1974年の103億円から1975年9月期の104億円へほぼ横ばいに止まり、1976年9月期の見込みは120億円であった。就職サービスから出発した事業のうち、このとき最も高い伸び率を示していたのは、大学や専修学校が高校生へ生徒を募集するための広報であった。求人広告の量は企業の採用計画に従うため、景気が落ちれば売る枠そのものが減る。
- リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1976年1月 住宅情報を創刊
- 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
- [2]不況前は年率4〜5割の成長、1974年103億円・1975年9月期104億円・1976年9月期は120億円の見込み
- [3]就職サービスから出発したが、大学・各種学校が高校生から生徒を募集するPRの伸び率が高い
住宅情報は、需要がありながら誰の目にも留まっていなかった分野を狙った事業の一つである。その点で就職情報と並ぶ。その背後には他社にない経営の鉄則があった。まだ誰も手をつけていない産業分野を見つけ出し、そこで事業を起こして育てるというもので、江副浩正氏はこれを『スキ間産業を狙っての経営』と呼んだ。1980年1月に女性向けの転職情報誌とらばーゆ、1984年に中古車情報誌カーセンサーが創刊された。対象は求人・住宅・転職・中古車と異なるが、買い手が自力では比べられない財を一覧の形に並べ、費用は売り手の広告料で賄うという組み立ては変わらなかった。
- 近代中小企業 1984年10月号
- [4]就職情報も住宅情報も、社会のニーズがありながら誰も気づかなかった分野を狙って展開した事業
- [5]経営の鉄則は「他人が手がけない未開の産業分野を発見して、事業を興し軌道に乗せること」
- リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [6]1980年1月「とらばーゆ」創刊、1984年 中古車情報誌「カーセンサー」創刊
1984年時点の事業の幅は情報誌にとどまらなかった。高校と大学の卒業生に向けた就職情報と中途採用情報を核に、大学・専修学校の案内情報や住宅情報といった情報提供業、企業内研修プログラムと社員教育用ビデオシステムの人材開発業、さらに貸しビル・ホテル経営・スキー場経営から畜産飼育・穀物栽培までを手がけていた。1981年12月期の年商は642億円、資本金は9億9000万円、従業員は1400名で、銀座のキャバレー跡地に地上11階地下3階の新社屋を構えていた。1984年4月には社名をリクルートへ改めている。何の仕事をしている会社かと問われて返答に窮すると江副浩正氏自身が書くほど、事業の並びは一言では説明できなくなっていた。
- 近代中小企業 1984年10月号
- [7]1984年時点の事業は就職情報・中途採用情報・大学専修学校案内情報・住宅情報の情報提供業、企業内研修と社員教育用ビデオの人材開発業、貸しビル・ホテル・スキー場経営、畜産飼育・穀物栽培
- [10]「リクルートは一体何の仕事をしている会社ですか」と問われると自分でも返答に窮する
- 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
- [8]1981年12月期 資本金9億9000万円・年商642億円・従業員1400名、銀座のキャバレー跡地に地上11階地下3階の新社屋
- リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1984年4月 社名をリクルートへ変更
参考文献[1]-[10]
- リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1976年1月 住宅情報を創刊
- [6]1980年1月「とらばーゆ」創刊、1984年 中古車情報誌「カーセンサー」創刊
- [9]1984年4月 社名をリクルートへ変更
- 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
- [2]不況前は年率4〜5割の成長、1974年103億円・1975年9月期104億円・1976年9月期は120億円の見込み
- [3]就職サービスから出発したが、大学・各種学校が高校生から生徒を募集するPRの伸び率が高い
- 近代中小企業 1984年10月号
- [4]就職情報も住宅情報も、社会のニーズがありながら誰も気づかなかった分野を狙って展開した事業
- [5]経営の鉄則は「他人が手がけない未開の産業分野を発見して、事業を興し軌道に乗せること」
- [7]1984年時点の事業は就職情報・中途採用情報・大学専修学校案内情報・住宅情報の情報提供業、企業内研修と社員教育用ビデオの人材開発業、貸しビル・ホテル・スキー場経営、畜産飼育・穀物栽培
- [10]「リクルートは一体何の仕事をしている会社ですか」と問われると自分でも返答に窮する
- 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
- [8]1981年12月期 資本金9億9000万円・年商642億円・従業員1400名、銀座のキャバレー跡地に地上11階地下3階の新社屋
1983年〜不動産子会社が本体の売上を追い越すまで
不動産子会社の急成長を決めたのは、市場が冷えていた時期の用地取得であった。1983年11月の東京都心部では年間5万5000戸が供給される一方で在庫が2万数千戸に上り、業界は在庫調整を進めていた。子会社は逆に、首都圏と近畿圏の人口が増え続ける以上、優良な物件なら必ず売れるとみて用地を大量に買った。江副浩正氏は少々高くても土地を買えと指示し、1984年5月からの1年間で5800戸分、翌年度には1万200戸分の用地を確保した。同年の発売戸数が1398戸であったことを思えば、同業他社から無茶買いと評されるだけの量であった。
- 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
- [11]1983年11月 東京都心部のマンション年間供給5万5000戸に対し在庫2万数千戸、業界は在庫調整
- [12]首都圏・近畿圏の人口増を前提に、優良物件なら必ず売れるとみて逆に用地を大量取得
- 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
- [13]江副氏の「少々高くても土地を買え」の指示で1984年5月からの1年に5800戸分、翌年度に1万200戸分の用地を確保
- [14]1984年の発売戸数は1398戸、同業他社は用地取得を「無茶買い」と評した
経験がものを言う業界で、この量をこなしたのは経験の浅い社員であった。社員の平均年齢は25.1歳で、三井不動産の39歳や大京観光の31歳と比べて際立って若い。用地の担当者に与えられた判断基準は価格と距離の二点だけで、都心から1時間から1時間半、最寄り駅から徒歩15分以内、価格は相場程度という条件を満たせば、社歴にかかわらず一存で買えた。権利関係の錯綜する地上げには手を出さず、銀行やゼネコン、地域の工務店からの持ち込み物件だけを買った。意思決定は平均2週間、早ければ3日で済み、その速さが取引先に重宝されて月1500件の土地情報が持ち込まれた。
- 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
- [15]リクルートコスモスの社員平均年齢は25.1歳、三井不動産39歳・大京観光31歳
- [16]用地取得の判断基準は「都心から1〜1.5時間・最寄り駅から徒歩15分以内・価格は相場程度」の2点に単純化、担当者の一存で購入可
- [17]自社で地上げはせず、銀行・ゼネコン・地域の工務店からの持ち込み物件のみを購入
- 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
- [18]用地取得の意思決定は平均2週間・早ければ3日、月平均1360件(1986年5〜9月)の土地情報が持ち込まれた
社員だけでは足りない専門能力と販売力を、同社は外部の人材で埋めた。売る側を担ったのはリビングアドバイザーという名の契約社員114名で、多くは主婦、平均年齢は37歳である。1986年には3000戸余りが彼女たちの手で売られ、これは同年の販売戸数全体の7割に当たった。設計面では、設計監理と技術管理の部門にゼネコンから出向してきた計60人が入り、助言役にとどまらず設計の中核まで任された。店頭登録は1986年10月で、それに先立つ1985年3月にはリクルートコスモスへ社名を改めていた。1987年4月期には売上高1757億5900万円を上げ、リクルートの1986年12月期の1384億円を超えた。ただし同期末の長短借入金は3722億円に達し、自己資本比率は10.6%しかなかった。成長の速さは借入で買われており、上場はその負担を軽くする手段でもあった。
- 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
- [19]平均年齢37歳・主婦中心の契約社員リビングアドバイザー114名が1986年の販売戸数の7割にあたる3000戸余りを販売
- [20]ゼネコンからの出向社員60人(設計監理30人・技術管理30人)が設計のリーダーを務める
- [22]1987年4月期売上高1757億5900万円(リクルートの1986年12月期は1384億円)、長短借入金3722億円・自己資本比率10.6%
- 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
- [21]1985年3月 社名をリクルートコスモスへ変更、1986年10月に株式を店頭登録
参考文献[11]-[22]
- 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
- [11]1983年11月 東京都心部のマンション年間供給5万5000戸に対し在庫2万数千戸、業界は在庫調整
- [12]首都圏・近畿圏の人口増を前提に、優良物件なら必ず売れるとみて逆に用地を大量取得
- [18]用地取得の意思決定は平均2週間・早ければ3日、月平均1360件(1986年5〜9月)の土地情報が持ち込まれた
- [21]1985年3月 社名をリクルートコスモスへ変更、1986年10月に株式を店頭登録
- 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
- [13]江副氏の「少々高くても土地を買え」の指示で1984年5月からの1年に5800戸分、翌年度に1万200戸分の用地を確保
- [14]1984年の発売戸数は1398戸、同業他社は用地取得を「無茶買い」と評した
- [15]リクルートコスモスの社員平均年齢は25.1歳、三井不動産39歳・大京観光31歳
- [16]用地取得の判断基準は「都心から1〜1.5時間・最寄り駅から徒歩15分以内・価格は相場程度」の2点に単純化、担当者の一存で購入可
- [17]自社で地上げはせず、銀行・ゼネコン・地域の工務店からの持ち込み物件のみを購入
- [19]平均年齢37歳・主婦中心の契約社員リビングアドバイザー114名が1986年の販売戸数の7割にあたる3000戸余りを販売
- [20]ゼネコンからの出向社員60人(設計監理30人・技術管理30人)が設計のリーダーを務める
- [22]1987年4月期売上高1757億5900万円(リクルートの1986年12月期は1384億円)、長短借入金3722億円・自己資本比率10.6%
1985年〜情報誌の次を通信に求め、未公開株で躓く
1985年4月、江副浩正氏は郵政省へ第二種電気通信事業者の届出を出し、同年7月に日本電信電話の回線を分けて企業へ貸す回線リセールを、10月にスーパーコンピュータを時間貸しするサービスを始めた。狙いは情報誌に次ぐ第二の柱であったが、動機の半分は防衛でもあった。家庭にキャプテンシステムの端末が入れば、住宅情報も就職情報もとらばーゆも役割は小さくなり、情報誌の中身はそのままデータベースへ置き換わる。江副浩正氏はそう見通したうえで、『自分の将来の競争相手を取り込んでいく』と語っている。船会社が航空貨物会社を手がけるようなものだという例えも添えた。
- 日経ビジネス 1991年7月8日号 No.597 p53-56(日経BP社)
- [23]1985年4月 第2種電気通信事業者の届出、同年7月に回線リセール、10月にRCS(リモート・コンピューティング・サービス)を開始
- [24]情報通信事業の狙いは情報誌に次ぐ第2の柱をつくること
- Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
- [25]キャプテンシステムが普及すれば住宅情報・就職情報・とらばーゆの役割は小さくなり情報誌はデータベースに置き換わる、動機の半分は防衛
- [26]通信事業への参入を「船会社が航空貨物会社をやるようなもの」と説明
事業の推進は、会社の統治を壊しながら進んだ。子会社リクルートコスモスの未公開株が広く譲渡されていたことが1988年に表面化し、日本電信電話の幹部への譲渡には情報通信事業への協力要請の意味もあった。譲渡の相手には、経済同友会で次期代表幹事と目されていた牛尾治朗氏と諸井虔氏の両副代表幹事も含まれ、財界の若手までが巻き込まれている。江副浩正氏は会長を退任した。1988年1月に社長へ就任したのは、日本アイ・ビー・エムから移って以来七つの新規事業を手がけ、1976年に取締役営業本部長、1984年に専務となっていた位田尚隆氏であった。
- Decide 1988年10月号
- [27]1988年 リクルートコスモス株の譲渡が表面化し事件化
- [29]経済同友会副代表幹事の牛尾治朗氏・諸井虔氏がリクルートコスモス株を取得していたことが表面化
- [30]江副浩正氏はリクルート会長を退任
- 日経ビジネス 1991年7月8日号 No.597 p53-56(日経BP社)
- [28]NTT幹部への未公開株譲渡には情報通信事業への協力要請の意味もあった
- 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
- [31]位田尚隆氏は1969年リクルート入社、1976年取締役営業本部長、1984年専務を経て1988年1月社長就任
防衛のために始めた事業は、防衛の対象より先に採算を失った。江副浩正氏は1987年初めの時点で、うまくいけば3年、下手をすると5年は赤字だと見通していた。実際には情報通信事業の売上高が1991年3月期に540億円へ伸び、全体の15%を占めるまでになりながら、参入当初に年200億円近くあった赤字はこの期でも約100億円に上った。日本電信電話が新電電の参入に合わせて専用回線の使用料を予想を超える速さで下げ、東京・大阪間の6メガビット高速デジタル回線の月額使用料は1985年7月の1100万円から1991年には740万円へ3割以上安くなっている。1985年12月期から1990年3月期までの設備投資は約850億円に達し、償却も重くのしかかった。事件による信用の毀損も重なり、新規の顧客開拓では社名だけで門前払いを受けることがあった。
- Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
- [32]江副氏は情報通信事業について「うまくいけば3年、下手すると5年は赤字」と見通していた
- 日経ビジネス 1991年7月8日号 No.597 p53-56(日経BP社)
- [33]1991年3月期の情報通信事業は売上高540億円で全体の15%、赤字約100億円(参入当初は年200億円近い赤字)
- [34]東京・大阪間の6メガビット高速デジタル回線の月額使用料は1985年7月の1100万円から1991年7月に740万円へ3割以上下落
- [35]情報通信事業の設備投資は1985年12月期から1990年3月期までで約850億円
- [36]事件によるイメージ低下で新規顧客獲得の際にリクルートというだけで門前払いを受けることがあった
参考文献[23]-[36]
- 日経ビジネス 1991年7月8日号 No.597 p53-56(日経BP社)
- [23]1985年4月 第2種電気通信事業者の届出、同年7月に回線リセール、10月にRCS(リモート・コンピューティング・サービス)を開始
- [24]情報通信事業の狙いは情報誌に次ぐ第2の柱をつくること
- [28]NTT幹部への未公開株譲渡には情報通信事業への協力要請の意味もあった
- [33]1991年3月期の情報通信事業は売上高540億円で全体の15%、赤字約100億円(参入当初は年200億円近い赤字)
- [34]東京・大阪間の6メガビット高速デジタル回線の月額使用料は1985年7月の1100万円から1991年7月に740万円へ3割以上下落
- [35]情報通信事業の設備投資は1985年12月期から1990年3月期までで約850億円
- [36]事件によるイメージ低下で新規顧客獲得の際にリクルートというだけで門前払いを受けることがあった
- Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
- [25]キャプテンシステムが普及すれば住宅情報・就職情報・とらばーゆの役割は小さくなり情報誌はデータベースに置き換わる、動機の半分は防衛
- [26]通信事業への参入を「船会社が航空貨物会社をやるようなもの」と説明
- [32]江副氏は情報通信事業について「うまくいけば3年、下手すると5年は赤字」と見通していた
- Decide 1988年10月号
- [27]1988年 リクルートコスモス株の譲渡が表面化し事件化
- [29]経済同友会副代表幹事の牛尾治朗氏・諸井虔氏がリクルートコスモス株を取得していたことが表面化
- [30]江副浩正氏はリクルート会長を退任
- 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
- [31]位田尚隆氏は1969年リクルート入社、1976年取締役営業本部長、1984年専務を経て1988年1月社長就任
1976年〜1991年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 502 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 642 | +27.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年12月期 | 単体 | 1,383 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年12月期 | 単体 | 2,692 | n/a | n/a | n/a | 160 | n/a |
| 1989年12月期 | 単体 | 2,900 | +7.7% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年12月期 | 単体 | 3,700 | +27.6% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年12月期 | 単体 | 3,600 | ▲2.7% | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:リクルートの驚異、Decide(5)1、1989/3/9日経新聞、1994/9/5日経ビジネス
出典・参考
10件
- リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
- 近代中小企業 1984年10月号
- 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
- 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
- Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
- Decide 1988年10月号
- 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
- 日経ビジネス 1991年7月8日号 No.597 p53-56(日経BP社)
- 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)