日本発條:芝浦スプリング製作所の設立と日本発条への商号変更
1936年〜資本金60万円で興った芝浦スプリング製作所と、150万円への増資で改めた日本発条の社名
1936年6月6日、芝浦スプリング製作所が東京・芝浦で資本金60万円の会社として発足した。事業は自動車向けの板ばねと巻ばねの製造と販売。母体の芝浦スプリングを創始した中野虎次郎氏は、明治11年に人力車向けのばねの製造を始めた、国内ばね業の先覚者である。法人となった当時、国内の自動車工業はようやく生まれたばかりで、生産量もごくわずかであった。1954年の証券誌は、前身の設立目的を自動車用と車輛用のばねの製造と記した。人力車のばねで培った加工の技を、まだ小さい自動車向けの需要に先回りして振り向けるため、会社組織で設備と資金を整えようとしたとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [1]1936年6月、芝浦スプリング製作所が資本金60万円で設立。創始者中野虎次郎は明治11年に人力車用ばねの製造を始めた
- [3]1936年6月、芝浦スプリング製作所が資本金60万円で設立。創始者中野虎次郎は明治11年に人力車用ばねの製造を始めた
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [2]1936年6月6日に東京芝浦で創設し、自動車用板ばね・巻ばねの製造販売を開始。当時の国内自動車工業は萌芽期で生産量はわずか
- [4]1936年6月6日に東京芝浦で創設し、自動車用板ばね・巻ばねの製造販売を開始。当時の国内自動車工業は萌芽期で生産量はわずか
- 証券 4(57) 1954年
- [5]前身の芝浦スプリング製作所(資本金600千円)は1936年6月に自動車用・車輛用ばね製造を目的に設立
1939年7月、芝浦スプリング製作所は資本金を150万円へ増資し、経営スタッフを入れ替えた。あわせて施設の拡充を進め、横浜市磯子で近代的な規模の主力工場を建て始めた。9月8日には社名を日本発条に改め、生産と販売の両面で近代化を進める方針を掲げた。1954年の証券誌の上場紹介は、この増資と改称、横浜工場の新設を一続きの企業規模の拡張として記している。1954年時点で本社を兼ねる横浜工場には402名が働き、全社592名の約7割を占めた。社名から芝浦の地名を外したのは、一工場の名を離れ、全国の自動車と車両のばね需要を相手にする会社へ変わる意図を示すためだったのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [6]1939年7月に150万円へ増資し経営スタッフを刷新、横浜市磯子に主力工場の建設に着手。同年9月に現社名へ改称
- [7]1939年7月に150万円へ増資し経営スタッフを刷新、横浜市磯子に主力工場の建設に着手。同年9月に現社名へ改称
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [8]1939年9月8日に社名を日本発条に改め、生産・販売両面の近代化を進めた
- 証券 4(57) 1954年
- [9]1939年7月に1,500千円へ増資し日本發條に改称、主要工場の横浜工場を新設して企業規模を拡張。1954年時点で本社横浜工場402名、全社592名
- [10]1939年7月に1,500千円へ増資し日本發條に改称、主要工場の横浜工場を新設して企業規模を拡張。1954年時点で本社横浜工場402名、全社592名
参考文献[1]-[10]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [1]1936年6月、芝浦スプリング製作所が資本金60万円で設立。創始者中野虎次郎は明治11年に人力車用ばねの製造を始めた
- [3]1936年6月、芝浦スプリング製作所が資本金60万円で設立。創始者中野虎次郎は明治11年に人力車用ばねの製造を始めた
- [6]1939年7月に150万円へ増資し経営スタッフを刷新、横浜市磯子に主力工場の建設に着手。同年9月に現社名へ改称
- [7]1939年7月に150万円へ増資し経営スタッフを刷新、横浜市磯子に主力工場の建設に着手。同年9月に現社名へ改称
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [2]1936年6月6日に東京芝浦で創設し、自動車用板ばね・巻ばねの製造販売を開始。当時の国内自動車工業は萌芽期で生産量はわずか
- [4]1936年6月6日に東京芝浦で創設し、自動車用板ばね・巻ばねの製造販売を開始。当時の国内自動車工業は萌芽期で生産量はわずか
- [8]1939年9月8日に社名を日本発条に改め、生産・販売両面の近代化を進めた
- 証券 4(57) 1954年
- [5]前身の芝浦スプリング製作所(資本金600千円)は1936年6月に自動車用・車輛用ばね製造を目的に設立
- [9]1939年7月に1,500千円へ増資し日本發條に改称、主要工場の横浜工場を新設して企業規模を拡張。1954年時点で本社横浜工場402名、全社592名
- [10]1939年7月に1,500千円へ増資し日本發條に改称、主要工場の横浜工場を新設して企業規模を拡張。1954年時点で本社横浜工場402名、全社592名
1940年〜横浜磯子の主力工場と、大日本発条の吸収合併で揃えた線ばね・精密ばね
1940年11月、横浜工場が操業を始め、本社も同じ所へ移った。創業の地の工場は芝浦工場と呼び名を変え、大阪で鋼材を圧延する工場と並んで分工場の扱いになった。同じ時期、楓英吉氏が社長に就任。主力工場を軸に分工場を配した体制へ移り、日本発条は個人経営に近い工場の運営から抜け出した。その後も板ばねと巻ばねの設備の拡充と整備のために増資を重ね、1942年10月には芝浦工場で巻ばねの生産を始めた。1954年時点で横浜工場の敷地は10,785坪となり、全社16,823坪の6割強を占めた。本社を横浜工場に置いたのは、増資で得た資金を主力工場の設備に集中させ、経営と製造を一か所で見渡すためだったと推察される。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [11]1940年11月横浜市の新工場が完成・操業し本社も移転。以後板ばね・巻ばねの設備拡充のため増資を重ねた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [12]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [13]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [14]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [15]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- 証券 4(57) 1954年
- [16]1954年時点の土地:本社横浜工場10,785坪、合計16,823坪
1943年7月、日本発条は大日本発条を吸収合併し、その工場を葛飾工場とした。大日本発条は線ばねや薄板ばねを手がける精密ばねの専門メーカーである。合併の狙いは、日本発条がまだ持っていなかった線ばねの生産にあった。合併後の資本金は200万円である。板ばねと巻ばねに精密ばねが加わり、日本発条の品ぞろえはばねの主要な種類を覆うようになった。線ばねの部門は戦後も残り、1954年12月には西ドイツ製の機械による設備の更新を終えた。自社で線ばねの技術を一から育てるより、専業メーカーの設備と技術者を取り込む方が、戦時の増産要請に速く応えられるという判断があったと思われる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [17]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- [19]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- [22]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [18]大日本発条は線ばね・薄板ばね等の精密ばね専門メーカーで、合併により生産品種を多様化しばねの総合メーカーへ
- [21]大日本発条は線ばね・薄板ばね等の精密ばね専門メーカーで、合併により生産品種を多様化しばねの総合メーカーへ
- 証券 4(57) 1954年
- [20]1943年7月の大日本發條吸収合併で資本金2,000千円
1943年12月、日本発条は長野県の坂城と宮田に2つの工場を開設した。大日本発条から受け継いだ線ばねの類を本格的に量産することが目的である。これにより、扱う品目はばねのあらゆる種類に広がった。1944年4月には資本金を500万円とし、同年9月には四国に高知工場を設けて利器(刃物類)の生産も始めた。戦時中、日本発条は陸軍と海軍から軍需会社の指定を受けた。坂城と宮田の2工場は戦後も残り、1954年時点で合わせて145名が働いていた。大阪の圧延工場を含め、日本発条の生産拠点は横浜・芝浦・葛飾・大阪・坂城・宮田・高知の7か所に及んだ。東京と横浜から離れた長野を選んだ背景には、空襲を避ける疎開の意味も含まれていたと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [23]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [24]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [26]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [29]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- 証券 4(57) 1954年
- [25]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
- [27]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
- [28]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
参考文献[11]-[29]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [11]1940年11月横浜市の新工場が完成・操業し本社も移転。以後板ばね・巻ばねの設備拡充のため増資を重ねた
- [18]大日本発条は線ばね・薄板ばね等の精密ばね専門メーカーで、合併により生産品種を多様化しばねの総合メーカーへ
- [21]大日本発条は線ばね・薄板ばね等の精密ばね専門メーカーで、合併により生産品種を多様化しばねの総合メーカーへ
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [12]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [13]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [14]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [15]1940年11月横浜工場が操業開始、旧芝浦スプリングの工場は芝浦工場として大阪の圧延工場とともに分工場化、町工場的経営を脱し楓英吉が社長就任。1942年10月芝浦工場で巻ばね生産開始
- [17]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- [19]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- [22]1943年7月、線ばねの生産を企図して大日本發條を吸収合併し葛飾工場とした。線ばね部門は1954年12月に設備更新完成
- [23]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [24]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [26]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- [29]1943年12月、線ばね類の本格生産のため坂城・宮田の2工場(長野県)を開設。1944年4月資本金500万円、同年9月高知工場を開設し利器を生産
- 証券 4(57) 1954年
- [16]1954年時点の土地:本社横浜工場10,785坪、合計16,823坪
- [20]1943年7月の大日本發條吸収合併で資本金2,000千円
- [25]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
- [27]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
- [28]坂城・宮田に工場を設け生産品目はばねの全分野に及んだ。戦時中は陸海軍の軍需会社に指定。1954年時点で坂城46名・宮田99名
1945年〜民需転換で自動車優良部品に認められた横浜工場と、朝鮮事変後の5,000万円増資
1945年12月、主力の横浜工場は民需への転換の許可をいち早く得た。芝浦工場は戦災で被害を受けていた。日本発条は軍需から離れ、戦後はばねの生産に専念した。1948年8月には資本金を1,000万円に増資。占領軍による生産制限が解かれると、自動車の生産は徐々に立ち直り、ばねの需要も上がり続けた。需要の回復に合わせ、日本発条は生産体制の充実と合理化を順に進めた。1948年と1949年には、戦後に新設された自動車優良部品の認定規則のもとで、日本発条の製品が優良部品に認定された。軍需の品目を失った直後に国の品質認定を早く得たことが、自動車メーカーへの納入を広げる足場になったとうかがえる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [30]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- [31]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- [36]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- 証券 4(57) 1954年
- [32]戦後は直ちに民需生産に転換し、ばねの生産に専念。1948年8月10,000千円に増資
- [33]戦後は直ちに民需生産に転換し、ばねの生産に専念。1948年8月10,000千円に増資
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [34]戦後、占領軍の生産制限が解除されると自動車生産が軌道に乗り、ばねの需要が上昇し、生産体制の充実・合理化を逐次実施
- [35]戦後、占領軍の生産制限が解除されると自動車生産が軌道に乗り、ばねの需要が上昇し、生産体制の充実・合理化を逐次実施
戦後の日本発条は、戦時に各地へ広げた工場を横浜に寄せて整理した。廃止は葛飾工場が1946年5月、高知工場が1951年9月である。芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移したうえで閉鎖した。この間、資本金は1949年12月に2,000万円となった。営業では生産を中心に置く姿勢を改め、市中での販売も並行して拡大する方針に転じた。東京・大阪・名古屋に営業所を開設し、全国8か所に出張所を置いた。それまで日商に委ねていた販売網の一部を自社の営業に切り替え、自動車修理向けの小売店にまで製品を届けた。軍需という大口の買い手を失ったため、自動車の補修用まで自ら販路を獲得する必要に迫られたと推測される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [37]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [38]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [39]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [41]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [42]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- 証券 4(57) 1954年
- [40]1949年12月20,000千円に増資し、芝浦工場の業務を横浜工場に移して閉鎖。日商に依存していた販売網の一部を自社化し修理用小売まで浸透
- [43]1949年12月20,000千円に増資し、芝浦工場の業務を横浜工場に移して閉鎖。日商に依存していた販売網の一部を自社化し修理用小売まで浸透
朝鮮事変を機に自動車業界が拡大し、ばね業界の経営も1951年度から好転した。日本発条は自社の販売網を整えた時期と特需が重なり、業績は順調に推移している。1951年11月には資本金を5,000万円に増資した。一方で同業者の販売競争が激しくなり、需要が増えても製品価格は下がり始めた。そこで1953年に2億2千万円を投じ、西ドイツから最新鋭の機械を輸入した。1954年3月3日には株式を新規上場し、2億円への増資で設備資金を調達する計画を示している。1953年1〜10月の全国のばね生産高約42億円のうち、日本発条は約9億円を占めて首位にあった。設備でコストを引き下げても価格の低下は続くため、同業の大手と合併して規模を得る次の一手が視野に入ったと読める。
- 証券 4(57) 1954年
- [44]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [45]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [46]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [47]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [49]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [50]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [48]1953年に総額2億2千万円を投じ西ドイツから最新の機械設備を輸入して工場を合理化
参考文献[30]-[50]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- [30]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- [31]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- [36]芝浦工場は戦災を受けたが、1945年12月に主力の横浜工場が民需転換の許可を受け、1948年・1949年に自動車優良部品認定規則で製品が優良部品に認定
- [37]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [38]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [39]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [41]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [42]葛飾工場1946年5月・高知工場1951年9月に廃止、芝浦工場は1950年11月に施設を横浜工場へ移設後閉鎖。市中販売も伸ばす方針に転じ東京・大阪・名古屋に営業所、全国8か所に出張所
- [48]1953年に総額2億2千万円を投じ西ドイツから最新の機械設備を輸入して工場を合理化
- 証券 4(57) 1954年
- [32]戦後は直ちに民需生産に転換し、ばねの生産に専念。1948年8月10,000千円に増資
- [33]戦後は直ちに民需生産に転換し、ばねの生産に専念。1948年8月10,000千円に増資
- [40]1949年12月20,000千円に増資し、芝浦工場の業務を横浜工場に移して閉鎖。日商に依存していた販売網の一部を自社化し修理用小売まで浸透
- [43]1949年12月20,000千円に増資し、芝浦工場の業務を横浜工場に移して閉鎖。日商に依存していた販売網の一部を自社化し修理用小売まで浸透
- [44]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [45]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [46]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [47]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [49]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- [50]朝鮮事変後の自動車業界の発展で1951年度から業績好転、日商依存の販売網の一部を自社化。1951年11月50,000千円に増資。販売競争で製品価格が低落し設備近代化に着手、1954年3月3日新規上場、6月に200,000千円へ増資予定。1953年1-10月の全国ばね生産高約42億円に対し約9億円で第1位
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- [34]戦後、占領軍の生産制限が解除されると自動車生産が軌道に乗り、ばねの需要が上昇し、生産体制の充実・合理化を逐次実施
- [35]戦後、占領軍の生産制限が解除されると自動車生産が軌道に乗り、ばねの需要が上昇し、生産体制の充実・合理化を逐次実施
1936年〜1957年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 5 | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 11 | +104.0% | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 11 | ▲3.3% | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 13 | +19.8% | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 12 | ▲11.2% | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 12 | +2.2% | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 21 | +72.9% | 1 | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、上場会社総覧 1959年版
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本発條」
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「日本発条」(1968年)
- 証券 4(57) 1954年