住友金属鉱山:別子鉱山の閉山と菱刈鉱山の開発
別子閉山から菱刈開山とモレンシー取得まで
1973年〜主力二山の閉山と、葬式代と呼ばれた大斜坑
元禄四年に稼行を始めた別子銅山は、282年を経た1973年3月に閉山した。藤崎章社長は鉱山勤務が長く、ヤマへの思い入れは誰よりも強かったが、採算の上では閉山しか選べないと判断した。鉱脈の規模や含有量は実際に掘らない限り分からず、探鉱費と製品価格を突き合わせる計算だけでは社内が納得しないため、閉山の直前にわざわざ大斜坑を掘る工事を実施した。約30億円を投じたこの工事を、同氏は『伝統ある別子鉱山の葬式代』と呼んだ『約30億円かかりましたが、まあ、伝統ある別子鉱山の葬式代ですな』。同社が他社より早く主力鉱山を畳み、身軽な体質に移れたのは、計画の成果というより、鉱量が他社の主力鉱山より先に尽きたという巡り合わせによるものだったという。
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄四年の稼行開始から282年)
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [2]藤崎章社長は鉱山勤務が長く人一倍ヤマへの愛着が強かったが、冷静に考えれば閉山せざるを得なかった
- [3]鉱脈の大きさや含有量は掘ってみなければ分からず採算計算だけでは社内が納得しないため、別子鉱山では最後に大斜坑を掘った
- [4]大斜坑の費用は約30億円で、藤崎章社長はこれを別子鉱山の葬式代と表現した
- [5]同業他社より早く主力鉱山を閉めて身軽になれたのは計画的にやったからというより、他社の主力鉱山より早く鉱量が乏しくなった幸運だったという
主力二山の閉山で避けられないのが、巨額の閉山損失だった。長期安定の鉱源として押さえてきたベスレヘム社の株式を、会社は売ることに決めた。背景には、1965年以降に老朽化が進んだ別子と鴻之舞の両鉱山があり、1970年を過ぎて業績が悪化すると閉山は避けられず、その損失は耐えがたいと見込まれていた。交渉を一任された藤崎氏が一株18ドルで売却して会社は80億円弱のキャピタルゲインを得、別子・鴻之舞を閉じながらも損失を決算の表に出さずに済んだ。しかも鉱石はそれまでどおり引き取れたため、株を手放しても鉱源確保の仕組みは失われなかった。1960年の21億円の投資が、13年後には山を閉じる費用を賄ったことになる。
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
- [6]閉山損失に備えてベスレヘム社の株式を売却することになった
- [7]1965年以降に別子・鴻之舞の両鉱山は老朽化し、1970年を過ぎると業績悪化により閉山不可避となったが、巨額の閉山損失は耐え難いものであった
- [8]藤崎章が交渉の全権を委ねられ一株18ドルで売却し、80億円弱のキャピタルゲインを得た
- [9]この利益により別子・鴻之舞の閉山にもかかわらず損失を表面に出さずに済んだ
- [10]株式を手放しても鉱石は従来どおり引き取ることができた
二度にわたった人員削減のうち最初は1962年から1963年にかけてで、東北と北海道の三山を閉じ、従業員を8,000人から5,000人に減らした。鉱山業全体はこの頃まだ勢いがあり、国内鉱石を使った銅生産が12万1,000トンの頂点をつけるのは1969年のことだった。二度目の削減は石油ショック後で、1971年のニクソンショックによる円高に石油ショックが追い打ちをかけ、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルへ短くなった。1973年の藤崎氏の社長就任後、従業員は3,000人台まで一段と減り、社内では、皆が乗っていては船が沈むので誰かが降りて泳いでくれ、という言い方が交わされた『みんな乗っているとボートが沈んじゃうから誰か泳いでくれよ』。
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [11]1962〜1963年に東北・北海道の三山を閉め、8,000人いた従業員を5,000人に減らした
- [14]石油ショック後、1973年に社長となった藤崎章のもとで従業員は3,000人台まで減らされた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [12]国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
- [13]1971年のニクソンショックによる円高と石油ショックの影響で、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルまで減少した
参考文献[1]-[14]
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄四年の稼行開始から282年)
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [2]藤崎章社長は鉱山勤務が長く人一倍ヤマへの愛着が強かったが、冷静に考えれば閉山せざるを得なかった
- [3]鉱脈の大きさや含有量は掘ってみなければ分からず採算計算だけでは社内が納得しないため、別子鉱山では最後に大斜坑を掘った
- [4]大斜坑の費用は約30億円で、藤崎章社長はこれを別子鉱山の葬式代と表現した
- [5]同業他社より早く主力鉱山を閉めて身軽になれたのは計画的にやったからというより、他社の主力鉱山より早く鉱量が乏しくなった幸運だったという
- [11]1962〜1963年に東北・北海道の三山を閉め、8,000人いた従業員を5,000人に減らした
- [14]石油ショック後、1973年に社長となった藤崎章のもとで従業員は3,000人台まで減らされた
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
- [6]閉山損失に備えてベスレヘム社の株式を売却することになった
- [7]1965年以降に別子・鴻之舞の両鉱山は老朽化し、1970年を過ぎると業績悪化により閉山不可避となったが、巨額の閉山損失は耐え難いものであった
- [8]藤崎章が交渉の全権を委ねられ一株18ドルで売却し、80億円弱のキャピタルゲインを得た
- [9]この利益により別子・鴻之舞の閉山にもかかわらず損失を表面に出さずに済んだ
- [10]株式を手放しても鉱石は従来どおり引き取ることができた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [12]国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
- [13]1971年のニクソンショックによる円高と石油ショックの影響で、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルまで減少した
1970年〜掘る設備から鉱石を購入して製錬する設備への組み替え
掘る会社から買って製錬する会社への組み替えは、設備の側から進んだ。1966年5月に鉛・亜鉛のISP製錬を始めて非鉄金属の総合生産者への道を一歩進めたのち、国際競争力と量産効果を求めて四国の東予地区に大型の製錬所を建設する。1970年6月に新居浜ニッケル新工場が、1971年2月に東予製錬所が完成し、1956年に小規模で始めたフェロニッケルは1973年に新鋭の大規模工場へ一元集約された。銅では国内鉱石の比率が下がり続け、1964年に海外鉱石が6割を超え、1967年には75%に達している。この時期に各社が建てた製錬設備が、のちに国内鉱山から撤退して海外の鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者としての競争力の根幹を支えることになる。
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
- [15]1966年5月に鉛・亜鉛製錬をISP製錬法で開始し、国際競争力の涵養と量産効果の追求のため四国東予地区に大型製錬所を建設した
- [17]1956年に小規模に始めたフェロニッケルは1973年に新鋭大規模工場へ一元集約された
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成、1971年2月 東予製錬所完成
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [18]銅では1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%に達した
- [19]1965年から1969年にかけて各社が新増設した製錬設備が、国内鉱山経営から撤退して海外鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者の競争力の根幹を支えている
鉱源を海の底に求める試みもあった。当時は、銅の輸出国4カ国がCIPECを作って産油国に倣う動きを見せるなど、資源を持つ国の資源ナショナリズムが強まっていた。鉱石原料のほぼ全量を海外から仕入れる同社にとって、長く安定して使える供給源を自ら押さえることが課題となり、1974年6月に海洋資源室を設けて、12人の体制でマンガン団塊の開発を始めた。開発の舞台はハワイ諸島周辺の海域で、探査と採掘は10回ほど行われ、ロープにつないだ籠を連続して深海に下ろすCLB方式を用いた。10年先を行くとされた米国勢を追うのではなく、欧州メーカーと技術で肩を並べることが当面の目標で、事業化は1980年を見込んだ。1980年に企業化がどこまで進んだかは資料からは分からないが、陸の鉱山を閉じていた時期に代わりの鉱源を海に求めていたことは確かである。
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [20]ザンビア・ザイール・チリ・ペルーの産銅4カ国がCIPECを結成するなど資源保有国の資源ナショナリズムが台頭した
- [21]原料鉱石のほとんどを海外に依存するわが国は、常に長期安定供給源を自らの手で確保する必要に迫られていた
- [22]1974年6月に海洋資源室を新設し、スタッフ12人でマンガン団塊開発の推進母体とした
- [23]ハワイ諸島周辺海域で10回ほど研究段階の探査・採掘を行い、採掘方式はカゴをロープに結んで深海に沈めるCLB方式を採った
- [24]マンガン団塊の開発が事業に結びつくのは1980年と言われ、当面の目標は10年遅れているといわれる米国メーカーではなく欧州メーカーとの力の差をなくすことにあった
海外での大型開発の多くは、悪いタイミングで本格生産に入った。1966年に探査権を獲得したザイールのムソシ銅鉱山は、日本鉱業を中心に産銅6社が参加して1972年から生産を始めた。国内では1979年に佐々連鉱山を閉じ、会社は名目だけでなく実態としても自前の鉱山を持たない鉱山会社となった。海外では、ザイールの事業が周辺国の政情不安のために鉱石の輸送経路の確保に難渋した。1983年には現地鉱山会社をザイール政府へ引き渡し、総額約530億円の損失を出して全面的に撤退している。マレーシアのマムート銅鉱山も1967年に探査権を取得した案件だったが、円高に苦しみ、1987年に経営権を現地側に委ねた。国内の鉱山から早くに手を引いたことは、後になって良い結果につながった。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [25]1966年にザイールのムソシ銅鉱山の探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山ほか産銅6社が参加、1972年から生産を始めた
- [27]ザイールでは周辺国の政情不安で鉱石輸送ルートの確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡して総額約530億円の損失を出し全面撤退した
- [28]1967年に探査権を得たマレーシアのマムート銅鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
- [26]1979年に佐々連鉱山を閉鎖して名実ともに鉱山を持たぬ鉱山会社になった
- [29]結果として国内鉱山の早期撤収はのち良好な結果をもたらした
参考文献[15]-[29]
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
- [15]1966年5月に鉛・亜鉛製錬をISP製錬法で開始し、国際競争力の涵養と量産効果の追求のため四国東予地区に大型製錬所を建設した
- [17]1956年に小規模に始めたフェロニッケルは1973年に新鋭大規模工場へ一元集約された
- [26]1979年に佐々連鉱山を閉鎖して名実ともに鉱山を持たぬ鉱山会社になった
- [29]結果として国内鉱山の早期撤収はのち良好な結果をもたらした
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [16]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成、1971年2月 東予製錬所完成
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- [18]銅では1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%に達した
- [19]1965年から1969年にかけて各社が新増設した製錬設備が、国内鉱山経営から撤退して海外鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者の競争力の根幹を支えている
- [25]1966年にザイールのムソシ銅鉱山の探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山ほか産銅6社が参加、1972年から生産を始めた
- [27]ザイールでは周辺国の政情不安で鉱石輸送ルートの確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡して総額約530億円の損失を出し全面撤退した
- [28]1967年に探査権を得たマレーシアのマムート銅鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [20]ザンビア・ザイール・チリ・ペルーの産銅4カ国がCIPECを結成するなど資源保有国の資源ナショナリズムが台頭した
- [21]原料鉱石のほとんどを海外に依存するわが国は、常に長期安定供給源を自らの手で確保する必要に迫られていた
- [22]1974年6月に海洋資源室を新設し、スタッフ12人でマンガン団塊開発の推進母体とした
- [23]ハワイ諸島周辺海域で10回ほど研究段階の探査・採掘を行い、採掘方式はカゴをロープに結んで深海に沈めるCLB方式を採った
- [24]マンガン団塊の開発が事業に結びつくのは1980年と言われ、当面の目標は10年遅れているといわれる米国メーカーではなく欧州メーカーとの力の差をなくすことにあった
1981年〜「非鉄は地盤沈下産業」という見切りと、金と電子材料
1981年8月、鹿児島県の菱刈鉱区から高品位の金鉱脈が出た。探査を担ったのは金属鉱業事業団で、住友金属鉱山の貢献は鉱区権の保有にとどまるとの見方もあったが、藤崎氏自身は運に恵まれた結果だったと認めている。菱刈鉱山は1985年2月に開山したが、それより前の1982年の段階で、同氏は旧来の非鉄金属のうち将来性があるのは金だけだと考えていた。ただし金山に頼れば別子・鴻之舞の繰り返しになるとして、金で得た利益は多角化に回すと明言していた。山を捨てたばかりの会社が国内最大の金山を得たあとに、その山を収益源の中心に据えなかったところに、この時期の経営が何を優先したかが表れている。
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1981年8月 菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見
- [32]1985年2月 菱刈鉱山を開山(鹿児島県)
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [31]菱刈鉱山の発見は金属鉱業事業団の探査によるもので、住友鉱山はそこに鉱区権を持っていただけという声もあり、藤崎章は幸運だったことを否定するつもりはないと述べた
- [33]藤崎章は従来型の非鉄金属で唯一期待できるのが金だと述べた
- [34]金山に頼れば別子・鴻之舞の二の舞になるとして、稼ぎは多角化へ注ぎ込む方針を示した
多角化の中身は、非鉄金属の周辺にある材料だった。1977年1月、リードフレームの生産に着手した。事業領域は集積回路のリードフレームにとどまらず、素子と端子をつなぐボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード向けのガリウムリン、時計の電池に用いる過酸化銀にまで広がった。1981年時点で日本国内の生産額は約2,300億円に上り、その先5年は年率20%超の成長が予想される分野だった。藤崎氏は、三菱金属が戦前からの蓄積を持つのに対し、自社は1960年代半ばに着手したばかりで出遅れていると位置づけ、技術によってしか活路は開けないとして、電子材料と原子力分野の技術者確保に動いた。素材面では、高温・高圧や超低温にも耐える極限材料の追求を研究開発陣へ指示した。
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [35]1977年1月 リードフレームの生産を開始
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [36]集積回路のリードフレーム、ボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード用のガリウムリン、時計の電池に使う過酸化銀を手掛けていた
- [37]1981年の日本の生産額はおよそ2,300億円で、向こう5年間は年率20%を超える伸びを見込める市場だった
- [38]戦前からの技術蓄積がある三菱金属とは違い1960年代半ばから始めたばかりであり、技術で道を開くしかないとして電子材料・原子力の技術者のスカウトを進めた
- [39]素材については高温・高圧や超低温の下で使える極限性を追求するよう研究開発陣に指示した
鉱山を持たない会社が権益によって鉱源を持ち直したのも、この時期である。1986年2月に米国アリゾナ州のモレンシー銅山の権益を取得し、1988年7月にはPTインターナショナルニッケルインドネシアの株式を取得した。売上構成の移り方はこの転換をそのまま映している。非鉄は縮みが避けられない業種で、新しい分野へ出ていけた企業だけが残るというのが1982年時点の会社の前提であり、その裏には銅の電線用途を光ファイバーが、亜鉛のダイカスト製品をアルミ合金が奪うという需要の変化の読みがあった。売上の構成は、1975年3月期に電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%だったのが、1985年3月期には金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%へ移っている。
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [40]1986年2月 モレンシー銅山の権益取得
- [41]1988年7月 PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [42]藤崎章は非鉄はしょせん地盤沈下産業であり、新しい分野に展開できたところが生き残ると述べた
- [43]銅は電線需要が大半で光通信になれば相当部分が光ファイバーに代わり、亜鉛のダイカスト製品はアルミ合金などに取って代わられるという見方を示した
- 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
- [44]1975年3月期の品目別売上構成は電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%
- 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
- [45]1985年3月期の品目別売上構成は金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%
参考文献[30]-[45]
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1981年8月 菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見
- [32]1985年2月 菱刈鉱山を開山(鹿児島県)
- [35]1977年1月 リードフレームの生産を開始
- [40]1986年2月 モレンシー銅山の権益取得
- [41]1988年7月 PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- [31]菱刈鉱山の発見は金属鉱業事業団の探査によるもので、住友鉱山はそこに鉱区権を持っていただけという声もあり、藤崎章は幸運だったことを否定するつもりはないと述べた
- [33]藤崎章は従来型の非鉄金属で唯一期待できるのが金だと述べた
- [34]金山に頼れば別子・鴻之舞の二の舞になるとして、稼ぎは多角化へ注ぎ込む方針を示した
- [36]集積回路のリードフレーム、ボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード用のガリウムリン、時計の電池に使う過酸化銀を手掛けていた
- [37]1981年の日本の生産額はおよそ2,300億円で、向こう5年間は年率20%を超える伸びを見込める市場だった
- [38]戦前からの技術蓄積がある三菱金属とは違い1960年代半ばから始めたばかりであり、技術で道を開くしかないとして電子材料・原子力の技術者のスカウトを進めた
- [39]素材については高温・高圧や超低温の下で使える極限性を追求するよう研究開発陣に指示した
- [42]藤崎章は非鉄はしょせん地盤沈下産業であり、新しい分野に展開できたところが生き残ると述べた
- [43]銅は電線需要が大半で光通信になれば相当部分が光ファイバーに代わり、亜鉛のダイカスト製品はアルミ合金などに取って代わられるという見方を示した
- 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
- [44]1975年3月期の品目別売上構成は電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%
- 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
- [45]1985年3月期の品目別売上構成は金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%
筆者考察
鉱山会社にとって、山を閉じることは事業そのものをやめることに近い。住友金属鉱山は1973年に別子銅山を、1979年に佐々連鉱山を閉じ、掘る対象を一つも持たない鉱山会社になった。ただし手放したのは採掘という一工程で、製錬と販売の工程は残っている。十六世紀の終わりに京都で銅製錬業として始まったこの家業は、もともと自分の山を持たず、他人の産銅を集めて銀と銅を吹き分ける商いだった。元禄四年に別子を掘り当ててから282年かけて掘る会社になった住友が、掘らない会社の側へ戻ったとみることもできる。
山を閉じるには金が要る。別子と鴻之舞の閉山損失は会社が抱えきれない規模と見込まれ、これを埋めたのは1960年に資本金32億円のうち21億円を投じて取得したカナダ・ベスレヘム鉱山の株式であった。一株18ドルでの売却益は80億円弱に達し、株を手放しても鉱石は従来どおり引き取れた。安定した鉱源を得るために打った手の利益が、13年後にその鉱源を要らなくする側の費用へ充てられたことになる。この順番を先に作れた会社だけが、同業より早く身軽になり、金と電子材料へ資金を回せた。
- 単体・日本基準の売上高。
- 出所は会社年鑑 1976年版(上下期合算)および会社年鑑 1986年版の損益計算書。
1973年〜1990年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1973年03月期 | 単体 | 1,067 | n/a | 11 | 11 | 1.1% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,657 | +55.2% | 46 | 21 | 1.3% | 国富事業所電子工場が完成(1974) |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,765 | +6.5% | 15 | 11 | 0.6% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 1,399 | ▲20.7% | ▲27 | 3 | 0.2% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 1,859 | +32.9% | 20 | 9 | 0.5% | 新居浜研究所を設置(1977/02) |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,560 | ▲16.1% | ▲18 | ▲22 | ▲1.4% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 1,719 | +10.2% | 10 | 3 | 0.2% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,850 | +65.8% | 104 | 35 | 1.2% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,858 | +0.3% | 128 | 48 | 1.7% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,908 | +1.7% | 61 | 31 | 1.1% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 2,625 | ▲9.7% | 28 | 27 | 1.0% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 3,348 | +27.5% | 68 | 31 | 0.9% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,943 | +17.8% | 62 | 31 | 0.8% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑 1976年版、会社年鑑
出典・参考
7件
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
- 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- 日経ビジネス 1982年8月9日号
- 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談