第1章 年〜年

住友金属鉱山:住友の事業群を養った別子一山

元禄の稼行開始から1950年の別子鉱業発足まで

1691年〜製錬の技を持つ銅商が掘り当てた一つの鉱床

銀を吹き分ける技を元手に山を持つ

伊予の別子で住友家が鉱床を見いだしたのは元禄三年(1690年)で、翌四年には幕府から許しを得て採掘に取りかかった。それ以前から住友家は鉱山の開発と経営を重ねており、源は十六世紀末に京都で始めた銅の製錬にあり、南蛮吹きと呼ばれる、銀と銅を分離する技法を早くに身につけたことで、日本の鉱業界で際立った位置を占めていた。別子銅山はそれ以降、幕府や諸大名に向けた金融業と肩を並べる住友家の中核事業となった。粗銅から銀を取り出せる者の少ない時代に製錬工程を押さえていたことが、自前の山を手にしたときの利幅を左右したのだろう。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [1]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、元禄四年に幕府の許可を得て稼行に着手した
    • [3]金銀銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を修得していた鉱業家住友
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]住友家の鉱業は十六世紀の終わりに京都で銅製錬業を開始したことに始まる
    • [4]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
売却せずに残した山へ西洋技術を入れる

四千の稼人を抱えていた別子では、その維持が難しく、山を売ってしまう案さえ一度は持ち上がったが、手放さないまま明治を迎えた。この間には、維新の戦乱に乗じて土佐藩が山を一時接収し、大阪鰻谷の銅蔵も封じられるという危うい局面もあった。旧来の技術のままでは高品位の鉱石が細って産出量が頭打ちとなり、広瀬宰平氏をはじめとする経営首脳は、西洋の新技術を入れて山そのものを作り替える道を選んだ。1873年にフランス人技師コワニー氏に別子の視察を依頼し、次いで本国から招いたルイ・ラロック氏のもとで『別子銅山目論見書』がまとまり、1876年には湿式収銅法で沈澱銅が採れるようになった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [5]当時四千の稼人を抱えた別子銅山の維持は容易でなく、一時は同山売却の議も起こったが売らずに明治を迎えた
    • [6]維新の戦乱のさなかに別子銅山は土佐藩によって一時接収され、大阪鰻谷の銅蔵も封印された
    • [9]1873年にコワニーが別子銅山を視察、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成し、1876年に湿式収銅法による沈澱銅を得た
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]旧式技術による稼行のため高品位鉱が次第に少なくなり生産量は伸び悩んだ
    • [8]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
増産が呼び込んだ煙害を技術で断つ

火薬と鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑の開鑿、水力発電設備と銅電解工場、浮遊選鉱場の建設が相次ぎ、別子の生産量は飛躍的に増えた。生産が増えるにつれ、製錬の排煙が周辺の農作物を傷める煙害が最大の難問となった。1905年に製錬所を瀬戸内海の四阪島へ移したが、それでも解決はもたらされず、支払った賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を超えた。抜本的な解決は、排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成した1939年まで待たねばならなかった。銅を増産するほど賠償が膨らむ関係を、住友は34年かけて技術のほうで断ち切ったことになる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [10]火薬・鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑(東延斜坑)の開鑿、水力発電設備・銅電解工場・浮遊選鉱場の建設により別子銅山の生産量は飛躍的に増加した
    • [11]別子の操業では煙害問題が困難の最たるものであった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1905年に製錬所を四阪島へ移転したが煙害の解決はもたらされなかった
    • [13]煙害の賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を上回った
    • [14]1939年に排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成し煙害が抜本的に解決された
参考文献[1]-[14]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [1]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、元禄四年に幕府の許可を得て稼行に着手した
    • [3]金銀銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を修得していた鉱業家住友
    • [5]当時四千の稼人を抱えた別子銅山の維持は容易でなく、一時は同山売却の議も起こったが売らずに明治を迎えた
    • [6]維新の戦乱のさなかに別子銅山は土佐藩によって一時接収され、大阪鰻谷の銅蔵も封印された
    • [9]1873年にコワニーが別子銅山を視察、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成し、1876年に湿式収銅法による沈澱銅を得た
    • [10]火薬・鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑(東延斜坑)の開鑿、水力発電設備・銅電解工場・浮遊選鉱場の建設により別子銅山の生産量は飛躍的に増加した
    • [11]別子の操業では煙害問題が困難の最たるものであった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]住友家の鉱業は十六世紀の終わりに京都で銅製錬業を開始したことに始まる
    • [4]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
    • [7]旧式技術による稼行のため高品位鉱が次第に少なくなり生産量は伸び悩んだ
    • [8]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
    • [12]1905年に製錬所を四阪島へ移転したが煙害の解決はもたらされなかった
    • [13]煙害の賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を上回った
    • [14]1939年に排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成し煙害が抜本的に解決された

1927年〜直営236年の終わりとGHQが命じた金石分離

家産だった山を会社の経営へ移行する

経営の形態も、産銅の規模に合わせて改められた。当初は住友総本店と称する個人企業であったものが、1921年に設立された住友合資会社の手に移る。1927年7月、住友本社は別子鉱山と四阪島製錬所を切り出して住友別子鉱山株式会社を設立し、236年続いた住友家の直営を法人の経営へ移した。1937年6月には住友別子鉱山と住友炭礦が合併して住友鉱業となり、鉱業経営の合理化を目的とするこの統合によって、三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社となった。金属と石炭を一つの会社に統合したこの判断が、戦後に分割される単位をあらかじめ作ることになった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社へ移った
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
    • [17]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭礦を合併し住友鉱業㈱を設立
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [18]住友鉱業は1937年6月に住友別子鉱山と住友炭礦が合併して出来た会社で、当時三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社であった
業種の分割は呑み、工程の細分は拒む

1946年に商号を井華鉱業へ改めた会社は、1948年に過度経済力集中排除法による過度経済力集中会社の指定を受けた。全国で325社が同じ指定を受けている。住友の連系各社で分割を強いられたのは、住友鉱業ただ一社である。持株会社整理委員会との交渉の場でGHQが求めたのは、金属と石炭の分離にとどまらず、金属部門を採鉱と製錬という工程で、あるいは別子と鴻之舞というブロックで、さらに割ることであり、その意向は厳しかった。会社側は、金属と石炭はもともと別々に経営されていたのだから再び分けるのはやむを得ないと認めつつ、地区や工程ごとの細かな分割は鉱山経営の土台を揺るがすとして、最後まで退ける構えをとった。

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1946年 住友鉱業から井華鉱業へ商号変更
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [20]1948年2月と3月に全国で325社が集排法により過度経済力集中会社の指定を受けた
    • [22]GHQは金属部門と石炭部門の分割に加え、金属部門を採鉱と製錬、あるいは別子ブロックと鴻之舞ブロックに分割する意向を示した
    • [23]会社は金属・石炭の分割はやむを得ないとしつつ、地区別・工程別の細分は鉱山経営の基盤を危うくするのであくまで避ける方針を立てた
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友
    • [21]住友においては住友鉱業が集中排除法の適用によって金属鉱山と石炭とに分割を余儀なくされた以外は、全部の事業が存続した
社員7,060人で第二会社として発足する

金属部門の新会社には、井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円の現物出資があり、佐々連鉱山もその傘下に入った。会社は資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として1950年3月1日に発足し、社名は第一鉱業や別子鴻之舞鉱業といった案を退けて、短く世に通った別子が選ばれた。別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所に大宮・砥沢の二鉱山を加えた事業所に、発足の時点で7,060人の社員がいた。株式は同年6月28日に東京・大阪・名古屋の三市場へ上場された。1952年6月に社名を住友金属鉱山へ改め、1954年9月末の従業員は8,330人となっている。

  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [24]井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円を現物出資して別子鉱業を設立
    • [25]1950年3月1日 金属部門が資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として発足
    • [26]社名案には「第一鉱業」「別子鴻之舞鉱業」もあったが、簡潔で世間に知られている「別子」の名が採られた
    • [27]発足時の事業所は別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所と大宮・砥沢の二鉱山、社員総数は7,060人
    • [28]別子鉱業株式は1950年6月28日に東京・大阪・名古屋の各市場へ上場された
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [30]1954年9月30日現在の従業員は8,330人
参考文献[15]-[30]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社へ移った
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
    • [17]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭礦を合併し住友鉱業㈱を設立
    • [19]1946年 住友鉱業から井華鉱業へ商号変更
    • [29]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [18]住友鉱業は1937年6月に住友別子鉱山と住友炭礦が合併して出来た会社で、当時三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社であった
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [20]1948年2月と3月に全国で325社が集排法により過度経済力集中会社の指定を受けた
    • [22]GHQは金属部門と石炭部門の分割に加え、金属部門を採鉱と製錬、あるいは別子ブロックと鴻之舞ブロックに分割する意向を示した
    • [23]会社は金属・石炭の分割はやむを得ないとしつつ、地区別・工程別の細分は鉱山経営の基盤を危うくするのであくまで避ける方針を立てた
    • [24]井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円を現物出資して別子鉱業を設立
    • [25]1950年3月1日 金属部門が資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として発足
    • [26]社名案には「第一鉱業」「別子鴻之舞鉱業」もあったが、簡潔で世間に知られている「別子」の名が採られた
    • [27]発足時の事業所は別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所と大宮・砥沢の二鉱山、社員総数は7,060人
    • [28]別子鉱業株式は1950年6月28日に東京・大阪・名古屋の各市場へ上場された
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友
    • [21]住友においては住友鉱業が集中排除法の適用によって金属鉱山と石炭とに分割を余儀なくされた以外は、全部の事業が存続した
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [30]1954年9月30日現在の従業員は8,330人

1954年〜国内鉱山の限界と、資本金の大半を賭けた海外鉱源

ニッケルの品不足が高率配当を生む

発足からの数年、業績は良好だった。朝鮮戦争の好況のもとで別子銅山が復興し、鴻之舞金山が高収益を上げ、戦後合併した佐々連鉱山も好調で、なかでも1952年に再開したニッケル事業が際立っていた。1954年4月からの半期でみると、電気銅の生産は能力12,000トンに対して9,503トンにとどまる一方、電気ニッケルは能力720トンに対して721トンと、設備をいっぱいまで動かしている。同年に西ドイツと大口の長期輸出契約をまとめたあと、国内でも電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸びて極端な品不足となった。トン当たり113万円だった平均売価は、1956年下期から翌年上期に170万〜182万円へ上がっている。1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当が続いた。

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [31]朝鮮戦争の好況下で別子銅山の復興、鴻之舞金山の高収益、戦後合併した佐々連鉱山の好業績に加え、1952年に再開したニッケル事業が極めて好調だった
    • [33]1954年に西ドイツと大口の長期輸出契約に成功、電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸び、1954年下期にトン当たり113万円だった平均売価が1956年下期〜1957年上期には170万〜182万円になった
    • [34]1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当を実施した
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [32]1954年4月〜9月の生産実績は電気銅9,503トン(能力12,000トン)、電気ニッケル721トン(能力720トン)
借金で探鉱する体質を計画で締め直す

神武景気のあとのナベ底景気で業況は一転し、1958年の電気ニッケル生産は前年比42%の減少となった。主力の銅とニッケルの不振は、それ自体の痛手より経営体質の脆さを露わにした点で重かった。神武景気で一時減った借入金が、業績の悪化とともに再び増えたのである。減耗する資源を掘る鉱山会社は探鉱に多額の資金を投じ続けねばならないが、国内の鉱山は規模が小さく鉱量も品位も劣り、その探鉱費を内部留保ではなく借入金で賄っていた。1960年6月、政府は「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定する。田中外次社長は年頭から自由化対策を急ぐよう強調し、同年7月に経理部のなかへ計画課を、技術スタッフを組織化する鉱山部と冶金部を置く機構改革を行った。見込みなしと判じて探鉱を打ち切る決断を、誰がどの数字で下すのかを決めるための機構であった。

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [35]1958年の電気ニッケル生産は海外市況の悪化と内需減退により前年比42%の減少となった
    • [36]神武景気で一時減少した借入金が業績悪化とともに増加し経営体質を弱めた
    • [37]国内鉱山は規模が小さく鉱量・品位とも劣る傾向にあり、探鉱費は内部留保ではなく借入金に依存していた
    • [38]1960年6月に政府が「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定した
    • [39]1960年の年頭に田中外次社長が自由化対策を急ぐよう強調、同年7月に経理部の中に計画課を設け、鉱山部と冶金部を設置する本社機構の改革が行われた
資本金32億円の会社が21億円を投じる

米国の大手産銅会社アサルコは、140万ドルをかけた探鉱で相当量の鉱石を確かめながら、品位が低く採算に乗らないとみてオプションを手放していた。1960年秋、会社はその鉱床、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱床へ投融資し、経営資源をそこへ集中させると決めた。開発資金21億円は当時の資本金32億円から見ても巨額で、露天掘りの経験も会社にはなく、資金調達を担う経理担当者は反対したが、開発に踏み出す意志は河上健次郎専務が決め、1961年2月には交渉団がカナダへ渡った。取り決めでは、総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、見返りに生産が始まってから10年3カ月の間、この鉱山から出る銅精鉱をすべて独占して買い取ることになった。日本の産銅会社が海外の鉱山に自ら開発資金を出したのは、これが初めてだった。

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [40]米国の大手産銅会社アサルコが140万ドルを投入して探鉱しかなりの鉱量を確認したが、品位が低く採算の目処が立たないとしてオプションを放棄した
    • [41]1960年秋にカナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱山開発について最終的な態度を決める会議が開かれた
    • [42]開発資金21億円は当時の資本金32億円からみて巨額であり、露天掘の経験も会社になかった
    • [43]資金調達の責任を負う経理担当者から反対が出たが、河上健次郎専務の決定で開発の意志決定がなされ、1961年2月に交渉団がカナダへ渡った
    • [44]総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、生産開始日から10年3カ月にわたり同鉱山産出の全銅精鉱を独占的に購入する条件
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [45]自主開発では住友金属鉱山が1961年から手掛けたカナダのベスレヘム銅鉱山が初めてであった
参考文献[31]-[45]
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [31]朝鮮戦争の好況下で別子銅山の復興、鴻之舞金山の高収益、戦後合併した佐々連鉱山の好業績に加え、1952年に再開したニッケル事業が極めて好調だった
    • [33]1954年に西ドイツと大口の長期輸出契約に成功、電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸び、1954年下期にトン当たり113万円だった平均売価が1956年下期〜1957年上期には170万〜182万円になった
    • [34]1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当を実施した
    • [35]1958年の電気ニッケル生産は海外市況の悪化と内需減退により前年比42%の減少となった
    • [36]神武景気で一時減少した借入金が業績悪化とともに増加し経営体質を弱めた
    • [37]国内鉱山は規模が小さく鉱量・品位とも劣る傾向にあり、探鉱費は内部留保ではなく借入金に依存していた
    • [38]1960年6月に政府が「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定した
    • [39]1960年の年頭に田中外次社長が自由化対策を急ぐよう強調、同年7月に経理部の中に計画課を設け、鉱山部と冶金部を設置する本社機構の改革が行われた
    • [40]米国の大手産銅会社アサルコが140万ドルを投入して探鉱しかなりの鉱量を確認したが、品位が低く採算の目処が立たないとしてオプションを放棄した
    • [41]1960年秋にカナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱山開発について最終的な態度を決める会議が開かれた
    • [42]開発資金21億円は当時の資本金32億円からみて巨額であり、露天掘の経験も会社になかった
    • [43]資金調達の責任を負う経理担当者から反対が出たが、河上健次郎専務の決定で開発の意志決定がなされ、1961年2月に交渉団がカナダへ渡った
    • [44]総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、生産開始日から10年3カ月にわたり同鉱山産出の全銅精鉱を独占的に購入する条件
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [32]1954年4月〜9月の生産実績は電気銅9,503トン(能力12,000トン)、電気ニッケル721トン(能力720トン)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [45]自主開発では住友金属鉱山が1961年から手掛けたカナダのベスレヘム銅鉱山が初めてであった

1691年〜1972年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 85 n/a 12 n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 121 +41.7% 16 n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 117 ▲3.0% 13 n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 146 +24.0% 27 n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 179 +22.5% 28 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 145 ▲18.6% 12 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 138 ▲5.2% 10 n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 197 +42.8% 20 n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 230 +16.9% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 242 +5.1% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 240 ▲0.9% n/a n/a 5 2.4% n/a
1964年03月期 単体 291 +21.3% n/a n/a 3 1.3% n/a
1965年03月期 単体 336 +15.6% n/a n/a 5 1.6% 住鉱アイ・エス・ピーを設立して亜鉛・鉛の生産開始(1964/07)
1966年03月期 単体 371 +10.2% 34 17 7 2.0% n/a
1967年03月期 単体 529 +42.6% n/a n/a 12 2.3% n/a
1968年03月期 単体 677 +27.9% n/a n/a 14 2.1% n/a
1969年03月期 単体 798 +17.9% n/a n/a 15 2.0% n/a
1970年03月期 単体 1,068 +33.8% 88 45 20 1.9% n/a
1971年03月期 単体 1,079 +1.0% n/a 13 19 1.8% n/a
1972年03月期 単体 1,020 ▲5.5% n/a 3 6 0.6% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑 1976年版

出典・参考

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出典・参考
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友

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