第2章 年〜年

日本軽金属ホールディングス:アルミニウム・リミテッド資本提携と苫小牧製錬工場の着工

1946年〜賠償指定のもとでの民需転換と、輸入再開後の経営不振

ボーキサイトなど主要原料が尽き、各工場は終戦を待たずに事実上操業を止めていた。一方で主要施設の戦災は軽く、終戦時の日本軽金属は生産に差し支えない状態を保っていた。1946年9月に蒲原と新潟の両工場が、航空機の廃機体とアルミニウム残灰を使って低品位地金の生産を再開し、同じ頃清水工場は食塩・カリ肥料・リン鉱石の乾燥・耐火レンガ、蒲原と新潟は人造黒鉛を手がけた。それでも経営は成り立たず、設備と資材を売却して社員の給料と越冬資金に充てた。加えて1945年12月のポーレー大使による中間賠償計画の声明は、アルミナと製錬設備の全部を撤去の対象と規定していた。連合軍の生産禁止令と全面的な賠償指定によって、製錬を再び始めるまでには2年8か月を要することになる。製錬会社としての資産そのものが賠償の標的に置かれていた。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [1]ボーキサイトをはじめ主要原料が枯渇し、終戦前から各工場は操業を停止したに等しかった
    • [2]終戦時、当社の主要施設は戦火による被災が軽微で生産に支障はなかった
    • [3]1946年9月 民需転換事業として航空機の廃機体とアルミニウム残灰から低品位地金の生産を蒲原・新潟両工場で再開
    • [4]清水工場でカリ肥料・輸入穀物の荷役・リン鉱石の乾燥・耐火レンガ、蒲原と新潟で人造黒鉛を製造した
    • [5]設備・資材を売却して社員の給料と越冬資金に充てる状況だった
    • [6]1945年12月7日のポーレー大使「中間賠償計画に関する声明」でアルミナ生産およびアルミニウム製錬設備の全部が撤去の範囲と規定された
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本軽金属」
    • [7]連合軍による生産禁止令と生産設備の全面的な賠償指定のため、製錬の再開までに2年8か月を要した

ポーレー声明に沿っていた賠償方針は、日本で有効に使える生産設備までは撤去しないという方向へ改められた。きっかけは1947年に始まった東西両陣営の冷戦で、アメリカは対日政策を大きく緩めた。アルミニウムは、復興用の輸入代金を賄うには輸出拡大が要り、原料の輸入価格と製品の輸出価格の差が大きい点で有益な産業とされ、撤去を免れる見通しが示された。指定と撤去の問題に決着がついたのは、極東委員会が対日賠償の打ち切りを宣言した1948年5月である。経営陣の顔ぶれもこの頃変わった。古河電気工業は1946年12月に持株会社に指定され、その保有株は一般へ公開・処分された。3代目社長の山田康太郎氏は公職追放令の指定を受けて同年11月に退き、常務取締役の草野義一氏が4代目社長となった。資本の側も整理され、1949年2月に企業再建整備計画に基づいて資本金を7,500万円へ減額したうえで、翌月に3億円まで積み直している。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [8]賠償方針は「日本で有効に利用出来る生産設備は撤去すべきでない」と修正された
    • [9]1947年の冷戦開始によりアメリカの対日政策は大幅に緩和の方向へ向かった
    • [10]アルミニウムは原料輸入価格と製品輸出価格の差が大きく有益な産業として撤去の対象外であることが示唆された
    • [11]1948年5月 極東委員会が対日賠償の打ち切りを宣言し、賠償指定・撤去問題は終わった
    • [12]1946年12月28日 古河電気工業が持株会社に指定され、同社所有の当社株式は一般に公開・処分された
    • [13]3代目社長の山田康太郎は公職追放令の指定を受け1946年11月に退任し、常務取締役の草野義一が4代目社長に就任した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
    • [14]1949年2月 企業再建整備計画に基づき資本金を7,500万円に減額し、同年3月に3億円へ増額した

原料の輸入が認められたのは1948年4月14日であった。同月26日、ボーキサイトを積んだオランダ船チベッサー号が清水工場の専用岸壁に接岸し、8,674トンを陸揚げする。実に4年ぶりの輸入であり、6月には輸入ボーキサイトによる最初の新地金を出荷して、戦後初めての本格的なアルミニウム生産が始まった。1948年の生産は前年の4倍にあたる9,933トンへ伸びた。ただしこれは復興金融金庫の融資と価格差補給金、アメリカの援助資金に支えられたものだった。1949年に単一為替レートの設定を含むドッジラインが実施されて補給金は撤廃され、折からのアメリカの物価暴落で対米輸出も著しく減った。同年5月、日本軽金属は輸出産業として成り立つことを目標とする自立再建策を定め、新潟工場の再開を将来に期し、採算の悪い副次的事業を整理した。希望退職に応じて720人が会社を離れた。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [15]1948年4月14日 日本は年間10万トンのボーキサイト輸入を認められた
    • [16]1948年4月26日 オランダ船チベッサー号が清水工場の専用岸壁に接岸し8,674トンを陸揚げした
    • [18]1948年の生産は前年の4倍増の9,933トンとなった
    • [19]1948年の生産増は復金融資・価格差補給金・アメリカの援助資金に依存した見せかけの繁栄だった
    • [20]1949年 単一為替レート(1ドル360円)の設定を含むドッジラインが実施され価格差補給金が撤廃された
    • [21]1949年にアメリカで物価が暴落して不況に陥り、アルミニウムの対米輸出が著しく減少した
    • [22]1949年5月 輸出産業として成り立つことを目標に自立再建策を策定し、新潟工場の再開見送りと副次的事業の整理を決めた
    • [23]人件費節減策として実施した希望退職の募集で720人が退職した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
    • [17]1948年4月のボーキサイト輸入許可により戦後初めての本格的アルミニウム生産を開始した
参考文献[1]-[23]
    • [1]ボーキサイトをはじめ主要原料が枯渇し、終戦前から各工場は操業を停止したに等しかった
    • [2]終戦時、当社の主要施設は戦火による被災が軽微で生産に支障はなかった
    • [3]1946年9月 民需転換事業として航空機の廃機体とアルミニウム残灰から低品位地金の生産を蒲原・新潟両工場で再開
    • [4]清水工場でカリ肥料・輸入穀物の荷役・リン鉱石の乾燥・耐火レンガ、蒲原と新潟で人造黒鉛を製造した
    • [5]設備・資材を売却して社員の給料と越冬資金に充てる状況だった
    • [6]1945年12月7日のポーレー大使「中間賠償計画に関する声明」でアルミナ生産およびアルミニウム製錬設備の全部が撤去の範囲と規定された
    • [8]賠償方針は「日本で有効に利用出来る生産設備は撤去すべきでない」と修正された
    • [9]1947年の冷戦開始によりアメリカの対日政策は大幅に緩和の方向へ向かった
    • [10]アルミニウムは原料輸入価格と製品輸出価格の差が大きく有益な産業として撤去の対象外であることが示唆された
    • [11]1948年5月 極東委員会が対日賠償の打ち切りを宣言し、賠償指定・撤去問題は終わった
    • [12]1946年12月28日 古河電気工業が持株会社に指定され、同社所有の当社株式は一般に公開・処分された
    • [13]3代目社長の山田康太郎は公職追放令の指定を受け1946年11月に退任し、常務取締役の草野義一が4代目社長に就任した
    • [15]1948年4月14日 日本は年間10万トンのボーキサイト輸入を認められた
    • [16]1948年4月26日 オランダ船チベッサー号が清水工場の専用岸壁に接岸し8,674トンを陸揚げした
    • [18]1948年の生産は前年の4倍増の9,933トンとなった
    • [19]1948年の生産増は復金融資・価格差補給金・アメリカの援助資金に依存した見せかけの繁栄だった
    • [20]1949年 単一為替レート(1ドル360円)の設定を含むドッジラインが実施され価格差補給金が撤廃された
    • [21]1949年にアメリカで物価が暴落して不況に陥り、アルミニウムの対米輸出が著しく減少した
    • [22]1949年5月 輸出産業として成り立つことを目標に自立再建策を策定し、新潟工場の再開見送りと副次的事業の整理を決めた
    • [23]人件費節減策として実施した希望退職の募集で720人が退職した
    • [7]連合軍による生産禁止令と生産設備の全面的な賠償指定のため、製錬の再開までに2年8か月を要した
    • [14]1949年2月 企業再建整備計画に基づき資本金を7,500万円に減額し、同年3月に3億円へ増額した
    • [17]1948年4月のボーキサイト輸入許可により戦後初めての本格的アルミニウム生産を開始した

1949年〜戦後最初の外資提携で技術と原料と販路を一度に入れる

外資との提携を求めていたのは日本軽金属の側だった。先に声をかけてきたのはアメリカのレイノルズ社だったが、双方に事情があって話はまとまらなかった。外資提携で目指したのは三つで、欧米より10年遅れていると見た技術水準を先進国の技術で引き上げること、相手の販売網で輸出を増やし操業度を高めること、資本参加を受け入れて利害を相手と揃えることであった。1949年の初めにはカナダのアルミニウム・リミテッドが、レイノルズ社と手を切るならいつでも交渉の席に着くと伝えてきた。仲介を申し出たのは、戦前に清水工場を設計したドイツ人技師のチーデマン氏で、戦後の対日調査団に案内役として加わった際、旧知の首脳から外資提携の意向を聞いていた。1950年12月、草野義一社長はレイノルズ社に交渉打ち切りを伝え、3か月をかけて北米の関係先を回った。求めたのは資本そのものよりも、技術と原料の面での水準の引き上げであった。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [24]レイノルズ社は早くから提携を呼びかけていたが両社の事情で交渉は進展しなかった
    • [25]外資提携のねらいは①先進国技術の導入による技術水準の引き上げ②提携先の販売網を利用した輸出促進と操業度向上③資本参加による利害の一致
    • [26]1949年初め アルミニウム・リミテッド社から「レイノルズ社との関係を打ち切れば、いつでも提携交渉に応じる」と申し入れがあった
    • [27]清水工場を設計したチーデマン技師が自ら提携の斡旋役となった
    • [28]チーデマンは第2回対日調査団に案内役として参加し、旧知の当社首脳から外資提携の意図を聞かされていた
    • [29]1950年12月 レイノルズ社に交渉打ち切りを申し入れ、草野義一社長一行が3か月にわたりアメリカ・カナダの関係先を訪問した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
    • [30]アルミニウムの国際性に鑑み、1948年の生産再開以来の企業合理化に加えて技術・原料その他の面における向上を図るため、アルミニウム・リミテッド社と資本および技術の援助契約を結んだ

草野社長の署名は1952年3月で、アルミニウム・リミテッド側はそれに先立つ1月にジュレイ上席副社長が署名していた。同年4月、外資法による許可の申請が外資委員会に出された。戦後で初めての外資提携であり、株式の取得、貸付金、技術援助という形をすべて備えた先例として関心を呼んだ。ただ審査の場では異論も上がった。基礎産業のアルミニウムで50パーセントの持株を認めれば、経営の支配権が外国資本に渡りかねないというのである。日本軽金属は、相手の経営参加は受け入れるが主導権は日本側が握り、相手は援助役にとどまるという原則で応じた。認可は1952年10月1日に大蔵省と通商産業省がそろって発表した。発行済みの1,240万株と同数の新株を1株60円で発行し、その全部をアルミニウム・リミテッドへ割り当てる。払込を受けた1953年5月、資本金は12億4,000万円となった。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [31]提携契約書にアルミニウム・リミテッド社は1952年1月29日付、当社は3月19日付で署名した
    • [32]1952年4月8日に外資法に基づく許可申請書を外資委員会へ提出。戦後最初の外資提携であり、株式取得・貸付金・技術援助その他あらゆる形式を含むモデルケースとして注目された
    • [33]審査の過程で「アルミニウムのような基礎産業に50%の持株を許可することは外国投資家に経営を支配される恐れがある」と反対意見が出た
    • [34]外国人も経営に参加するが主導権は日本側経営者が保持し、アルミニウム・リミテッド社はこれを援助する立場をとると説明した
    • [35]1952年10月1日 大蔵省・通商産業省から正式認可が同時に発表された
    • [36]発行株式総数1,240万株を2倍とし、新株1,240万株を1株60円(額面50円)総額7億4,400万円で発行してその全部をアルミニウム・リミテッド社に割り当てた
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
    • [37]1953年5月にアルミニウム・リミテッド社から新株式の払込を受け資本金12億4,000万円となった

提携の効果は原料価格に真っ先に表れた。申請当時トン当たりcif20.50ドルだったビンタン鉱の値は、1952年6月に13.75ドル、認可の1年後には11.255ドルまで下がった。1953年6月には相手方の技術調査団が2か月かけて工場と発電設備を調べ、その助言をもとに改善を進めて、1956年までに原単位の15パーセント切下げという目標を達成した。販売の面では、1954年末に滞留していた在庫3,500トンを相手方の販売網を介して輸出し、清水工場のアルミナは1955年から1957年にかけてキチマットの工場へ4万8,000トンを送って、量産によるコスト低下に寄与した。業績は1953年度に生産2万5,000トン、売上高・純利益とも戦後最高を記録し、1955年以降は毎期6億円から7億円の純利益、売上高利益率15から19パーセントという全製造業でもまれな高率へ達した。終戦時の設備能力は1956年に戦前規模へ戻っている。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [38]ビンタンボーキサイトはトン当りcif20.50ドルから1952年6月13.75ドル、認可1年後の1954年11月にcif11.255ドルへ低下した
    • [39]1953年6月から2か月間アルミニウム・リミテッド社の技術調査団が調査を行い、その結果を参考に1956年までに目標の15%の原単位切下げを果たした
    • [40]1954年末にアルミニウム・リミテッド社の販売網を介して在庫3,500トンを輸出し苦境を脱した
    • [41]1955年5月から1957年1月まで清水工場のアルミナ4万8,000トンをキチマット工場へ輸出し、量産によるアルミナコストの低下に寄与した
    • [43]1955年以降毎期6億円から7億円の純利益を計上し、売上高利益率は15%から19%を記録した
    • [44]清水工場アルミナ10万トン・蒲原工場アルミニウム3万6,000トンという終戦時の設備能力は1956年に戦前規模へ回復した
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
    • [42]1953年度は生産高2万5,000トンで売上高・純利益とも戦後最高の成績を収めた
参考文献[24]-[44]
    • [24]レイノルズ社は早くから提携を呼びかけていたが両社の事情で交渉は進展しなかった
    • [25]外資提携のねらいは①先進国技術の導入による技術水準の引き上げ②提携先の販売網を利用した輸出促進と操業度向上③資本参加による利害の一致
    • [26]1949年初め アルミニウム・リミテッド社から「レイノルズ社との関係を打ち切れば、いつでも提携交渉に応じる」と申し入れがあった
    • [27]清水工場を設計したチーデマン技師が自ら提携の斡旋役となった
    • [28]チーデマンは第2回対日調査団に案内役として参加し、旧知の当社首脳から外資提携の意図を聞かされていた
    • [29]1950年12月 レイノルズ社に交渉打ち切りを申し入れ、草野義一社長一行が3か月にわたりアメリカ・カナダの関係先を訪問した
    • [31]提携契約書にアルミニウム・リミテッド社は1952年1月29日付、当社は3月19日付で署名した
    • [32]1952年4月8日に外資法に基づく許可申請書を外資委員会へ提出。戦後最初の外資提携であり、株式取得・貸付金・技術援助その他あらゆる形式を含むモデルケースとして注目された
    • [33]審査の過程で「アルミニウムのような基礎産業に50%の持株を許可することは外国投資家に経営を支配される恐れがある」と反対意見が出た
    • [34]外国人も経営に参加するが主導権は日本側経営者が保持し、アルミニウム・リミテッド社はこれを援助する立場をとると説明した
    • [35]1952年10月1日 大蔵省・通商産業省から正式認可が同時に発表された
    • [36]発行株式総数1,240万株を2倍とし、新株1,240万株を1株60円(額面50円)総額7億4,400万円で発行してその全部をアルミニウム・リミテッド社に割り当てた
    • [38]ビンタンボーキサイトはトン当りcif20.50ドルから1952年6月13.75ドル、認可1年後の1954年11月にcif11.255ドルへ低下した
    • [39]1953年6月から2か月間アルミニウム・リミテッド社の技術調査団が調査を行い、その結果を参考に1956年までに目標の15%の原単位切下げを果たした
    • [40]1954年末にアルミニウム・リミテッド社の販売網を介して在庫3,500トンを輸出し苦境を脱した
    • [41]1955年5月から1957年1月まで清水工場のアルミナ4万8,000トンをキチマット工場へ輸出し、量産によるアルミナコストの低下に寄与した
    • [43]1955年以降毎期6億円から7億円の純利益を計上し、売上高利益率は15%から19%を記録した
    • [44]清水工場アルミナ10万トン・蒲原工場アルミニウム3万6,000トンという終戦時の設備能力は1956年に戦前規模へ回復した
    • [30]アルミニウムの国際性に鑑み、1948年の生産再開以来の企業合理化に加えて技術・原料その他の面における向上を図るため、アルミニウム・リミテッド社と資本および技術の援助契約を結んだ
    • [37]1953年5月にアルミニウム・リミテッド社から新株式の払込を受け資本金12億4,000万円となった
    • [42]1953年度は生産高2万5,000トンで売上高・純利益とも戦後最高の成績を収めた

1961年〜地金自由化の打撃と、加工分野への系列化

政府が貿易為替自由化大綱を決めたのは1960年6月である。アルミニウム地金は比較的国際競争力が強いと目され、関税を10パーセントから15パーセントへ引き上げる3年間の暫定措置と引き換えに、主要非鉄金属の自由化のトップバッターに指定された。製錬3社は自由化の時期を最終段階にしてほしいと要望したが、政府はすでに促進を決めていた。1961年6月の実施とともにカナダとアメリカから地金が流入し、1961年度の輸入量3万4,426トンは当時の国内生産量の20パーセントを超えた。市中価格は同年初めの22万円前後から1962年度末には19万円まで下がり、日本軽金属は1962年度下期の配当率を10パーセントへ引き下げた。非鉄金属の業界全体としては、1960年代後半の貿易自由化と1965年の不況を表面上は乗り切っている。保護のもとで積み増した設備が、実施の初年に価格で削られた。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [45]1960年6月 政府が貿易為替自由化大綱を策定し基本方針と自由化計画を決定・公表した
    • [46]アルミニウム地金は比較的国際競争力が強いと目され、関税を10%から15%に引き上げる3年間の暫定措置を前提に主要非鉄金属自由化のトップバッターに指定された
    • [47]製錬3社は自由化の時期を最終段階にするよう要望したが、政府はすでに総合的かつ強力に自由化を促進することを決定していた
    • [48]1961年6月の自由化実施でカナダ・アメリカから大量の地金が輸入され、1961年度総輸入量3万4,426トンは当時の国内生産量の20%を超えた
    • [49]市中価格は1961年初めの22万円程度から同年10月に21万円割れ、1962年5月20万円、同年度末19万円まで低下した
    • [50]経常利益が激減し1962年度下期は配当率を10%に引き下げた
  • 日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [51]非鉄金属業界は昭和30年代後半からの貿易自由化と昭和40年不況を難なく乗り越えたように見えた

自由化の翌1962年2月、日本軽金属は体質改善委員会を設け、2年後に控えた地金関税の引下げに対して2年以内にトン当たり1万円の原価引下げが必要だとする目標を掲げた。同じ年には稟議制度の廃止も実施し、近代的経営への脱皮の例として内外の注目を集めている。地金の出口を自前で抱える動きは、それ以前から始まっていた。アルミニウム産業では、サッシのような最終製品を造る三次加工が製錬より収益の高い部門とみなされ、そこを切り離したままでは製錬業の投資効率は上がらなかった。1950年代半ばから1960年代初めにかけ、同社は那須アルミニウム工業、特殊軽合金、大阪アルミニウム製作所などの加工会社の経営に加わり、北陸軽金属工業などにも出資して、系列会社は30社から40社になった。1960年代後半になると製錬に偏った方針を見直し、系列に取り込む先を伸びしろのある量産加工の分野に限り、採算の乏しい投資も辞さず圧延から特定の最終製品までを抱える企業集団を築こうとした。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [52]1962年2月に体質改善委員会を設置し、2年後の地金関税10%引下げに対して2年以内にトン当り1万円の原価引き下げが必要とした
    • [53]1962年に実施した「りん議制度の廃止」は近代的経営への脱皮の好例として内外の注目を集めた
    • [55]1950年代半ばから1960年代半ばにかけて那須アルミニウム工業・特殊軽合金・大阪アルミニウム製作所などに経営参加し、北陸軽金属工業などに資本参加して、グループは30社から40社へ増えた
    • [56]1960年代後半に方針を改め、系列に組み入れるのは成長性のある量産加工分野にとどめると定めた
    • [57]見返りの薄い投資も覚悟のうえで、圧延から特定の最終製品分野を加えた強力な企業集団を形成することを趣旨とした
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [54]アルミ産業で3番目に高収益なのはサッシなど最終製品をつくる三次加工であり、比較的収益性の高い三次加工を分離してきたため精錬業の投資効率は低かった

新規需要の開発を狙って設立した会社のうち、1963年6月の日本フルハーフはトラック車体とコンテナを手がけ、先発の利点を生かして伸びた。しかし1968年に川崎重工業・日立造船・東急車輛製造が海上コンテナへ一斉に参入し、陸上部門でも中小の車体メーカーが加わって受注競争が激化する。販売価格の低落に原材料価格の高騰と労務費の上昇が重なり、1969年から1970年にかけて収益力は極端に悪化した。1970年11月の再建計画では、間接部門を圧縮し、不採算のトラックボディ組立工程を縮小して、競争力のあるコンテナ部門を増強することとした。日本フルハーフはコンテナ部門へ資源を集中し、海外を含め同業が撤退するなかで優位な市場地位を確立して、1971年以降の変動相場制のもとでも収益を上げられる企業力を蓄えた。国内の加工会社としては1968年時点で13社が関係会社に並んでいた。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [58]1963年6月に設立された日本フルハーフは先発メーカーという利点を生かして順調に発展した
    • [59]1968年に川崎重工業・日立造船・東急車輛製造などが海上コンテナーに一斉参入し、陸上部門でも多くの中小ボディーメーカーが競争相手に加わった
    • [60]受注競争の激化による販売価格の低落に原材料価格の高騰と労務費の上昇が加わり、日本フルハーフの収益力は1969年から1970年にかけて極端に悪化した
    • [61]1970年11月の再建計画は①間接部門の大幅圧縮②トラックボディ組立工程の縮小③コンテナー部門の増強④事業部制導入を柱とした
    • [62]コンテナー分野では海外を含め同業他社が撤退するなかで優位な市場地位を確立し、1971年以降の変動相場制移行後も収益を上げ得る企業力を蓄積した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本軽金属」
    • [63]1968年時点の関係会社に日軽アルミニウム工業・日軽圧延・大阪アルミニウム・太陽アルミニウム・ホクセイアルミニウム・日本フルハーフなど13社が並んでいた
参考文献[45]-[63]
    • [45]1960年6月 政府が貿易為替自由化大綱を策定し基本方針と自由化計画を決定・公表した
    • [46]アルミニウム地金は比較的国際競争力が強いと目され、関税を10%から15%に引き上げる3年間の暫定措置を前提に主要非鉄金属自由化のトップバッターに指定された
    • [47]製錬3社は自由化の時期を最終段階にするよう要望したが、政府はすでに総合的かつ強力に自由化を促進することを決定していた
    • [48]1961年6月の自由化実施でカナダ・アメリカから大量の地金が輸入され、1961年度総輸入量3万4,426トンは当時の国内生産量の20%を超えた
    • [49]市中価格は1961年初めの22万円程度から同年10月に21万円割れ、1962年5月20万円、同年度末19万円まで低下した
    • [50]経常利益が激減し1962年度下期は配当率を10%に引き下げた
    • [52]1962年2月に体質改善委員会を設置し、2年後の地金関税10%引下げに対して2年以内にトン当り1万円の原価引き下げが必要とした
    • [53]1962年に実施した「りん議制度の廃止」は近代的経営への脱皮の好例として内外の注目を集めた
    • [55]1950年代半ばから1960年代半ばにかけて那須アルミニウム工業・特殊軽合金・大阪アルミニウム製作所などに経営参加し、北陸軽金属工業などに資本参加して、グループは30社から40社へ増えた
    • [56]1960年代後半に方針を改め、系列に組み入れるのは成長性のある量産加工分野にとどめると定めた
    • [57]見返りの薄い投資も覚悟のうえで、圧延から特定の最終製品分野を加えた強力な企業集団を形成することを趣旨とした
    • [58]1963年6月に設立された日本フルハーフは先発メーカーという利点を生かして順調に発展した
    • [59]1968年に川崎重工業・日立造船・東急車輛製造などが海上コンテナーに一斉参入し、陸上部門でも多くの中小ボディーメーカーが競争相手に加わった
    • [60]受注競争の激化による販売価格の低落に原材料価格の高騰と労務費の上昇が加わり、日本フルハーフの収益力は1969年から1970年にかけて極端に悪化した
    • [61]1970年11月の再建計画は①間接部門の大幅圧縮②トラックボディ組立工程の縮小③コンテナー部門の増強④事業部制導入を柱とした
    • [62]コンテナー分野では海外を含め同業他社が撤退するなかで優位な市場地位を確立し、1971年以降の変動相場制移行後も収益を上げ得る企業力を蓄積した
    • [51]非鉄金属業界は昭和30年代後半からの貿易自由化と昭和40年不況を難なく乗り越えたように見えた
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [54]アルミ産業で3番目に高収益なのはサッシなど最終製品をつくる三次加工であり、比較的収益性の高い三次加工を分離してきたため精錬業の投資効率は低かった
    • [63]1968年時点の関係会社に日軽アルミニウム工業・日軽圧延・大阪アルミニウム・太陽アルミニウム・ホクセイアルミニウム・日本フルハーフなど13社が並んでいた

1967年〜苫小牧にかけた大建設と、一貫会社への移行

1967年10月、日本軽金属はボーキサイトからアルミナを経て地金・スラブ・ビレットまでを通す一貫工場を、北海道の苫小牧に建設すると決めた。工場の新設は創業期の清水・蒲原・新潟以来である。最終規模はアルミナ年120万トン・地金年60万トンを想定して全体の配置を定め、1968年4月に218万6,000平方メートルの用地を取得した。電力を確保するため、同年5月に北海道電力と折半出資で苫小牧共同発電を設立している。製錬は1969年10月に操業を始めたが、その後の円切上げによる安い輸入地金の流入で不況に直面し、工場への投資が負担としてのしかかった。石油危機の追い打ちで規模は地金年13万トン・アルミナ年36万トンにとどまる。有利子負債は1968年度の521億円から1973年度に1,516億円と年間売上高の1.7倍に達し、支払利息は31億円から114億円へ膨らんだ。

  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [64]1967年10月 ボーキサイトからアルミナを経てアルミニウムインゴット・スラブ・ビレットまでの一貫工場を北海道苫小牧市に建設することを決定した
    • [65]工場を新設するのは創業当時の清水・蒲原・新潟の3工場以来であった
    • [66]最終生産規模をアルミナ120万トン/年・アルミニウム地金60万トン/年と想定し、1968年4月に苫小牧市の218万6,000m2を購入した
    • [67]1968年5月 北海道電力と折半出資で苫小牧共同発電を設立し、250MWの重油専焼火力発電機3台の発電量の半分を使用することとした
    • [70]有利子負債は1968年度の521億円から1973年度末に1,516億円へ増え、年間売上高の約1.7倍に相当した
    • [71]支払利息は1968年度の31億円強から1973年度に約3.6倍の114億円弱へ達した
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [68]1968年3月に苫小牧の精錬・アルミナ工場の建設へ着手し1969年10月に一部操業を開始したが、円切り上げに伴う安い輸入地金の流入で不況に直面し同工場への投資が大きな負担となった
    • [69]苫小牧工場は当初地金年産40万トン・アルミナ年産120万トンの予定だったが、1974年時点で地金13万トン・アルミナ36万トンにとどまった

需要の見通しそのものは外れていなかった。国内のアルミニウム総需要は1965年の45万1,000トンから1970年には120万8,000トンへ増え、伸びは国民総生産の2倍のピッチであった。それでも1973年度の経常利益は45億円から6億5,000万円へ、7分の1へ減少している。1974年下期の総資本利益率は0.38パーセントまで下がり、日本経済新聞社の総合評価では441社中430位に置かれた。地金1トンを生産するのに要する投資額は石油危機以前でも約55万円で、当時の地金価格から見た資金回転率は0.4にすぎず、危機後は投資コストがほぼ倍増して0.3へ悪化した。1974年10月、日本軽金属は三次加工の日軽アルミを吸収合併し、製錬から最終加工までの一貫会社として新発足する。収益の柱は、このとき製錬から加工へ移った。

  • 日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [72]国内のアルミ総需要は1965年の45万1,000トンから1970年に120万8,000トンへ激増し、伸び方はGNPの伸び率の2倍のピッチだった
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [73]経常利益は1968年度の45億円強が1973年度には約1/7の6億5,000万円に減少した
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [74]日軽金の総資本利益率は1974年下期に0.38%まで落ち込み、日本経済新聞社NEEDSの企業総合評価では441社中430位だった
    • [75]石油危機以前、地金1トンの生産に要する投資額はアルミナ工場10万円・精錬工場30万円・発電所15万円の合計約55万円で、地金価格トン20万円に対する資金回転率は0.4だった
    • [76]石油危機以降は設備投資コストがほぼ倍増し、地金単価約32万円として資金回転率は0.3へ悪化した
    • [77]1974年10月1日に日軽金と日軽アルミの合併および日軽圧延・ニッカル押出の営業権譲渡による垂直統合が成立し、精錬から最終加工に至る一貫会社として新発足した
参考文献[64]-[77]
    • [64]1967年10月 ボーキサイトからアルミナを経てアルミニウムインゴット・スラブ・ビレットまでの一貫工場を北海道苫小牧市に建設することを決定した
    • [65]工場を新設するのは創業当時の清水・蒲原・新潟の3工場以来であった
    • [66]最終生産規模をアルミナ120万トン/年・アルミニウム地金60万トン/年と想定し、1968年4月に苫小牧市の218万6,000m2を購入した
    • [67]1968年5月 北海道電力と折半出資で苫小牧共同発電を設立し、250MWの重油専焼火力発電機3台の発電量の半分を使用することとした
    • [70]有利子負債は1968年度の521億円から1973年度末に1,516億円へ増え、年間売上高の約1.7倍に相当した
    • [71]支払利息は1968年度の31億円強から1973年度に約3.6倍の114億円弱へ達した
    • [73]経常利益は1968年度の45億円強が1973年度には約1/7の6億5,000万円に減少した
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [68]1968年3月に苫小牧の精錬・アルミナ工場の建設へ着手し1969年10月に一部操業を開始したが、円切り上げに伴う安い輸入地金の流入で不況に直面し同工場への投資が大きな負担となった
    • [69]苫小牧工場は当初地金年産40万トン・アルミナ年産120万トンの予定だったが、1974年時点で地金13万トン・アルミナ36万トンにとどまった
    • [74]日軽金の総資本利益率は1974年下期に0.38%まで落ち込み、日本経済新聞社NEEDSの企業総合評価では441社中430位だった
    • [75]石油危機以前、地金1トンの生産に要する投資額はアルミナ工場10万円・精錬工場30万円・発電所15万円の合計約55万円で、地金価格トン20万円に対する資金回転率は0.4だった
    • [76]石油危機以降は設備投資コストがほぼ倍増し、地金単価約32万円として資金回転率は0.3へ悪化した
    • [77]1974年10月1日に日軽金と日軽アルミの合併および日軽圧延・ニッカル押出の営業権譲渡による垂直統合が成立し、精錬から最終加工に至る一貫会社として新発足した
    • [72]国内のアルミ総需要は1965年の45万1,000トンから1970年に120万8,000トンへ激増し、伸び方はGNPの伸び率の2倍のピッチだった

1946年〜1974年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 59 n/a 17 n/a 11 18.9% n/a
1953年03月期 単体 57 ▲2.8% 12 n/a 10 18.6% n/a
1954年03月期 単体 68 +18.4% 13 n/a 11 16.5% n/a
1955年03月期 単体 63 ▲7.0% n/a 9 n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 77 +21.5% n/a 12 n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 81 +6.3% n/a 13 n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 80 ▲1.7% n/a 11 n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 113 +40.4% n/a 15 n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 141 +25.4% n/a 18 n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 161 +14.1% 34 19 10 6.4% 日本軽金属総合研究所を設立(1961)
1962年03月期 単体 189 +16.8% 33 21 11 6.0% n/a
1963年03月期 単体 176 ▲6.8% 27 15 9 5.6% n/a
1964年03月期 単体 210 +19.2% n/a n/a 14 7.0% 日軽アルミ船橋工場の操業を開始(1964)
1965年03月期 単体 225 +7.4% n/a n/a 13 6.0% n/a
1966年03月期 単体 242 +7.3% n/a n/a 15 6.3% n/a
1967年03月期 単体 314 +29.9% n/a n/a 17 5.4% n/a
1968年03月期 単体 351 +11.8% n/a n/a 20 5.8% n/a
1969年03月期 単体 457 +30.1% n/a n/a 22 4.8% 北海道電力と折半出資で苫小牧共同発電を設立(1968/05)苫小牧電解工場の操業を開始(1969)
1970年03月期 単体 568 +24.3% n/a n/a 26 4.7% 幸田合金鋳造所の操業を開始(1970)
1971年03月期 単体 591 +4.1% n/a 43 26 4.5% n/a
1972年03月期 単体 601 +1.6% n/a 20 15 2.6% 苫小牧アルミナ工場の操業を開始(1972)
1973年03月期 単体 690 +14.8% n/a 7 14 2.0% n/a
1974年03月期 単体 884 +28.2% n/a 6 15 1.7% アルキャン社との共同出資でカナダにアルパック・アルミニウム社を設立(1974)

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算

出典・参考

5件
出典・参考
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本軽金属」
  • 日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号

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