第2章 年〜年

山陽特殊製鋼:山陽特殊製鋼への改称と会社更生法の適用申請

1957年〜セフィラックの熱間押出法と月2000トンの鋼管設備、特殊鋼専業を示す改称

前章の終わりで山陽製鋼は資本金を4億円まで積み増したが、並みの品質の特殊鋼は買い手に値を叩かれ、投じた資金が利益に結びつかなかった。荻野一社長は1955年、チューリッヒ工業大学で機械を学んだ舟田三郎氏を取締役に迎え、国際水準の特殊鋼をつくる技術体系の設計を任せた。舟田氏が最初の標的に選んだのは軸受鋼で、良質の軸受を削り出す素材には肉厚の鋼管が要るのに、国内にはその製造者がいなかった。山陽は1957年4月に第1次合理化計画へ着手し、翌5月にフランスのセフィラックとユージン・セジュルネ方式の熱間押出法で技術援助契約を結んだ。棒鋼を売る会社から、管という形状で他社と差をつける会社へ移ろうとした選択だったとみられる。

  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [1]山陽製鋼は1954年に資本金4億円まで増資したが、世間並みの技術水準では値をたたかれ採算が立たなかった(荻野一の回想)
    • [3]軸受鋼の品質向上には肉厚の特殊鋼チューブから削り出す方法が有効だが、国内にチューブをつくる会社がなかった
  • 日本企業要覧 1960年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [2]舟田三郎は1939年チューリッヒ工業大学機械科卒、東邦物産参事を経て1955年5月に山陽製鋼取締役
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [4]1957年4月に第1次合理化計画に着手、同年5月に仏セフィラック社とユージン・セジュルネ方式の熱間押出法の技術援助契約を締結

計画した設備は欧州の先例と規模が違った。熱間押出を使う欧州の工場は月450トン以下で、山陽はそれでは採算が合わないとして月2000トンの設備を立案した。設備費は21億円と当時の資本金4億4000万円のほぼ5倍にのぼり、専務と常務は全員が反対したという。社内には鋼管の製造を経験した技術者が1人もおらず、舟田氏が何度も欧州へ渡って技術を固めた。1957年10月には資本金を9億円へ倍増し、設備の資金を株主から調達した。1959年7月に最初の押出に成功し、同年11月の第1次合理化工事の完了とともに特殊鋼鋼管へ進出した。ガラス粉を潤滑に使うこの製法を事業にした国内企業は、高炉メーカーを含めて山陽のほかになかった。

  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [5]欧州の熱間押出工場は月量450トン以下の小規模で、山陽は2000トン規模の計画を立案した
    • [6]欧州の熱間押出工場は月量450トン以下の小規模で、山陽は2000トン規模の計画を立案した
    • [7]熱間押出設備の設備費は21億円、当時の資本金は4億4000万円で、専務・常務は全員反対した(荻野一の回想)
    • [8]鋼管をつくる経験を持った技術者は1人もおらず、舟田三郎は何度も渡欧して技術面を固めた(荻野一の回想)
    • [10]1959年7月に熱間押出の第1回押出に成功
    • [12]ガラス粉を潤滑剤とする熱間押出に高炉メーカーを含め国内で成功した会社はなかった(荻野一の回想)
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [9]1957年10月に資本金を4億6000万円から9億円へ増資(1対1、設備拡張・借入金返済)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [11]1959年11月に第1次合理化工事を完了し特殊鋼鋼管部門に進出

1959年1月の山陽特殊製鋼への改称は、特殊鋼の専業メーカーであることを社名で示すためのものだった。押出設備は輸出の糸口にもなり、工場を視察したソ連側との間で1960年3月に押出製品の輸出契約がまとまった。1964年版の会社総覧は、熱間押出設備を持つ特殊鋼メーカーを山陽1社とし、普通鋼メーカーを含めても国内に3社と記した。軸受鋼は国内生産量の半分を握って首位に立ち、軸受鋼パイプでは他社の追随を許さない地位にあった。1964年3月期の輸出は約11億円で、その中心はソ連向けだった。軸受鋼を管の形で供給できることが、ほかの特殊鋼メーカーとの違いの芯になったと思われる。

  • 日本企業要覧 1960年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [13]1959年1月、特殊鋼専業メーカーたることを明瞭にするため社名を山陽特殊製鋼と改めた
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [14]1960年3月、ソ連との間に熱間押出製品の輸出契約がまとまった(荻野一の回想)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [15]熱間押出設備を持つ特殊鋼メーカーは山陽特殊製鋼のみで、普通鋼メーカーを入れても3社
    • [16]ベアリング鋼で全国生産高の5割を占め第1位、ベアリング鋼パイプでは独占的強みをもつ
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [17]1964年3月期の輸出はソ連向け中心に11億円
参考文献[1]-[17]
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [1]山陽製鋼は1954年に資本金4億円まで増資したが、世間並みの技術水準では値をたたかれ採算が立たなかった(荻野一の回想)
    • [3]軸受鋼の品質向上には肉厚の特殊鋼チューブから削り出す方法が有効だが、国内にチューブをつくる会社がなかった
    • [5]欧州の熱間押出工場は月量450トン以下の小規模で、山陽は2000トン規模の計画を立案した
    • [6]欧州の熱間押出工場は月量450トン以下の小規模で、山陽は2000トン規模の計画を立案した
    • [7]熱間押出設備の設備費は21億円、当時の資本金は4億4000万円で、専務・常務は全員反対した(荻野一の回想)
    • [8]鋼管をつくる経験を持った技術者は1人もおらず、舟田三郎は何度も渡欧して技術面を固めた(荻野一の回想)
    • [10]1959年7月に熱間押出の第1回押出に成功
    • [12]ガラス粉を潤滑剤とする熱間押出に高炉メーカーを含め国内で成功した会社はなかった(荻野一の回想)
    • [14]1960年3月、ソ連との間に熱間押出製品の輸出契約がまとまった(荻野一の回想)
  • 日本企業要覧 1960年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [2]舟田三郎は1939年チューリッヒ工業大学機械科卒、東邦物産参事を経て1955年5月に山陽製鋼取締役
    • [13]1959年1月、特殊鋼専業メーカーたることを明瞭にするため社名を山陽特殊製鋼と改めた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [4]1957年4月に第1次合理化計画に着手、同年5月に仏セフィラック社とユージン・セジュルネ方式の熱間押出法の技術援助契約を締結
    • [11]1959年11月に第1次合理化工事を完了し特殊鋼鋼管部門に進出
    • [15]熱間押出設備を持つ特殊鋼メーカーは山陽特殊製鋼のみで、普通鋼メーカーを入れても3社
    • [16]ベアリング鋼で全国生産高の5割を占め第1位、ベアリング鋼パイプでは独占的強みをもつ
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [9]1957年10月に資本金を4億6000万円から9億円へ増資(1対1、設備拡張・借入金返済)
    • [17]1964年3月期の輸出はソ連向け中心に11億円

1960年〜第2次・第3次合理化と大阪特殊製鋼の合併、富士製鉄と組んだ高炉とカルド転炉の構想

押出の成功のあとも合理化は間を置かず、1960年9月に大型分塊圧延機を主体とする第2次工事を終えた。1963年3月には連続式中小型圧延設備を中心とする第3次工事の主要部分を完了した。1955年から1962年までの設備投資額は112億円に達した。資金は増資と借入の双方でまかない、資本金は1960年9月の30億円から1963年12月には73億8000万円へ膨らんだ。売上高は1957年9月期の20億5192万9000円から1964年3月期の92億3096万7000円へ伸び、販売の6割を自動車向けが占めた。技術の導入先も広げ、1961年にはスウェーデンのストラと海綿鉄の製造で、欧州の連続鋳造共同体とも技術援助契約を結んだ。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [18]1960年9月に大型分塊圧延機を中心とする第2次合理化工事を完了
    • [19]1963年3月に連続中小型圧延設備を中心とする第3次合理化工事の主要設備工事を完了
    • [23]1961年5月にストラ社と海綿鉄の製造援助契約、同年9月に欧州連続鋳造共同体(SSG)と連続鋳造の技術援助契約
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
    • [20]1955年から1962年までの間に112億円の設備投資を行った
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [21]資本金は1960年9月に30億円、1963年12月に73億8000万円
    • [22]売上高は1957年9月期2,051,929千円、1964年3月期9,230,967千円。主力のベアリングなど全体の60%が自動車会社向け

1963年4月には大阪特殊製鋼を吸収合併し、大阪特殊製鋼が米インランド・スチールと結んでいた鉛快削鋼の技術援助契約を引き継いだ。合併比率は10対3で、大阪特殊製鋼の決算は1961年12月期から赤字に転じていた。富士製鉄との結びつきも深まり、1963年3月末の株主名簿で富士製鉄は筆頭株主となり、原料の銑鉄も同社から買い入れていた。同年5月には富士製鉄の代表取締役副社長を務めた平世将一氏が、広畑製鉄所長のまま山陽の取締役に就任した。山陽は広畑に用地を確保し、そこへ製鋼所を建てる計画を持っていた。軸受鋼の外へ鋼種を広げつつ、鉄源を大手高炉の近くで押さえる布石だったのだろう。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [24]1963年4月に大阪特殊製鋼を合併し、同社が米国インランド社と提携した鉛快削鋼の製造技術援助契約を継承
    • [26]被合併会社の大阪特殊製鋼は1961年12月期に1億3546万円、1962年6月期に1億7998万円の損失
    • [27]1963年3月末の大株主第1位は富士製鉄(4.5%)。銑鉄は富士製鉄から購入
    • [29]富士製鉄の系列下にあり、広畑に用地を確保して製鋼所の建設計画がある
  • 証券 1985年12月号
    • [25]大阪特殊製鋼の吸収合併の合併比率は10対3
  • 日本企業要覧 1963年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [28]平世将一は富士製鉄代表取締役副社長を経て、1963年5月に同社広畑製鉄所長・山陽特殊製鋼取締役

山陽の主原料は米国から輸入する屑鉄で、その価格は景気の振れとともに大きく上下し、特殊鋼メーカーの収益を揺さぶっていた。荻野社長は1963年、自前の高炉で銑鉄を得る構想に踏み出し、富士製鉄の永野重雄氏の支援と通産省の了承を取り付けたという。銑鉄から鋼材までを一社で通す体制は、特殊鋼の専業では世界に先例のない試みだった。高炉の銑鉄を精錬する設備には酸素で純度を上げるカルド転炉を選び、付帯設備を含めて70億円の投資を見込んだ。同じ1963年には西ドイツのクルップと転炉5基の建設で合意し、クルップの出資と役員の派遣を受け入れる話も進めていたという。電気炉の側でも、1963年12月に60トン電気炉を中心とする第3次の追加計画に着手した。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [30]主要原料の屑鉄は主として米国から輸入
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [31]スクラップ価格が好不況により大きく変動し特殊鋼メーカーの経営を不安定にしていた
    • [36]1963年12月に60トン電気炉を中心とする第3次の追加計画を開始
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [32]1963年、高炉建設を富士製鉄の永野重雄に相談して支援を得、通産省も了承した(荻野一の回想)
    • [35]1963年に西ドイツのクルップとカルド転炉5基の建設で合意し、クルップの資金拠出と重役派遣の申し出を受けた(荻野一の回想)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
    • [33]高炉を建設し、特殊鋼メーカーとしては世界初の銑鋼一貫体制を目指した
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [34]スウェーデンで考案されたカルド転炉の導入を決め、付帯設備を含め70億円の投資を見込んだ
参考文献[18]-[36]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
    • [18]1960年9月に大型分塊圧延機を中心とする第2次合理化工事を完了
    • [19]1963年3月に連続中小型圧延設備を中心とする第3次合理化工事の主要設備工事を完了
    • [23]1961年5月にストラ社と海綿鉄の製造援助契約、同年9月に欧州連続鋳造共同体(SSG)と連続鋳造の技術援助契約
    • [24]1963年4月に大阪特殊製鋼を合併し、同社が米国インランド社と提携した鉛快削鋼の製造技術援助契約を継承
    • [26]被合併会社の大阪特殊製鋼は1961年12月期に1億3546万円、1962年6月期に1億7998万円の損失
    • [27]1963年3月末の大株主第1位は富士製鉄(4.5%)。銑鉄は富士製鉄から購入
    • [29]富士製鉄の系列下にあり、広畑に用地を確保して製鋼所の建設計画がある
    • [30]主要原料の屑鉄は主として米国から輸入
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
    • [20]1955年から1962年までの間に112億円の設備投資を行った
    • [33]高炉を建設し、特殊鋼メーカーとしては世界初の銑鋼一貫体制を目指した
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [21]資本金は1960年9月に30億円、1963年12月に73億8000万円
    • [22]売上高は1957年9月期2,051,929千円、1964年3月期9,230,967千円。主力のベアリングなど全体の60%が自動車会社向け
  • 証券 1985年12月号
    • [25]大阪特殊製鋼の吸収合併の合併比率は10対3
  • 日本企業要覧 1963年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [28]平世将一は富士製鉄代表取締役副社長を経て、1963年5月に同社広畑製鉄所長・山陽特殊製鋼取締役
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [31]スクラップ価格が好不況により大きく変動し特殊鋼メーカーの経営を不安定にしていた
    • [36]1963年12月に60トン電気炉を中心とする第3次の追加計画を開始
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [32]1963年、高炉建設を富士製鉄の永野重雄に相談して支援を得、通産省も了承した(荻野一の回想)
    • [35]1963年に西ドイツのクルップとカルド転炉5基の建設で合意し、クルップの資金拠出と重役派遣の申し出を受けた(荻野一の回想)
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [34]スウェーデンで考案されたカルド転炉の導入を決め、付帯設備を含め70億円の投資を見込んだ

1964年〜負債424億円の更生申請と粉飾153億円、新幹線用軸受鋼とアッセル・ミル

1964年3月末には流動負債218億5093万円が流動資産181億4346万円を上回り、負債は自己資本86億842万円の3.7倍に達した。荻野社長の回想では、60トン電気炉はドイツ人技術者の帰国後に脱酸が安定せず、軸受鋼に使えない鋼塊が約3万トン積み上がったという。資金繰りは1964年の暮れに詰まり、保険会社10社による150億円の融資は1965年4月の実行を待つ段階にあった。同年2月に開かれた銀行の会合では、つなぎの運転資金の協調融資がまとまらなかった。山陽は不渡りを出す前の3月6日に会社更生法の適用を申請し、23日に神戸地裁姫路支部が更生手続の開始を決めた。

  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [37]1964年3月31日現在、流動資産18,143,464千円、流動負債21,850,935千円、負債合計31,985,529千円、資本合計8,608,419千円
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [38]60トン電気炉はドイツ人技術者の帰国後に酸素が抜けず、軸受鋼に使えない鋼塊が約3万トン山積みになった(荻野一の回想)
    • [39]1964年暮れに資金繰りが苦しくなり、保険会社10社が1965年4月1日から150億円を貸す話がまとまっていた(荻野一の回想)
    • [40]1965年2月、運転資金の貸出を話し合う銀行間の会合で各行が支援から降りた(荻野一の回想)
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「証券各社の経営悪化」
    • [41]1965年3月6日に会社更生法の適用を申請
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [42]1965年3月23日に神戸地裁姫路支部が更生手続の開始を決定

負債総額の見積もりは当初500億円だったが、調査を経て424億円で確定した。この額は前の年に破綻した日本特殊鋼の200億円を2倍以上も上回り、戦後に倒れた企業のなかで最も大きかった。1958年3月期、実際には900万円の損失が出ていた決算を、会社は税引前で1億400万円の黒字と発表しており、更生手続の過程でこれが粉飾の出発点だと判明した。以後の決算も同じ手口で穴を塞ぎ続けたため、申請の時点で欠損は153億8190万円まで膨らんでいた。株式市場では、申請から2日後にあたる3月8日に東証ダウ平均が1200円を下回り、1190円98銭をつけた。同じ年の5月、日銀は経営に行き詰まった山一證券への特別融資を決めており、この年の不況はこれと山陽の倒産によって象徴されることになった。

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
    • [43]負債総額は当初500億円といわれたが、その後の調べで424億円に確定
  • 水上達三『私の商社昭和史』(1987年)「四〇年不況と大型合併」
    • [44]前年倒産した日本特殊鋼の200億円の2倍以上で、戦後最高の負債を残した倒産
    • [49]1965年5月に山一證券が日銀特融で危機を回避し、山陽特殊製鋼の倒産とともに40年不況の例として特筆される
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [45]1958年3月期に900万円の赤字を出しながら1億400万円の税引前利益を公表した
    • [46]粉飾決算は1958年3月期に始まった
    • [47]同年9月期以降も粉飾を重ね、1965年3月22日現在で153億8190万円余の欠損を計上した
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「証券各社の経営悪化」
    • [48]1965年3月8日、東証ダウ平均は1200円を割って1190円98銭となった

更生計画は1967年12月26日に認可され、無担保の一般債務183億8400万円のうち121億9000万円が免除された。1968年4月に資本金を95%減らし、翌5月には10億円の新株を富士製鉄に割り当てた。倒産時の従業員3750人のうち約700人が去ったが、3000人以上が工場に残った。再建は残った電気炉と押出設備を生かす方針をとり、販売数量の半分近くを占めていた構造用炭素鋼から軸受鋼と鋼管へ主力を移した。1966年に国鉄から新幹線用の軸受鋼を受注し、1970年には継目無鋼管の製造設備アッセル・ミルを完成させた。軸受鋼の生産シェアは1965年の33%から1973年4〜6月には51%へ上がり、同年8月31日の更生終結の申請へつながった。

  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [50]1967年12月26日に更生計画認可。無担保の一般債務183億8400万円のうち121億9000万円が弁済免除(免除率67%)
    • [51]1968年4月に資本金73億8000万円を3億6900万円に減資(95%)
    • [53]倒産当時の従業員3750人のうち約500人が自己都合で退職、同年秋の希望退職で約200人が退職し、3000人以上が残った
    • [54]倒産後は残った電気炉・熱間押出設備を活用し、販売数量の半分近くを占めたSC材から軸受鋼中心へ鋼種を転換した
    • [57]軸受鋼の生産シェアは1965年の33%から1973年4〜6月に51%。1973年8月31日に更生終結を申請
  • 証券 1985年12月号
    • [52]更生計画に基づく減資・代物弁済の後、富士製鉄への第三者割当増資を実施
  • 山陽特殊製鋼公式サイト「沿革」(2005年4月時点)
    • [55]1966年に日本国有鉄道から新幹線用軸受鋼を受注
    • [56]1970年に継目無鋼管の製造設備アッセル・ミルが完成
参考文献[37]-[57]
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
    • [37]1964年3月31日現在、流動資産18,143,464千円、流動負債21,850,935千円、負債合計31,985,529千円、資本合計8,608,419千円
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
    • [38]60トン電気炉はドイツ人技術者の帰国後に酸素が抜けず、軸受鋼に使えない鋼塊が約3万トン山積みになった(荻野一の回想)
    • [39]1964年暮れに資金繰りが苦しくなり、保険会社10社が1965年4月1日から150億円を貸す話がまとまっていた(荻野一の回想)
    • [40]1965年2月、運転資金の貸出を話し合う銀行間の会合で各行が支援から降りた(荻野一の回想)
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「証券各社の経営悪化」
    • [41]1965年3月6日に会社更生法の適用を申請
    • [48]1965年3月8日、東証ダウ平均は1200円を割って1190円98銭となった
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
    • [42]1965年3月23日に神戸地裁姫路支部が更生手続の開始を決定
    • [45]1958年3月期に900万円の赤字を出しながら1億400万円の税引前利益を公表した
    • [46]粉飾決算は1958年3月期に始まった
    • [47]同年9月期以降も粉飾を重ね、1965年3月22日現在で153億8190万円余の欠損を計上した
    • [50]1967年12月26日に更生計画認可。無担保の一般債務183億8400万円のうち121億9000万円が弁済免除(免除率67%)
    • [51]1968年4月に資本金73億8000万円を3億6900万円に減資(95%)
    • [53]倒産当時の従業員3750人のうち約500人が自己都合で退職、同年秋の希望退職で約200人が退職し、3000人以上が残った
    • [54]倒産後は残った電気炉・熱間押出設備を活用し、販売数量の半分近くを占めたSC材から軸受鋼中心へ鋼種を転換した
    • [57]軸受鋼の生産シェアは1965年の33%から1973年4〜6月に51%。1973年8月31日に更生終結を申請
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
    • [43]負債総額は当初500億円といわれたが、その後の調べで424億円に確定
  • 水上達三『私の商社昭和史』(1987年)「四〇年不況と大型合併」
    • [44]前年倒産した日本特殊鋼の200億円の2倍以上で、戦後最高の負債を残した倒産
    • [49]1965年5月に山一證券が日銀特融で危機を回避し、山陽特殊製鋼の倒産とともに40年不況の例として特筆される
  • 証券 1985年12月号
    • [52]更生計画に基づく減資・代物弁済の後、富士製鉄への第三者割当増資を実施
    • [55]1966年に日本国有鉄道から新幹線用軸受鋼を受注
    • [56]1970年に継目無鋼管の製造設備アッセル・ミルが完成

1957年〜1972年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 34 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 20 ▲41.2% n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 41 +105.0% n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 108 n/a 12 5 4.6% n/a
1963年03月期 単体 129 +19.4% 16 6 4.7% n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算

出典・参考

12件
出典・参考
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻「高度成長の最後の輝き」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
  • 日経ビジネス 1978年11月20日号
  • 証券 1985年12月号
  • 日本企業要覧 1960年版「山陽特殊製鋼株式会社」
  • 日本企業要覧 1963年版「山陽特殊製鋼株式会社」
  • 日本企業要覧 1964年版「山陽特殊製鋼株式会社」
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「証券各社の経営悪化」
  • 水上達三『私の商社昭和史』(1987年)「四〇年不況と大型合併」
  • 山陽特殊製鋼公式サイト「沿革」(2005年4月時点)

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