山陽特殊製鋼:山陽製鋼所の創業と軸受鋼の専門メーカー指定
1933年〜飾磨の山陽製鋼所、資本金100万円の株式会社と大阪での上場
1933年12月、姫路市飾磨区中島の工場で山陽製鋼所が特殊鋼の操業を始めた。個人の経営する事業所として出発し、その資産と事業はのちに株式会社へ移された。創業者は山本東作氏で、その名は戦後に全株を譲り受けた荻野一氏の回想に残るという。荻野氏はこの工場を、播磨の工業地帯を支える工場の一つと位置づけていた。本社と主力工場は創業の地番から動かず、1953年には敷地5万5906坪、従業員660名の規模になっていた。創業者の経歴や元手の出どころを示す資料は乏しく、出発点で確かめられるのは場所と業種にとどまる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [1]1933年12月、姫路市飾磨区中島で山陽製鋼所として特殊鋼の操業を開始
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [2]個人企業の山陽製鋼所の資産と事業を継承して株式会社を設立
- [6]事業場は土地総坪数55,906坪、1953年10月1日現在の従業員数660名
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [3]山陽製鋼の創業者は山本東作で、荻野一が同氏から全株を買い取った
- [4]荻野一は山陽製鋼を播磨工業地帯の一翼を担う会社と位置づけていた
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」/株式会社年鑑 1956年版「山陽製鋼」
- [5]本社・工場の所在地は姫路市飾磨区中島3007(1950年版・1956年版とも)
株式会社への改組は操業から1年後の1934年12月で、資本金100万円を全額払い込んで山陽製鋼が発足した。個人時代の工場をそのまま引き継ぎ、商号から「所」の字を外す形の組織変更だった。事業の目的は当初から特殊鋼の製造に絞られていた。設立日は1934年12月28日とされ、登記は翌1935年1月11日付で行われた。会社の公表する沿革も、1933年創業の山陽製鋼所を承継して1935年1月に設立したと整理している。設立年が資料によって1934年と1935年に割れるのは、改組を決めた時点と登記の日付のどちらを取るかの差とみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [7]1934年12月に株式組織へ改め、資本金100万円全額払込で発足
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」
- [8]1934年12月、山陽製鋼所を組織変更して山陽製鋼株式会社を設立、資本金100万円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [9]特殊鋼の製造を目的に資本金100万円で設立
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- [10]設立 昭和9年12月28日
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [11]設立登記日は1935年1月11日
- 山陽特殊製鋼 有価証券報告書 第112期(2024年3月期)【沿革】
- [12]1935年1月、1933年創業の山陽製鋼所の事業を承継し、山陽製鋼㈱を設立
日華事変が始まると特殊鋼の注文が膨らみ、1938年7月に資本金を倍の200万円へ引き上げた。続く1939年9月には400万円まで積み増した。増資で集めた資金は、軸受鋼をつくる設備の拡充に向けられた。同じ1939年9月には大阪で株式を上場した。創業から6年で資本金は4倍となり、設備資金は個人の蓄えではなく株式市場から調達するようになった。戦後の1953年になっても上場先は大阪に限られ、同年9月末の株主2309名のうち、兵庫の株主が株式の31.0%、大阪の株主が29.3%を持っていた。軍需の伸びに合わせて資本を段階的に厚くする手順は、後の大型投資の前例となったと考えられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [13]日華事変の勃発で需要が増え、1938年7月に資本金を200万円に増額
- [17]資本金は1934年12月の100万円から1939年の400万円へ
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- [14]1939年9月に資本金を400万円に増額(八十年史は8月とする)
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [15]数次の増資により軸受鋼生産設備の充実を図った
- [19]1953年9月末の株主数2,309名、株式の地域別分布は兵庫31.0%、大阪29.3%、東京24.1%
- 山陽特殊製鋼 有価証券報告書 第112期(2024年3月期)【沿革】
- [16]1939年9月、大阪の取引所に株式上場
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- [18]上場市場 大阪(1953年版時点)
参考文献[1]-[19]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [1]1933年12月、姫路市飾磨区中島で山陽製鋼所として特殊鋼の操業を開始
- [7]1934年12月に株式組織へ改め、資本金100万円全額払込で発足
- [13]日華事変の勃発で需要が増え、1938年7月に資本金を200万円に増額
- [17]資本金は1934年12月の100万円から1939年の400万円へ
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [2]個人企業の山陽製鋼所の資産と事業を継承して株式会社を設立
- [6]事業場は土地総坪数55,906坪、1953年10月1日現在の従業員数660名
- [11]設立登記日は1935年1月11日
- [15]数次の増資により軸受鋼生産設備の充実を図った
- [19]1953年9月末の株主数2,309名、株式の地域別分布は兵庫31.0%、大阪29.3%、東京24.1%
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [3]山陽製鋼の創業者は山本東作で、荻野一が同氏から全株を買い取った
- [4]荻野一は山陽製鋼を播磨工業地帯の一翼を担う会社と位置づけていた
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」/株式会社年鑑 1956年版「山陽製鋼」
- [5]本社・工場の所在地は姫路市飾磨区中島3007(1950年版・1956年版とも)
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」
- [8]1934年12月、山陽製鋼所を組織変更して山陽製鋼株式会社を設立、資本金100万円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [9]特殊鋼の製造を目的に資本金100万円で設立
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- [10]設立 昭和9年12月28日
- [18]上場市場 大阪(1953年版時点)
- 山陽特殊製鋼 有価証券報告書 第112期(2024年3月期)【沿革】
- [12]1935年1月、1933年創業の山陽製鋼所の事業を承継し、山陽製鋼㈱を設立
- [16]1939年9月、大阪の取引所に株式上場
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- [14]1939年9月に資本金を400万円に増額(八十年史は8月とする)
1935年〜軸受鋼の量産、1939年10月の専門メーカー指定と資本金1,000万円
山陽製鋼は創業の時期から軸受鋼の製造に取り組んでいた。軸受鋼は玉軸受の内輪と外輪に使うクロム鋼で、わずかな欠陥が回転中の焼き付きにつながる。製品に仕上げるには、技術と設備の両方に徹底した投資が要る鋼種だった。第二次世界大戦の下では軍需を中心に生産を広げた。買い手はベアリングメーカーで、1950年代の主な取引先には日本精工、東洋ベアリング、光洋精工が並んだ。1953年9月末には日本精工が5万240株を持ち、大株主にも名を連ねていた。初期から用途の狭い高級鋼に的を絞ったことが、戦時の国策の中で会社の役割を決めることになった。
- 『証券』1985年 新規上場会社紹介「山陽特殊製鋼株式会社」
- [20]創業当時より軸受鋼の製造を行っていた
- [23]第二次大戦下では軍需を中心に生産を拡大
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [21]軸受鋼はボールベアリングのレース材として用いるクロム鋼
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [22]ベアリングは高速回転し、わずかな誤差でも焼き付くため、技術と設備の徹底が要る(荻野一の説明)
- 株式会社年鑑 1955年版「山陽製鋼」
- [24]主なる取引先は日本精工・東洋ベアリング・光洋精工
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [25]1953年9月末現在の大株主に日本精工50,240株
1939年10月、政府は山陽製鋼を軸受鋼の専門メーカーに指定した。第二次欧州大戦の勃発に合わせ、クロム鋼に特化して年産1万5000トン以上を出せる設備の増設も命じられた。これを受けて1941年5月に資本金を1,000万円へ引き上げ、生産能力の拡充に充てた。この1,000万円は戦中から戦後まで据え置かれ、次の増資は企業再建整備計画に沿って2,000万円とした1949年8月を待った。以後、工場は軸受鋼の製造に専念する体制へ移った。比較のために戦後の数字を引くと、1953年4〜9月の半期の軸受鋼生産は3999トンだった。年に直しても8000トンほどで、戦時に求められた年産規模の大きさが際立つ。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [26]1939年10月、政府より軸受鋼専門メーカーの指定を受けた
- [30]専門メーカー指定後は軸受鋼の製造に専念
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [27]第二次欧州戦争の勃発に伴い、政府からボールベアリングレース材としてクロム鋼専門に年産1万5000トン以上の設備増設を命ぜられた
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [28]1941年5月、資本金を1,000万円に増額
- [31]1953年9月期(1953年4〜9月)の軸受鋼生産実績3,999トン
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」/『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [29]1941年5月に資本金1千万円、次の増資は企業再建整備計画に基づく1949年8月の2千万円
設備の拡充が進んだ結果、軸受材では品質と生産量の両面で国内特殊鋼業界の首位に立ったという。その比重は戦後の数字にも表れ、1953年4〜9月の生産量の47.6%を軸受鋼が占めた。同じ年の5〜8月には全国の軸受鋼9951トンのうち2651トン、26.7%を山陽製鋼が生産した。熱間圧延の特殊鋼全体では5.8%にとどまり、軸受鋼への偏りがはっきりしていた。一方で需要の大半を軍需に依存する構造は、1945年8月の終戦で操業を止める結果を招いた。軸受鋼という一点への集中は、平時の需要が戻るまで経営の重荷にもなったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [32]戦時の設備拡充の結果、ベアリング材は質量ともにわが国特殊鋼業界の最高位を占めた
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [33]1953年4〜9月の生産実績による製品別割合で軸受鋼47.6%
- [34]1953年5〜8月の軸受鋼生産は当社2,651トン、全国9,951トン、比率26.7%(鉄鋼調査時報資料)
- [35]1953年5〜8月の特殊鋼熱間圧延鋼材の全国比は5.8%
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [36]1945年8月、終戦により操業を中止
参考文献[20]-[36]
- 『証券』1985年 新規上場会社紹介「山陽特殊製鋼株式会社」
- [20]創業当時より軸受鋼の製造を行っていた
- [23]第二次大戦下では軍需を中心に生産を拡大
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [21]軸受鋼はボールベアリングのレース材として用いるクロム鋼
- [27]第二次欧州戦争の勃発に伴い、政府からボールベアリングレース材としてクロム鋼専門に年産1万5000トン以上の設備増設を命ぜられた
- [32]戦時の設備拡充の結果、ベアリング材は質量ともにわが国特殊鋼業界の最高位を占めた
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [22]ベアリングは高速回転し、わずかな誤差でも焼き付くため、技術と設備の徹底が要る(荻野一の説明)
- 株式会社年鑑 1955年版「山陽製鋼」
- [24]主なる取引先は日本精工・東洋ベアリング・光洋精工
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [25]1953年9月末現在の大株主に日本精工50,240株
- [28]1941年5月、資本金を1,000万円に増額
- [31]1953年9月期(1953年4〜9月)の軸受鋼生産実績3,999トン
- [33]1953年4〜9月の生産実績による製品別割合で軸受鋼47.6%
- [34]1953年5〜8月の軸受鋼生産は当社2,651トン、全国9,951トン、比率26.7%(鉄鋼調査時報資料)
- [35]1953年5〜8月の特殊鋼熱間圧延鋼材の全国比は5.8%
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [26]1939年10月、政府より軸受鋼専門メーカーの指定を受けた
- [30]専門メーカー指定後は軸受鋼の製造に専念
- [36]1945年8月、終戦により操業を中止
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」/『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [29]1941年5月に資本金1千万円、次の増資は企業再建整備計画に基づく1949年8月の2千万円
1945年〜敗戦後の操業再開、荻野一氏の全株取得と大阪・東京の上場
工場の火が再び入ったのは1946年2月で、特殊鋼に加えて普通鋳鋼と特殊鋳鋼の製造にも踏み出した。鋳鋼の中でも高マンガン特殊軌条は数年で大同製鋼と並ぶ有力な供給元となった。同じ1946年8月には特別経理会社に指定され、財務の立て直しを迫られた。再開直後は受注が乏しく、荻野氏の回想では工場で洋傘や乳母車まで作ったという。1950年3月には普通鋼の製造も加えた。特別経理会社の指定が解けたのは1952年3月で、戦後処理に6年近くを費やした。軍需の消えた市場で、専業の軸受鋼メーカーは製品構成を広げて稼働を保つほかなかったのだろう。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [37]1946年2月に工場を再開し、特殊鋼の生産とともに普通鋳鋼・特殊鋳鋼の生産に進出
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [38]高マンガン特殊軌条は数年後に大同製鋼と並んで独占的地位を占めた
- [40]1946年の工場再開当時は需要の僅少に悩まされた
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [39]1946年8月、特別経理会社の指定を受けた
- [42]1950年3月、普通鋼の製造を開始
- [43]1946年8月に特別経理会社の指定、1952年3月に指定解除
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [41]当初は特殊鋼の注文がなく、工場でコウモリ傘や乳母車を作ったこともあった
経営の担い手が替わったのは1948年3月で、荻野一氏が社長に就任して再建を率いた。荻野氏は運送会社の富島組で常務を務め、戦後は旧海軍の砲弾処理を請け負って資金を蓄えた人物である。その私財で、資本金1,000万円の会社の全株を創業者の山本東作氏から買い取った。通商産業省の査定では整理寸前の格付けにあり、存続するなら軸受鋼に絞るよう助言されたという。1949年1月に企業再建整備計画の認可を得て、同年5月14日に大阪証券取引所へ上場し、8月には資本金を2,000万円とした。戦前の専門メーカーの地位は、新しい所有者のもとで再建の足場として使い直されたとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [44]1948年3月、荻野一が社長に就任し再建に当たった
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [45]荻野一は1944年に運送会社富島組の常務となり、戦後は旧海軍の砲弾処理を進駐軍から請け負って財を蓄えた
- [46]山本東作から資本金1000万円の山陽製鋼の全株を買い取った
- [47]通産省の査定でCランクとされ整理寸前で、会社を続けるならベアリング鋼しかないと言われた(荻野一の回想)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [48]上場開始 1949年5月14日 大阪
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [49]1949年1月に企業再建整備計画が1,000万円の増資を条件に認可され、同年8月に資本金2,000万円
1950年に広畑製鉄所が富士製鉄のもとで操業を再開し、朝鮮戦争も始まって需要が戻り、1951年9月期には2割配当に踏み切った。荻野氏は朝鮮特需の時期に、年1億円ほどを品質の向上に投じたという。資本金は1952年10月に1億円、1953年5月に2億円、1954年4月に4億円と増え、軸受鋼の増産設備の資金とした。1953年9月期の売上高は7億1266万1000円、純利益は5068万6000円に達した。1954年1月4日には東京証券取引所に上場し、米国規格の軸受鋼に向けた大型圧延設備の工事に開発銀行などの融資を充てる計画を立てた。ところがデフレ政策で軸受鋼材の売れ行きが鈍り、1954年9月期から再び無配に戻った。販売価格を低く抑えられる局面が続き、荻野氏は国際水準の技術と設備の導入に着手する次の段階を構想した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [50]1950年3月の富士製鉄広畑製鉄所の再開と朝鮮動乱を契機に需要が高まり、1951年9月期から2割配当を実施
- [56]1953年以来のデフレ政策でベアリング鋼材の売行きが不振となり、1954年9月期から再び無配
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [51]朝鮮動乱で注文が殺到した当時、資本金5000万円の会社で年間1億円ぐらいを品質向上の研究開発に投じた(荻野一の回想)
- [57]値をたたかれ損をするばかりで、国際的な技術水準に高めなければ会社の将来はないと考えるようになった(荻野一の回想)
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [52]資本金は1952年10月1億円、1953年5月2億円、1954年4月4億円。1953年5月の増資は軸受鋼の増産のため
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [53]1953年9月期の売上高712,661千円、当期純利益50,686千円
- [54]東京証券取引所に1954年1月4日新規上場
- [55]アメリカ規格の軸受鋼生産を目指し大型圧延設備等を増設中。資金は開銀8000万円、興銀6000万円、長銀5200万円、自己資金1億9300万円を予定
参考文献[37]-[57]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- [37]1946年2月に工場を再開し、特殊鋼の生産とともに普通鋳鋼・特殊鋳鋼の生産に進出
- [48]上場開始 1949年5月14日 大阪
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [38]高マンガン特殊軌条は数年後に大同製鋼と並んで独占的地位を占めた
- [40]1946年の工場再開当時は需要の僅少に悩まされた
- [44]1948年3月、荻野一が社長に就任し再建に当たった
- [50]1950年3月の富士製鉄広畑製鉄所の再開と朝鮮動乱を契機に需要が高まり、1951年9月期から2割配当を実施
- [56]1953年以来のデフレ政策でベアリング鋼材の売行きが不振となり、1954年9月期から再び無配
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- [39]1946年8月、特別経理会社の指定を受けた
- [42]1950年3月、普通鋼の製造を開始
- [43]1946年8月に特別経理会社の指定、1952年3月に指定解除
- [49]1949年1月に企業再建整備計画が1,000万円の増資を条件に認可され、同年8月に資本金2,000万円
- [53]1953年9月期の売上高712,661千円、当期純利益50,686千円
- [54]東京証券取引所に1954年1月4日新規上場
- [55]アメリカ規格の軸受鋼生産を目指し大型圧延設備等を増設中。資金は開銀8000万円、興銀6000万円、長銀5200万円、自己資金1億9300万円を予定
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- [41]当初は特殊鋼の注文がなく、工場でコウモリ傘や乳母車を作ったこともあった
- [45]荻野一は1944年に運送会社富島組の常務となり、戦後は旧海軍の砲弾処理を進駐軍から請け負って財を蓄えた
- [46]山本東作から資本金1000万円の山陽製鋼の全株を買い取った
- [47]通産省の査定でCランクとされ整理寸前で、会社を続けるならベアリング鋼しかないと言われた(荻野一の回想)
- [51]朝鮮動乱で注文が殺到した当時、資本金5000万円の会社で年間1億円ぐらいを品質向上の研究開発に投じた(荻野一の回想)
- [57]値をたたかれ損をするばかりで、国際的な技術水準に高めなければ会社の将来はないと考えるようになった(荻野一の回想)
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- [52]資本金は1952年10月1億円、1953年5月2億円、1954年4月4億円。1953年5月の増資は軸受鋼の増産のため
出典・参考
13件
- 山陽特殊製鋼 有価証券報告書 第112期(2024年3月期)【沿革】
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」/株式会社年鑑 1956年版「山陽製鋼」
- 株式会社年鑑 1950年版「山陽製鋼」
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- 株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」/『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/株式会社年鑑 1953年版「山陽製鋼」
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「山陽製鋼」
- 株式会社年鑑 1955年版「山陽製鋼」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「山陽特殊製鋼」
- 日経ビジネス 1978年11月6日号 荻野一・山陽特殊製鋼元社長(上)
- 『証券』1954年 新規上場会社紹介「山陽製鋼株式会社」
- 『証券』1985年 新規上場会社紹介「山陽特殊製鋼株式会社」