日本冶金工業:フェロニッケル部門の分離と大江山ニッケルの再合併
1970年〜30万トン体制の完成と重なった需要の消失
1970年度の日本のステンレス鋼生産量は約160万トンに達し、アメリカを上回って世界第1位になった。ところが国内の需要は1970年秋から急に落ち込み、1971年には需給の大きな開きに直面する。30万トン体制を狙って積み上げた設備は、2基目の60トンアーク炉、連続鋳造設備2号機、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルのいずれも、完成したとたんに不況で力を発揮する場を失った。輸出に出口を探しても、1971年8月のアメリカの新経済政策で成約がいったん途絶え、同年12月のスミソニアン協定では円が16.88%切り上げられて1ドル308円となった。1971年3月期に590億円だった売上高は翌1972年3月期に471億円へ落ち、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ転じた。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [1]わが国のステンレス鋼生産量は1970年度に約160万トンとなりアメリカを抜いて世界第1位
- [2]ステンレス鋼の国内需要は1970年秋以降急速に低落し1971年に入って大幅な需給ギャップに直面した
- [3]30万トン体制の確立を目指して建設した2基目の60トンアーク炉、CCM2号設備、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルは不況に直面し威力を発揮する機会を失った
- [4]1971年8月のアメリカの新経済政策により一時は輸出成約が全く途絶した
- [5]1971年12月のスミソニアン協定で円は1ドル308円、16.88%の切上げとなった
- 会社年鑑(1976年版)
- [6]売上高は1971年3月期590億円から1972年3月期471億円へ、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ
不況カルテルで凌いだ先に、1973年10月の石油危機が重なった。ステンレス鋼6社は1971年11月26日に生産カルテルの認可を受け、四半期の生産限度量を5万2,500トンに絞った。1972年12月には各社の冷間圧延機1基を封印する設備カルテルも申請している。1973年半ばに市況は回復し、1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円と持ち直した。しかし石油危機後の総需要抑制で設備投資は冷え込み、1975年3月期は在庫調整の遅れも重なって29億円を超える赤字となった。追い討ちとなったのが1975年2月14日の川崎製造所PLミル工場の火災である。屋根約8,390平方メートルを焼失し、損害は約7億9,300万円に達した。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [7]ステンレス鋼6社の不況カルテルは1971年11月26日に認可され、四半期の生産限度量は5万2,500トン
- [8]1972年12月12日 各社のコールド・ストリップ・ミル1基を封印する6カ月間の設備カルテルを申請
- [10]1975年3月期は国内販売量が前期比27%減となり在庫調整への対応の遅れもあって29億円を超える赤字を計上
- [11]1975年2月14日 川崎製造所PLミル工場のコイラー付近から出火
- [12]火災で約8,390平方メートルの屋根を焼失し、損害は総額約7億9,300万円
- 会社年鑑(1976年版)
- [9]1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円
資金繰りは1975年5月に破綻の一歩手前まで行った。日本冶金工業は5月28日、取引先へ支払猶予と期日延長の協力を要請する。これが支払停止と受け取られ、経営危機説と金融不安説が世間に流布された。資金不足は1975年2月の10億円弱に始まり、3月と4月はそれぞれ20億円に達した。1975年1年間の資金不足は約172億円で、うち137億円を日本興業銀行の支援に仰いだ。同年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余に上った。取引銀行と商社は、不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷にあるとみて、全面支援の姿勢を崩さなかった。1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字となった。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [13]1975年5月28日 取引先に対して支払猶予と期日延長などの協力を要請
- [14]支払延期の協力要請が支払停止と受け取られ経営危機説、金融不安説が世間に流布された
- [15]1975年2月に10億円弱、3月に20億円、4月に20億円の資金不足をきたした
- [16]1975年1月から12月までの資金不足は約172億円、うち137億円を日本興業銀行に支援を仰いだ
- [17]1975年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余
- [18]取引銀行、商社は経営不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷による収益悪化にあるとみて全面支援の姿勢を崩さなかった
- 会社年鑑(1986年版)
- [19]1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字
参考文献[1]-[19]
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [1]わが国のステンレス鋼生産量は1970年度に約160万トンとなりアメリカを抜いて世界第1位
- [2]ステンレス鋼の国内需要は1970年秋以降急速に低落し1971年に入って大幅な需給ギャップに直面した
- [3]30万トン体制の確立を目指して建設した2基目の60トンアーク炉、CCM2号設備、わが国初の5フィート幅20段ゼンジミアミルは不況に直面し威力を発揮する機会を失った
- [4]1971年8月のアメリカの新経済政策により一時は輸出成約が全く途絶した
- [5]1971年12月のスミソニアン協定で円は1ドル308円、16.88%の切上げとなった
- [7]ステンレス鋼6社の不況カルテルは1971年11月26日に認可され、四半期の生産限度量は5万2,500トン
- [8]1972年12月12日 各社のコールド・ストリップ・ミル1基を封印する6カ月間の設備カルテルを申請
- [10]1975年3月期は国内販売量が前期比27%減となり在庫調整への対応の遅れもあって29億円を超える赤字を計上
- [11]1975年2月14日 川崎製造所PLミル工場のコイラー付近から出火
- [12]火災で約8,390平方メートルの屋根を焼失し、損害は総額約7億9,300万円
- [13]1975年5月28日 取引先に対して支払猶予と期日延長などの協力を要請
- [14]支払延期の協力要請が支払停止と受け取られ経営危機説、金融不安説が世間に流布された
- [15]1975年2月に10億円弱、3月に20億円、4月に20億円の資金不足をきたした
- [16]1975年1月から12月までの資金不足は約172億円、うち137億円を日本興業銀行に支援を仰いだ
- [17]1975年9月期の借入金は長短合計で約478億円、金利の支払いだけで39億円余
- [18]取引銀行、商社は経営不振の原因が不動産への過大投資や放漫経営ではなくステンレス鋼市況の長期低迷による収益悪化にあるとみて全面支援の姿勢を崩さなかった
- 会社年鑑(1976年版)
- [6]売上高は1971年3月期590億円から1972年3月期471億円へ、経常損益は18億円の黒字から29億円の赤字へ
- [9]1974年3月期の売上高は697億円、経常利益は21億円
- 会社年鑑(1986年版)
- [19]1976年3月期の経常損益は105億2,900万円の赤字
1975年〜ニッケル製錬部門の分離譲渡と外部から迎えた経営陣による再建
1975年、日本冶金工業はニッケル製錬部門を本体から切り離した。減量政策の骨子は、ニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約統合の3つであった。大江山製造所を分離する目的は、事業形態の異なる事業所を外に置いて効率的な経営を行うことにあった。7月31日に大江山ニッケル株式会社の設立と同社への分離譲渡を労働組合へ発表し、10月14日の第9回団体交渉で妥結する。大江山ニッケルは9月12日に資本金1億円・全額出資で設立され、11月18日には資本金5億円まで増資された。12月1日、大江山製造所に属する営業の全部が譲渡され、譲渡価格は約119億9,900万円であった。1943年12月の大江山ニッケル工業の合併で取得した上流工程は、32年を経て本体から外れた。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [20]石油危機後の低成長時代に対処する減量政策はニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約・統合の3項目を骨子とした
- [21]大江山製造所を分離する目的は事業形態が異なる事業所を分離して効率的な経営を行うことにあった
- [22]1975年7月31日 労働組合に大江山ニッケル株式会社の設立と大江山製造所の分離譲渡を発表、10月14日の第9回団体交渉で妥結
- [23]大江山ニッケル株式会社は1975年9月12日に資本金1億円・全額出資で設立、11月18日に資本金5億円へ増資
- [24]1975年12月1日 大江山製造所に属する営業の全部を大江山ニッケルへ譲渡、譲渡価格は約119億9,900万円
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [25]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
経営陣の交代は、支援した3社からの人事で行われた。加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就いたのは、1976年3月12日の臨時株主総会を経てのことである。それに先立ち森暁は、主力銀行の日本興業銀行と新日本製鐵、昭和電工の3社に後を託して退くことを決めていた。新体制の3人は4月2日、社長が委員長を務める再建委員会を発足させ、基本問題を扱う分科会を六つ組んだ。再建計画は、1年後の月次損益の均衡、2年後の期間損益の黒字化、3年後の累積赤字58億円の解消という3点を柱に置き、3年後までに人員は1976年4月の2,101人から1,818人へ減り、売却した固定資産の価額は35億4,000万円に達した。再建初年度の1977年3月期は、売上高801億6,100万円に対し経常損益が37億3,600万円の赤字であった。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- [26]1976年3月12日の臨時株主総会後の役員会で加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就任
- [28]1976年4月2日 社長を委員長とする再建委員会を設置し六つの基本問題分科会を編成
- [29]再建計画は1年後に月次損益を均衡、2年後に期間損益を黒字転換、3年後に累積赤字58億円を一掃することを基本方針とした
- [30]人員は1976年4月1日の2,101人が3年後に1,818人となり、再建3カ年間に処分した固定資産の売却価額は35億4,000万円
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [27]森暁は主力銀行の日本興業銀行、業務提携を深めた新日本製鐵、森矗昶以来の縁故の昭和電工の3社に後事を託し自らの辞任と経営陣の刷新を決意した
- 会社年鑑(1986年版)
- [31]1977年3月期の売上高は801億6,100万円、経常損益は37億3,600万円の赤字
原価構造を作り替えたのは、20億円を投じたアルゴン-酸素脱炭設備であった。AODの導入は1973年9月に決めていたが、直後の第1次石油危機で投資を見送っていた。再建委員会は原料・製鋼分科会とともに投資効果を検討し、1976年11月19日の経営会議で導入を決定する。技術面の相手は、AOD法で実績のある新日本製鐵で、12月15日に技術協力の契約を交わした。資金面では、それまで返済の猶予に応じていた日本興業銀行が全面支援を引き受けた。60トンAOD炉の工事は1977年2月17日に始まり、9月27日に完成した。初めての出鋼は10月3日である。この炉なら安い高炭素フェロクロムを制限なしに投入でき、脱硫もたやすかったため、再建計画をやり遂げるうえで大きな支えとなった。1978年3月期には、経常損益が18億700万円の黒字に転じた。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- [32]1973年9月8日にAODの導入を決定し10月30日に巴工業と再実施権許諾契約を締結したが、直後の第1次石油危機により約20億円を要する設備投資は見送られた
- [33]再建委員会は原料・製鋼分科会および社長室とAODの投資効果を検討し1976年11月19日の経営会議で導入を決定
- [34]日本興業銀行は長期資金の返済猶予に協力中であったにもかかわらず全面的な資金援助を行い、新日本製鐵とは1976年12月15日にAOD技術協力契約を締結
- [35]60トンAOD炉は1977年2月17日着工、9月27日完工、初出鋼は10月3日
- [36]AOD法は低廉な高炭素フェロクロムの使用量に制約がなく容易に脱硫でき、所期の効果を発揮して再建計画の達成に大きく寄与した
- 会社年鑑(1986年版)
- [37]1978年3月期の経常利益は18億700万円
参考文献[20]-[37]
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- [20]石油危機後の低成長時代に対処する減量政策はニッケル製錬部門の分離、人員削減、関係会社の集約・統合の3項目を骨子とした
- [21]大江山製造所を分離する目的は事業形態が異なる事業所を分離して効率的な経営を行うことにあった
- [22]1975年7月31日 労働組合に大江山ニッケル株式会社の設立と大江山製造所の分離譲渡を発表、10月14日の第9回団体交渉で妥結
- [23]大江山ニッケル株式会社は1975年9月12日に資本金1億円・全額出資で設立、11月18日に資本金5億円へ増資
- [24]1975年12月1日 大江山製造所に属する営業の全部を大江山ニッケルへ譲渡、譲渡価格は約119億9,900万円
- [27]森暁は主力銀行の日本興業銀行、業務提携を深めた新日本製鐵、森矗昶以来の縁故の昭和電工の3社に後事を託し自らの辞任と経営陣の刷新を決意した
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [25]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- [26]1976年3月12日の臨時株主総会後の役員会で加納安久が社長、佐藤正と石黒嘉人が副社長に就任
- [28]1976年4月2日 社長を委員長とする再建委員会を設置し六つの基本問題分科会を編成
- [29]再建計画は1年後に月次損益を均衡、2年後に期間損益を黒字転換、3年後に累積赤字58億円を一掃することを基本方針とした
- [30]人員は1976年4月1日の2,101人が3年後に1,818人となり、再建3カ年間に処分した固定資産の売却価額は35億4,000万円
- [32]1973年9月8日にAODの導入を決定し10月30日に巴工業と再実施権許諾契約を締結したが、直後の第1次石油危機により約20億円を要する設備投資は見送られた
- [33]再建委員会は原料・製鋼分科会および社長室とAODの投資効果を検討し1976年11月19日の経営会議で導入を決定
- [34]日本興業銀行は長期資金の返済猶予に協力中であったにもかかわらず全面的な資金援助を行い、新日本製鐵とは1976年12月15日にAOD技術協力契約を締結
- [35]60トンAOD炉は1977年2月17日着工、9月27日完工、初出鋼は10月3日
- [36]AOD法は低廉な高炭素フェロクロムの使用量に制約がなく容易に脱硫でき、所期の効果を発揮して再建計画の達成に大きく寄与した
- 会社年鑑(1986年版)
- [31]1977年3月期の売上高は801億6,100万円、経常損益は37億3,600万円の赤字
- [37]1978年3月期の経常利益は18億700万円
1979年〜復配後の資本調達と大江山ニッケルの吸収合併
1979年9月、日本冶金工業は繰越損失を一掃して再建計画を達成した。1979年度上期の経常利益は41億9,000万円で、前期から繰り越した8億7,000万円の損失を消した。1974年9月期以来途絶えていた配当が、5年半ぶりに戻った。原資は通期で31億5,000万円となった税引利益で、1株5円・年10%を配った。再建が終わったのを機に加納安久はトロイカ方式の経営を終わらせ、1979年6月28日の定時株主総会の後、石黒嘉人に社長を譲った。石黒嘉人が同年11月に全社へ示した中期5カ年計画は、5年後に自己資本比率15%以上を目指すものであり、翌1980年4月には社長が委員長を務めるTK委員会を設け、生産技術開発から販売流通効率に至る課題を六つの分科会へ振り分けた。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
- [38]1979年度上期(1979年4月1日~9月30日)の中間決算をもって繰越損失金を一掃し再建計画を達成
- [39]1979年度上期は経常利益41億9,000万円、税引利益20億1,000万円を計上し前期からの繰越損失8億7,000万円を一掃
- [40]1974年9月期以来5年半ぶりの復配
- [41]1979年度通期(第98期)の税引利益は31億5,000万円、1株につき5円(年10%)の配当を実施
- [43]1979年11月21日 5年後の自己資本比率15%以上を目途とする中期5カ年計画を示達272号で全社に通達
- [44]1980年4月 社長を委員長とするTK(展開力強化)委員会が発足し、生産技術開発・製品開発・資材・製造効率向上・事務効率向上・販売流通効率向上の六つの分科会から成った
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- [42]加納安久は経営のトロイカ方式を打ち切り1979年6月28日の定時株主総会後の役員会で石黒嘉人の社長就任が決定
1982年3月期の経常利益は8億4,000万円にとどまっていた。自己資本比率もやっと10%を上回った段階だという認識が、転換社債発行の動機になった。1982年1月8日の取締役会で決めたその第1回転換社債は、発行総額50億円、利率年5.9%だった。財務体質の立て直しに向けた資本市場からの調達は三段構えで進み、1983年1月27日に初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン、約47億6,000万円を、1984年10月には第2回として5,000万スイスフラン、約48億7,000万円を発行した。第三が優先株式で、1984年7月2日の取締役会で1,000万株の発行を決めた。払込額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は同年9月1日付で110億1,768万3,500円となった。
- 会社年鑑(1986年版)
- [45]1982年3月期の売上高は768億900万円、経常利益は8億4,000万円
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
- [46]転換社債発行当時は自己資本比率がようやく10%を超えたところで財務体質の強化が課題であった
- [47]1982年1月8日の取締役会で第1回転換社債の発行を決議、発行総額50億円、利率年5.9%、償還期限1988年3月31日
- [48]1983年1月27日 初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン(日本円約47億6,000万円)を発行、利率年5.75%
- [49]1984年10月25日 第2回スイスフラン建て普通社債5,000万スイスフラン(日本円約48億7,000万円)を発行、利率年6%
- [50]1984年7月2日の取締役会で第1回優先株式1,000万株の発行を決議し、8月14日に発行価格を1株595円と決定
- [51]発行価額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は1984年9月1日付で110億1,768万3,500円となった
1983年10月1日、日本冶金工業は大江山ニッケルを吸収合併し、8年ぶりに一貫体制へ戻した。大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬はエネルギーコストが低廉で、国内精錬工場として競争力を高めていた。それでも同社単独では限界があり、本体と一体化して競争力を強化することにした。合併により大江山ニッケルの橋立工場は大江山製造所と改称された。この合併は、1982年8月に策定した第2次中期5カ年計画の一環であった。同計画は5年後に年間売上高1,200億円、自己資本比率20%以上を目標に掲げている。1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円であった。上流を手放して本体を絞り、資本を厚くしてから買い戻すという順序で、この会社は垂直統合を作り直した。
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
- [52]1983年10月1日 大江山ニッケルを吸収合併し、ニッケル精錬技術との一体化によって再び一貫体制を確立
- [53]大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬方式はエネルギーコストが低廉で、生産技術の改善強化によって国内精錬工場として競争力を高めた
- [54]大江山ニッケル単独ではおのずと限界があるため当社と一体化しより一層競争力を強化することとした
- [55]合併によって大江山ニッケルの橋立工場は当社の大江山製造所と改称された
- [56]1982年8月 第2次中期5カ年計画を策定し実施に移した
- [57]第2次中期5カ年計画は5年後の目標として年間売上高1,200億円の達成と自己資本比率20%以上を掲げた
- 会社年鑑(1986年版)
- [58]1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円
参考文献[38]-[58]
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
- [38]1979年度上期(1979年4月1日~9月30日)の中間決算をもって繰越損失金を一掃し再建計画を達成
- [39]1979年度上期は経常利益41億9,000万円、税引利益20億1,000万円を計上し前期からの繰越損失8億7,000万円を一掃
- [40]1974年9月期以来5年半ぶりの復配
- [41]1979年度通期(第98期)の税引利益は31億5,000万円、1株につき5円(年10%)の配当を実施
- [43]1979年11月21日 5年後の自己資本比率15%以上を目途とする中期5カ年計画を示達272号で全社に通達
- [44]1980年4月 社長を委員長とするTK(展開力強化)委員会が発足し、生産技術開発・製品開発・資材・製造効率向上・事務効率向上・販売流通効率向上の六つの分科会から成った
- [46]転換社債発行当時は自己資本比率がようやく10%を超えたところで財務体質の強化が課題であった
- [47]1982年1月8日の取締役会で第1回転換社債の発行を決議、発行総額50億円、利率年5.9%、償還期限1988年3月31日
- [48]1983年1月27日 初のスイスフラン建て普通社債4,000万スイスフラン(日本円約47億6,000万円)を発行、利率年5.75%
- [49]1984年10月25日 第2回スイスフラン建て普通社債5,000万スイスフラン(日本円約48億7,000万円)を発行、利率年6%
- [50]1984年7月2日の取締役会で第1回優先株式1,000万株の発行を決議し、8月14日に発行価格を1株595円と決定
- [51]発行価額59億5,000万円の全額を資本に組み入れ、資本金は1984年9月1日付で110億1,768万3,500円となった
- [52]1983年10月1日 大江山ニッケルを吸収合併し、ニッケル精錬技術との一体化によって再び一貫体制を確立
- [53]大江山ニッケルのロータリーキルンによるニッケル精錬方式はエネルギーコストが低廉で、生産技術の改善強化によって国内精錬工場として競争力を高めた
- [54]大江山ニッケル単独ではおのずと限界があるため当社と一体化しより一層競争力を強化することとした
- [55]合併によって大江山ニッケルの橋立工場は当社の大江山製造所と改称された
- [56]1982年8月 第2次中期5カ年計画を策定し実施に移した
- [57]第2次中期5カ年計画は5年後の目標として年間売上高1,200億円の達成と自己資本比率20%以上を掲げた
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- [42]加納安久は経営のトロイカ方式を打ち切り1979年6月28日の定時株主総会後の役員会で石黒嘉人の社長就任が決定
- 会社年鑑(1986年版)
- [45]1982年3月期の売上高は768億900万円、経常利益は8億4,000万円
- [58]1985年3月期の売上高は891億2,500万円、経常利益は26億1,400万円
筆者考察
1975年に手放したのは、1943年に苦労して取得したものだった。大江山ニッケル工業の合併で得たニッケル鉱石の採掘と製錬は、ステンレス鋼の主要合金成分を自前で賄う構造そのもので、日本冶金工業をニッケル基合金の専業たらしめた土台である。それを約119億9,900万円で子会社へ譲り渡したのは、上流を持つ価値が下がったからではない。市況が長期に低迷し、月ごとに20億円の資金が足りなくなる状況では、事業形態の違う製錬所を抱えたまま本体を立て直すことができなかったからである。垂直統合は、資金が回っているあいだだけ成り立つ構造だった。
再建の中身は、原価の作り方を入れ替えることだった。20億円のAOD炉は安価な高炭素フェロクロムを制約なく使えるようにし、電力と工程を減らした。石油危機の直後に見送った投資を、累積赤字58億円を抱えた1976年11月に決めたのは、原価で他社に劣る限り市況が戻っても赤字は消えないと判じたからである。1979年に繰越損失を一掃し、転換社債50億円とスイスフラン債2本、優先株1,000万株で資本金を110億円まで積み上げたうえで、1983年10月に大江山ニッケルを買い戻した。切った順序と戻した順序は同じで、資金の余力が先、上流が後だった。
1970年〜1988年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1970年03月期 | 単体 | 483 | n/a | n/a | n/a | 9 | 2.0% | 川崎製造所で60tアーク炉(9号炉)が稼働(1970)川崎製造所で連続鋳造機(CCM2号機)が稼働(1970) |
| 1971年03月期 | 単体 | 590 | +22.0% | n/a | 18 | 11 | 1.9% | 川崎製造所で20段ゼンジミアミル3号機が稼働(1971) |
| 1972年03月期 | 単体 | 471 | ▲20.2% | n/a | ▲29 | ▲11 | ▲2.3% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 522 | +10.8% | n/a | ▲6 | ▲3 | ▲0.6% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 697 | +33.5% | n/a | 21 | 20 | 2.9% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 821 | +17.8% | n/a | ▲28 | ▲27 | ▲3.3% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 610 | ▲25.7% | n/a | ▲105 | ▲35 | ▲5.7% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 801 | +31.3% | n/a | ▲37 | ▲34 | ▲4.4% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 666 | ▲16.8% | n/a | 18 | 36 | 5.4% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 667 | +0.1% | n/a | 66 | 48 | 7.2% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 805 | +20.7% | 134 | 73 | 31 | 3.9% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 866 | +7.6% | n/a | 55 | 31 | 3.6% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 768 | ▲11.4% | n/a | 8 | 5 | 0.8% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 820 | +6.9% | n/a | 12 | 8 | 1.0% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 820 | ▲0.1% | n/a | 15 | 6 | 0.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 891 | +8.6% | n/a | 26 | 10 | 1.2% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
6件
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)8章 激動の5年間
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)9章 再建への軌跡
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)10章 新たなる飛躍を目指して
- 会社年鑑(1976年版)
- 会社年鑑(1986年版)