日本冶金工業:中央理化工業の設立とステンレス鋼への業態転換
1925年〜消火器から火工品、特殊鋼へと続いた業態転換の連鎖
1925年8月、東京で中央理化工業株式会社が設立された。当初の事業は消火器の製造販売で、服部時計店系の出資により発足した小規模な化学工業会社にすぎなかった。3年後の1928年9月、商号を日本火工株式会社と改称し、火薬・火工品の製造販売へ業態を転換する。消火器単体では事業規模が限られたため、当時拡大していた軍需向け火工品市場に活路を求めた判断であった。当時の日本は昭和金融恐慌から世界恐慌へ向かう時期にあり、中小化学会社が経営難に陥っていたなか、軍需依存度を高めることで生き残りを図った。
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年8月 東京で中央理化工業株式会社を設立し消火器の製造販売を開始
- [2]服部時計店系の出資により発足した
- [3]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
1928年9月に火薬・火工品へ転じた日本火工が、さらに金属材料へ踏み出した背景には、高級特殊鋼と軽合金を輸入に依存する供給構造があった。1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に伸びたが、自給率は87%であった。ステンレス鋼の国内生産量は1935年度の約1,500トンから1937年度の約4,500トンへ増えた。森矗昶は1934年10月、冶金技術者の松永陽之助を日本火工に招き、前年から買収を進めていた川崎の土地に試験工場を置いた。それでも需要を満たせず、高級特殊鋼の多くを欧米からの輸入に頼っていた。軽合金の開発拠点に選ばれたのは日本火工であり、日本電気工業ではなかった。理由は、傘下の企業で研究開発費を背負える余力を持つのが日本火工だけだったことにある。
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [4]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
- [5]満州事変以降の軍備拡張と国際連盟脱退により高級特殊鋼やアルミニウム合金の欧米依存が許されない状況となった
- [6]1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に増えたが自給率は87%
- [7]ステンレス鋼の国内生産量は1935年度が約1,500トン、1937年度が約4,500トン
- [8]1934年10月 冶金技術者の松永陽之助を日本火工に迎え川崎作業所内に試験工場を設けて軽合金の研究を開始
- [9]ステンレス鋼をはじめ高級特殊鋼のほとんどを欧米からの輸入に依存していた
- [10]軽合金の新材質開発の場を日本電気工業ではなく日本火工に求めたのは、森矗昶傘下の企業の中で日本火工が研究開発費を負担する余力があったため
1936年2月、神奈川県の川崎市大師河原に川崎製造所が稼動し、特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始した。資本金200万円で発足し、代表取締役には森暁が就任した。これが現在の日本冶金工業の主力事業の発祥点で、火工品メーカーから金属材料メーカーへの第二の業態転換となる。1930年代の日本は重工業化が進み、軍艦・航空機・兵器向けの特殊鋼需要が拡大していた。同社は火工品で培った爆発物製造の冶金技術を応用して特殊鋼分野に参入し、当時としては先端材料だったステンレス鋼の国産化にも取り組んだ。1938年には川崎工場に1500トンプレスや鋼板用ロールを備えた第一期特殊鋼製造設備の増設工事が完成し、翌1939年には軽合金製造関係の増設工事も完成して、量産の基盤を確立した。創業から11年で消火器メーカーから特殊鋼メーカーへ変貌し、川崎製造所は現在も主力工場として約90年にわたり連続稼働している。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [11]川崎製造所は川崎市大師河原に立地
- [13]川崎製造所稼動時の資本金は200万円
- [14]川崎製造所稼動時の代表取締役は森暁
- [15]1938年 第一期特殊鋼製造設備(1500トンプレス・鋼板用ロール)増設完成、1939年 軽合金製造設備増設完成
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [12]1936年2月 神奈川県川崎に川崎製造所が稼動し特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始
- [16]創業(1925年)から川崎製造所稼動(1936年)まで11年
- [17]川崎製造所は現在も主力工場として約90年連続稼働
参考文献[1]-[17]
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1925年8月 東京で中央理化工業株式会社を設立し消火器の製造販売を開始
- [2]服部時計店系の出資により発足した
- [3]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
- [4]1928年9月 商号を日本火工株式会社と改称し火薬・火工品の製造販売へ業態転換
- [12]1936年2月 神奈川県川崎に川崎製造所が稼動し特殊鋼・軽合金及びステンレス鋼の製造販売を開始
- [16]創業(1925年)から川崎製造所稼動(1936年)まで11年
- [17]川崎製造所は現在も主力工場として約90年連続稼働
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
- [5]満州事変以降の軍備拡張と国際連盟脱退により高級特殊鋼やアルミニウム合金の欧米依存が許されない状況となった
- [6]1932年から1937年にかけて特殊鋼の生産量は約5.5倍に増えたが自給率は87%
- [7]ステンレス鋼の国内生産量は1935年度が約1,500トン、1937年度が約4,500トン
- [8]1934年10月 冶金技術者の松永陽之助を日本火工に迎え川崎作業所内に試験工場を設けて軽合金の研究を開始
- [9]ステンレス鋼をはじめ高級特殊鋼のほとんどを欧米からの輸入に依存していた
- [10]軽合金の新材質開発の場を日本電気工業ではなく日本火工に求めたのは、森矗昶傘下の企業の中で日本火工が研究開発費を負担する余力があったため
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [11]川崎製造所は川崎市大師河原に立地
- [13]川崎製造所稼動時の資本金は200万円
- [14]川崎製造所稼動時の代表取締役は森暁
- [15]1938年 第一期特殊鋼製造設備(1500トンプレス・鋼板用ロール)増設完成、1939年 軽合金製造設備増設完成
1942年〜戦時下わずか1年半で得た上場・現社名・上流統合
1942年6月、東京・大阪取引所に株式上場を果たす。戦時統制経済の真っ只中で、軍需関連企業として資本調達できる体制を構築した。同年9月、商号を日本冶金工業株式会社と改称し、火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡する。冶金とは金属を溶解・精錬する技術全般を指す日本語で、社名から火工品の影が消え、ステンレス・特殊鋼という現在の事業ドメインが社名として明示された。火工品事業の分離売却は、特殊鋼の量産体制構築に経営資源を集中する戦略的判断で、商号変更と事業売却を同月に実施した機敏さが目を引く。
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [18]1942年6月 東京・大阪取引所に株式上場
- [19]1942年9月 商号を日本冶金工業株式会社と改称し火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡
大江山との関わりは合併に先立って始まっていた。同社は早くから大江山鉱石による含ニッケル粒鉄の企業化を試み、1939年には七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉を借りて製錬を開始し、1941年1月には大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功した。1942年11月には大江山製造所が竣工し、含ニッケル粒鉄の本格生産に入った。そのうえで1943年12月、京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併し、ニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承した。これが日本冶金工業を"ニッケル基合金専業"たらしめた決定的な合併である。ニッケルを鉱石採掘から最終製品まで内製する体制は当時の日本では稀有で、長期的な競争力の源泉となった。1942年6月の上場、9月の現社名確立、1943年12月の大江山合併と、わずか1年半で資本市場アクセス・現社名・上流統合の3点を獲得した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [20]1939年 七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉で大江山鉱石の製錬を開始、1941年1月 大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功
- [21]1942年11月 大江山製造所が竣工し含ニッケル粒鉄の本格生産を開始
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [22]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
- [23]上場(1942年6月)・現社名確立(1942年9月)・大江山合併(1943年12月)をわずか1年半で達成
参考文献[18]-[23]
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [18]1942年6月 東京・大阪取引所に株式上場
- [19]1942年9月 商号を日本冶金工業株式会社と改称し火薬火工部門を昭和火薬株式会社へ譲渡
- [22]1943年12月 京都府の大江山ニッケル工業株式会社を合併しニッケル鉱石採掘並びにフェロニッケル製錬事業を継承
- [23]上場(1942年6月)・現社名確立(1942年9月)・大江山合併(1943年12月)をわずか1年半で達成
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [20]1939年 七尾セメント(現・住友セメント)の回転炉で大江山鉱石の製錬を開始、1941年1月 大江山含ニッケル粒鉄によるN・K鋼の製造に成功
- [21]1942年11月 大江山製造所が竣工し含ニッケル粒鉄の本格生産を開始
1950年〜戦後のグループ機能分担と薄板の量産化
戦後の立て直しは、経営者の不在と原料の途絶という二重の空白から始まった。戦災は比較的軽微で生産はいち早く再開したものの、原料面の制約が重く業績は低迷していた。森暁は1947年1月に公職追放で衆議院議員を辞し、3月には昭和電工の社長も退任した。追放が解けたのは1948年5月、日本冶金工業の社長へ戻ったのは1949年3月であった。当時のステンレス鋼は誘導式電気炉で作るのが世界の通例で、炉の容量は500キログラムから1トンにすぎなかった。1950年7月、川崎製造所の技術陣はアーク炉による酸素製鋼法をわが国で初めて成功させ、朝鮮動乱で急増した注文に応じられる量産の道を拓いた。溶鋼へ酸素を吹き込み、酸化熱で温度を上げて短時間で脱炭を進めるこの精錬法は、ドイツやアメリカの同業も採っていなかった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [24]戦災は比較的軽微で戦後いち早く生産を再開したが原料面の制約で業績は低迷した
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
- [25]森暁は1947年1月にGHQの公職追放指令で衆議院議員を辞任し、同年3月に昭和電工代表取締役社長を辞任
- [26]森暁は1948年5月に公職追放を解除され、1949年3月28日に日本冶金工業代表取締役社長へ就任
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
- [27]当時のステンレス鋼は高周波および低周波の誘導式電気炉で製造され、誘導炉の容量は500kgから1トンであった
- [28]1950年7月 川崎製造所の技術陣がわが国で初めてアーク炉によるステンレス鋼の酸素製鋼法に成功し大量生産への道を拓いた
- [29]酸素製鋼法は溶鋼中に酸素ガスを吹き込み酸化熱で溶鋼の温度を上げ金属分の酸化を抑えながら短時間で脱炭を促進させる精錬法で、ドイツのクルップ社やアメリカのアレゲニー・ラドラム社も誘導炉で製造していた
1952年8月、輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開を機に、日本冶金工業は発展期へ転じた。戦後の経済混乱を経て、1948年8月に東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立され、グループ企業形成が始まる。1953年5月には精密線材を担う三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)が、1954年11月には商社機能を担う株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社となった。製造・販売の機能分担をグループ全体で行う体制が10年がかりで整備された。1950年代には川崎製造所の設備拡張も続き、1956年2月には川崎製造所研究所が完成、同年8月には石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始するなど製品ラインも多様化した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [30]1952年8月 輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開
- [34]1956年2月 川崎製造所研究所が完成
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1948年8月 東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立
- [32]1953年5月 三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)がグループ会社に
- [33]1954年11月 株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社に
- [35]1956年8月 石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始
1959年には川崎製造所の隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場の建設へ着手し、薄板量産の拠点づくりが本格化する。新工場ではまず1959年に厚板用、続いて1960年2月に薄板用、1964年10月に第二薄板用と各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成させ、家電・自動車・建材向けの薄板需要拡大に対応した。1960年10月にはステンレス加工子会社の株式会社ナスステンレス製作所も設立される。1965年3月には鋼の歩留改善と生産性向上を両立する連続鋳造設備が稼動し、鋼塊鋳造からの移行を完了した。1966年4月の熱間圧延機(プラネタリーミル)、1968年2月の60トン電気炉と設備増強が続き、冷延から熱延までを揃えた一貫体制が確立した。1968年時点の年間売上高は約300億円強に達し、うち輸出が約25%を占めるまでに成長した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [36]1959年 川崎製造所隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場建設へ着手
- [43]1968年時点の年間売上高は約300億円強、うち輸出が約25%
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [37]1959年 厚板用、1960年2月 薄板用、1964年10月 第二薄板用の各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成
- [38]1960年2月 川崎製造所に冷間圧延機(ゼンジミアミル)が稼動
- [39]1960年10月 株式会社ナスステンレス製作所を設立
- [40]1965年3月 連続鋳造設備が稼動
- [41]1966年4月 熱間圧延機(プラネタリーミル)が稼動
- [42]1968年2月 60トン電気炉が稼動
参考文献[24]-[43]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [24]戦災は比較的軽微で戦後いち早く生産を再開したが原料面の制約で業績は低迷した
- [30]1952年8月 輸入鉱石による大江山製造所の含ニッケル粒鉄の生産再開
- [34]1956年2月 川崎製造所研究所が完成
- [36]1959年 川崎製造所隣接埋立地39万7000平方メートルに新工場建設へ着手
- [43]1968年時点の年間売上高は約300億円強、うち輸出が約25%
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
- [25]森暁は1947年1月にGHQの公職追放指令で衆議院議員を辞任し、同年3月に昭和電工代表取締役社長を辞任
- [26]森暁は1948年5月に公職追放を解除され、1949年3月28日に日本冶金工業代表取締役社長へ就任
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
- [27]当時のステンレス鋼は高周波および低周波の誘導式電気炉で製造され、誘導炉の容量は500kgから1トンであった
- [28]1950年7月 川崎製造所の技術陣がわが国で初めてアーク炉によるステンレス鋼の酸素製鋼法に成功し大量生産への道を拓いた
- [29]酸素製鋼法は溶鋼中に酸素ガスを吹き込み酸化熱で溶鋼の温度を上げ金属分の酸化を抑えながら短時間で脱炭を促進させる精錬法で、ドイツのクルップ社やアメリカのアレゲニー・ラドラム社も誘導炉で製造していた
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- [31]1948年8月 東亜精機株式会社(現・ナストーア株式会社)が設立
- [32]1953年5月 三信特殊線工業株式会社(現・日本精線株式会社)がグループ会社に
- [33]1954年11月 株式会社上野半兵衛商店(現・ナス物産株式会社)がグループ会社に
- [35]1956年8月 石川県の金沢工場でステンレス鋼鋳造品の生産販売を開始
- [37]1959年 厚板用、1960年2月 薄板用、1964年10月 第二薄板用の各センジミアミル(冷間圧延機)を順次完成
- [38]1960年2月 川崎製造所に冷間圧延機(ゼンジミアミル)が稼動
- [39]1960年10月 株式会社ナスステンレス製作所を設立
- [40]1965年3月 連続鋳造設備が稼動
- [41]1966年4月 熱間圧延機(プラネタリーミル)が稼動
- [42]1968年2月 60トン電気炉が稼動
筆者考察
消火器から火薬火工品へ、火薬火工品から特殊鋼へ。日本冶金工業は11年のあいだに二度、主力製品を入れ替えている。二度目の転換で決め手になったのは技術の蓄積ではなく、資金の置き場所だった。1934年に軽合金の研究の場が日本電気工業ではなく日本火工に置かれたのは、森矗昶傘下の企業で研究開発費を負担できる余力がそこにしかなかったからである。高級特殊鋼もアルミニウムも大部分を輸入に依存していた当時、国産化の機会は誰の前にも開いていた。それを取れたのは、火工品で稼いだ資金を新しい材料へ回せる会社だった。川崎大師の先の沼沢地を坪平均2円未満で買い集めた土地が、そのまま主力工場の敷地になった。
1942年からの1年半で起きたのは、資本市場へのアクセス、現在の社名、原料の上流という三つの取得である。なかでも1943年12月の大江山ニッケル工業の合併は、ステンレス鋼の主要合金成分であるニッケルを、鉱石の採掘から最終製品まで自前で賄う構造を作った。戦後の低迷から抜け出す鍵も、また技術の側にあった。1950年7月にアーク炉で酸素製鋼法を成功させるまで、ステンレス鋼は容量500キログラムの誘導炉で少量ずつ作るもので、朝鮮動乱で注文が増えても応じようがなかった。量産を縛っていたのは需要ではなく炉であり、その制約を外したのは他社から買った設備ではなく自社の技術陣であった。
1925年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 20 | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 30 | +44.8% | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 46 | +52.2% | 1 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 44 | ▲3.3% | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 66 | +49.7% | 6 | n/a | n/a | 川崎製造所の構内に研究所を設立(1956) |
| 1957年03月期 | 単体 | 112 | +68.1% | 10 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 90 | ▲19.3% | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 71 | ▲21.6% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 97 | +37.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 130 | +33.7% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 142 | +9.0% | n/a | n/a | n/a | 川崎製造所で30tアーク炉が稼働(1962) |
| 1963年03月期 | 単体 | 123 | ▲13.6% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 174 | +41.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 210 | +20.7% | n/a | 1 | 0.5% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 187 | ▲11.0% | n/a | ▲9 | ▲5.1% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 235 | +25.7% | n/a | ▲1 | ▲0.5% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 305 | +29.4% | n/a | 5 | 1.7% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 341 | +12.0% | n/a | 0 | 0.1% | n/a |
出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版、昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算
出典・参考
5件
- 日本冶金工業 有価証券報告書【沿革】
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)1章 冶金事業への転進
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)追録 森曉相談役を悼む
- 『日本冶金工業六十年史』(日本冶金工業、1985年)4章 復興への躍動
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)