JX金属:日立鉱山の操業と久原鉱業の設立
1905年〜赤沢銅山を改めた日立鉱山と、他山の鉱石を購入して製錬する大雄院製錬所
久原房之助氏は1905年12月11日、茨城県多賀郡の赤沢銅山を大橋真六氏から代金30万円で買収する契約を結んだ。久原房之助氏は叔父の藤田伝三郎氏が経営する藤田組に招かれ、1891年から小坂鉱山の再建を担った経歴をもつ。小坂鉱山では銀鉱から黒鉱の処理へ転じ、1899年に招いた技師の竹内維彦氏による生鉱吹を採用して銅山に立て直した。再建を終えた久原房之助氏は独立の機会を待ち、小坂時代の部下から売山の話を聞くと、調査を経て買収を決めた。久原房之助氏は同年12月、赤沢銅山を所在地の村名から日立鉱山と改め、久原鉱業所として経営を開始。買収値について久原房之助氏は後年、『そろばんでは出ないところがあって,惚れるか惚れぬかの問題なんだ。』という言葉を残した。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第1章 創業時代
- [1]1905年12月11日 大橋真六から赤沢銅山を代金30万円で買う契約を締結
- [2]久原は藤田伝三郎の藤田組に招かれ1891年から小坂鉱山を担当、黒鉱処理と竹内維彦の生鉱吹(1899年招聘)で銅山として更生
- [3]久原は藤田伝三郎の藤田組に招かれ1891年から小坂鉱山を担当、黒鉱処理と竹内維彦の生鉱吹(1899年招聘)で銅山として更生
- [4]小坂更生後に独立を志し、部下溝口為之進の報で売山を知り、調査のうえ買山を決意。値について「惚れるか惚れぬか」と回想
- [6]小坂更生後に独立を志し、部下溝口為之進の報で売山を知り、調査のうえ買山を決意。値について「惚れるか惚れぬか」と回想
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [5]1905年12月 大橋真六から買収し久原鉱業所を起こし日立鉱山と改名
久原房之助氏は1908年3月に大雄院製錬所を着工し、同年11月に1号炉へ火を入れた。その前提は、採掘業者の自山製錬の義務を外し、他山の鉱石を買い入れて製錬することを認めた1892年の鉱業条例である。自山鉱だけでは生産を急に増やせず、不況期に原価を下げる弾力も欠くため、久原房之助氏は同業に先んじて買鉱を広げた。日立の買入鉱石は1907年度の234,855貫から1908年度に977,202貫へ増え、1912年には買鉱による生産量が自山に並んだ。製錬所は1912年11月に10号炉の吹入れに至り、日立鉱山は明治末年までに電錬工場を含む第一級の設備を備えた。開発と製錬を切り離し、炉を他山の鉱石で埋める中央製錬所の構想が、規模の拡大を先導したと考えられる。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第2章 大規模経営への躍進
- [7]大雄院製錬所 1908年3月着工、同年11月1号炉吹入れ、1912年に10号炉
- [8]1892年鉱業条例で自山製錬義務が外れ買鉱製錬が可能に。自山鉱のみでは増産・原価低減に限界があるとして久原は大規模な買鉱政策を推進
- [9]1892年鉱業条例で自山製錬義務が外れ買鉱製錬が可能に。自山鉱のみでは増産・原価低減に限界があるとして久原は大規模な買鉱政策を推進
- [10]買入鉱石 1907年度234,855貫→1908年度977,202貫、1912年に買鉱生産量が自山分に匹敵
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [11]明治末年までに電気鉄道・電錬工場・発電所など当時第一流の設備が完成
日立鉱山の粗鉱生産量は開発着手2年後の1908年に生野・阿仁・尾去沢を上回り、小坂・足尾・別子に次ぐ全国4位となった。採鉱量は1907年度の8,096,909貫から1908年度に15,063,325貫へ増え、同年12月の従業員は1,402人に達した。久原房之助氏は電力の確保に力を注ぎ、1907年3月に出力133kWの中里第1発電所で送電を始めた。工作課長の小平浪平氏は余剰電力を化学工業へ振り向ける構想から大規模な発電所を唱え、1911年夏に3,000kWの石岡第1発電所が完成した。明治末年ごろの日立鉱山は、国内有数の産銅所の一つにあたる。相次ぐ設備投資と1,000人を超える組織は、一個人の資金と信用で支えられる規模を超えつつあったと推察される。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第2章 大規模経営への躍進
- [12]1908年 日立の粗鉱生産量が全国4位(小坂・足尾・別子に次ぐ)。採鉱量1907年度8,096,909貫→1908年度15,063,325貫、1908年12月の人員1,402人
- [13]1908年 日立の粗鉱生産量が全国4位(小坂・足尾・別子に次ぐ)。採鉱量1907年度8,096,909貫→1908年度15,063,325貫、1908年12月の人員1,402人
- [14]1907年3月 中里第1発電所133kWで送電開始。小平浪平の構想で石岡第1発電所3,000kWが1911年夏に完成
- [15]1907年3月 中里第1発電所133kWで送電開始。小平浪平の構想で石岡第1発電所3,000kWが1911年夏に完成
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [16]明治末年ごろまでに国内有数の産銅会社としての基本態勢が整備
参考文献[1]-[16]
- 日本鉱業 五十年史(1957)第1章 創業時代
- [1]1905年12月11日 大橋真六から赤沢銅山を代金30万円で買う契約を締結
- [2]久原は藤田伝三郎の藤田組に招かれ1891年から小坂鉱山を担当、黒鉱処理と竹内維彦の生鉱吹(1899年招聘)で銅山として更生
- [3]久原は藤田伝三郎の藤田組に招かれ1891年から小坂鉱山を担当、黒鉱処理と竹内維彦の生鉱吹(1899年招聘)で銅山として更生
- [4]小坂更生後に独立を志し、部下溝口為之進の報で売山を知り、調査のうえ買山を決意。値について「惚れるか惚れぬか」と回想
- [6]小坂更生後に独立を志し、部下溝口為之進の報で売山を知り、調査のうえ買山を決意。値について「惚れるか惚れぬか」と回想
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [5]1905年12月 大橋真六から買収し久原鉱業所を起こし日立鉱山と改名
- [11]明治末年までに電気鉄道・電錬工場・発電所など当時第一流の設備が完成
- [16]明治末年ごろまでに国内有数の産銅会社としての基本態勢が整備
- 日本鉱業 五十年史(1957)第2章 大規模経営への躍進
- [7]大雄院製錬所 1908年3月着工、同年11月1号炉吹入れ、1912年に10号炉
- [8]1892年鉱業条例で自山製錬義務が外れ買鉱製錬が可能に。自山鉱のみでは増産・原価低減に限界があるとして久原は大規模な買鉱政策を推進
- [9]1892年鉱業条例で自山製錬義務が外れ買鉱製錬が可能に。自山鉱のみでは増産・原価低減に限界があるとして久原は大規模な買鉱政策を推進
- [10]買入鉱石 1907年度234,855貫→1908年度977,202貫、1912年に買鉱生産量が自山分に匹敵
- [12]1908年 日立の粗鉱生産量が全国4位(小坂・足尾・別子に次ぐ)。採鉱量1907年度8,096,909貫→1908年度15,063,325貫、1908年12月の人員1,402人
- [13]1908年 日立の粗鉱生産量が全国4位(小坂・足尾・別子に次ぐ)。採鉱量1907年度8,096,909貫→1908年度15,063,325貫、1908年12月の人員1,402人
- [14]1907年3月 中里第1発電所133kWで送電開始。小平浪平の構想で石岡第1発電所3,000kWが1911年夏に完成
- [15]1907年3月 中里第1発電所133kWで送電開始。小平浪平の構想で石岡第1発電所3,000kWが1911年夏に完成
1912年〜資本金1,000万円の久原鉱業と、日立の大煙突・佐賀関製錬所
久原房之助氏は1912年、個人経営の久原鉱業所を改組して久原鉱業株式会社とし、本社を大阪中之島に置いた。急な拡大で個人経営の形態では組織と資金の両面に不便が生じ、将来の発展も制約されたことが設立の理由である。銅価の上昇を背景に、産銅量は1911年の4,774tから1913年に10,234tへ増え、全国比は15.08%に高まった。新会社の発足は1912年9月、資本金は1,000万円。事業目的には鉱業のほか化学工業・機械製作・電気事業を掲げ、日立製作所と佃島機械製作所も新会社の職制に入った。株式会社への改組は、のちの株式公開と大型増資に向けた資金調達の仕組みを用意したとみられる。
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業
- [17]1912年 久原鉱業と改め本社を大阪中之島に置く
- 日本鉱業 五十年史(1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- [18]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- [19]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- [21]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [20]1912年9月 改組して久原鉱業(株)設立、資本金1,000万円
日立製錬所の熔錬鉱量は1912年に前年比67,000t増の233,000tとなり、1914年には394,000tに達した。排煙の増加で煙害は1912年に4町24カ村へ広がり、水府種の煙草産地の大部分にも及んだ。1911年5月完成の神峯煙道に続き、政府の命令で1913年6月に高さ36mの煙突を建てたものの、被害は減らなかった。煙害の補償金が1914年に20万円を超えるなか、久原房之助氏は煙突を極端に高くして排煙を薄める案を唱えた。賛否の論議を押し切って1914年12月に費用152,000円で高さ約155mの大煙突が完成し、煙害と補償問題はともに縮小した。2年後に建てた佐賀関製錬所でも、立地の条件に煙害の回避を加え、約167mの煙突を計画に盛り込んだ。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- [22]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [23]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [24]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [25]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [26]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- 日本鉱業 五十年史(1957)第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展
- [27]佐賀関の立地選定で煙害の回避を考慮し、煙突550フィート(約167m)を計画
久原鉱業は1916年、大分県佐賀関に建てた製錬所の操業を始めた。第一次大戦下で事業が全国と朝鮮へ広がり、九州・四国・中国西部から集まる鉱石を処理する製錬所が西日本に必要となった。1913年から瀬戸内海沿岸を調べ、原鉱と燃料の輸送、港湾、電力の条件を比べたうえでの佐賀関の選定。計画は月18,500tの処理と電錬工場の併設を掲げ、1916年9月に電錬の操業を始め、1917年1月に全設備の正常操業へ入った。拡張の資金は増資で調達し、資本金は1916年5月に3,000万円、1917年に7,500万円となった。1916年の増資では株式を大幅に公開し、一般投資家から資金を調達した。
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業
- [28]1916年 佐賀関製錬所の操業開始
- 日本鉱業 五十年史(1957)第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展
- [29]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- [30]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- [31]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [32]1916年5月資本金3,000万円、1917年7,500万円に増資
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [33]1916年の3,000万円増資の際に大幅な株式公開を実施
参考文献[17]-[33]
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業
- [17]1912年 久原鉱業と改め本社を大阪中之島に置く
- [28]1916年 佐賀関製錬所の操業開始
- 日本鉱業 五十年史(1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- [18]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- [19]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- [21]個人経営の形態では組織・資金面で不便があり将来の発展にも制約があったため株式会社化。産銅量1911年4,774t→1913年10,234t、全国比8.79%→15.08%。目的は鉱業・化学工業・機械製作・電気事業。日立製作所と佃島機械製作所が職制下に
- [22]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [23]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [24]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [25]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- [26]熔錬鉱量1912年233,000t(前年比+67,000t)→1914年394,000t。煙害は1912年に4町24カ村。神峯煙道(1911年5月)、政府命令の36m煙突(1913年6月)でも減らず補償金は1914年に20万円超。久原提唱の511フィート大煙突が1914年12月完成(152,000円)、煙害激減
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [20]1912年9月 改組して久原鉱業(株)設立、資本金1,000万円
- [32]1916年5月資本金3,000万円、1917年7,500万円に増資
- 日本鉱業 五十年史(1957)第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展
- [27]佐賀関の立地選定で煙害の回避を考慮し、煙突550フィート(約167m)を計画
- [29]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- [30]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- [31]九州・四国・中国西部の原料鉱石処理のため西日本に製錬所を計画。1913年から候補地調査、輸送・煙害回避・港湾・電力で佐賀関を選定。月18,500t計画、1916年9月電錬操業、1917年1月全設備正常操業
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [33]1916年の3,000万円増資の際に大幅な株式公開を実施
1919年〜戦後恐慌で行き詰まった久原鉱業と、鮎川義介氏が改めた日本産業
1920年3月15日の株式暴落を機に恐慌が起こり、大戦中に100斤75円をつけた国内の銅価は1921年3月に31円37銭まで下がった。久原鉱業は産品の大部分が銅で、国内需要の減退は在庫の増加に直結し、採算を度外視した輸出を強いられた。銅の滞貨の急増と資金難が重なり、1920年以後の久原鉱業は苦境が続いた。1916年下期から1920年上期の営業利益と公募益金の7,400万円を事業拡張と新会社に投じており、恐慌下でその資産は利益を生まなくなった。投資先のうち、関係会社の久原商事が恐慌で出した損失は1億円余である。1920年には日立製作所を分離し、本社を大阪から東京へ移した。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第5章 戦後恐慌と久原鉱業
- [34]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [35]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [37]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [38]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [36]1920年以後の不況で銅の滞貨激増と資金難
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業
- [39]1920年 日立製作所を分離、本社を東京に移転
1926年末、久原鉱業は公表した配当の支払いの直前に資金の捻出が困難となり、社長の久原房之助氏も病気で静養中だった。1920年以来の欠損無配に加え、金融面で久原房之助氏個人の信用に依存していたことが窮状を深めた。久原房之助氏は義兄の鮎川義介氏に立て直しを委ね、久原房之助氏自身は政界へ転じた。鮎川義介氏は1910年に戸畑鋳物を創立し、資本金500万円の共立企業で持株会社の構想を小規模に試していた。債務整理では監査役の貝島太市氏が簿価1,400万円の資産を提供し、整理は1927年3月の金融恐慌の直前にほぼ一段落した。鮎川義介氏が取締役となったのは1927年6月、社長への就任は1928年3月31日である。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [40]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [41]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [43]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [44]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [45]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [42]久原は鮎川義介に事業をゆだね、自らは政界入り
鮎川義介氏は1928年12月29日の株主総会で、久原鉱業を持株会社とし、商号を日本産業株式会社へ改めた。久原鉱業は有力な金融機関を持たず、早くから一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主は15,200人に達していた。財閥系銀行による金融の支配が強まり、多角化に要る資金を銀行から借りることは難しかった。鮎川義介氏は『株主を沢山持つことは,多数に門徒を持つことである。』として、多数の株主を公開持株会社の基盤に据えた。改称の理由として示したのは、商号から個人名を外し、約1万8,000人の株主を持つ会社にふさわしい名へ改めることである。日本産業は1929年4月、鉱業部門と付帯事業を資本金5,000万円の新会社である日本鉱業に引き継がせた。
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [46]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [47]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [48]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [49]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [50]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [51]1928年12月 大衆持株会社として日本産業に改称、1929年4月 鉱業部門を引き継ぐ日本鉱業を資本金5,000万円で設立
参考文献[34]-[51]
- 日本鉱業 五十年史(1957)第5章 戦後恐慌と久原鉱業
- [34]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [35]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [37]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- [38]1920年3月15日株式暴落から恐慌。銅価は大戦中の最高75円/100斤から1921年3月31円37銭へ。産品の大部分が銅で日立製作所の消費は小さく在庫増。1916年下期〜1920年上期の利益を拡張と新企業に投資、恐慌で遊休化。久原商事は1億円余の損失
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- [36]1920年以後の不況で銅の滞貨激増と資金難
- [42]久原は鮎川義介に事業をゆだね、自らは政界入り
- [51]1928年12月 大衆持株会社として日本産業に改称、1929年4月 鉱業部門を引き継ぐ日本鉱業を資本金5,000万円で設立
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業
- [39]1920年 日立製作所を分離、本社を東京に移転
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [40]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [41]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [43]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [44]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [45]1926年末の配当直前に資金捻出が困難に、久原社長は病気静養。欠損無配が続き、金融面で久原個人の信用に依存。義兄鮎川義介に立て直しを委嘱。鮎川は1910年戸畑鋳物創立、共立企業(資本金500万円)で持株会社を試行。貝島太市が簿価1,400万円の物件を提供し整理は1927年3月の金融恐慌直前に一段落。1927年6月取締役、1928年3月31日社長
- [46]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [47]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [48]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [49]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
- [50]1928年12月29日株主総会で持株会社化と日本産業株式会社への改称を発表。有力な金融機関を持たず一般投資家に資金を求め、1927年下期の株主15,200人。財閥系金融資本の支配下で資金調達困難。個人名を冠さず1万8,000の株主にふさわしい商号に
出典・参考
8件
- 日本鉱業 五十年史(1957)第1章 創業時代
- 日本鉱業 五十年史(1957)第2章 大規模経営への躍進
- 日本鉱業 五十年史(1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- 日本鉱業 五十年史(1957)第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展
- 日本鉱業 五十年史(1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- 日本鉱業 五十年史(1957)第5章 戦後恐慌と久原鉱業
- 会社銀行八十年史(1955)日本鉱業
- 企業の歴史 明治百年(1968)日本鉱業