久原房之助
経歴1891〜1928年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1891年主要役職の状況(推定含む目安)1928年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 藤田組 | 1891 | 入社 | ||
| 久原鉱業所(個人経営) | 1905 | 設立 | |||
| 久原鉱業株式会社(現・JX金属) | 1912 | 設立 | |||
| 1928 | 退任 |
社長就任までの出自
出自
1869年、山口県萩に久原庄三郎氏の三男として生まれた。叔父は藤田組を興した藤田伝三郎氏である。慶応義塾に学んだのち貿易を志して22歳で森村組に入ったが、1年半で藤田組に請われ、1891年に同組の小坂鉱山へ赴任した。銀価の下落で閉山も考えるほどだった小坂で、銀鉱から富銅鉱の黒鉱の処理へ主力を移し、1899年に招いた技師の竹内維彦氏の生鉱吹を採り入れて銅山として再生させた。日立の創業前に、すでに15年にわたる鉱山経営の経験を積んでいた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
小坂の再建を終えて独立の機をうかがっていた久原房之助氏は、小坂時代の部下の溝口為之進氏から、茨城県の赤沢銅山が売りに出ているとの報告を受けた。武田内蔵丞氏と竹内維彦氏に調べさせて鉱況が有望だと確かめると、1905年12月11日に代金30万円で買山の契約を結んだ。同月26日、赤沢銅山を所在地の村名から日立鉱山と改めて開業し、翌1906年1月に事務所規則と給与規程を定め、2月には第1竪坑の掘削に着手した。
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第1章 創業時代
- [5]久原が赤沢銅山売山のことを知ったのは、小坂鉱山時代の部下溝口為之進が知人の小野直吉から売山希望の由をもらされたことを報告したため。武田内蔵丞、竹内維彦らに調査させ、鉱況の有望なことを確認すると直ちに買山を決意し、明治38年12月11日に買山契約を締結した。代金は30万円
- [6]久原が赤沢銅山売山のことを知ったのは、小坂鉱山時代の部下溝口為之進が知人の小野直吉から売山希望の由をもらされたことを報告したため。武田内蔵丞、竹内維彦らに調査させ、鉱況の有望なことを確認すると直ちに買山を決意し、明治38年12月11日に買山契約を締結した。代金は30万円
- [7]明治38年12月26日、旧名赤沢銅山を「日立鉱山」と改めて開業した。「日立」の名は所在地日立村の地名をそのまま冠した。明治39年1月1日付で日立鉱山事務所規則、給与規程などを制定し、翌2月第1竪坑の掘さくに着手した
最初の壁は資金だった。大資本は若い事業家に容易に信を置かず、久原房之助氏は大阪の鴻池家に融資を求めた。鴻池家が送った初代所長の神田礼治氏は鉱山の将来性をめぐって久原房之助氏と対立し、1907年3月に中堅の技術者を連れて去ったが、竹内維彦氏や堀哲三郎氏ら小坂時代の仲間が穴を埋めた。1908年2月には井上馨氏が融資のための実地検証に訪れ、同氏の援助が実現した。
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第1章 創業時代
- [8]資金確保のため東奔西走。新進若冠の士に容易に信をおかない大資本の態度にはばまれた。久原は大阪の富豪鴻池に融資を求め、鴻池は明治39年5月神田礼治を初代所長に送ったが、神田は日立鉱山の将来性について久原と意見を異にし、40年3月中堅幹部の技術者を引き連れて職を去った。損失は竹内維彦、堀哲三郎ら小坂時代の人々の協力で補われた。明治41年2月井上馨侯が融資のための実地検証を行い、同侯の援助が実現した
- [9]資金確保のため東奔西走。新進若冠の士に容易に信をおかない大資本の態度にはばまれた。久原は大阪の富豪鴻池に融資を求め、鴻池は明治39年5月神田礼治を初代所長に送ったが、神田は日立鉱山の将来性について久原と意見を異にし、40年3月中堅幹部の技術者を引き連れて職を去った。損失は竹内維彦、堀哲三郎ら小坂時代の人々の協力で補われた。明治41年2月井上馨侯が融資のための実地検証を行い、同侯の援助が実現した
- [10]資金確保のため東奔西走。新進若冠の士に容易に信をおかない大資本の態度にはばまれた。久原は大阪の富豪鴻池に融資を求め、鴻池は明治39年5月神田礼治を初代所長に送ったが、神田は日立鉱山の将来性について久原と意見を異にし、40年3月中堅幹部の技術者を引き連れて職を去った。損失は竹内維彦、堀哲三郎ら小坂時代の人々の協力で補われた。明治41年2月井上馨侯が融資のための実地検証を行い、同侯の援助が実現した
操業では近代化と機械化を優先した。1907年に削岩機2台を入れて人力の掘削を改め、同年2月には国内の金属鉱山で初めてダイヤモンド試錐を採り入れ、埋蔵鉱量の把握に努めた。他山からの買鉱を前提に中央製錬所を構想し、1908年3月に大雄院製錬所を着工して同年11月に1号炉を吹き入れた。煙害の補償金が1914年に20万円を超えると、煙突を極度に高くして排煙を散らす案を自ら唱え、反対論を退けて同年12月に高さ511フィートの大煙突を完成させた。
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第1章 創業時代
- [11]日立鉱山の操業上、久原が特に意を用いたのは操業の近代化、機械化。明治40年1月さく岩機2台を採用し人力による掘さく方式を一新。明治40年2月18日、金属鉱山の探鉱に応用されたことのないダイヤモンド試錐をわが国で初めて採り入れ、埋蔵鉱量の確定に努めた
- [12]日立鉱山の操業上、久原が特に意を用いたのは操業の近代化、機械化。明治40年1月さく岩機2台を採用し人力による掘さく方式を一新。明治40年2月18日、金属鉱山の探鉱に応用されたことのないダイヤモンド試錐をわが国で初めて採り入れ、埋蔵鉱量の確定に努めた
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第2章 大規模経営への躍進
- [13]久原の買鉱政策に裏づけられた中央製錬所の構想を実現するため、大雄院跡の敷地に製錬所を建設。大雄院製錬所は明治41年3月に工を起こし同年11月1号炉を吹入れた
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- [14]煙害の補償金は大正3年に20万円をこえた。この時久原によって提唱されたのが煙突を極度に高くして排煙の拡散を図る大煙突建設の案で、論議がつきないなか久原は断固完遂を命じ、大正3年12月、当時世界一の511フィート(約155m)の煙突を実現させた
事業が広がると個人経営では組織と資金の両面で制約が生じ、1912年9月に資本金1,000万円の久原鉱業株式会社を設立し、取締役社長に就任した。翌1913年には産銅量で小坂を抜いて足尾に次ぐ全国2位となった。1916年には資本金を3,000万円に増やすのを機に、株式を市場に公開した。
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立/第4章 役員
- [15]久原の個人経営の形態では組織、資金の面から種々の不便と将来の発展への制約があった。大正元年9月、資本金1,000万円をもって久原鉱業株式会社を設立。創立総会で取締役社長久原房之助ほかが選任された
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- [16]日立鉱山は出鉱量の増大と各地鉱山からの買鉱の推進により、大正2年において小坂を抜き足尾に次ぐ全国第2位の産銅量を見るに至った
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第4章 第一次世界大戦と久原鉱業の発展
- [17]大正5年資本金1,000万円を3,000万円に増資し、これを機として当社の株式は市場に公開された
転機は第一次世界大戦後に来た。1920年の恐慌で銅価が暴落すると、炭業や銅加工の兼営で下落を和らげられる同業他社と違い、銅の比重が大きい久原鉱業は欠損と無配を繰り返した。1926年末には配当資金の捻出にも窮し、病気で静養に入った久原房之助氏は、義兄の鮎川義介氏に立て直しを委ねた。1927年6月に鮎川義介氏を取締役に就け、自らは政治に専念するとして経営を離れ、1928年3月31日に社長の座を鮎川義介氏に譲った。久原鉱業はその後鮎川義介氏の手で日本産業となり、1929年4月にその鉱業部門を引き継いで日本鉱業が発足した。
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第5章 戦後恐慌と久原鉱業
- [18]大正9年の大恐慌以来欠損無配を繰り返した。同業他社の大部分は炭業部門や銅加工部門の兼営で銅価低落の影響を緩和しうる立場にあったが、当社の生産品は銅が大部分で、加工部門たる日立製作所の消費量は微々たるものだった
- [19]大正15年末の配当の直前に資金の捻出が困難となる重大難関に逢着。久原社長は病気静養を余儀なくされ、久原社長の委嘱により義兄鮎川義介が久原鉱業の立て直しを担当した
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第6章 久原鉱業から日本産業へ
- [20]会社経営の後事一切を鮎川に託した久原は、昭和2年6月、一応の整理終了を機に彼を取締役に就任させ、みずからは政治に専念することとなった。鮎川義介は昭和3年3月31日、久原と交代して久原鉱業の社長に就任した
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)序(取締役社長 岡部楠男)
- [21]昭和に入り、久原鉱業は鮎川義介氏によって日本産業株式会社となり、さらに昭和4年4月日本鉱業株式会社がその鉱業部門を引き継いで発足した
参考文献4件
参考文献
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第1章 創業時代
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第3章 久原鉱業株式会社の設立
- 日本鉱業株式会社五十年史(日本鉱業, 1957)第5章 戦後恐慌と久原鉱業
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」久原房之助
事実根拠:出所(JX金属)