トクヤマ:日本曹達工業の発足と徳山工場でのセメント製造
1918年〜徳山に建てた資本金200万円のソーダ灰工場と、青島塩の助成でたどり着いた初出荷
岩井商店店主の岩井勝次郎氏は、1918年2月16日に資本金200万円で日本曹達工業を設立した。岩井商店は英国ユナイテッド・アルカリ社のソーダを輸入していたものの大戦中にその取引が止まり、国内のソーダ灰価格は1914年初めのトン75円前後から1916年末には390円台まで上昇している。岩井勝次郎氏は1917年4月に兵庫県神崎で実験工場を動かしたものの、日産は計画の3トンに対して500kgが限度であった。視察した技術者の岩瀬徳三郎氏は設計の誤りを指摘し、輸入塩を使う工場は海岸に置くべきだと進言した。工場用地には、岩井勝次郎氏が1917年8月に買収していた山口県徳山町の塩田跡を充てた。輸入の途絶と価格の高騰が、商社に製造への参入を決断させたとみられる。
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [1]1918年2月16日、岩井勝次郎が長島鷲太郎らと資本金200万円で日本曹達工業を山口県徳山町に設立(アンモニア法ソーダ灰・苛性ソーダ)
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [2]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [3]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [4]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [5]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
徳山工場は1918年11月に完成し、1919年2月11日に最初の重曹を得た。工事の完成は欧州大戦の終結と重なり、ソーダ灰の市況は悪化を続けた。炉の内壁にソーダが付着して運転が止まり、日産40トンの予定は7分の1ほどに低下した。ソーダ灰1トンの原価見込みは1917年7月の92円40銭から、1919年1月には163円95銭。市価は1918年8月の380円60銭から1919年3月に110円まで下がり、つくるほど赤字になる状態であった。1921年9月に日本ブラナー・モンド社が建値をトン130円から66円へ下げると、日本曹達工業は翌1922年7月まで約10カ月生産を止めた。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [6]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [8]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [9]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [10]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [11]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [7]大正7年11月の工事完成と欧州大戦終結が重なり、ソーダ灰市況が悪化して操業休止に至った
1924年に中国政府が青島塩の対日輸出を禁じ、日本曹達工業は8月に在庫が尽きた時点で生産を止め、3割操業の応急策も続かず、同年12月に全工場の運転を休止した。工員100名の9割近くを解雇し、1924年下期の累積赤字は120万円余と資本金の50%を超えた。1925年12月、社長の長嶋鷲太郎氏と旭硝子社長の岩崎俊弥氏の連名で、原料塩の特別廉価払下げを政府へ陳情。同年末に青島塩の輸出協定が成立し、技師長の岩瀬徳三郎氏は1926年に現地で6,000トンを買い付けた。1927年1月に運転を再開し、6月に白いソーダ灰の初出荷に至った。塩価の助成が実現するのは、1929年3月公布のソーダ灰工業助成法による。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [12]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [14]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [15]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [16]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [17]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [18]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [13]大正13年青島塩輸出禁止の影響で3割操業の応急策をとり、同年12月に全休止
参考文献[1]-[18]
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [1]1918年2月16日、岩井勝次郎が長島鷲太郎らと資本金200万円で日本曹達工業を山口県徳山町に設立(アンモニア法ソーダ灰・苛性ソーダ)
- [7]大正7年11月の工事完成と欧州大戦終結が重なり、ソーダ灰市況が悪化して操業休止に至った
- [13]大正13年青島塩輸出禁止の影響で3割操業の応急策をとり、同年12月に全休止
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [2]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [3]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [4]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [5]ユナイテッド・アルカリ社との輸入取引停止、ソーダ灰市価は大正3年初めトン75円→5年末390円台、神崎の実験工場は大正6年4月運転・日産3トン計画に500kg、岩瀬が設計誤りと海岸立地を指摘、大正6年8月に徳山町西塩浜の塩田を買収
- [6]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [8]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [9]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [10]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [11]大正7年11月工場完成、8年2月11日初の重曹生産、假焼炉の付着で日産40トン予定が約7分の1に、原価は6年7月92円40銭→8年1月163円95銭、市価は7年8月380円60銭→8年3月110円、10年9月ブラナー・モンド社が130円→66円に値下げし約10カ月生産停止
- [12]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [14]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [15]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [16]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [17]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
- [18]大正13年青島塩輸出禁止で8月に生産中止・年末全停止、工員100名の9割近くを解雇、13年下期累積赤字120万余円、14年12月長嶋・岩崎両社長連名の陳情書、14年末青島塩輸出協定、15年岩瀬が青島で6,000トン買付、昭和2年1月再開・6月初出荷、4年3月ソーダ灰工業助成法公布
1930年〜人絹向け苛性ソーダで果たした初配当と、徳山曹達への改称で始めたセメント兼営
日本曹達工業は1931年4月、重曹を連続して苛性化する日産40トンの苛性ソーダ設備を国内で初めて完成させた。改良を重ねて品位を96%に上げると、東洋紡績や倉敷絹織などの人絹メーカーがICI社製から切り替えた。1931年下期には23万3,776円の利益を計上し、創立以来初めて年5分の配当を実施した。その前提にあたるのが、岩井勝次郎氏ら役員の私財による繰越欠損103万円余の解消である。1932年以降は人絹工業の拡大で苛性ソーダの市価が原価の2倍を超える時期もあり、1933年下期から3期続けて20%の配当を出した。資本金は1932年12月に500万円、1934年9月には2,000万円へ増えている。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [19]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [20]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [21]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [22]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [23]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [24]昭和7年12月資本金500万円、9年9月資本金2,000万円に増資(7年以後の人絹工業の発展がソーダ工業の独立を決定づけた)
長嶋鷲太郎氏が1934年7月に死去し、9月に岩井勝次郎氏が社長、岩瀬徳三郎氏が専務に就任した。岩井商店は増資株の公開で522万円のプレミアムを得ており、利益の使い道をめぐって両者の対立が深まった。岩井勝次郎氏は、日産1,000トンへの増設案も危険が大きいとして退けた。岩瀬徳三郎氏は1935年1月に退社し、行動を共にした社員33名は全体の過半数にあたる。岩井勝次郎氏は同年12月21日に死去し、翌日に次男の岩井雄二郎氏が社長に就任した。株式は1935年11月に上場したものの、株式欄の略称が日本曹達とまぎらわしいとの声が株主から出ており、1936年1月に社名を徳山曹達に改めた。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [25]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [26]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [27]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [28]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 3章 第1・3節
- [29]昭和10年12月21日勝次郎死去、12月22日岩井雄二郎社長就任、10年11月13日上場、株式欄「曹工」と日本曹達「日曹達」の紛らわしさへの株主の声から社名変更を決定
- [30]昭和10年12月21日勝次郎死去、12月22日岩井雄二郎社長就任、10年11月13日上場、株式欄「曹工」と日本曹達「日曹達」の紛らわしさへの株主の声から社名変更を決定
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [31]昭和11年1月、社名を徳山曹達に改称
ソーダ灰が日産800トンに達した1935年ごろ、徳山工場ではソーダ製造で出るマッドの処理が問題になった。日産1,000トンへ増強した場合、マッドと石炭灰は合わせて1日約2,000トンに達する見込み。海軍燃料廠のある徳山湾では、廃棄物による埋立ても難しくなっていた。徳山曹達はこれをセメントの原料に使う構想を立て、1935年に東京帝国大学の永井彰一郎教授へ研究を委託した。蒸気と電力の不均衡で生じる余剰電力を使える点も、企業化の理由の一つである。苛性ソーダ工程の廃棄炭酸石灰を使う工場は1937年10月に建設され、1938年3月29日に1号キルンに火が入った。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 3章 第1・3節
- [32]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [33]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [34]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [35]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [36]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [38]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [37]昭和12年10月、苛性ソーダ製造工程で副生する廃棄炭酸石灰を利用するセメント工場を建設
参考文献[19]-[38]
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- [19]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [20]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [21]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [22]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [23]昭和6年4月重曹連続苛性化の日産40トン苛性ソーダ設備完成、品位96%で東洋紡績・倉敷絹織などがICI品から切替、6年下期利益23万3,776円で初の5分配当、繰越欠損103万円余は勝次郎ら役員の私財で解消、7年以降市価が原価の2倍以上の時期、8年下期〜9年下期3期20%配当
- [25]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [26]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [27]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- [28]昭和9年7月長嶋社長死去、9月勝次郎社長・岩瀬専務、増資株公開で岩井商店が522万円のプレミアム、日産1,000トン増設案に勝次郎反対、10年1月岩瀬退社と社員33名の退社
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [24]昭和7年12月資本金500万円、9年9月資本金2,000万円に増資(7年以後の人絹工業の発展がソーダ工業の独立を決定づけた)
- [31]昭和11年1月、社名を徳山曹達に改称
- [37]昭和12年10月、苛性ソーダ製造工程で副生する廃棄炭酸石灰を利用するセメント工場を建設
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 3章 第1・3節
- [29]昭和10年12月21日勝次郎死去、12月22日岩井雄二郎社長就任、10年11月13日上場、株式欄「曹工」と日本曹達「日曹達」の紛らわしさへの株主の声から社名変更を決定
- [30]昭和10年12月21日勝次郎死去、12月22日岩井雄二郎社長就任、10年11月13日上場、株式欄「曹工」と日本曹達「日曹達」の紛らわしさへの株主の声から社名変更を決定
- [32]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [33]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [34]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [35]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [36]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
- [38]昭和10年ソーダ灰日産800トンのころマッド処理が問題化、日産1,000トン時にマッド1,360トン+石炭灰565トン、徳山湾は海軍要港で埋立て困難、永井彰一郎教授に研究委託、余剰電力の活用、13年3月29日1号キルン火入れ
1939年〜徳山空襲で止まったソーダ工場と、セメントライクでつないだ苛性ソーダ7,000トンの再開
太平洋戦争が始まると原料塩の輸入は次第に難しくなり、徳山曹達の生産は年々減少した。1942年4月には原料塩の自己輸入制度が撤廃され、量と価格の両面で統制下に置かれた。1944年4月に指定軍需会社となり、ア法ソーダの操業率は20%を割っている。軍需省の求めでア法3社は代行会社の帝国曹達を設け、1945年7月28日に業務を始めた。その2日前の7月26日夜の空襲では、事務所など木造建物の大半と倉庫が焼失し、機械と装置の損傷はわずかであった。1944年に日産300トン近かったソーダ灰は空襲前に30トン台へ低下しており、空襲後は生産が完全に止まった。原料と燃料の不足で、工場は空襲の前から止まりかけていたと思われる。
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [39]太平洋戦争開始後原料塩の輸入が漸次困難となり、生産は年々急減、20年7月戦災で工場の一部を焼失
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 4章 第2節
- [40]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [41]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [42]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [43]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [44]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
1946年7月、岩井雄二郎氏らが退任し、在外資産の整理を終えて帰国した蔭山如信氏が第4代社長に就任した。ソーダは1946年8月に原料塩が尽きて止まり、GHQも石炭をソーダ用には割り当てていない。空白を埋めたのは、統制品のセメントに銅からみなどを混ぜたセメントライクである。公定価格300円のセメントに対して900円での販売が認められ、1949年4月までに7,400万円を売り上げた。外国部長の的場忠彦氏は旧友を介してGHQ経済科学局に陳情し、稼働できる設備を止めて保全する損失を訴えた。GHQは1948年4月5日、輸出用苛性ソーダ7,000トンの生産を認めた。ソーダ灰と苛性ソーダの生産は1948年6月に再開した。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 第2編1章 第2〜5節
- [45]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [46]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [47]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [48]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [49]的場忠彦がマグダーモットを通じESSに陳情(稼動可能な設備の停止維持は耐えがたい損失)、23年4月5日GHQが輸出用苛性ソーダ7,000トンの生産再開を決定
- [50]的場忠彦がマグダーモットを通じESSに陳情(稼動可能な設備の停止維持は耐えがたい損失)、23年4月5日GHQが輸出用苛性ソーダ7,000トンの生産再開を決定
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [51]昭和23年6月、ソーダ灰および苛性ソーダの生産を再開(セメントは20年10月再開、蔭山如信は21年7月社長就任)
1949年2月、商工省はア法ソーダの集中生産の可否を調べる調査団を設けた。3社が操業していた当時、集中生産になれば徳山曹達が外されるおそれがあり、社長の蔭山如信氏は阻止に力を注いだ。徳山曹達は低カロリー炭を使えないという見方を改めるため、現況を調査団に詳しく報告した。4月の答申は、装置と技術で三菱化成工業に次ぐと評価し、4社の操業継続を求めた。資本金は1949年4月に5,000万円へ増え、株式はこの時点で東京・大阪などの取引所に上場している。塩素分を捨てていた工程を改めるため、1949年9月に月産180トンの塩安工場を動かした。肥料の製造許可を得て、1950年4月には月産500トンの設備を完成させた。
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 第2編1章 第2〜5節
- [52]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [53]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [54]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [55]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [57]原料塩の塩素分を捨てていたため塩安を研究、24年9月月産180の塩安工場運転開始、塩安肥料の製造許可を得て25年4月月産500の設備完成
- [58]原料塩の塩素分を捨てていたため塩安を研究、24年9月月産180の塩安工場運転開始、塩安肥料の製造許可を得て25年4月月産500の設備完成
- 株式会社年鑑 1950年版 徳山曹達
- [56]昭和24年4月資本金5,000万円に増資、上場市場は東京・大阪・神戸・京都・広島など
参考文献[39]-[58]
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達
- [39]太平洋戦争開始後原料塩の輸入が漸次困難となり、生産は年々急減、20年7月戦災で工場の一部を焼失
- [51]昭和23年6月、ソーダ灰および苛性ソーダの生産を再開(セメントは20年10月再開、蔭山如信は21年7月社長就任)
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 4章 第2節
- [40]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [41]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [42]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [43]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- [44]昭和17年4月自己輸入制度撤廃、19年4月指定軍需会社、19年に操業率20%割れ、ア法3社で帝国曹達を設立し20年7月28日業務開始、7月26日徳山空襲で木造建物・倉庫焼失、機械装置はほとんど無傷、ソーダ灰は19年日産300トン近く→20年30トン台→生産全停
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 第2編1章 第2〜5節
- [45]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [46]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [47]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [48]昭和21年7月岩井雄二郎社長ら退任、蔭山如信が第4代社長、21年8月に原料塩が途切れソーダ生産中止、GHQはソーダ用石炭を割当てず、セメントライク(公定300円に対し900円)を22年1月〜24年4月に5万2,000生産・売上7,400万円
- [49]的場忠彦がマグダーモットを通じESSに陳情(稼動可能な設備の停止維持は耐えがたい損失)、23年4月5日GHQが輸出用苛性ソーダ7,000トンの生産再開を決定
- [50]的場忠彦がマグダーモットを通じESSに陳情(稼動可能な設備の停止維持は耐えがたい損失)、23年4月5日GHQが輸出用苛性ソーダ7,000トンの生産再開を決定
- [52]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [53]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [54]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [55]昭和24年2月商工省がアンモニア法ソーダ工業調査団を設置、生産集中で当社が除外されるおそれに蔭山社長以下が阻止に努力、低カロリー炭問題で現況を報告、4月答申で装置・技術は三菱に次ぐ評価、4社操業継続が必要と結論
- [57]原料塩の塩素分を捨てていたため塩安を研究、24年9月月産180の塩安工場運転開始、塩安肥料の製造許可を得て25年4月月産500の設備完成
- [58]原料塩の塩素分を捨てていたため塩安を研究、24年9月月産180の塩安工場運転開始、塩安肥料の製造許可を得て25年4月月産500の設備完成
- 株式会社年鑑 1950年版 徳山曹達
- [56]昭和24年4月資本金5,000万円に増資、上場市場は東京・大阪・神戸・京都・広島など
1918年〜1951年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 53 | n/a | 8 | 5 | 9.4% | n/a |
出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算
出典・参考
6件
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 2章 第1〜5節
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 3章 第1・3節
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 4章 第2節
- 刊行社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(1988) 第2編1章 第2〜5節
- 株式会社年鑑 1950年版 徳山曹達
- 企業史書籍 会社銀行八十年史(1955)徳山曹達