岩井勝次郎
経歴1934〜1935年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1934年主要役職の状況(推定含む目安)1935年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | トクヤマ | 1934 | 取締役社長(日本曹達工業) | ||
| 1935 | 社長 退任(在任中に死去) |
創業ストーリー
創業ストーリー
岩井勝次郎氏は1863年、丹波国桑田郡旭村(現・京都府亀岡市)に蔭山家の子として生まれた。13歳で大阪の岩井文助氏のもとへ預けられ、1889年に文助氏の養子となって岩井姓を名乗った。1896年に文助氏から独立して岩井商店を構え、1900年の欧米視察のあとは、外国商館を通さない直接の輸出入と、輸入品の国産品への置き換えを方針に定めた。1912年10月に岩井商店を株式会社に改めて社長に就任し、メリヤス、セルロイド、薄鉄板と、輸入で扱った品目から生産事業へ進出した。
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- [1]岩井勝次郎は文久3年(1863年)丹波国桑田郡旭村(現・京都府亀岡市旭町)に生まれ、それまでは蔭山勝次郎であった。13歳のとき岩井文助に託され、明治22年に文助の養子となり岩井姓を名乗った
- [2]岩井勝次郎は文久3年(1863年)丹波国桑田郡旭村(現・京都府亀岡市旭町)に生まれ、それまでは蔭山勝次郎であった。13歳のとき岩井文助に託され、明治22年に文助の養子となり岩井姓を名乗った
- [3]勝次郎は明治29年に文助と別れて独立し、岩井商店を設立した。明治33年の欧米視察から帰ると、直接輸出入を増やし、輸入品を可能な限り国産品に切り替える方針を打ち出した
- [4]岩井商店は大正元年10月4日に株式会社となり岩井勝次郎が社長に就任した。明治40年に白金莫大小製造所を入手してメリヤスを製造、明治41年に日本セルロイド人造絹糸を設立、大正5年に大阪鉄板製造(旧亜鉛鍍)の社長に就任するなど生産事業に進出した
ソーダ灰の国産化へ向かう契機は第1次世界大戦である。岩井商店は英国のユナイテッド・アルカリ社からソーダを輸入していたが、大戦で取引が途切れ、国内のソーダ灰の市価は1914年初めのトン当たり75円程度から1916年末には390円台へ跳ね上がった。1916年に大蔵省の臨時財政経済調査会の委員を委嘱されたことも重なり、岩井勝次郎氏は貿易商社の身でソーダの生産事業への参入を決めた。
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- [5]岩井商店はユナイテッド・アルカリ社を通じてソーダを輸入していたが、第1次大戦で輸入が途切れ、これを契機にソーダの国産化を決意した
- [6]岩井商店はユナイテッド・アルカリ社を通じてソーダを輸入していたが、第1次大戦で輸入が途切れ、これを契機にソーダの国産化を決意した
- [7]岩井勝次郎は大正5年に大蔵省の臨時財政経済調査会委員を委嘱された。ソーダ灰の市価は大正3年初めのトン当たり75円程度から5年末には390円台に急騰した。貿易商社ながらソーダの生産事業に携わることを決意した
- [8]岩井勝次郎は大正5年に大蔵省の臨時財政経済調査会委員を委嘱された。ソーダ灰の市価は大正3年初めのトン当たり75円程度から5年末には390円台に急騰した。貿易商社ながらソーダの生産事業に携わることを決意した
最初の試みは兵庫県の神崎に設けた岩井化学実験工場で、1917年4月に従業員25人で運転を始めたが、日産3トンの計画に対して生産は500キロが限度だった。視察を頼んだ岩瀬徳三郎氏は、米コロンビア大学でソーダ製造を研究して帰国した技術者で、設計の根本的な誤りを指摘し、原料塩を輸入に依存する以上は工場を海岸に置くべきだと説いた。岩井勝次郎氏は山口県徳山町西塩浜の塩田を買い取り、1918年2月16日、資本金200万円で日本曹達工業を設立した。株式は岩井勝次郎氏が全額を出資し、ほかの株主は名義株だった。社長には、農商務省や専売局との折衝を見込んで、衆議院議員を務めた弁護士の長嶋鷲太郎氏を充て、岩瀬徳三郎氏を技師長とした。
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- [9]兵庫県川辺郡小田村神崎に岩井化学実験工場を建設し、大正6年4月に従業員25名で運転を開始したが、日産3トンの計画に対して生産は500kgが精一杯だった
- [10]コロンビア大学に留学してソーダ製造を研究した岩瀬徳三郎が実験工場を視察し、設計に根本的な誤りがあること、原料塩を輸入するため工場は海岸に近いところに立地すべきことを指摘した。勝次郎は徳山町西塩浜の塩田の一部を付近の塩田とともに買収した
- [11]コロンビア大学に留学してソーダ製造を研究した岩瀬徳三郎が実験工場を視察し、設計に根本的な誤りがあること、原料塩を輸入するため工場は海岸に近いところに立地すべきことを指摘した。勝次郎は徳山町西塩浜の塩田の一部を付近の塩田とともに買収した
- [12]大正7年2月16日に日本曹達工業株式会社の創立総会を開催し、資本金200万円で発足した。株式は岩井勝次郎が全額を出資し、他は名義株。取締役社長に長嶋鷲太郎が就任した
- [13]大正7年2月16日に日本曹達工業株式会社の創立総会を開催し、資本金200万円で発足した。株式は岩井勝次郎が全額を出資し、他は名義株。取締役社長に長嶋鷲太郎が就任した
- [14]大正7年2月16日に日本曹達工業株式会社の創立総会を開催し、資本金200万円で発足した。株式は岩井勝次郎が全額を出資し、他は名義株。取締役社長に長嶋鷲太郎が就任した
- [15]長嶋鷲太郎は勝次郎の知人で法学博士・弁護士、衆議院議員を務めた経歴から、農商務省・専売局との折衝を見込んで起用された。岩瀬徳三郎は技師長として技術全般を担当した
工場は1918年11月に完成し、1919年2月11日に最初のソーダ灰ができた。しかし大戦の終結で市価は1918年8月のトン当たり380円60銭から1919年3月には110円まで下がり、一方で生産直前の原価見込みは163円95銭に上昇していた。岩井商店も戦後の不況で大戦中の利益の大半を失ったが、岩井勝次郎氏は設備改造への資金投入を続けた。1921年には英国ブラナー・モンド社などの値下げを受け、約10カ月の生産停止に追い込まれている。1931年に初めて黒字となり、創立以来初の配当を実施したが、それは繰越欠損103万円余を岩井勝次郎氏ら役員の私財で埋めたうえでのことだった。
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- [16]工場は大正7年11月に完成し、8年2月11日に最初の重曹生産に成功して良質のソーダ灰ができた。ソーダ灰の市価は7年8月のトン当たり380円60銭から8年3月には110円に低下し、生産開始直前の8年1月の予想原価は163円95銭に上昇していた
- [17]工場は大正7年11月に完成し、8年2月11日に最初の重曹生産に成功して良質のソーダ灰ができた。ソーダ灰の市価は7年8月のトン当たり380円60銭から8年3月には110円に低下し、生産開始直前の8年1月の予想原価は163円95銭に上昇していた
- [18]岩井商店は大戦後の不況で大戦によって得た利益の大半を失っていたが、岩井勝次郎は設備改造のための資金の投入を惜しまなかった
- [19]大正10年9月にブラナー・モンド社がソーダ灰の価格を引き下げ、当社は11年7月まで約10カ月間生産を停止した
- [20]昭和6年に初めて黒字に転じ、創立以来初めて5分の配当を行なったが、これは繰越欠損103万円余を岩井勝次郎その他の役員の私財によって解消していたからできたことだった
1934年7月に長嶋鷲太郎氏が死去すると、同年9月に岩井勝次郎氏が2代社長に就任し、岩瀬徳三郎氏が専務となった。ところが利益の処分や日産1,000トンへの一挙の増設計画をめぐって両者は対立し、1935年1月に岩瀬徳三郎氏が退社、社員の過半数にあたる33人も会社を去った。岩井商店や関西ペイントなどから人材を補って操業を続け、1935年11月13日に株式を上場した。岩井勝次郎氏は翌月の12月21日に72歳で死去し、会社は1936年1月に徳山曹達へ社名を改めた。
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- [21]初代の長嶋社長が昭和9年7月に死去すると岩井勝次郎が2代目社長に就任し、同年9月に岩瀬徳三郎が専務に就任した
- [22]利益の処分やソーダの生産を日産1,000トンに一挙に増設する岩瀬の計画をめぐって勝次郎と岩瀬が対立し、岩瀬は昭和10年1月に退社、社員の過半数33名も退社した
- [23]関西ペイント、岩井商店、徳山鉄板から応援の人員を受け入れて生産を継続した。昭和10年11月13日に株式を上場し、岩井勝次郎は同年12月21日に72歳で死去した。11年1月に社名を徳山曹達へ変更した
- [24]関西ペイント、岩井商店、徳山鉄板から応援の人員を受け入れて生産を継続した。昭和10年11月13日に株式を上場し、岩井勝次郎は同年12月21日に72歳で死去した。11年1月に社名を徳山曹達へ変更した
参考文献2件
参考文献
- 社史 徳山曹達70年史 道標はるかに(徳山曹達、1988年)
- 創業者岩井勝次郎(関西ペイント株式会社、1995年)書誌のタイトル読み「ソウギョウシャ イワイ カツジロウ」
事実根拠:出所(トクヤマ)